短編8

一匹狼と森の熊(その後)




 弟が、第一志望の大学に合格した。
 そりゃもう私と母は、本人よりも大喜びだ。大奮発してホールのケーキを買い、ちらし寿司や茶わん蒸しや天ぷらや唐揚げなど、我が家にしては大盤振る舞いのご馳走でお祝いした。大学に入るとなったらまたいろいろとお金もかかるわけだが、この日くらいはいいだろう。
 私からそれを聞かされた冴木さんも、自分のことのように喜んで、わざわざ弟に入学祝を用意してくれたりした。それだけではなく、「大神さんも頑張りましたね」 と私を労い、スイーツビュッフェに連れて行ってくれもした。
 スイーツの、しかもビュッフェだぞ? 存在くらいは知っていたが、行ったことはもちろんない。一歩足を踏み入れた瞬間から目の前に広がるケーキの山と甘い香りにくらくらし、桃源郷とはこのことか、と思った。ちょっと一瞬、魂が抜けかけたくらいだ。
 ケーキもプリンもタルトもクレープもワッフルも、死ぬほど美味しかった。あんまり食べ過ぎて、さすがに帰りに気持ちが悪くなったが、もったいないので、意地でも吐かなかった。
 それがここ最近の私の、もっとも幸福な出来事である。


「おかしいだろ、それ!」
 と異議を唱えたのは弟だ。
「なんで年頃の娘の 『もっとも幸福な出来事』 がケーキバイキングなんだよ! 小さすぎだろ!」
「ふふ、もの知らずなやつめ。今どきは、ケーキバイキングじゃなく、スイーツビュッフェっていうんだぞ。オシャレだよね」
「そんなこたーどうでもいい!」
 得意満面で知識を披露してやった私に、弟は真顔で背筋を伸ばして座り直した。「ちょっとここに座れ、姉ちゃん」 とすぐ前の床を指し示す。なんだよ、こいつまで説教か。
 もうじきバイトの時間なんだがなあ、と部屋の時計を見て思いつつ、弟の前に正座する。バイトに行く前に少し家の掃除もしておきたいし。そういや冷蔵庫がカラッポだったな。すぐに余計なものを買いがちな母親に任せるより、私が買い物に行っておいた方がいいかな。卵の特売って今日じゃなかったっけ。
「真面目に聞けって」
「聞いてる、この上なく真面目に」
「ウソつけ」
 どうして弟といい、冴木さんといい、こうも疑り深いのだろう。人間、素直がいちばんだと思う。
「……そもそもさ、姉ちゃん」
 弟は私と向かい合うと、窺うように私の顔を見て、ゆっくりと言葉を出した。
「冴木さんとは、どこまでいってんだ?」
「だから今言ったじゃん。この間スイーツビュッフェにね……」
「なにボケかましてんだよ。付き合ってんのか? 付き合ってるとしたらどこまで進展してるんだ? 姉弟とはいえそこまで立ち入るのもなんだしと思って、今まで遠慮してたけど、ものすげえ不安になってきた。正直に俺に言ってみな」
「進展……」
 怖い顔で詰め寄ってくる弟に、私はぼんやりと返した。進展、っていってもなあ。
「時々公園デートする」
「それは知ってる」
「頭を撫ぜてもらうこともある」
「頭って……いや、いい。で?」
「人が多いと手を繋いだりもする」
「……うん」
「この間スイーツ食べ過ぎて気持ち悪くなった時、背中をさすってもらった」
「…………」
「あと何かあったかな」
「そんだけ?!」
 頭を悩まして首を捻った私に、弟は驚愕の面持ちで叫んだ。そんだけとは失礼な。冴木さんに背中をさすってもらったら、嘘みたいに気持ち悪いのが収まったんだぞ。あの大きな手は魔法の手か、と私は感動したくらいだ。
「それ、付き合うって言わねえだろ!」
「そうかねえ」
「なに適当に聞き流そうとしてんだ。姉ちゃんと冴木さん、それでホントに付き合ってんのかよ?!」
「うーん、どうかな」
「そこは肯定しろよ! 俺、前から思ってたんだけど、二人の間にちゃんと恋愛感情は存在すんのか? 聞いてる限り、冴木さんって、姉ちゃんのことを、餌付けした野生動物、くらいにしか思ってないフシがあるぞ!」
「あはは、そうかもね」
「明るく肯定すんじゃねえ!」
 ガミガミとやかましい弟は、そこでふと、本当に心配そうな顔になって、声音を落とした。
「──姉ちゃん、冴木さんのこと、どう思ってんだ?」
「好きだよ」
 私が答えると、弟は眉を寄せ、複雑そうな表情になった。
「その好きっていうのは、『いつも食べ物をくれる人だから』 っていう認識で言ってんのか?」
「あんたさ、姉のことをなんだと……」
 それでは本当に、餌付けをされた動物並みではないか。
「別に、食べ物がなくても冴木さんのことは好きだよ。二人でいると、安心するし、幸せな気分になる。正直、恋愛のこととかはよくわかんないんだけど」
 今まで、そんな余裕もなくバタバタと時間を過ごしてきちゃったからな。
「でも、冴木さんがいてくれてよかったなあ、とは、いつも思ってる」
「そういうこと、本人に向かって言ったのか?」
「言ってない」
「なんで? 冴木さんって、いかにもオクテそうだから、姉ちゃんからハッキリ態度を示さないと、次に進めないのかもしれないじゃん。絶対向こうだって好意くらいはあるに決まってるし、こっちから積極的に迫っていかないとさ」
「ううーん……」
 私は首を傾げ、あやふやに声を出した。冴木さんは確かに、私のことを嫌いではないだろう、とは思う。
 思うが。
「あのさ、父さんの失踪宣告が出るまでに、あと半年あるよね?」
「え? うん」
 私の突然の話題転換に、弟は戸惑ったようだが、同意して頷いた。
 私たち家族はもう何年も前からその日を指折り数えて待っているので、一日だって忘れたことはない。もしかしたら父はどこかで生きているのかもしれないが、その日が来たら法律上で死亡とみなされ、保険金だって下りる。うちは正式に母子家庭となり、国のいろんな優遇も受けられ、暮らしはかなり楽になる。
 あと半年。やっと。やっとだ。
 ──でも、その半年の間、何が起こるか判らない。
「もしかしたら、その日が来る前に、何かあるかもしれないでしょ? 母さんが倒れたりするかもしれないし、あんたが事故に遭うかもしれないし、いきなりアパートが火事になったりするかもしれないし」
 今までギリギリの状態でも何とかやってこられていたのは、ひたすらラッキーだったに過ぎないと、私は思っている。一つでも不慮の出来事が起こっていたら、たちまち破綻してもおかしくはなかった。一歩足を踏みちがえたら奈落の底にまっさかさまの綱渡り、それがこの六年半の内実だったのだ。
「ひょっこり父さんが帰ってくるかもしれないし」
「そうしたら、今度は俺がヤツを山の中に埋めてきてやる」
 弟は真面目な顔で淡々と物騒なことを言った。さすが秀才は考えることが違うな。
「とにかく、もしもそういうことになった時に、私、冴木さんを巻き込みたくないんだよね」
「…………」
 私は肩を竦めてなるべく軽い口調で言ったつもりだが、弟は視線を下に向け、唇を引き結び黙り込んでしまった。
「あの人、人が好いからね。絶対心配するし、助けてくれようとするでしょ。自分のこともほっぽらかして、力になってくれようとするでしょ。私、そういうの、イヤなんだよね」
 今、冴木さんが私に優しくしてくれたり、親切にしてくれたりするのも、そりゃ好意もあるのかもしれないが、でも同情もあるんだろうと思う。それは別にいいのだが、そのために冴木さんの人生にまで影響を及ぼしてしまうのは、やっぱりなんか違うよな、という気がするのである。ご飯を奢ってもらう、というのとは、まったく別次元の話になってしまう。そういう時に、「いてくれてよかった」、と思うのはイヤだ。
 せっかく森を出て、ようやく今、広い世界の中で頑張ってやってるのに、私がそれを邪魔するようなことはしたくない。
「……だから、そんな風に曖昧な状態でいるってこと?」
「まあ、そうだね」
「じゃあ、姉ちゃんはさ、もしも本当に、そういうことになった時」
 と、弟は怒ったような顔で眉を吊り上げ、低い声で言った。
「冴木さんを、切り捨てんのか。また一人で全部抱え込んで、『お世話になりました』 っつって、冴木さんの前から姿を消すのか。そうやって、冴木さんを傷つけて、自分だけで解決しようとすんのか。以前に怒られたのに、同じことを繰り返すのか」
「…………」
 弟の問いに、私は黙って、ただちょっとだけ笑った。


          ***


「いい天気っすねえ」
「そうですね」
 冴木さんの仕事休みの日曜日、映画に誘われて出かけたが、上映時間までまだ少しあるので、二人でのんびり映画館近くの公園でペットボトルのお茶を飲んで過ごした。
 冴木さんとよく行く公園とは違うが、ここも悪くない。天気はいいし、ぽかぽかしてあったかいし、このまま昼寝してもいいくらいだ。でも、映画も久しぶりだから捨てがたいしなあ。贅沢な悩みだよなあ。
 私の隣で、冴木さんも眩しそうに手をかざして空の太陽に目をやっている。こうして見ると、髭のない冴木さんの横顔は、それなりに精悍だ。というか、最近、精悍な顔つきになってきた、のかな。現在の冴木さんは、もう、最初に会った頃のように、人と対する時にオドオドしたところを見せることもない。
 なんとなくその顔を眺めていたら、突然くるりと振り返られて、どぎまぎしてしまった。
「大神さん、今日のバイトは、夜だけなんですか」
「あ、はい。弟が大学合格と同時にバイトを始めたんで、ちょっとだけ余裕が出ましてね」
「それは良かったですね」
 冴木さんがにっこりした。私も、へへ、と笑い返す。
「くれぐれも無理はしないようにしてくださいね」
「大丈夫っすよー」
「また軽く受け流して」
「それに、あと半年で大分楽になると思うし」
「ああ、そうですね。半年ですね」
「はい、半年」
 冴木さんが笑ったまま、なるほど、と頷く。

「──つまり、その半年の間、僕は君が逃げていかないように、よく見張っていればいいんですね?」

 さらっと言われて、飲んでいたお茶で思いきりむせた。
 冴木さんは私の背中をさすって、変わらずにこにこ笑っている。いや……違うな。なんか怖いな、この笑顔。
「……は?」
「これから半年、何かがあると、君は僕を切り捨てて逃げてしまうらしいので」
「…………」
 チクったな、弟! そして笑いながら怖いオーラ出すなよ、冴木さん!
「大神さん、僕も健康な若い男なんですよ」
「は……はあ?」
 唐突な発言にぽかんとする。冴木さんが健康な若い男であるのは知ってるけど?
「実を言うと、そろそろつらいなと感じていた頃だったんです。それで君に相談してみようかなと思っていた矢先だったので、弟くんからの電話は、けっこうショックでした」
「……はあ?」
 意味が判らない。要するに、私と一緒にいるのが嫌になってきた、ってことなんだろうか。じゃあ、相談って、別れ話か? でも、別れるもなにも、付き合ってたかどうかも微妙じゃないのかな。
「僕、こう見えて、力はあるんです」
 だから知ってるって。何度も言うが、「こう見えて」 ってのはおかしいだろ。
「ただでさえ、大神さんは小柄だし、よく食べるわりに身体が細いじゃないですか。だからなんていうか、僕もためらってしまって」
「は? 何をですか」
「うっかり抱きしめて、潰しちゃったらどうしよう、とか」
「…………」
「力を込めたら、ろっ骨を折ってしまいそうだな、とか」
「…………」
「自分の胸の中で窒息死させたらシャレにならないし、とか」
「…………」
「そんなことを考えると、どうにも怖くて。だから手を出すことは控えていたんですけど、それもそろそろ限界だから、どうしようかなあと悩んでいたところだったんです。まさかその君が、そんなことを思っていたとは夢にも思いませんでしたね」
 薄っすらと笑ってるが怖い。いつも人の好さげな顔をしているが、冴木さんはどうやら、静かに怒るタイプの人らしい。
「弟くんは、『バカのくせに昔からなんでも一人で片付けようとする』 と言ってましたよ。『バカだけど大事な姉だから、同情だったら、今のうちに手を引いてくれないか』 とも、言われました」
 同情って──と、視線を宙に据え、自嘲気味に呟いた。
「……僕はそうまで、頼りになりませんかね」
 ぽつりと落とされた言葉に、私は慌てて首を横に振る。
「そういうことじゃないです」
「そう──そうですね」
 小さく言って頷き、冴木さんは、考えるように口許に手をやった。
「実際、僕ではなくても、誰でも、君はそういうことをするんでしょう。一人で、後ろを振り返りもせずに、すたすたと歩いて行ってしまうんでしょう。お父さんがいなくなってから、お母さんを支えて、弟くんを守っていくために、そうして生きるしかなかったんでしょう。誰かの行動のために他の誰かの人生が狂う、ということをよく知っているから、君は他人を巻き込むことを極度に嫌う。いつも平気な顔をして、大事なことも胸にしまったまま、本能的に、頼るよりも離れることを選ぶ」
 ねえ大神さん、と優しい目がまっすぐこちらを向いた。
「君は僕のことをお人好しだなんて言いますが、本当は、君自身が誰よりもお人好しなのだと気づいてますか。いつでも自分のことより他人のことばかり考えているのは、君のほうだって、判ってますか。それは大神さんの美質でもありますが、欠点でもあるんです。……だってね」
 冴木さんはそう言ってそっと手を差し出し、私の手を取った。緩く、柔らかく、きゅっと握る。
「置いていかれるほうは、とても寂しく、悲しいからです。切り捨てられたことに、ひどく傷つきます。そういう気持ちは、大神さんも、よく知っていると思いますが」
「…………」
 ……うん。
 うん、知ってる。
 私が高校生の時、突然いなくなった父。学校から帰ったら、母は小学生だった弟を抱きかかえ、ぼんやりと放心していた。書き置きには謝罪の言葉しかなく、どうして出て行く前に、せめて相談してくれなかったのか、一言言ってくれなかったのか、と私たちは悔しく思うしかなかった。もしかしたら、自分たちにだって何かしてあげることはあったかもしれないのに。
 救えたかもしれなかったのに。
 父に怒りが湧くよりも、何も出来なかった自分を責めた。あの時のやりきれない切なさは、今も脳裏に焼き付いている。
 残された私たち家族は誰もが、傷つき、寂しく、悲しかった。
 ──私は、冴木さんにもそれと同じ思いをさせていたのか。
「……ごめんなさい」
 しょんぼりうな垂れて言うと、冴木さんがぽんぽんと頭を撫ぜた。
「これから何かあったら、その時は、一緒に打開案を考えましょう。巻き込む、なんて考え方をしてはダメです。僕は君が笑っていてくれると嬉しいんです、それだけです。それは、同情とはまったく別のものです。……いいですね?」
 最後のほうはいつもの説教くさい言い方になっていたが、私はこくりと頷いた。
 私が熊の説教を聞くのが好きなのは、そこに、常に優しい心があるからだ。まっすぐ私に向かってくる深い思いやりがあるからだ。自分ではない誰かが、自分のことを真剣に気にかけてくれている、自分のために怒ってくれている、ということが判って、安心するからだ。

 もう、一人で不安を抱えたまま途方に暮れなくてもいいんだ──と。

「……冴木さん、そろそろ映画がはじまりますよ」
 私が言うと、冴木さんは 「あ、そうですね。行きましょう」 と立ち上がった。私の手を握ったまま。
「…………」
 もちろん、手を握られたって、痛くないし、骨も折れそうでもない。抱きしめられたって、大丈夫と思うんだけどな。全然オッケーだけどな。なんなら今この場でも構わないんだけどな。
 そう言ってみたら冴木さんはどんな反応をするのだろう。慌てるかな。赤くなるかな。それともまた説教するのかな。案外本当に抱きしめてくれたりして。
 どの反応も見たい気がして非常に興味が湧いたが、私はなんとかそれを口には出さずに心の中にしまった。
 ──まあ、でも、二人でのんびり進んでいくのもいいか。
 まだまだこれから、時間はあるんだし。
 私はなんだかとても明るく幸福な気持ちになって、握った手にぎゅっと力を入れると、足を大きく踏み出した。


 秀才の弟と違って、あんまり頭は良くない私だけど、大事な真理をひとつだけ知ってる。
 ……こんな風に、「小さい幸福な出来事」 を、いくつも積み重ねていくことが、きっと、本当の幸せだ。

Fin.



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