短編9

サボテンに水(1)




 菜穂の母親が亡くなったのは、小学校二年生の時だ。
 交通事故だった。歩道を歩いていたところを、ハンドル操作を誤った車に撥ね飛ばされて、ほとんど即死であったという。その前日まで、どころか、家を出る直前までピンピンしていたのに、買い物に出かけたきり、母はそのまま帰らぬ人となった。
 あまりにも突然のことすぎて、悲しむよりも前に茫然とした。同じく茫然としている父と共に葬儀を終え、雑事に追われる日々をバタバタと通り過ぎ、さあこれからゆっくり母を悼んで泣こう、という段になって、ようやく。
 大きな問題が発覚した。
 菜穂の父という人は、穏やかで優しい性格だったのだが、家事能力がゼロ、という人でもあったのだ。陽気でお喋りで、何事もテキパキとこなしてしまう母が生きている頃は、何もせずにただ新聞を読んでおっとり寛いでいるだけの父の姿にもなんの疑問も覚えなかったのだが、その母がいなくなった途端、菜穂の家は日常生活面において、いきなりピンチに立たされることになった。
 炊事・洗濯・掃除。そのどれも、父はからっきし出来ないのである。父の母、つまり菜穂の祖母は昔気質の女性であったらしく、「男子厨房に入らず」 を夫にも息子にも徹底していたのだそうだ。その祖母も今は亡き人で、祖母からその教えを忠実に受け継いで自分の夫にまったく家事の分担を求めなかった母も、もういない。父と小学生の娘は二人、ひたすら途方に暮れるしかなかった。
 早い話、食事だって毎日毎食を外食で済ませるというわけにもいかない。洗濯はおもに洗濯機が行ってくれるとはいえ、干したり畳んだりは手作業だ。掃除に至っては、何もしなければそのままゴミに埋もれていくだけである。
 それでも最初の頃、父はなんとか努力をしようとした。しかし実際にやってみると、その家事能力は、ゼロというよりはマイナスに近かった。ご飯ひとつにしても、炊飯器でどう炊くのかが判らない。水で研ぐ、ということすらも知らない。包丁を持たせれば、ジャガイモの皮を剥くのに一時間もかかる有様だ。
 洗濯機を使うにしたって洗剤を入れずにボタンを押してそのまま忘れ、掃除をするにも床に散らばった物を避けて掃除機で撫でるだけで、おまけに積み上げていた本を倒したりする。小学二年生だった菜穂ですら、眩暈を起こしそうなくらい、父の家事は余計な手間を増やすだけのシロモノだった。
 ハウスキーパーなどを雇う余裕はないこの状況で、家のことがすべて菜穂の双肩にかかってくるのは当然の成り行きといえた。料理や洗濯について、何も知らないという点では父とどっこいどっこいだが、少なくとも菜穂は父よりもそちら方面に無関心ではいられない。日々のコンビニ弁当三昧には相当うんざりしていたし、しわくちゃの服も、散らかった家も、なんとかしようという意思とやる気くらいはあった。
 そのような事情で、菜穂は、小学生と主婦の二足のわらじを履くことになった。決してやりたかったわけではないが、父がまったくアテにならない以上、自分でなんとかするよりしょうがない。友達のお母さんに教わって、ご飯を炊くことと、味噌汁を作ることを真っ先に覚えた。この二つが作れれば、食事というものはそれなりに見栄えがつく。
 洗濯も、掃除も、失敗を繰り返しながらだが、続けているうちに上手になった。父の手伝いなどはもう邪魔なだけなので、一人で黙々とやっていくしかない。学校で算数の問題を解きながら、帰ってからの買い物と掃除と料理の流れについて考えを巡らせているのも、日常のことになった。
 そういう菜穂を、大人たちはみんな、「しっかりしているね」 と評価した。通知表にも、毎回、「精神的に自立している」 と書かれた。死活問題だから仕方なくやっていることを、大げさなまでに驚かれて感心されることに対して違和感があったが、面倒なので黙っていた。そんなことよりも、今日をどうやって乗り切るか、ということのほうが、菜穂にとっては重要だったのだ。
 誰に相談してもどうなるものでもないし、頼るものは何もない。すべてを自分のちっぽけな胸に収めて、一人でなんとかするより他にない。だから菜穂は、心の中のあれこれを、口に出さずにしまいこむ性格になった。相談しない、頼らない、甘えない。
 だから。
 手のかからない子。放っておいても、一人でもやっていける子。
 母がいなくなってからの菜穂は、ずっとそう呼ばれることになった。


 そんな生活が三年ほど続き、菜穂が五年生になった時、父の再婚話が持ちあがった。
 戸惑いよりも驚きよりも、まず真っ先に菜穂が覚えたのは、深いため息をつきたいほどの安堵感だ。新しい母、という人に対する不安もまったくないわけではないが、それよりも、嬉しさと喜びのほうが大きかった。
 母、という存在が現れてくれれば、ようやく自分もこの忙しい毎日から救われる。その人は母であると同時に父の妻でもあるから、父の面倒も見てもらえる。家の中ではタテのものをヨコにすることもしない──というか、出来ない父に、菜穂はほとほと疲れ切っていた。
「よろしくね、菜穂ちゃん」
 はじめの挨拶の時、母になる女性はそう言って、心配そうに菜穂を見た。
 菜穂の実の母は亡くなる直前まで元気で闊達な性格の人だったが、その人はいかにも大人しく弱々しそうな、風が吹けばそのまま倒れてしまいそうな、儚い雰囲気を持っていた。綺麗な顔立ちをしているけれど、どこか何かを怯えているような、そんな感じの人でもあった。
「よろしくお願いします」
 ふつつかな父ですが、という前置きを心の中だけで呟いて、菜穂は頭を下げた。とにかく、シンデレラに出てくる継母のような人ではないのは確かそうで、ほっとする。本当の母子のように、とまではいかなくても、お互い無難に上手くやっていければそれでいい。
「これがわたしの息子の和希です。菜穂ちゃんのひとつ下で、四年生。同じ学校に通うことになるから、いろいろと教えてあげてね」
 新しい母には、コブがついていた。父から聞いた話によると、死別ではなくて、離婚したのだそうだ。息子が幼稚園の時に別れて、以来、母一人子一人で頑張っていたのだという。その健気な姿に、父は心打たれたのであろう。
「仲良くしようね」
 菜穂としては心の底からの願いとしてそう言ったつもりだったのだが、母の背中に隠れた小さな男の子は、まるで睨むように菜穂と父に目を向けるだけだった。痩せていて、色も白っぽく、ひ弱そうな男の子だったが、視線には明らかに棘があり、険しい光があった。
 菜穂は新しい母と弟を歓迎したい気持ちだったけれど、この子にしてみたら、お母さんを取られるようで、やっぱり悲しさとか怒りとかがたくさんあるのだろう。少し可哀想な気もして、菜穂はその男の子の視線を黙って受け止めた。


 新しい家族との生活は、しばらくの間、ぎこちなさのみっちり詰まったギクシャクとしたものだったが、それでも半年も経つうちに、なんとかそれらしい形にはなってきた。
 最初はまったく口を利いてくれなかった和希も、少しずつぽつりぽつりと話をするようにもなって、時々は笑ったりするようにもなった。彼の笑顔は案外可愛らしくて、菜穂は内心でひそかに大喜びしたものだ。基本、静かな子だったが、新しい学校にも慣れてきて、問題なく環境に順応しているようだった。
「菜穂ちゃんのおかげだわ」
 と、一緒に洗濯ものを畳んでいる時、嬉しそうに微笑む母に言われた。
 何事にも控えめな母は、あまり口数の多い人ではなかったけれど、にこにこと笑う顔がほんのり灯ったランプのように温かな人だった。少しおっとりしているためか、料理その他の家事も決して手際が良いわけではなかったが、それでも一生懸命やろうという気持ちは伝わってくる。父は相変わらず何もしないし出来ないので、菜穂はなるべく出しゃばりすぎないように母の仕事を手伝った。それでも、以前より負担は相当軽減されていたから、ずっと気が楽だった。
「……あのね、本当はこんなこと、菜穂ちゃんの耳に入れてはいけないのかもしれないのだけど」
 母は、菜穂が思っていたよりもずっと 「しっかりしている」 ことに、安心していたらしい。手に持った和希のシャツに視線を落とし、まるで女同士の打ち明け話をするように、声音を抑えた。
「和希の前の父親はね、普段は優しいのだけど、お酒を飲むと、人が変わってしまうところがあってね。その……暴れたりだとか、手を上げたりだとか、そういうことがよくあったの」
 ニュースなどで時々出てくる、家庭内暴力、というやつかな、と菜穂は思った。よくは判らないが、この母も怖い思いをしたのだろう。見た目からして、そういうことに、強い態度が取れそうなタイプではない。
「お母さんも、殴られたりしたの?」
 菜穂が訊ねると、母は困ったように曖昧な仕草をした。否定ではなく、肯定だ、ということは判る。
「わたしが弱いのがいけなかったの。それでね……和希はまだ小さかったのだけど、そんなわたしをいつも、守ってくれようとしていてね。あの子もきっと、すごく怖かったでしょうにね、わたしを庇って代わりに蹴られたこともあって」
 幼稚園の子が大人の男の暴力に晒される。それはどんなにか、恐ろしいことだっただろう、と思うくらいの想像力は、菜穂だって持っている。
「あの子、足の動きがちょっとおかしいでしょう? あれはね、その時に受けた傷が元で、後遺症になってしまったの。わたしはそれで我慢がならなくなって家を飛び出したのだけど、もっと早くそうすべきだったと、ずっと後悔しているのよ。和希には本当に……どう償っていいか」
 母はそう言って、目を伏せた。
 和希は、いつも右足を、ほんの少し引きずるようにして歩く。注意して見なければ判らないほどの目立たないものだったから、菜穂も今まで大して気にしていなかったけれど、そんな理由があったとは思いもしなかった。
「それでなんとか母子二人でやっていくことにしたのはいいのだけど、なにしろわたしは不器用なものだから、仕事もヘマの連続で、よく怒られたりもしてね。メソメソ泣いてばかりのわたしを、和希はどんなにか心細い思いで見ていたんでしょうね。学校が終わるといつでも家に飛んで帰って、わたしのそばに張り付いていたわ。きっと、心配で心配で、たまらなかったんでしょう」
「…………」
 そうか。それで和希は、最初のうちあんなにも警戒心でいっぱいだったのか。幼い彼は彼なりに、必死で父と菜穂を見定めようとしていたに違いない。
 この相手は大丈夫だろうか。母をつらい目に遭わせたりしないだろうか。殴ったりしないだろうか。泣かせやしないだろうか。
 小さな全身に針を立てて、彼はずっと、母親を守ろうとしていたのだろう。
「でも、今の和希はやっと普通の子供らしくなったから、ほっとしているの。菜穂ちゃんのおかげね。菜穂ちゃん、近所の人たちに、『弟の和くんだよ』 って、和希を紹介してくれたでしょう。あの子ねえ、本当にそれが嬉しかったらしいのよ。あの菜穂ちゃんの弟なら安心だって大人に言われて、それでお友達も出来たって」
 今の和希は、学校が終わっても飛んで帰らなくなった。外で遊ぶ時間も増えて、きっとすぐにあの色の白い肌も、健康的に日に焼けることだろう。
「口にはしないけど、あの子はもう、お父さんと菜穂ちゃんのこと、信頼しているの。わたしにへばりついていなくても、ようやく安心できるようになったのよ。菜穂ちゃんがしっかりした子で、本当によかった」
「うん」
 菜穂は頷いた。
「大丈夫だよ、お母さん」
 と、母に向かってきっぱりと告げる。
「うちのお父さんは、家では役立たずだけど、お母さんのこと、きっと大事にするからね。これからは、お母さんのことも、和くんのことも、私が守ってあげるからね。地震が来ても、台風が来ても、怖い人が来ても、きっときっと、私が守ってあげるからね!」


          ***


「……っていうことがあったんだってな」
 と、和希がサラダ菜を口に放り込みながら言った。
「そうだっけ。そんなこともあったかなあ」
 菜穂もサラダボウルに箸をつけながら首を捻る。小学校五年生の時というと、今からかれこれ六年ほども前のことだ。そんなカッコいいこと、言ったような気もするが、あんまりよく覚えていない。
「忘れてんのかよ。俺はその当時、母さんからそれを聞いて、本気で涙ぐむほど感動したってのに」
 今では高校一年生となった和希は、口を尖らせて不満そうだ。そういう顔は、昔からあまり変わらない。外見は、あの頃とは似ても似つかなくなってしまったが。
「感動したんだ。チョロイね、和くん」
「俺の純真を返せ」
「あの頃の和くんは、ホントに守ってあげなきゃ、と思わせるくらい弱々しかったからねえ。今は全然そんなこと思わないけど」
 なにしろむくむくと身長が伸びた弟は、すでに中学入学時には菜穂を追い抜いて、今ではその差二十センチである。男子バレー部に所属していて、筋肉もつき、色も黒くなった。あの頃、気軽にいい子いい子してあげられた頭は、現在は脚立にでも乗らないと、手が届かない。
「その分だと、続きも覚えてないな」
「続き?」
 美しい思い出話だと思っていたのに、和希の顔にはなにやら皮肉な色が乗っている。
「守ってあげるけど、それはそれとして、これからの男は家事もやらせないとダメだ、って鼻息荒く言ったんだってよ。結局、母さんみたいなのが甘やかすから男がつけ上がって暴力を振るうんだし、父さんみたいに家の中では無能な男が出来上がるんだっつってさ。これからの人生、真っ当に幸せを掴むためには、男だって身の回りのことは最低限出来るようにするべきだって、懇々と母さんを説教したって」
「……そうだっけ」
 ぽりぽりと胡瓜を噛みながら、そんなこと言ったかなあ、とますます首を捻る。よっぽど当時の自分は、家事無能男に辟易していたらしい。気の毒だ。
「そのセリフを、母さんすっかり真に受けちゃってさ、それから俺は、なんだかんだと家のことをやらされるハメになったんだ。おかげで見ろ、今やこんなに料理上手になって」
「本当だよね。このサラダ、すごく美味しい」
 その点については、うんうんと頷く。和希の作った海鮮サラダは、具に帆立やお刺身の入った豪華なもので、手の込んだことに、上にはワンタンの皮を細切りにしてからりと揚げたものが載っている。もちろんドレッシングは手作りだ。レモンが効いていて、さっぱりしていくらでも食べられる。
「だろ? もっと食え。菜穂はこういう味が好きだろうと思って、いろいろと試行錯誤したんだからな」
「うん、こういうの大好き」
 素直に言うと、和希はすっかり上機嫌になった。チョロイ……とは思わず、可愛いなあ、と思うことにする。和希はもともと器用なところがあって、おまけに凝り性な性格をしているので、料理はこの家で誰より上手い。母は未だに不器用だし、菜穂は大雑把なので、こんなに繊細な味は出せないのだ。
 食卓の上には、サラダの他に、煮物や中華風の炒め物や具だくさんの野菜スープなどがある。菜穂と和希がそれぞれ分担してこしらえたものだが、両親のいない夜の高校生姉弟が食べる夕飯としては、かなり異色と言ってもいいのではなかろうか。
「少し残して、お母さんたちにも食べさせてあげようか」
 と菜穂が言うと、和希は 「いいっていいって」 とぞんざいに返した。
「デートっつーんだから、外で旨いもんでも食ってくるだろ。まったくさあ、いいトシこいて、二人で映画なのーって浮かれるか、普通」
「まあ、家の中では、あんまりイチャついてもいられないだろうしねえ……」
 子供は大きいが、夫婦としてはまださほど時間の経っているわけではない父と母は、時々 「二人っきりの時間」 というものが欲しくなるらしく、こうして出かけて深夜まで戻らなかったりするのである。本来遊び盛りの高校二年生と一年生の二人が、真面目に家で食事をしているというのに。
「けど和くんも、お父さんたちがいない時は、必ず早めに家に帰ってくるよね」
 もう高校生になった弟は、いろいろと付き合いがあるらしく、ほとんど家には居着かない。四人で食事を摂ることのほうが稀なくらいなのだが、両親が不在と判っている夜は、絶対に家にいて、こうして一緒に食事を作って食べる。
「私、別に一人でも大丈夫だよ」
 昔、母を一人っきりで家に置いておくのが不安でたまらなくて、飛ぶように学校から帰ってきた子供の頃のように、菜穂のことを心配して、そうしているのではないか。
 と思ったので言ったのだが、和希は少しむっとしたように口を曲げた。
「なんだよ、俺、邪魔?」
「そんなわけないじゃん」
 思春期の男の子は扱いにくい。
「気を遣ってくれてるなら、悪いなと思って」
「そういうわけじゃねえの。俺は俺で、親のいない夜の自由を満喫したいの」
 満喫したいのならなおさら、遅い時間まで外でゆっくりしてこればいいようなものだ。菜穂はそれを親に言いつけるような子供じみた真似はしない。
「それにさあ」
「うん?」
 もごもごと、なんとなく照れくさそうに和希が言い淀んだ。
「やっぱ、寂しいじゃん? たった一人でメシ食うのってさ。俺、菜穂が家の中一人っきりでカップラーメン啜ってるような姿を想像するだけで嫌だもん。なんつーかさ、スーパーで、腰を曲げたじいさんが、カゴの中にぽつんと惣菜とカップ酒だけ入れてるのを見た時のやるせなさみたいのを感じるっつーかさ。これから、だーれもいないしーんとした部屋で、一人でテレビ見ながら、味もわかんねえ食事を、細々とするんだなあと思うと、ちょっと泣けてくるだろ?」
 そう言いながら、本当に悲しげな顔をする。スーパーの中で、実際にそういうお年寄りを見て、こっそり泣いていたのかもしれない。アホな弟である。
「可哀想に、菜穂なんて彼氏もいねえし」
「別にいなくてもいいんだけど、同情されるとなんだか悲しくなってくるからやめてくれる?」
「俺に告白してくる女の子たちを、半分分けてあげたい」
「要らないよ」
 小学生の時モヤシっ子だった和希は、現在は顔良し、スタイル良し、運動神経も良しで、女の子にモテモテなのだ。同じ高校に通っていると、「一学年下の伊藤君」 の噂は、同級生女子の間でもよく耳にする。
 クラスに一人はいるであろうという平凡な姓が幸いしてか、和希と菜穂が姉弟だと知っている人間はほとんどいないので、そういう時、菜穂はいつも 「へえー」 と聞き流すことにしていた。当たり前だが顔も似ていないし、タイプも全然違うので、一度も疑われたことはない。
 同級生たちはきっと、バレーボールを華麗にアタックして女の子からの黄色い声援を受ける伊藤和希と、いつも淡々としていて地味な茶道部なんかに在籍している伊藤菜穂が、こうしてひとつ屋根の下で同じテーブルを囲んで食事をしているとは、夢にも思わないだろう。
 菜穂のお弁当は、実はその和希が毎日作ってくれている、ということも。


 時間をかけて、大量の食事を二人で平らげた。
 満腹になっても、なんとなくその場を離れがたくてだらだらとお喋りしていたのだが、さすがに時間が遅くなってきたので、後片付けをすることにした。それが済むと、和希が 「お先ー」 と風呂に入りに行く。菜穂は中学生になってから、お風呂は家族のいちばん最後に入ると決めている。
 リビングでテレビを見ながら、そういや、アイスがあったんだったなあ……と菜穂は考えた。チョコクッキーと、ストロベリーのやつ。
 あれだけたらふく食べたのに、すっきりしたデザートはやっぱり別腹というものだ。食べたいけど、和希は二つとも好物だから、どっちを選ぶか判らないし、お風呂から出るのを待ってたほうがいいかな。それで一緒に食べよう、そうしよう。
 そう思って待っていたのだが、なかなか和希は出てこない。男のくせに長風呂で、そういうところだけは血の繋がりのない父とそっくりだ。家族でスーパー銭湯に行こうものなら、のぼせやすい母と、じっと湯に浸かっているのが退屈な菜穂は、ずっと長いこと、男連中が出てくるのを待たねばならない。
 そうしているうちに、うつらうつらしてきて、テレビの音が子守歌のように聞こえはじめてきた。昨夜、英語の課題で夜遅くまで起きていたのがマズかったか。普通にソファに座っていたのだが、かくん、と勢いよく首が垂れて、こりゃダメだ、と観念して横になった。
 和希が出てくるまで、ちょっとだけ……と思ったのだが、眠りに入るのはあっという間だったらしい。
「……なんだよ、寝ちゃったのか」
 という声がぼんやりと聞こえて、意識が薄っすらと、夢から現へと浮上した。
 和くん、お風呂から出たのか。
 てことは、あれから二十分以上寝ちゃったのか。
 そうは思ったものの、身体はすっかり睡眠状態にあるようで、瞼がちっとも開かない。眠りと覚醒の間の曖昧な場所を、ふわふわと彷徨っているみたいだった。
「アイス一緒に食おうと思ったのに」
 ぶつぶつと不満げな呟きが聞こえる。私だってそのつもりで待ってたんだけどさ、と思ったが、眠気が意地汚く菜穂の中に居座っていて、離れていかないのだから仕方ない。
「……陸揚げされたマグロみたい」
 それはどうやら、ソファに寝そべった自分の恰好のことを言われているらしい。失礼な。
 文句を言おうにも、目が開かないし、頭が働かない。うっかりすると、すぐにまた眠りに引き込まれて、現実と夢とが入り混じる。
「──……」
 和希が何かを言ったようだが、もうそれも聞き取れなかった。こちらに近寄ってきたのは判ったが、揺さぶって起こそうとするでもなく、じっと黙ったままだ。面倒だから、このまま眠らせようと思っているのかもしれない。
 あまりにも眠くて、菜穂ももう、くっついた瞼を引きはがす努力をするのを諦めた。もういいや、寝ちゃえ。夜中に起きてからお風呂に入って、ベッドで寝なおそう。
 再び意識を手放す、その直前。
 ──唇に、柔らかい感触が落ちた。



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