短編8

一匹狼と森の熊(4)




 冴木さんがもじゃもじゃと生やしていた髭を剃り落として、ようやくその素顔を晒したことは、あっという間にニュースとして会社中に広まって、大騒ぎになった……らしい。
 私は倉庫勤めでオフィスビルのほうへはほとんど行くことはないから、その騒動の詳細を知っているわけではないのだが、仕事の用事もないのに社内の人が入れ代わり立ち代わり見物にやって来る様子を見れば、それくらいのことは察せられる。そういう人たちは、冴木さんの顔を見て、驚いたり、喜んだり、からかったり、冷やかしたりして、そのたび、冴木さんを赤面させた。
 まあ、気持ちは判らないでもないけどな。人間、髭のあるなしでこれほど印象が変わるのか、と思うほど、冴木さんは昨日までとは別人のような見た目になってしまっている。私なんか、朝、気づかずに前を通り過ぎちゃったくらいだ。
 少女漫画みたいに、髭を失くしたら現れたのは光り輝くばかりの美貌だった、なんてことはもちろんないのだけど、冴木さんの素顔はそれなりに男前だったし、下手すると四十代にも見えた外見が、二十代と言っても通じるんじゃないかというくらいには若々しくもなった。その顔を見て、きゃっきゃと喜んでいるのが女の人ばかり、というのも納得だ。
 今まで少しよそよそしかった人たちも、なんとなく親しげな態度で話しかけてきたりして、こうなってみると、やっぱり冴木さんのあの髭は鎧の役割を果たしていたのだな、と実感した。冴木さんを守りながら、同時に、他者をも寄せ付けない硬い鎧だ。
 細かいところまでは判らないにしても、多くの人たちはきっと、鎧を脱いだ冴木さんの心の変化、みたいなものを読み取ったんではないかと思う。だから、笑顔を見せたり、気さくに近づいて来たりするようになったのだろうと思う。
 逆に言うと、冴木さんが鎧を脱ぎ捨てることを待っていた人は、確かに存在していたってことだ。怖がったり、見下したりするばかりじゃない。冴木さんの誠実な人柄を理解していた人は、ちゃんといたのだ。
 みんなからわいわいと囃し立てられて、冴木さんはずっと真っ赤になって困惑していたけれど、黙って目を伏せるようなことは一度もしなかった。


「あの、大神さん、今日はですね」
 昼休み、社内の人から食事に誘われたというのに、それを断って私と一緒にいつもの公園にやって来た冴木さんは、ベンチに座るなり、コンビニの袋から弁当を二つ出し、それからまた袋に手を入れた。
「あ、今日は天丼だ」
「はい。それとあの、大神さんは甘いものは好きですか」
「甘いもの? 好きっすよ。時々自分へのご褒美にチョコ買ったりします。大袋入りのやつ。いっぺんに全部食べると、ニキビが出るのが難点なんすよね」
「大袋入りのチョコを一気に全部食べるのは身体によくないですよ。いやでも、それを聞いて安心しました。実は今日は、お弁当の他に、これ」
 と言いながら、冴木さんは袋から、コンビニで売っているプリンを取り出した。それだけではなく、ロールケーキも、モンブランも、杏仁豆腐も、イチゴ大福も、シュークリームも出した。出るわ出るわ、スイーツ大放出である。なんだこれ、コンビニの袋に見せかけて、実は甘いもの限定四次元ポケットか。欲しい。
「うわあ! どうしたんすか、これ!」
 私が歓声を上げると、冴木さんは恥ずかしそうに下を向いてもじもじした。髭がないと、熊っぽくない。
「お弁当ばかりというのもなんですし、たまにはデザートも欲しいかなと思って。大神さんは何が好きなのか判らないので、目につくものを片っ端から買ってきました」
「えっ、これ、私が食べていいんですか?!」
「どうぞ、お好きなものを、好きなだけ」
 気前のいいことを冴木さんににっこりしながら言われて、私は目が廻るくらいに大興奮した。
「すごーい! すごーい! 盆と正月が一度に来たみたいですよ! こんなにものすごい贅沢して、バチが当たりませんか?!」
「あの、コンビニスイーツですから、そこまで……」
「なに言ってんすか、私、ここ数年ケーキもご無沙汰だったんですよ?! 夢みたい! あ、でも冴木さん、私の頬つねっちゃダメっすよ! 夢から醒めるのは食べてから!」
「夢じゃないですから、食べましょう。喜んでもらえたようで、僕も嬉しいです。正直、ここまで喜ばれるとは想定していなかったんですけど」
 浮かれて大はしゃぎする私をどうどうと宥めて、冴木さんは弁当を手渡してくれた。早く弁当食べて、プリン食べたい。もったいないから、プリンはいつもみたいにガツガツ食べずに、ゆっくり味わって食べよう。
「天気が良くて、仕事もあるし、弁当もあって、おまけにスイーツ食べ放題なんて、生きてるって素晴らしい。ああー、幸せですねえー」
 頭上の青い空を見上げながら、しみじみと息を吐くと、冴木さんが珍しく、楽しそうに声を出して笑った。
「大神さんの幸福は、とても判りやすくていいですね」
 そう言って、目を細め、口元を綻ばし、顔全体で笑った。もう (推定) と付け加える必要もない。髭のない冴木さんは、そうやって笑うと、はっきりと人の好さそうな優しい顔立ちをしていることが判った。
 熊じゃなくなったのは少し寂しいけど、やっぱりこれでよかったんだな、と私は思う。この顔を見たら、きっと誰も、冴木さんを怖がることも、遠巻きにすることもない。私がじれったくならずとも、誰だって、森の熊さんは優しいんだということが一目で判る。
「今日はお祝いっすね。あとでお茶で乾杯しましょう」
「お祝い? なんのですか?」
 冴木さんは怪訝そうに首を捻ったが、私はそれには答えずに、エビの天ぷらを口に入れた。
 決まってるじゃん、と心の中で呟く。
 熊が森から出たお祝いだ。それと、お嬢さんとも上手くいくかもしれないから、その前祝いだな。
 森の奥深くにひっそりと暮らしていた独りぼっちの孤独な熊さんは、綺麗なお嬢さんに背中を押されて、森から一歩、足を踏み出しましたとさ。
 ……よかったね。



 その時の私は間違いなく本当に幸せで、何も知らなければ、その幸せな気分のまま一カ月のバイト期間を終え、冴木さんに笑って挨拶して別れを告げるはずだった。
 ……なのに、なんでその会話を聞いてしまったんだろうなあ。
 私はあとになって何度も後悔したし、自分の間の悪さにうんざりするくらい腹を立てたりもした。それさえ聞かなきゃ、平和なままでいられたはずだったのにな。滅多にビルのほうへは足を運ばない私が、その時に限って手の離せない冴木さんのお使いで書類を届けに来たとは、なんというバッドタイミング。
 でもさあ、鵜飼さんも悪いんだよ。就業時間中に、給湯室で同僚の女の人たちとお喋りに精を出してさ。異性には向けられないであろうその高く大きな声は、廊下にも漏れて、通りがかった私の足を止めさせるのに十分な音量だった。
「──ちょっと、ホントにあのヒゲ落としてきたじゃん、どうすんのよ」
 ヒゲ、と言われて思い当たるのは、私には一人しかいなかった。思わずぴたりとその場で立ち止まり、耳を澄ます。
 鵜飼さんの声は、ものすごく楽しそうなくすくすとした笑みを含んでいた。
 いつも冴木さんに向けるような、品のいい笑い方ではない。どちらかといえばそれは、女性特有の、無邪気さと意地の悪さが入り混じった、ねっとりとした陰湿臭の漂う笑い声だった。
 給湯室内に、他に女性は二人ほどいるようだったが、彼女たちも同じようにくすくすと笑い続けていた。
「だってさあー、あたしたちだって冗談のつもりだったのよ」
「そうそう。あのヒゲ男、鵜飼に気があるらしいから、ちょっと水を向けてやったらヒゲ剃っちゃうかな、試してみたら、って、軽い気分で言っただけだったのにさ。鵜飼も乗るからさあ」
「まさか翌日、ホントーに剃ってきちゃうなんてさあ。バッカじゃないの!」
 そこで一斉に、三人が笑った。
「そんでどうすんの、鵜飼。『ヒゲ剃ったら付き合います』 とか言ったわけ?」
「やっだ、まさかあー。髭のない顔を見てみたい、って言っただけだもん。あたしだって、まさか本当に実行するとは思わないじゃない? もー、死ぬほどビックリしたわよ! けど別に何か約束したわけじゃないしさ、見てみたからもう満足、ってカンジ?」
 鵜飼さんの声には、優越感が滲み出ている。ひっどーい、と言いながら、他の二人がさらに笑った。
「でもヒゲをなくしたら、そう悪くない顔してるよね。単純だけどさ、健気だし、純情そうだし、この際付き合ってやったら?」
「ええー、でも、あんまり気の利いたことも言えなさそうだしねえー」
「だけど、尽くしてくれそうじゃん。ヒゲだってあっさり手放したくらいなんだから、鵜飼の言うことならなんでも聞くって。貢がせて捨てても、ああいうタイプは文句も言わないよ、きっと」
「あっ、それもいいかも」
 けたけたと笑い合う三人の声を、私は廊下に立ったまま聞いた。
 ……ふーん。
 そうか、冗談か。そりゃ、さぞかし楽しかっただろうな。自分に気のありそうな男が、自分の言葉ひとつで変わるのを目の当たりにすれば、自尊心が満たされて、気分がいいだろうしな。手の平の上で一人の男がコロコロと転がる様子を見物するのは、退屈な日常の中の、愉快な刺激にもなったに違いない。
 ちょっとした、悪ふざけ。面白半分の、軽い冗談。
 ──けどさ。

 あんたたち、森の奥に隠れていた熊が、そこから出る決意をするのに、どれほど勇気が必要だったか、考えもしなかったのか。
 冴木さんにとって、鵜飼さんの言葉ひとつが、どんなに大きな力を持っていたか。どれほどの葛藤を抱え、これからの覚悟を背負い、過去を頑張って呑み込もうとしたのか。それを、推し量ろうともしないのか。
 ほんのちょっと、ほんの少しでも、想像することも出来ないのか。
 そりゃあ、ずーっと今まで、誰かを傷つけることが怖かったという冴木さんは、優しいが、弱いのだろう。
 けれどもその弱さは、決意は、覚悟は、決して、そんな無知な残酷さで、簡単に笑い飛ばしてはいけないものだったんだぞ。絶対に。
 少なくとも、私は許さない。

「え……あら」
 給湯室の入り口に立ちはだかった私を見て、三人はぴたりとお喋りしていた口を閉じ、気まずげに目を逸らした。一応、自分たちのやったこと、話していた内容が、外聞のいいものではないことくらいは自覚があるらしい。だったらもっと誰にも聞こえないような場所で話していればよかったのに。
 そうすりゃ私だって、鵜飼さんの頬っぺたを思いきりビンタなんてせずに済んだし。
 ……バイトをクビになることだって、なかったんだ。


          ***


 まったく私はバカである。よりにもよって鵜飼さんたちの話なんかを立ち聞きする場面に出くわしたことについては、後悔してもし足りないくらいだ。自分の直情径行型の性格も反省はしている。鵜飼さんをビンタしたことについては、後悔も反省もカケラもしていないが。
 しかしまあとにかく、そのビンタの音は必要以上に大きく廊下に響き渡り、鵜飼さんと他の二人が大騒ぎしたこともあって、すぐに上の人たちに知られるところとなり、私はバイト面接の時のハゲデブのオッサンに、直ちにクビを宣告されることになった。
 まあ、それは仕方のないことだろうな、と自分でも思った。私は一切言い訳しなかったし、それどころか、事情説明も、謝罪もまったくしなかった。ふてぶてしい、と思われたとしても無理はない。実際、私はふてぶてしいし。
 でも、だからって。
 ──これまで働いた分の給料まで貰えない、と聞いた時には、耳を疑った。
 納得なんて、できるわけがない。今までの分が全部、タダ働き? と思うと、顔から血の気が引いていきそうだ。拳にして握った手が小刻みに震える。ビンタひとつの代償として、それは、あまりにも大きすぎやしないか。
「なんすか、それ。これまでの分を踏み倒すつもりですか」
 私は猛然と抗議したが、オッサンは憎たらしいくらい平然と開き直っていた。
「なに言ってんだよ、図々しい。あんた、わかってんの? バイトの分際でうちの社員に暴力行為働いてさ。それで給料くれって、どういう神経してるんだよ。可哀想に、鵜飼さんなんて、あんたに殴られて、頬が腫れちゃってさあ。せっかくの美人が台無しだよ」
 ざまみろ、と一瞬思った私は確かに性格が悪いのかもしれない。
「どうせ、くだらない理由なんだろう。最近の若いやつってのは、すぐつまらないことでキレるから」
「鵜飼さん本人に聞いてみたらどうっすか」
「あっちは何も言わないよ。あんたと違って、優しい子だからね」
 とオッサンはしたり顔で言ったが、オッサンの座るソファの後ろでは、デスクで自分の仕事をしている女性社員たちが、ひそひそと内緒話をするみたいに声を潜めて何かを言い合っていた。中には、私に対して、気の毒そうな目を向けている人もいた。やっぱり女性の中には、鵜飼さんの本性を知っている人もいるということだろう。騙されるのは男ばっかりか。まったくアホだな、このオッサンも、冴木さんも。
「本当にわかってんの、あんた? これはねえ、れっきとした傷害なんだよ。訴えられないだけ、感謝してもいいくらいだよ」
「…………」
 鵜飼さんは訴えたりはしないと思うが、私は言い返すことはしないで口を噤んだ。あの人を殴ったのは、別に義憤に駆られたわけではなく、私の個人的な怒りによるものだ。それを暴力行為だ、傷害だ、と呼ぶのであれば、私に反論する余地はない。
「……わかりました」
 私はそれ以上抗議するのを諦め、ソファから立ち上がった。
 要するに、オッサン側に給料を踏み倒す口実を与えてしまった私がバカだった、ということだ。三日でクビになったキャバクラだって、二日分の日当は払ってくれたというのに。ろくでもない会社っぽい、という最初の印象はズバリ当たっていたらしい。これからはファーストインプレッションは大事にしよう、ということと、腹の黒い美人には近づかないようにしよう、ということを学んだだけでよしとしなければ。高い授業料だったけどな!
「じゃあ最後に」
 と、オッサンの顔を正面から見る。余裕の態度でせせら笑うオッサンにぴしりと人差し指を向け、私は親切にも、餞別代わりに忠告をしてあげることにした。
「あんたもセクハラとパワハラで訴えられないように、気をつけな。ハゲで、デブで、顔面も崩壊して、おまけに加齢臭があって、目の前にいられるのも苦痛なのに、近づいて尻でも撫でたら殺されたって文句は言えないよ。鼻毛は切って、老眼鏡をかけて、その腐った性格を直すよう努力しないと、あんたの未来は真っ暗だよ!」
 オッサンは唖然としたようにぽっかりと口を開けていたが、後ろにいる女性社員たちが全員、パチパチと拍手して私を称えてくれた。


          ***


「……は?」
 自分の荷物を取りに行きがてら倉庫に戻り、別れの挨拶をすると、冴木さんは、茫然とした表情で私を見返した。
 どうやら、ビルの中で起きたアレコレは、倉庫にいた冴木さんにはまったく伝わっていなかったらしい。誰か知らせてやれよ。
「辞める、って」
「辞めるんじゃないです。クビになったんです」
 私が訂正を入れると、冴木さんは途端に目元を引き締め、厳しい顔つきになった。髭がなくなると、こういうのもはっきり見えて新鮮だ。この場合、髭で隠されない分、ちょっと怖いけど。
「……どういうことです。僕、何も聞いていません」
 だろうね。
 聞いていたら、冴木さんはどうしたかな、と私はちらっと頭の片隅で思った。お嬢さんを殴りつけた乱暴者を、やっぱり怒って、軽蔑したかな。
「君の直属の上司は僕のはずですよ。僕に一言もなく、そんな──」
「しょうがないっすね。自業自得なんで」
「自業自得って、どういうことですか。大神さん、何があったのか、はじめから僕に順を追って話してごらんなさい。何か事情があるんでしょう。誤解が生じたなら、僕が間に入って説明しますから」
「…………」
 こんな時でさえ、私を心配そうな目で見るんだな、この人は。
 まったくお人好しだ。人のことばっかり気にかけてさ。もっと自分のことを考えればいいのに。
 ──でも、私は、冴木さんのこの優しさも、信頼も、裏切るようなことをしちゃったのかな。
「……ごめんなさい」
 はじめて、鵜飼さんを殴ったことを後悔し、反省した。私はやっぱり、あんなことをしちゃいけなかったのだ。
 冴木さんの問題に、勝手に出しゃばって、勝手に怒って、勝手に鵜飼さんを殴ったりするなんて。そんな権利、私にはまるでなかったのに。
 結果として、冴木さんにこんな顔をさせてさ。
「謝っている場合じゃないんです。僕は納得してません。大神さん、話を聞かせてくれますね?」
 あーあ、これでもう、弁当生活ともお別れか。毎日、美味しかったのにな。晴れた日には公園で、雨の日には倉庫の隅っこで、食べて、お喋りして、笑って。
 毎日──楽しかったのにな。
 冴木さんとも、もうこれきり、会うことはないんだなあ。
「……鵜飼さんを、殴ったんですよ」
「は?」
 私の言葉に、冴木さんが目を見開く。私はその目を真正面から見て、きっぱりと繰り返した。
「鵜飼さんを殴ったんで、クビになりました。だから自業自得なんで、もういいです。今までの給料を全部踏み倒されたのは腹立つけど、それももういいです」
 自業自得とは言いながら、私はやっぱりその件についてはムカムカと根に持っている。あのオッサンめ、闇夜には背後に気をつけろ。
 ──このバイトの給料で、いつも先輩からのお古の参考書を使っている弟に、ピカピカの新品を揃えてやりたかったのになあ。
「殴った、って」
「ムカついて、殴りました。私、ああいうタイプ嫌いなんで、つい手が出ました。すみません」
「大神さん、なに言って」
「お世話になりました」
 頭を下げて、くるっと踵を返し、倉庫を出た。
 後ろから、私の名を呼ぶ冴木さんの声がしたけど、振り返らなかった。



 会社の敷地を出たところで、携帯を取り出し、弟に電話した。
 ごめん、クビになった、と正直に伝えると、弟はちょっと無言になり、それからアハハと明るく笑った。
「しょうがねえなあ、姉ちゃん」
「ごめん。新しい参考書買ってあげようと思ったんだけどさ。受験までに、間に合いそうにないや」
「いいって。俺、頭いいからね、今使ってるやつで十分。姉ちゃん、今日はさあ、ラーメン屋もパチンコ屋のバイトも休みなよ。たまには二人でメシ食おう。俺、料理の腕ずいぶん上達したんだぜ」
「そんなことしなくていいから、勉強しなよ。それに、バイト休むわけにはいかないから」
 参考書だけでなく、この会社でのバイト料は、他にもいろいろ使う予定があったのだ。それがご破算になってしまった今、なおさら他のバイトは休めない。明日から、また新しいバイト先を探さないといけないし。
「大丈夫だよ、一日くらい。大体、姉ちゃん働きすぎなんだよ。……でも、残念だったね、そのバイトは楽しそうだったのに」
「…………」
 弟の慮るような声に、少しだけ黙る。なんとか喉の奥から、声を引きずり出した。
「……うん、そうだね。いい人たちばっかりで、楽しかった」
 じゃあ、時間もあるし、一度家に帰るよ、と言ってから、私は通話を切った。
 それからしばらく、その場に立ち尽くし、泣いた。



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