短編2

ゆめや(1)




 貴之と祥子は、学生結婚だった。
 周囲の友人らの心配や反対を押し切り、結婚してから十年。現在、貴之は三十二歳、祥子は三十一歳になる。
 もっと若い頃は金銭的な苦労もたくさんしたが、今は貴之も、まあまあ名の通った企業の係長というポストにいるから、祥子が専業主婦になっても、マンションに住み、時々外食したり旅行に行ったりという生活レベルを維持することが可能なくらいにはなっていた。
 夫婦仲はそれなりに良い方だ──と、貴之は思っている。もちろん、昔のような熱烈さはないけれど、特に会話をしなくても、お互いが一緒にいるだけで安心感を覚える程度には。
 ただ、二人の間に、子供はいなかった。最初のうちは経済的な余裕がなくて作れなかったが、就職して安定し、そろそろかなと思っても、出来なかった。そのことを、祥子はかなり気にしているようで、病院に行くべきなのかどうかと、ここ数年、ずっと悩んでいる。
 貴之自身は、子供はいたらいいなとは思うものの、そこまで猛烈に欲しいと望んでいるわけでもないので、そんな祥子を毎回諌める役回りだった。俺たち結婚してからの年数は長いけど、まだ若いんだしさ、もうちょっと自然に任せてみようよ、と。
 祥子はそんな時、どこか寂しげな、そしてひどく申し訳なさそうな顔をする。原因は彼女にあると決まったわけではないのに、ごめんねとぽつりと呟く。貴之はなんとなく居た堪れなくて、そんな時はいつも気づかないフリをしていた。
 世間並みに喧嘩だってしたけれど、大抵はすぐに仲直りした。仲直りのきっかけをさりげなく差し出してくるのは、いつも祥子の方だった。そうやって、二人はずっと、上手くやってきたのだ。
 結婚して十年経った現在でも、貴之は祥子を大事だと思っていたし、愛しくも思っていた。好きだの愛してるだのといった言葉を口にすることはないが、そこにはちゃんと、愛情が静かに穏やかに流れていた、はずだった。

 ──それがどうして、こんなことになったのか、貴之本人にも、よく判らない。

 それは本当に、無責任な言い分だとは思う。積極的だったのは向こうでも、あからさまな誘いの態度があったのだとしても、迷いつつ困惑しつつ、結局最後の一線を越えることを決心したのは貴之なんだから。
 相手は取引先の営業助手で、まだ短大を出て二年くらいしか経っていないという、溌剌とした若い女の子だった。今時の化粧を施したぱっちりとした大きな目、艶々と輝く唇、薄くピンクの入った茶髪はいつも綺麗にセットされていて、それなりに目立つ容貌をしていた。
 そんな彼女がどうして貴之を気に入ったのかは判らない。貴之の方だって、本来の仕事相手だった中年男よりも、隣にいた若い女の子に目が行ったことは否定しないが、そこに男としての普通の興味以上のものはなかった。貴之は会社でも愛妻家として知られているし、付き合いで女の子のたくさんいる店に行くことがあっても、酒とお喋りとその場のノリを楽しむ以外のことをしたことがない。軽いようで案外真面目、というのが、いつも貴之に向けられる評価だった。
 けれどとにかく、彼女──由香は、貴之を気に入って、出会ってからすぐと言っていいくらい素早く、電話やメールで頻繁に猛攻を仕掛けてきた。
 それに押し切られる形になった、といったら、あまりにも卑怯だろう。貴之だって、やっぱり悪い気はしなかったのは事実なのだ。冷たくあしらうことも、きっぱりと断ることもせず、時には 「相談に乗って欲しい」 なんていうミエミエの口実に乗っかって、二人で飲みに行ったりもしたのだから、その意思ありと思われても、当然だった。
 そして結局──そうだ、結局、貴之は由香と関係を持って、そのままずるずると一年近くも続いていたりするわけだ。
 学生時代にけっこう遊んでいたという由香は、貴之との仲も割り切って考えていて、無茶な要求を出してきたり、不必要にこちらの生活に立ち入ってくることもなかった。というより、本人はもちろん言いはしないが、他に男がいるようでもあった。多分、彼女が貴之を選んだのは、「あとで面倒なことにならなさそうな男」 という理由が大きかったのだろう。
 でも、だからこそ、不倫が続いたのかもしれない。貴之の側にあったのも、恋や愛なんていう感情よりも、興味や欲望というものの方がよっぽど大きかったからである。心情が入らないセックスなんて、快楽が伴うだけの、ほとんどスポーツみたいなものだ。由香に男の影がちらついても、まったく嫉妬もせず、逆にホッとしたくらいだった。
 ──そうして由香との情事を終えて家に帰り、出迎える祥子の顔を見て、身勝手にも貴之は安心してしまう。その瞬間だけは、後ろめたさも追いやって、妻に対する愛情だけが湧き上がる。
 罪悪感は当然あったが、貴之にとって、愛しているのはやっぱり祥子だけだったのだ。愛のない浮気は、のめりこむこともなく、かといってやめることも出来ず、ふらふらと続けているだけのものだった。
 祥子と別れるつもりなんて毛頭ない。実を言えば、自分の行為を裏切りだと思う気持ちもあまりなかった。由香を抱いたその手で、祥子に触れる時でさえ。それくらい、貴之の中では、二人の女に対する気持ちはきっぱりと別のものだったのである。
 一生を共にする伴侶と、いっときの遊び相手と。
 ──でも、そんな男のエゴと優柔不断を、やっぱり天はいつまでも見逃してはくれなかったらしい。
 貴之に対する 「報い」 は、彼にとって最悪の形でやってきた。


 ある日突然、病院から会社の貴之にかかってきた電話は、祥子が車に撥ねられ、意識不明だと知らせるものだった。


          ***


「祥子……」
 変わり果てた妻の姿に、貴之は呆然と名を呼ぶしかなかった。
 貴之が会社から駆けつけた時には集中治療室にいた祥子は、今は設備の整った一般個室に移されている。けれどそれは、容態が安定したというよりは、これ以上続けるべき治療がない、という方が正確だったかもしれない。
 外傷としては全身打撲に腕の骨折。もちろん軽傷ではないが、しばらく入院すれば完治する程度のものだったそうだ。
 ……頭を強く打った、という以外は。
 そのために昏睡状態から醒めない祥子は、身体の至る所に真っ白い包帯を巻きつけて、鼻に管を入れられ、腕に点滴、頭には幾つかの電極が取り付けられるという痛々しさで、静かにベッドに横たわっている。
 このまま意識が戻らなければ、植物状態になる可能性もある。しかしあるいは急変すれば……と貴之に説明した医者は、そこで言葉を濁した。
 濁した先の内容を頭に思い浮かべた途端、貴之は目の前が真っ暗になった。

 ……祥子がいなくなる?

 そう思っただけで、足元の地面が崩れていくような心許なさを覚えた。立っていることも難しくなるほどだった。
 だってそんなこと、貴之は考えたこともなかったのだ。結婚して十年、付き合っていた期間を入れればもっと長く、祥子は貴之の隣で、いつも優しく微笑んでいた。苦労をしたとしてもそれを決して愚痴という形で表には出さず、いつだって辛抱強く柔軟に貴之を支えてくれていた。
 その祥子が貴之の目の前からいなくなるなんて、この世からも消えてしまうなんて、そんなこと認められなかった。耐えられない。我慢出来ない。そんなこと、許せない。
 くらくらとする頭で、ひたすらそんなことばかりを繰り返すしかなかった。
「──祥子」
 掠れるような声で呼びながら、貴之は白い布団の上に置かれた祥子の手を握った。
 その手はちゃんと温かかったけれど、決して貴之の手を握り返してはこない。
 それを包む自分の両手の方が、こんなにも震えているのに。
「祥子……祥子」
 貴之は何度も呼んだが、それに対する返事は返ってこなかった。
 今まで貴之を見てくれた瞳は閉じられて、瞼すらぴくりとも動かない。貴之の名を呼んで、笑ったり、時には怒ったりしていた唇は、血の気をなくして結ばれたまま。
 三十を越えても、年齢よりもずっと若く見られていた祥子の小柄さが、今はひどく弱々しく見える。こんなにも、彼女は脆く頼りない存在だっただろうか。
「祥子……」
 震えが止まらない手で、今度はそっと髪の毛に触れる。
 可哀想に、痛かったよな。車に撥ねられるなんて、きっと自分でもビックリしただろう。意識がなくなる寸前で、お前が思ったのはなんだった? 俺の名を呼んだ? 助けを求めた? ごめんな、俺はそれに対して、何もしてやれなかった。
「頼むから──」
 目を覚ましてくれ、と貴之は生まれてはじめて心の底から真剣に願った。



          ***


 ──気がついたら、あたりはただの暗闇だった。

 なんだ、ここ……? と貴之はぼんやりと思う。
 あれからも目を覚まさない祥子の傍にずっと付き添っていたのだが、この病院は完全看護制なので、と夜になって病院から追い出されたことは覚えている。何かあったらすぐに知らせます、と看護師は約束してくれたが、それでも一人きりの家に帰って、時間が過ぎていくのを見ているだけなのはどうにもやりきれなかった。
 ベッドには潜り込んだものの、だからって眠れるわけもなく、ただひたすら闇の中で暗い天井に目を据え続けていた。そのうち、空が薄っすらと白みかけたところまでは記憶にあるのだが、それから再びの暗闇である。
 結局あのまま寝てしまい、これは夢ということなのかな、と貴之は結論を出した。あまり自分は夢を見ない (見たとしても覚えていない) タイプの人間なのだが、夢というのはこうも何もなく、そのくせこんなにも明瞭な意識でいるものなのか。
「──そら、ここは普通の 『夢』 ではありませんからなあ」
 間延びした声がいきなり聞こえて、びくっとする。
 ぱっと後ろを振り返ったが、そこには誰もいなかった。
 ……いや、いた。
 すぐに判らなかったのは、その声の主が、貴之よりもずっと低い位置にいたからだ。背が低い、なんていうレベルではなく、全長が、貴之の腰よりも低いのである。
「…………」
 どう反応していいものか迷ってしまう。
 そのコビトは、ちっさいくせに黒いタキシードに蝶ネクタイ、おまけにシルクハットというふざけたいでたちで、しかも黒いサングラスまでかけていた。ただでさえ周囲は闇だから、どこからどこまでが輪郭なのかもはっきりしない。
 幼稚園児くらいの大きさなのに、顔立ちだけは普通の大人と変わりなく見える。
「……なんだ、お前」
 かろうじて質問をした。あんまり関わりたくはなかったが、なにしろとにかく、この場には貴之とこの変なコビトしかいないのだから、しょうがない。
「はい、よう聞いてくださいました」
 コビトは嬉しそうににっこりした。なんだかおかしな関西弁もどきみたいな言葉遣いも胡散臭い。どうして俺、こんな夢を見てるんだろう。

「私は、『ユメ屋』 」

 と、コビトは言った。
「ゆめや?」
 貴之が問い返すと、にこにこしながら頷いた。可愛い、とはとても思えない。
「そうです、ユメ屋。……こっちから」
 と言って、コビトはちんちくりんの右腕を上げ、闇のどこか一点を指差した。
「あっちへ」
 今度は、それと反対方向を指差す。
「──移動する方々に、『しあわせなユメ』 をお売りするのが仕事ですのや」
「…………」
 意味が判らない。
「しあわせなユメ?」
「そうです。ご本人の願いを聞いて、最後に会いたい人に、会わせて差し上げますんや。とはいえ、『あっち』 へ行かはる方全員にそういうユメを売るわけではないんですけどな。大体は、皆さんゆっくりする間もなく、さっさと行かれてしまいはるもんですから。ですからまあ、時間的に余裕のある方にだけですな」
「…………」
 説明を聞いても、やっぱり意味は判らないままだった。
「つまり、俺の見たい夢を見せてくれるってことか?」
 どうせこれは夢なのだから、深く考えることもないのだろうと思い、貴之は適当に合わせることにした。さっさとこの正体不明のコビトが目の前からいなくなって欲しい、と思ったこともある。
 しかしコビトは、違う違う、というように首を振り、ついでに両手も振った。
「あんさんやありません。私の今回のお客はんは、あんさんの奥さんですわ」
「え」
 その言葉には、ぎょっとせざるを得なかった。
「祥子?」
 今も病院で深い眠りに就いている妻の姿を思い出し、慌てて問い返す。たとえこれが単なる夢だとしても、今の貴之は、祥子に関することなら何にでも縋りつきたい気分だった。
「はい、祥子さんでしたな。私、ここに来る前に、祥子さんとお話してきたんですけども」
「話?」
 目を覚ましたのか? と身を乗り出しかけて、思い留まる。もともとこれは貴之の夢なのだ。現実とは無関係に決まっている。
 けれどそれでも、貴之はこのユメ屋の言葉を、今までよりもずっと真面目に聞かずにはいられなかった。祥子が目を覚まし、動いて、喋っているのをこいつは見たのか、と思うと歯軋りするくらい悔しくなってしまう。夢なのか何なのか、頭の中はすっかり混乱を生じはじめていた。
「なんて? 祥子は、なんて言ってた?」
 でももうこの際、夢でもいい。祥子が言ったという言葉の内容を、なんとしても聞きたい。
 ユメ屋はそこで、少し黙った。
 サングラスに隠れた目を貴之に向け、淡々と口を開く。
「私はいつものように自己紹介して、仕事の内容を説明しました。こういう時、多くの方は馬鹿にするか信じないかなんですけども、祥子さんというのは、素直なお人柄のようですな。へえー、変わった仕事があるのねえ、なんて、感心したように言うておられました」
「…………」
 ああ、祥子ならそう言いそうだ──と思っただけで、胸が詰まりそうになった。ちょっとトロくさいくらい、素直で、お人好し。信じやすいから、訪問販売なんかにもすぐ引っ掛かる。祥子はそういう女だ。
 ……俺の嘘にだって、いつもコロリと騙されて。
 心臓がきりきりと締め付けられて、痛いというよりは苦しい。どうして俺は、浮気なんてしたんだろう。あんな女、別に好きだったわけでもない。
 祥子さえいればよかったのに。
「それで、ご希望をお聞きしたんですけど」
「ご希望?」
 と訊ねてから、はっとした。
 ようやくここに至って、さっきからユメ屋の言っていた内容が、ストレートに頭に入ってきた。それと同時に、さあっと血液が逆流する。
 こいつ、なんて言った?
 「こっち」 から 「あっち」 へ、移動する人にユメを売る仕事?

 「最後に」 会いたい人に、会わせてやるって?

「おい──」
「ないと言われますんや」
 真顔になって問い詰めようとした貴之の言葉は、きっぱりとしたユメ屋の声によって宙に浮いてしまう。
「……ない?」
「そうです。祥子さんは」
 そこでひとつ間を置き、ユメ屋は真っ直ぐ貴之を見据えた。

「会いたい人は誰もいない、と、はっきり言わはりました」



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