短編9

サボテンに水(2)




「まあ、菜穂ちゃん、こんなところで寝てると、風邪ひくわよ」
 母の声で、目が覚めた。
 んんー……と唸り声を出しながら目を開けると、外出着姿の心配そうな母と、呆れた顔をした父が、ソファで眠る菜穂を上から覗き込んでいた。
「おかえりー……」
 むにゃむにゃと寝惚けた口調で言いながら、未だ完全には開ききらない瞼を擦り、壁にかかっている時計を見る。時刻はもうすでに、午前零時を過ぎていた。
「眠いなら、自分のお部屋で寝たら? お風呂はもう入ったの?」
「ううん、まだ。……いいや、明日の朝、シャワー浴びる」
 返事をして、のっそりと身を起こしたら、自分の身体に大判のバスタオルが掛けられていることに気がついた。
「…………」
 それを手に取り、ぼんやりと眺める。
「和希はもう寝たのかしら」
「でも、外から見たら、部屋の電気は点いてたみたいだぞ」
 両親の会話を耳に入れつつ立ち上がり、菜穂はバスタオルを持って、リビングのドアに向かって歩き出した。
「もう。菜穂ちゃんを放って自分はさっさと部屋にこもるなんて、しょうのない子ねえ」
「はは、菜穂がいぎたなく寝こけてるから、起こすのが憚られたんだろ。大体、眠ってるからって、部屋に運んでいくことも出来ないだろうしさ」
 階段を上がっていくと、和希の部屋のドアの下の隙間から、細く明かりが漏れていた。
 起きているのなら、両親が帰ってきたことに気づかないわけがない。でも、部屋の中からは、ことりとも物音がしなかった。
 菜穂は手にしたバスタオルにちらりと視線をやり、そのドアの前で一瞬立ち止まったが、すぐに隣の自分の部屋のドアを開けた。
 パタンと閉めて、電気も点けずに洋服のままベッドに潜り込み、強く目を瞑った。


          ***


 朝、キッチンに行くと、母が父の朝食の食パンを焼いているところだった。
「おはよう菜穂ちゃん。ちょっと待っててね、すぐに菜穂ちゃんの分も用意するから」
「いいよいいよ、自分でやるから。お母さんはお父さんの面倒を見てやってよ」
 パタパタと忙しそうな母とは対照的に、ダイニングで悠然と新聞を読んでいる父は、ゆったりと母が淹れたコーヒーを飲んでいる。この父は、自分のトーストにバターを塗ることすらしないのである。昔は菜穂の実の母が、母亡き後は小学生の菜穂が、そして現在は新しい母が、何から何まで用意して、ハイどうぞ、と手渡して食べさせるわけだ。何か天変地異でも起きて、家族がバラバラになった時、まず真っ先に死ぬのは父であろう、と菜穂は冷静に踏んでいる。
 母はそういう父を、実に甲斐甲斐しく、嬉しそうに世話を焼いてやっているが、この愛情が十年も二十年も続く保証はない。いずれ父が母に捨てられた時、またこの役目が廻ってくるのは間違いなく自分だ。だから菜穂は、非常にしばしば、そんな父に対して注意喚起をするようにしている。
「お父さん、少しでいいから、自分のことは自分でやりなさいって、いつも言ってるでしょう。コーヒーのお替りくらい、自分で入れて。ていうか、パンくらい、自分で焼いて」
「お父さんがやると、焦げちゃうんだよ」
 そんなことは知っているが、それくらいは努力で克服しろと言っているのである。菜穂に睨まれて、父はハイハイと素直に自分でサーバーからコーヒーを注ごうとしたが、生憎それはカップの中には納まらず、カップからもソーサーからも溢れて、テーブルとその上にあった新聞を茶色に染めた。
「あっ、零れた! こ、これ、どうすればいいの?!」
「あらっ、待って、動かないで。ズボンに染みが……」
 母が布巾を持って、そんなことにも対応できない父の許に、大慌てですっ飛んでいく。
「…………」
 結局、父が何かをすると、母の仕事が余計に増えてしまうらしい。
 ふー……と深いため息をついて、菜穂は父のパンをトースターから取り出し、代わりに自分のパンを突っ込んでから、父のトーストにバターを塗ってやった。父のためではなく、自分の言葉のせいで母に手間をかけさせたから、そのお詫びだ。
 食卓には、トースト以外に、目玉焼きと、ハムと、彩り豊かなサラダと、黄金色に透き通ったコンソメスープが載っている。スープは昨夜、和希が鍋いっぱいに作って、朝食用にと取り分けておいたものだ。栄養たっぷりで、とても美味しい。
 父の前に、バターを塗ったトーストの皿を置く。母にテーブルを拭いてもらっている間、カップと他の皿を持って邪魔にならないよう立っている (ことしか出来ない) 父が、菜穂にからかうような目を向けた。
「けど、菜穂だって、あんまりお父さんのこと言えないぞ」
「なんで?」
 目玉焼きは母に作ってもらったが、スープを作ったのは和希で、サラダは前夜、菜穂が下ごしらえを済ませておいたものだ。コーヒーはコーヒーメーカーにお任せしているし、ハムは冷蔵庫から出して切るだけ。菜穂は父ほど母に面倒をかけさせてはいない。
「だって、毎日のお弁当は和くんに作ってもらってるじゃないか」
「…………」
 菜穂は口を噤んだ。
 テーブルの上には、ちゃんと菜穂の赤いお弁当箱が、あとは包むだけという状態で用意されてある。中を見れば、きっとそこには、色とりどりでバランスも良いお菜が、見た目も可愛らしく詰められていることだろう。
「……和くん、もう学校行ったよね」
「そうね。バレー部の朝練で」
 いつものことだ。高校に入ってからというもの、菜穂は朝、和希と顔を合わせることは滅多にない。しかしそれでも、菜穂の分のお弁当は、きっちりこうやって毎朝用意されている。
「なあに? 和希になにか用事でもあった?」
 母に問われて、ううん、と首を横に振る。
 パンの焼ける音が、チン、と明るく響いた。


          ***


 その日の昼休み、友人の乃梨子と向かい合って、和希の作ったお弁当を食べていたら、いきなり闖入者が現れた。
「伊藤さんのお弁当ってさあ、いつも美味しそうだよねー」
 と人懐っこく言って覗き込んできたのは、クラスメートの新田という男子だった。さして仲が良いわけでもなく、今まで特に関わりのあったわけでもないその彼が、空いている椅子をゴトゴトと引きずって持ってきてまで、唐突に輪の中に参加してきたものだから、乃梨子は目を丸くしている。
「そう?」
 菜穂はさして気にせず、表情も変えなかった。菜穂は感情の起伏が非常に少ないタチで、さらに言うなら、芸能人にも同じクラスの男子にも、かろうじて知っているのは名前くらい、というほど、ほとんど関心の湧かないほうだ。早い話、関心がないから、取り立てて反応もしないのだが、周りの人たちは、菜穂のこういうところを 「落ち着いてるね」 などと言う。
「自分で作ってんの?」
「……うーん……」
 と言葉を濁したのは、和希に、「毎日のお弁当を作っているのは弟」 ということは絶対に他言無用、と念押しされているからだ。和希は自分のお弁当さえ、友人たちには、作っているのは母と姉、とウソをついているらしい。
 味といい、見栄えといい、和希のお弁当は、十分人に自慢していいのではないかと思うレベルなのだが、高校生男子としては、それは恥になるのだそうだ。よく判らないのだが。
 ちなみに今日のお弁当は、葱入り卵焼き、アスパラの肉巻き、れんこんのきんぴら、ウインナーはタコではなくくるっと巻いた可愛いカタツムリの形で、彩りとしてパセリとプチトマトが添えてある。ご飯は真ん中に海苔を敷き詰めた豪華版だ。
「すごい手が込んでるよね。冷凍食品なんて入ってないし」
 菜穂が言葉を濁したのを謙遜と受け取ったのか、新田は感心したように言った。すっかり、菜穂がこのお弁当を作ったものだと決めつけているようだ。
「それは、かず」
「かず?」
「……弟が、冷凍食品を嫌がるんだよね」
 そのことは別に嘘ではない。和希は自分で食べる分には気にしないのだが、菜穂のお弁当が冷凍食品で埋まるのを嫌がる。「侘しすぎて、泣けてくる」 のだそうである。
「あー、弟がいるんだあー。なに、弟の弁当まで作ってあげてんの? そーかー、伊藤さんて、いかにも、お姉さん、って感じだもんね」
「……そうかな」
 菜穂の姉歴は、そんなに長くないはずなのだが。
「なんてゆーか、しっかりしてるもん。クラスの仕事だって、何でも手際よく、ぱっぱと片づけちゃうじゃん」
 それは、小さな頃から、「いかにして最小限の労働で、効率よく仕事を済ませるか」 という思考に慣れている、というだけに過ぎないのだが、そう言われるのも慣れているので、菜穂は聞き流すことにした。
「料理上手だし。高校生でさ、弁当を自分で作ってくる子なんて、あんまりいないでしょ」
「…………」
 なんだか、どんどん誤解が深まっている気がする。かといって、母が作ったものは何ひとつ入っていないから、作ったのは母だよと出まかせを言うのも後ろめたい。和希がお弁当を作れない時は、自分で作るというのも本当だ。
 結果として、曖昧な顔をして、「……そう?」 と答えるより他になかった。
「いいなあー、俺んち、母親が料理苦手でさあ、弁当なんて作ってくんないんだよね。たまに作ったとしても、くっそマズイしさあ」
「ふうん」
 菜穂も昔は慣れない食事作りに苦戦して、何度も失敗したし、味も悪かったが、父はいつでも美味しいと褒めて完食してくれた。家事能力はない父だが、そういうところがあるから、菜穂はなんとか家のことを切り盛りしていけたのだと思っている。それらの言葉が、食事を用意する人間のやる気にもなるし、励みにもなるということを、きっと新田は知らないのだろう。
 それに、美味しいねと誰かと顔を見合わせ笑いながら食べる食事は、たとえ実際の味がどうだろうと、なにより素晴らしいものだ。両親の揃った食卓が当たり前の新田は、そういうことも、知らないのかもしれない。
 ──そうか、だから。

 だから和希は、菜穂を一人にさせることを嫌がるのか、と納得した。

 和希も、独りぼっちの寂しい食事を知っているから。
 懸命に働く母を心配し、誰もいない部屋で、ぽつんと一人、テレビを見ながらひっそりと食べる味気なさを、経験として知っているから。
「…………」
 無言になって、箸で摘んだ卵焼きを口に入れる。ちゃんと鰹節でとった出汁の味が、じゅわっと口腔内に広がった。味は少し甘めなのだけど、一緒に混ぜられた葱がきりっと全体を引き締めている。
「あっ、いいなーいいなー、旨そうだなあー」
 うるさいな、もう。
「……ひとつ、食べる?」
 羨ましそうな新田が、隣でものすごく物欲しげな顔をするので、おちおち味わってもいられない。もったいなかったが、仕方なくもう一つあった卵焼きを箸で挟んで差し出すと、「えっ、いいの?!」 と新田が目を輝かせた。
「いただきまーす」
 箸の先の卵焼きを、手で取るのかと思ったら、新田はそのままぱくりと口に入れた。全然そんなつもりではなかったのに、結果的に、「あーん」 というアレになってしまっている。正面からそれを見ていた乃梨子が、固まったのが判った。
「ちょ、ちょっと、新田君、それはあんまり図々しすぎない?」
「えー、そう?」
 新田はけろりとしている。
「菜穂も、そこは 『ええー、何アンタ!』 って怒るとこよ!」
 そう言われて、菜穂もきょとんとした。
 図々しいとは確かに思うが、怒るようなことかな、と思ったのだ。箸の先はナフキンで拭えばいいことだし。
「うちの弟も、こういうことよくやるけど……」
 和希と一緒に料理を作る時、「菜穂、これ味見して」 とか、「ちょっとそっち食べさせて」 とか、そういうことはよくある。それって、そんなに変かな。
 と思ったのだが、その言葉は、あまりにも説明不足だったようだ。
「……お、弟と、こういうことするんだ……」
 乃梨子は明らかにドン引きしていた。一年生の時からのこの友人は、菜穂の弟が一学年下の伊藤和希であることを知っている数少ない人間の一人だが、二人に血の繋がりがないということまでは知らない。知っていたら、さらにドン引きされるかもしれないが。
「いやいや、あのね」
 菜穂は手を振って、友人の勘違いを訂正しようとした。「こういうこと」 といったって、現在、乃梨子の頭にある図のようなことはしていない。しかし、和希が料理好きだということは内緒なので、なんと言っていいか迷う。
「別に、いつもそんなことをしてるわけじゃなくてね」
「そりゃそうでしょ。いつもそうだったら怖いよ!」
「そうじゃなくて、えーと、もうちょっと自然な状況でね」
「自然にそんなことやってんの?!」
「違う違う、だからその」
「伊藤さんの作った卵焼き、すんごくうめえー!」
 菜穂の弁明を余所に、卵焼きをもぐもぐ食べていた新田は大はしゃぎだ。どうやら彼は、空気を読む、ということがあまり得意ではないらしい。
 乃梨子はそちらをじろっと見たが、とりあえず放っておくことにしたらしく、真面目な表情で菜穂に向かってぐっと身を乗り出した。
「菜穂の弟、ちょっとシスコン気味なんじゃないの?」
「そう……かな」
 呟くように言って、菜穂は首を傾げた。
「そうよ、フツー、高校生の弟っつったら、姉のことなんて無視するかバカにするだけのもんよ! シスコンよ! 甘やかしすぎたらダメよ、菜穂!」
「…………」
 シスコンか。
 そんな風には、考えたことがなかったのだが。

 ……シスコンという言葉で片づけてしまえば、問題はないのだろうか。

 お弁当を見ながら考えていると、「ねえねえ」 という、またしても賑やかな新田の声に邪魔をされた。それにしてもさっきからこの彼は、一体何がしたくてここにいるのだろう。よっぽどお腹が空いているのかな。
「伊藤さん、伊藤さん、あのさ」
「あ、うん、なに?」
 もうあげないよ? とそちらを向く。
「俺と、付き合わない?」
 にこにこしながら出された新田の唐突な言葉に、乃梨子がぼとっとフォークで刺していた唐揚げを落とした。


          ***


 数日後、久しぶりに、家族四人が揃って食卓を囲む夕飯になった。
 菜穂自身、和希と一緒に食事をするのが、あの夜以来のことだ。朝は菜穂が起きるよりも前に家を出るし、夜は遅くて、顔を合わせることもほとんどない。外で食事を済ませてくることも多い和希の姿があると、それだけでなんとなく、家の中の空気が変わるようだった。
 高校生男子だけあって、和希は誰よりも食欲が旺盛だ。両親がいる時の和希は、菜穂と二人だけでいる時よりも格段に口数が少なくなるのだが、ぱくぱくと白飯を口の中に入れていく様子がその無愛想さを相殺するようで、母は嬉しそうに目を細めて眺めている。
「菜穂、醤油とって」
「うん」
 和希の態度は、いつもと特に変わりなかった。菜穂もいつもと変わらない顔をし続けた。二人の間の、ほんのわずか漂う微妙な雰囲気になんて、まったく気づかない父は、のほほんと娘と息子を見比べた。
「和くんは、また背が伸びたな。顔もいいし、学校ではさぞモテるんだろうなあ」
 菜穂と母はけっこう仲良しだが、父と和希のほうは、未だに多少の遠慮がある。なので、普通の親子だったら、むっつり黙るか、「うるせえよ」 と言い放って席を立つであろうと思われる父のその言葉にも、和希は少し困ったように首を捻っただけだった。
「……どうかな」
「彼女を選ぶにも迷うくらいだろう。なあ、菜穂?」
 なぜ自分に振るのか、と菜穂も戸惑う。
「そうかもね」
「菜穂もそれくらいモテるといいのになあー。少し和くんに分けてもらったらどうだ?」
 そういうところだけ、同じことを言うのはどうしてなのだろう。
「女の子を分けてもらっても、しょうがないし」
「そうよ。菜穂ちゃんはいい子だから、そのうち、素敵な人が現れるわよ」
 母はフォローしようとしているようだが、内容はあやふやなこと極まりない。
「もうちょっと、ニッコリ笑ってみたらどうかな。お父さんは、お母さんの優しげな笑顔にグラッときた」
「もう、いやだ、子供の前で」
 きゃっきゃとイチャつく両親を前に、菜穂と和希は黙々とエビフライを食べることに専念する。
「彼氏が出来れば菜穂だって楽しいだろう。なあ、和くん」
「……どうかな」
 父に屈託なく同意を求められ、和希はさっきと同じ表情、同じ声で、同じことを言った。目線はテーブルの上の皿に向けられたままだ。
「一度も男の子に告白されたことがないなんて、ちょっと寂しいだろうに」
「あなた、もういい加減に」
 母はさすがに眉を寄せて、しつこい父を窘めにかかった。父は父で、久しぶりの家族団欒を盛り上げようとしているのかもしれないが、少々ハラハラしてきているのだろう。こういうところに、まだ少し、義理の関係のぎこちなさが残っているのかもしれない。
 菜穂は、ほうれん草のおひたしに伸ばした手を止め、考えた。
「──あるよ」
 ぼそりとした返事に、父と母が、ん? という顔をする。味噌汁の椀を口元に持っていこうとしていた和希の動きも、ぴたりと止まった。
「あるって?」
 父が首を傾げている。菜穂は出来るだけ淡々と言った。
「ついこの間、クラスの男の子に、付き合ってって、言われた」
 その途端、和希がジーンズに包まれた自分の腿に、熱々の味噌汁をぶちまけた。



 夕飯の後、自分の部屋で本を読んでいたら、閉じられたドアの外から、トン、トンという階段を上る音がした。
 足音は、階段を上りきってから、しばらく逡巡するかのように止んだ。
 それから、二階の廊下を歩く、ぺたんぺたんという音に変わる。足音の主は、裸足なのだろう。
 ぴた、とまた止まったのは、菜穂の部屋のドアの前だった。
 ──沈黙。
 本に目を向けてはいるものの、菜穂の意識は文字を上滑りしている。息を詰めるようにしてじっと耳を澄ませていると、トン、というドアを軽く撫でるような音がした。
「……菜穂、入ってもいい?」
 その声に、菜穂は詰めていた息をゆっくりと静かに吐き出して、ドアを開けるために立ち上がった。



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