短編8

一匹狼と森の熊(5)




 倉庫の仕事をクビになってから、一カ月が経った。
 私はなんとか次のバイトを見つけて、変わらず働いている。しかし少し違うところもある。そこは三時までなので、次の六時からのバイトまでの間に、ぽっかりと空白の時間が出来てしまうのだ。
 その短い合間に他の仕事を入れるわけにもいかず、かといってラーメン屋のほうの仕事を早くすることもままならず、何かをしようにも金がないので、その空いている間、駅前のベンチにただぼんやりと座って、時間を潰すことが最近の習慣になりつつあった。
 そんな時はいつも、
 ──こんなことをしている場合じゃないんだがなあ。
 と、すぐ目の前にある時計台の時刻を眺めながら、そう思う。
 朝から晩まで、常に働いていることに慣れてしまった私にとって、こういう 「何もしない時間」 というのは苦痛以外の何物でもない。時計の針が進むたび、時間と一緒に金を浪費しているような気分になる。
 この無駄な時間を、どうにかして活用するすべはないものか。家に帰って内職作業をするほどの時間的余裕はないしなあ。それともラーメン屋のバイトを辞めて、他のところを見つけたほうがいいのかな。でもあそこ、時給は悪くないんだよなあ。
「……って……」
 考えているうちに胃がキリキリしてきて、顔をしかめてお腹を手で押さえた。
 倉庫のバイトで貰う予定だったバイト代が、そっくりパアになったのは痛かった。本当に、痛かった。弟の受験を控え、大学に合格したらしたで色々と入り用もあるだろうし、少しでも多く貯金をしておくに越したことはないというのに、今の状態ではあまりにも資金が頼りない。先々のことを思うと、不安と心細さで胸のあたりがずしんと重くなる。胃が痛いから食欲もなくなって、このところ、朝も昼もろくすっぽ食べていない。この私がだ。
 ……時々、どこを見ても、真っ暗な闇しかないような、たまらない気分になる。
 父の失踪宣告が下されるまであと一年。でも、その一年間をどう切り抜けていけばいいのか判らない。母も限界まで働いているし、これ以上の負担を背負わせるわけにはいかない。私がなんとかしないと、と焦りばかりが湧いてくるこの状況で、空いてしまった時間をひたすら手持無沙汰に過ごすというのは、本気で精神的にキツかった。
 こんなことで、本当に大丈夫なのかな。これからやっていけるのかな。ちゃんと弟を大学に行かせてあげられるのかな──
 働いている間は忘れていられるのに、こんな風にヒマな時間が出来ると、答えの出ない不安ばかりが次から次へと頭に浮かんで押し潰されそうになる。しんどくてもやるしかない。苦しくても頑張るしかない。そうは思うんだけど。
 明るい笑い声に顔を上げると、私が座っているベンチの前を、二人の女の子たちが通り過ぎるところだった。年齢的に、私と同じくらいかな。屈託のない、無邪気な笑い声をたてて、女の子たちは楽しそうにお喋りし合っている。
 私も一カ月前まではこうやって笑ってたのかな、とその様子を目で追いながら、ふと思った。
 今思うと、毎日毎日人が買ってくれる豪華な弁当食べて、夢のような日々だったよな。美味しかったし、気持ちよかったし、楽しかった。それまでは何をするにも一人で平気だったのに、二人でメシを食うのに慣れると、一人に戻った途端、ものすごく寂しくなるのはどうしてなのかね。きっと自分でコンビニ弁当買って公園に行っても、もう、あんなに美味しいとは思わないに違いない。
 冴木さんのような物好きが他にいるとは思えないから、あの時間は多分、私の人生の中で、とても貴重なものだったんだろう。
 ……冴木さん、どうしてるかなあ。
 連想が余計な方向にまで進んで、私は大きな息を吐く。ああもう、思い出さないようにしてたのに。なにもかも、このヒマな時間が悪いんだ。
 考えたくないんだ、ホントは。
 冴木さんはあの後どうしたかな、とか。私というバイトが抜けて、一人で倉庫の仕事をてんてこ舞いでこなしてるのかな、とか。せっかく親切にしてもらったのに、恩を仇で返すことになった私をどう思ったかな、とか。
 そんなことばかり考えていると、ずっしりとした胸の重さはますます増す一方だ。ただでさえ今後の見通しが暗くて精神状態が悪いのに、自己嫌悪まで上乗せしたら救われない。もう考えない。考えないぞ。
 考えないって言ってんのに、なんでこういう時に、冴木さんと似たような、でかいナリをした男が視界に入るんだ。しかもこっちに向かって走ってくるじゃないか。やめろよもう。ちょっと期待しちゃうだろ。あれ、冴木さんかな、なんて。あの大きな身体でこっちに駆け寄って、あの優しくて穏やかな声で、私の名前を呼ぶのかな、なんて。
「大神さん!」
 そうそう、こんな風に。
「…………」

 本物だった。

 荒い呼吸で私のすぐ前に立ったその人を見上げ、私はベンチに座ったまま、ぽかんと口を開け固まることしか出来なかった。頭が真っ白になって、なにを言っていいのか、まったく言葉が浮かばない。え、どうすりゃいいの、これ? 冴木さんと街中で偶然ばったり再会するなんて事態、まったく考えてなかったぞ。
「……えーと、こんにちは。偶然っすね」
 とりあえず、なんとかそれだけの挨拶を絞り出した。驚きすぎて、かえって気の抜けたような声しか出なかったのが悪かったのか、冴木さんは肩を上下させながら、眉を上げた厳しい表情で私を睨んだ。
「なにが、偶然、ですか。君って人は……まったく……」
 乱れた息の合間に、苦しそうに切れ切れの言葉を出す。マラソンを終えたばかりの人みたいだが、どこから走ってきたんだろう。大体、なんで走ってたんだ? 見慣れた作業着姿じゃなく、普通の私服だし。終業後にしては、時間が早い。
 いや、というより。
「冴木さん、なんでこんなところにいるんですか」
「なんでこんなところに、じゃないですよ」
 私の当然の質問に、冴木さんはさらに眉を上げて、語調をきつくした。さっきから思ってたんだけど、なんか怒ってないか、この人。険の滲んだ目許が少し赤い。いつも穏やかな冴木さんの怒ったところを初めて見たが、普段の気弱そうなところがすっかり奥に引っ込んでいて、その顔はなかなか悪くなかった。
「大神さんを探してたに決まってるじゃないですか。家に電話をかけても誰も出ないし、行ってみても誰もいないし。六時からバイトをするというラーメン屋のことだけは以前に聞いていたので、そこに入る前に捕まえようと、会社を早退してずっと店の周辺を駆けずり回って探してたんです。僕はもう、君の携帯番号を訊いておかなかったことを、死ぬほど後悔しました」
「はあ……」
 それを言うなら、私の家の住所も電話番号も教えてなかったと思うんだけどな、という疑問が声に出たのか、冴木さんが今度は顔全体を赤らめた。
「自宅の住所と電話番号は履歴書に書いてあったので、許可を得て見せてもらいました。すみません、ご本人の了承もなく勝手なことを。でもどうしても、君に連絡を取りたかったものですから」
「いや、そんなことは別にいいんすけど」
 そんなことは心の底からどうでもいいのだが、冴木さんがそうまでして緊急に私と連絡を取ろうとした理由が判らないので、私は困惑するしかない。確かに私んちは家族みんなが不在のことが多いが、さすがに夜になれば母や弟はいる。どちらかに 「連絡乞う」 とでも伝言しておけば、用は足りたのではないだろうか。
 私、あの倉庫に忘れ物でもしたっけかな。
 一カ月も経った今になっての緊急な用件って、一体なんだ?
「実は、これを一刻も早くお渡ししたくて」
 と、冴木さんが私に向かって差し出したのは、なんの変哲もない茶封筒だった。
「……?」
 特に見覚えがない。私の私物でもない。なんだこれ? と思いながら開けてみる。
 中に入っていたのは──複数枚の紙幣と小銭。
 息が止まりそうになった。

「君の、アルバイトの給料です」
 動きを止めた私をじっと見つめて、冴木さんがゆっくりと確認するような口調で言った。

「辞めた当日の時間給まできっちりと計算してあります。金額に間違いはないはずですが、中に計算書も同封してありますので、確かめてください。一円でも不足があったらいけませんから」
「…………」
 お金と一緒に入っていた白い用紙を引っ張り出す。金額よりも、その計算書が会社名と印鑑の入ったちゃんとしたものであるのを見て、手が震えそうになった。じゃあこれは、冴木さんが自分のポケットマネーから出したものではなく、正式にあの会社から支払われた、本来私が貰うはずだった給料で間違いない、ということだ。
「どうして……」
 そこに書かれた文字と数字を見て、ぼうっとしながら呟く。どうして、今になって? どうして、冴木さんがこれを?
「僕が小鹿課長に交渉しました。交渉にも支払いの手続きにも少し手間がかかって、一カ月も過ぎてしまいました。遅くなって、本当にすみません」
 冴木さんが深々と頭を下げた。
 なんで謝ってるんだろう。小鹿って誰だ。あのハゲデブのオッサンか。外見に似合わない可愛い名前だな。ダメだ、私、頭がものすごく混乱してる。
「交渉、って。私のバイト代のことで?」
「はい」
「…………」
 交渉? あの意地の悪いオッサンと? 冴木さんのことをずっと見下して、やたら威張りくさってた相手だぞ。冴木さん、オッサンに馬鹿にされても、理由もなく怒られても、ずっと黙って目を伏せているだけだったのに。

 ──私のバイト代のために、戦ってくれたのか。

 喉が息で塞がって、なかなか声が出てこない。でも聞かなくちゃ。
「……どう、して?」
 私の問いかけに、冴木さんは穏やかに答えた。
「だってそれは、大神さんが受け取るべき、当然の報酬でしょう? 社員との揉め事があったにしろ、あんなにも頑張って働いてくれたのに、無一文で叩きだすような真似をした会社のほうに間違いなく落ち度があると、僕は思いました。もちろん、僕にも責任があります。つらい思いをさせて、申し訳ありませんでした、大神さん」
「──……」
 誠実さと思いやりの滲む声を聞いた途端、我慢できなくなった。手にした封筒がしわくちゃになるくらい両手でぎゅっと強く握りしめ、下を向く。
 今までずっと圧し掛かっていた、不安や、悔しさや、心細さ。そういうものが、いっぺんに頭の中を過ぎっていく。止める間もなく、涙がポロポロと零れた。
 ……バカだな、冴木さん。
 たかが短期バイトの女の子じゃないか。そのまま忘れて、何事もなく過ごすことだって出来ただろうに。私だって、そういう扱いは慣れてる。そうだ、慣れてる。平気だ。平気な顔をしていれば、みんなそう信じた。つらさや苦しさなんて、表に出さなければ誰も気づかない。誰にも気づかれなければ、何もないのと同じ。私はずっとそうして、やってきた。
 一人で。
「お、大神さん?」
 上体を伏せて身体を折り曲げた私に、冴木さんはオロオロしているようだった。
 しばらくして、おずおずと遠慮がちに、大きな手がそうっと頭に触れた。
 どこまでも柔らかくて優しい感触に、また泣けた。
 父がいなくなってから、誰かの前で泣いたのも、誰かにこうやって頭を撫でられたのも、こんな風に心から安心するような気持ちになったのも、これがはじめてだった。


          ***


 改めてベンチに並んで座り、冴木さんは少しもじもじしながら、事の顛末を教えてくれた。こうして二人で隣同士で座るのは久しぶりだ。
「……最初のうち、小鹿課長は僕の言うことにまったく耳を貸してくれなかったんです」
 という冴木さんの言葉に、だろうねえ、と私は非常に納得した。親切に忠告はしてやったけど、ああいうオッサンは、そんなに簡単に自分の生き方や考え方を変えたりはしないよな。むしろ、冴木さんが、あのオッサンにどんなことを言われたのかと思うと、そっちのほうが心配だ。
「毎日、何度も足を運んで話をしましてね、そのうち、社の中でも、僕の意見に同意してくれる人たちもでてきました。特に、女性が多かったですね。『あの啖呵はスカッとしたから』 って応援してくれる人がたくさんいましたよ。大神さん、何を言ったんですか?」
「はは」
 その件については笑ってごまかすとして、会社の人たちが冴木さんを後押ししたのは、なにもその理由ばかりじゃないと思うな。今までずっと森に引っ込んでいた冴木さんの、一生懸命な姿を見たから、っていうことのほうが大きいんじゃないかな。
「でも肝心の課長が、もう済んだことだ、の一点張りで。たかがバイトのことでいつまでも手を煩わせるな、なんて怒鳴られて、僕、さすがに頭に来てしまいまして」
「え、もしかして、殴ったんですか」
 驚いて私が訊ねると、冴木さんは顔を赤くして首を竦めた。
「課長は殴っていません」
「は?」
「課長は殴っていませんが、目の前のテーブルを殴りました。こう、拳で、どんっと」
 そう言いながら、冴木さんが、自分の拳を上から下にまっすぐ振り下ろす仕草をしてみせる。私はほっとした。
「なんだ、それなら」
「そうしたら、テーブルが割れました」
「…………」
 どんだけ怪力なんだよ、冴木さん!
「でもそれから、小鹿課長の態度が急に軟化して、僕の話を真面目に聞いてくれるようになりまして」
 そりゃそうだろ。
「君のバイト代を全額払う、ということで、快く了承を得ました」
 だって脅迫だよな、それ。
「ついでに、倉庫の人員も、増やしてもらえました」
 よっぽどビビらせたんだねえ。
 いかん、耐えられない。思いきり噴き出し、遠慮なくあっはっはと笑う私を見て、冴木さんはちょっと恨みがましい顔をした。
「……言っておきますが、大神さんにも問題があるんですよ」
「そりゃそうっすね」
「また適当に聞き流そうとしてるでしょう。あのね、そもそも根本的に誤解があると思うんです」
「誤解?」
 きょとんとして顔を見ると、冴木さんはなぜかまた赤くなった。
「その、君がクビになった原因について、いろんな人に事情を聴いて廻って、僕なりにその理由を理解したつもりです」
「…………」
「まず、暴力はよくないです、大神さん」
 なんだよ、結局説教かよ。テーブルをぶっ壊して上司を脅迫した人に言われると微妙だな。
「真面目に聞いてますか?」
「聞いてますって」
 冴木さんは疑わしそうに私を見てから、ごほんと咳払いをした。
「あの、大神さんはどうも、僕が鵜飼さんに気があると思っておられるようなんですけど」
「だってそうなんでしょ?」
「違います。いやあの、美人だな、とは思ってました。確かに、憧れてもいました。でもその、それは、好き、っていう感情とは別のものなんですよ」
「…………」
「信じてませんね?」
 冴木さんが困ったような顔をする。
「本当なんです。鵜飼さんが、緊張する僕を楽しんで、わざと話しかけたり笑いかけたりして、からかっているのも知ってました。そりゃ判ります。子供じゃないんですから。なので彼女のことは、憧れてはいましたが、同時に、苦手でもありました。そうなんです、鵜飼さんは美人なんですけど、性格的には、苦手なタイプなんです」
 自分で言って、自分で納得したようにうんうんと頷いている。冴木さんは、そうやって言葉にして私に向かって説明しながら、自分自身にもそういうことなんだと説明をしているみたいだった。
「ですから、鵜飼さんの思惑がどこにあったのかということは、正直、どうでもいいんです。僕は、そのことでは全然傷ついたりはしません。大神さんが、一人きりですべてをかぶって、何も言わずに会社を辞めていったことのほうが、よほど傷つきました。僕はそこまで、頼りにならない男として、君に見られていたのかと」
「……ごめんなさい」
「いえ、いいんです。僕は実際、逃げてばかりの情けない男でした。過去にこだわって、ずっと長いこと、誰ともまともに向き合おうとしませんでした。……でもね、大神さん」
「はい」
「僕が髭を剃ったのは、あの時、鵜飼さんが、『髭があると、どういう表情をしているのかさっぱりわからない』 って言ったからなんです」
「え」
 そんなこと、言ってたのか。その部分は聞こえなかったな。
「大神さん、よく、僕の顔を見て、首を捻ってたでしょう?」
「へ?」
 突然言われた内容にきょとんとする。首を捻る? そんなことしたっけ?
「してました。多分、無意識にやっていたんだろうなとは思うんですけど。僕もどうしてなのかずっと不思議に思っていたんですけど、鵜飼さんにそう言われて、思いついたんですよ」
 そう言って、冴木さんは、照れたように、大きな掌で髭のない顔をぺろんと撫ぜた。

「……もしかして、大神さんは、僕の表情が読めなくて首を捻ってるんじゃないかって」

「…………」
 確かに。冴木さんの顔は髭に隠されて、笑ってるのか困ってるのか、いつもよく判らなかった。冴木さんはちゃんと目の前にいるのに、表情が読めない分、嬉しいのか悲しいのかはこちらで推測するしかなくて、それがなんだかもどかしかった。
 その時、自分が首を捻っていることは気づかなかったが。
「僕はその、言葉を使うのがあまり上手じゃありません。毎日頑張っている大神さんを元気づけてあげたくても、大したことを言えません。それなのに、表情からもまったく思っていることを伝えられないなんて、あんまりじゃないですか。大神さんがバリバリ働いているところを見ると僕は自分もやる気になれたし、もりもりゴハンを食べる姿を見たら僕まで元気になったし、図太く雄々しいところを見てたくさん勇気を貰ったりもしたっていうのに」
「…………」
 図太く雄々しくて悪かったね。もうちょっと言いようがあるだろうに、確かに冴木さんはあまり言葉が上手じゃない。
「幸せだなあ、って大神さんが言うのを聞くと、僕もとても幸せな気分になれました。上手く言えませんけど、僕がそうやって、嬉しいとか楽しいとか思っているということを、せめて大神さんが少しでも知ってくれるといいなと思ったんです。言葉で出来ない分、表情からでもなんでも、伝えられればいいなって、思ったんです。だから、髭を落としました。……あの、僕の言いたいこと、判ります?」
 言いたいことはよく判らなかったが、もう隠すものが何もなくなったその顔が、真っ赤に染まっているのははっきりと見えた。うん、髭もじゃも嫌いじゃないが、やっぱりこっちのほうがいい。
 思ってから、気がついた。
 あ、そうか。そういうことか。

 たとえばさ。
 私の何かが──なんでもいいんだ、ほんのちょっとでもいい。私の、「何か」 が。
 森から出ようと一歩を踏み出す冴木さんの、背中を押す手の代わりになったのだとしたら。
 だとしたら、私は嬉しいよ、冴木さん。
 とても、嬉しい。
 その気持ちが、冴木さんにも伝わるといいなと思う。

「 ……はい。少し、判る気がします」
 だから、冴木さんにそう答えて、笑った。



          ***


 でもまあ、それから、何がどう変わったというわけでもなくて、私は相変わらず毎日バイト三昧の日々を送っているし、冴木さんも倉庫で真面目に働いている。
 ──ただ、バイトをほんの少しだけ減らして、冴木さんと一緒に公園に行ったりする時間を作るようには、なった。
 生活はまだまだ楽じゃないけど、母も弟も喜んでくれているようなので、いいかなと思うことにしている。あんまり働きすぎると、冴木さんが心配するしね。
 とはいえ、二人で公園に行っても、取り立てて何をするわけでもない。芝生の上にシートを広げて座って、食べたり、飲んだり、お喋りしたり。弁当を持っていくこともあるし、冴木さんが山ほどスイーツを買ってきてくれることもある。
 何もしない時間でも、楽しいと思える場合もある、ということを私は発見した。
 頭上には青い空。流れる白い雲。気持ち良く吹き渡る風。一面に広がる緑の芝。子供の遊ぶ声。目の前にはたくさんの食べ物。
「大神さん、そう慌てて食べたらダメだと何度言ったら──プリンは逃げないから、ゆっくり食べなさい」
 そして、熊の説教。

 幸せだなあ、と私はしみじみ思う。

Fin.



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