短編9

サボテンに水(3)




 ノブに手をかけ、ドアを開けた。
 ゆっくりとそれが動いていく刹那、菜穂の頭に浮かんだのは、もう過去になってしまった幼い男の子の姿だった。
 和希はいつも、菜穂の部屋に入る時、まず、遠慮がちにドアと壁の間から顔を覗かせる。彼がこの家に母親と共にやって来てから、ずっとだ。
 ご飯が出来たよと呼びに来る時。何か借りたいものがある時。近所の男の子と喧嘩をした時。一緒に遊ぼうと誘おうとしている時。ちょっと話がしたい時。寂しい時。
 菜穂ちゃん、から、菜穂、へ呼び方が変わっても、身長がぐんぐん伸びて子供から大人へと変化をしはじめても、警戒するような表情がその顔から消え失せても、それだけは昔から変わらないままだった。
 ひょろりと細くて色も白かったモヤシみたいな男の子のことを思い出して、郷愁にも似た強烈な思いが込み上げる。

 ──あの頃のままでいられたら、よかったのに。

 けれどその気持ちは表情には出さずに、菜穂はいつも通り、部屋に入ってくる和希を迎えた。昔の小さな男の子は、そこにはいない。
 背の高い和希が一歩足を踏み入れるだけで、六畳の自室がいきなり狭くなったように感じられる。考えてみたら、この部屋に二人きりでいるなんて、彼が中学生になってからは久しくなかったことだ。
 菜穂はすぐにそこから離れて、自分のベッドにぽすんと腰かけた。和希は一瞬ためらうように部屋の中を見回して、結局、菜穂の勉強机の椅子に腰を下ろした。いつも菜穂の体重くらいしか受け入れることのない椅子は、突然大きな男に座られて、みしっという悲鳴のような音を立てた。
「和くんが座ると、壊れそうだね」
「そんなわけないだろ」
 むっとしたように言い返しておきながら、和希は少し心配そうに自分のお尻の下にある椅子に視線を落とした。なんとなく居心地が悪そうに、もぞもぞする。
「腿、大丈夫だった?」
「うん」
「火傷しなかった?」
「うん」
 熱い味噌汁を椀ごと落としたため、今の和希は夕飯の時に着ていたジーンズから、別のものに穿き替えている。汁がかかった瞬間、あっち! と叫んだくらいだから、ジーンズではなくてジャージだったら、本当に火傷していたかもしれない。
 母は、「まあまあ、あんたまで」 と驚きながら、大慌てで布巾やら濡れタオルやらを取りに行くためバタバタと走り回っていた。先日の朝食時の父といい、今回といい、原因は自分にあるのかもしれないと思うと、菜穂は母に対して申し訳ないような気分になった。
「……父さんがさ」
 さっきからずっと目を椅子に向けたままの和希が、ぼそりと言った。
「うん?」
「ちょっと、落ち込んでた」
「なんで?」
 せっかく久しぶりの家族団欒だったのに、和希が味噌汁をこぼした騒ぎで、結局うやむやになって終わってしまったからだろうか。四人揃っての食事が、そんなに嬉しかったのかな。
 と思ったが、違った。
「……菜穂が、男にコクられたって、聞いて」
 まるで、椅子が自分の敵ででもあるかのように、和希はそこに視線を釘付けにし続けている。両方の眉が、依怙地な雰囲気を湛えて吊り上がっていた。
「なんでお父さんが落ち込むのかな」
「寂しいんじゃねえの」
「あれだけ、ちっとも男に相手されなくて可哀想、みたいなことを言っておいて?」
「いざ本当にそういうことになったらショックなんだろ」
「子供だなあ」
 菜穂は呆れたように笑ったが、和希は口を一文字に結んで、くすりともしない。
 笑いを収めると、途端に静寂が室内に満ちた。
 和希はずっと微動だにせず同じ姿勢を続けて黙っているし、菜穂は菜穂で、話の接ぎ穂が見つからない。ぴんと張りつめる緊張感に耐え切れず、手元の白いシーツをつまんだり引っ張ったりした。

「──どんなやつ?」

 しばらくの沈黙の後、和希が唐突に訊ねた。
 相変わらず目線は下に向けたまま、声だけが異様に低い。一本調子の言い方だったが、それでも隠し切れない怒気を孕んでいるように、聞こえた。
 菜穂はそれには気づかないフリをして、なるべく軽い口調で返事をした。
「同じクラスの子だよ」
「なんて名前?」
「言っても、和くんは知らないよ、きっと」
「…………」
 菜穂の答えに、和希の眉がさらに上がった。
 実際、一年の頃から友人だった乃梨子のことくらいは知っていても、和希はそれ以外のクラスメートのことは知らないだろう。同じ高校に通う姉弟とはいえ、学年も違えば教室も離れているのだから、当たり前だ。
 菜穂だって、和希の親友の男の子くらいは知っていても、それ以外はまったく把握していない。
 夜、彼のスマホにかけてくる相手が誰かということも。学校の廊下でたまたま見かけた時に一緒にいた女の子が誰かということも。和希に告白してくる女の子たちの顔も名前も。
 菜穂はそれらを全然知らない。知らない、ようにしている。
「……名前くらい、教えてくれたっていいだろ」
 こもったような声で食い下がる和希には、退くつもりはないらしい。頑固なところもある性格だから、菜穂が教えなければクラスにまでやって来そうだ。
 小さくため息をついた。
「新田君、っていう子だよ」
 新田、と和希が口の中で復唱している。
「もとから、仲が良かったわけ?」
「そうでもない」
「いきなり、付き合ってって言われたの?」
「そうだね」
 あれを 「いきなり」 と言わずして、なんと言おう。
「なんで?」
 和希のそれは、質問というよりは、苦情のようだった。疑問形にはなっているが、声にあるのは、疑問よりも腹立ちのほうがよほど大きいように聞こえる。
 誰に対しての怒りなのだろう。菜穂か。新田か。それともまったく別の何かか。

 なんで? ねえなんでそんなことが起こるわけ?

「さあ……よく判らないんだけど」
「よく判らないやつと付き合うのか」
 菜穂が曖昧に首を傾げると、和希がようやくぱっと顔を上げた。こちらを睨む目は、まるで菜穂を非難しているかのようだ。
「付き合わない? って言われたけど、まだ、返事はしてない」
「すぐには断らなかったのか。迷ってる、ってこと?」
「あっちも別に、急いでないみたいだったし」
 あんな状況で交際を申し込まれて、すぐに了承するほど菜穂は場慣れしていない。「それは今返事をしなきゃダメかな?」 と聞いたら、「あ、いいよいいよー、そのうちで」 と返された。こうして思い返すと、本当に軽いやり取りである。
「そいつ、菜穂のどういうところが好きなんだよ。ちゃんと、そこは聞いたのか?」
「うん、一応」
 実を言えば、それを聞いたのは菜穂ではなく、乃梨子なのだが。正確には、新田のどこまでも軽々しい態度に怒って、真意を問い詰めたのだ。

 ちょっとあんた、どういうつもりでそんなこと言ってんの? その場のノリとかフザけたこと抜かしたらマジ承知しないからね。菜穂と付き合いたいって言うんなら、それ相応の理由があるんでしょ、言ってみなさいよ。

 と、真顔で凄む乃梨子は、友人ながら頼もしかった。かっこいい、と思いながらアスパラの肉巻きをもぐもぐ食べていた菜穂も、一緒に怒られたくらいである。
「えーとね」
 乃梨子のその追及に、にこにこして返された、新田の言葉を思い出してみる。
「 『いつも落ち着いていて、大人びてるし』 」
「菜穂の場合、それ、普通にぼーっとしてるだけじゃないか」
「 『茶道なんて、女らしい部に入ってるし』 」
「茶道部なら座って茶を飲むだけでよくて、しかも菓子も食べられるから、っていう理由だったよな?」
「 『毎日美味しい弁当を自分で作ってきたりして、すげえ家庭的だし』 」
「俺が作った弁当だろ」
「 『そういうところが気に入ったんだよねー』、だって」
「どれもこれも、実際とはかけ離れてるじゃん!」
 いちいち入る和希のツッコミはまことにごもっともなので、菜穂はうんと頷くしかない。でも、本当にそう言われたのだから、仕方ないではないか。
「なんだよそれ」
 椅子に座ったまま、和希が身を乗り出すようにして、腹立たしそうに文句を言った。ぎしぎしと椅子が不吉な音を立てている。そろそろ限界を訴えているのかもしれない。
「なんだよ、そいつ。つまり全然、菜穂のこと判ってないってことだろ? 菜穂の上っ面だけ見て、付き合って、なんて言ってるのか」
「まあ、そうだね」
 それは菜穂も思ったことなので、素直に同意した。和希が苛立ちを露わにして、貧乏ゆすりをするように、とんとんと床で足踏みする。
「なんでそんな平然としてんだよ。怒るところだろ、ここは」
 和希の台詞は、期せずして、乃梨子のものと被っている。
「そうかな」
 そう言うと、和希の足の動きが止まった。菜穂が真面目な顔をしていることに、気がついたのだろう。
「……そうかな、って?」
 菜穂はその顔を見返して、ゆっくり口を開いた。

「──それは、怒るようなことかな。人は誰だって、自分の目で見えるものしか見ない。他人を判断する基準は、あくまで自分の中にある考えや価値観で、それは人によってひとつずつ違う。たとえば、Aという人がいたとして、その人がどういう人かという印象や見方は、案外、みんな違うかもしれないよね? Bさんの思うAさんと、Cさんの思うAさんとでは、まったく別の人になっていることもある。BさんにとってAさんはいい人でも、CさんにとってのAさんはイヤな相手だったりする。それは、普通のことじゃない? 重要なのは、自分が作った人物像で、実際はどうであるかなんて、あんまり問題じゃないんじゃないかな」

「…………」
 和希は困惑しているらしい。
「……何を言ってるのか、よく……」
「和くんは女の子にモテるけど、和くんのことを好きって言うその子たちは、一体どれだけ自分のことを知ってるのかな、って思ったことはない? 手が長くて足が長くて顔も良くて、バレーボールを打っている姿がカッコいいから好き、っていうのは、和くんのことを本当に知ってるって言えると思う?」
「…………」
「それが悪いわけじゃなくて」
 菜穂は、ふい、と目を逸らした。自分の手がいつの間にかシーツを強く掴んでいることに気づき、意識的に力を抜いてそこから離す。
「そういうもんでしょう、ってこと。新田君だけじゃなくて、みんなそうなんだよ」
「……菜穂は、それでいいのか」
 和希の声に険が混じる。彼の視線は、下には向かずにまっすぐこちらに向かってきていた。
 痛いほどの強さで。
「ホントの菜穂がどういう人間なのかも知らない、知ろうともしないやつと、付き合うつもりなのか。そういうもんだから? みんな、そうだから? 菜穂は、それでいいのかよ」
「ホントの私って、なに?」
 思いがけず、菜穂の口からも強い声が出た。ほとんど聞いたことがないであろうきつい口調に、和希が驚いたように目を見開いて口を噤む。
「本当の私って? どんな人? どこにいるの? 和くんは知ってるっていうの?」
「……そりゃ、だって」
「弟だから? 同じ家に暮らしてるから? 同じご飯を食べてるから? それだけで、私の本当が判るの?」
「…………」
 和希の顔から怒りが消えた。代わりに現れたのは、動揺と戸惑いだ。口元が歪んでいる。子供の時、泣きべそを我慢すると、よくこういう顔をした。
「けど、菜穂」
「判るわけないよ」
 一言の許に切り捨てる。目線は和希から少しずれて、机の横の壁にかかった銀色のフォトフレームに据えつけた。中に入っている可愛いポストカードは、昔、家族旅行に行った先で、和希が少ないお小遣いから買ってくれたものだ。
 ありがとう、と言うと、あの時、和希は嬉しそうに笑った。

 ──ああ、あの頃のままでいられたら。

「家族だからって、私の何もかもが、判るわけない。和くんは、和くんが見たいように、私を見てるだけ。それを、『ホントの私』 だと思ってるだけ」
「…………」
 和希の表情が強張っている。
 何も言わず、彼はゆっくりとした動作で、軋むような音を立てて椅子から立ち上がった。そのまま、ぎこちない動きで歩を進め、ベッドに腰掛ける菜穂のすぐ前へとやって来る。
「──菜穂」
 和希が名を呼ぶ。いつものように。いつもと同じ呼び方で。
 でも。
 声が違う。顔つきが違う。そこに入っている感情が違う。
 菜穂は口をきつく結び、和希とは目を合わせないようにした。
「……菜穂、お前」
 顔色が悪い。きっと、菜穂もだ。気づかれたくない。悟られたくない。どんなに今の自分が、和希という存在に緊張して身体を固くしているかなんて。

「お前、あの時、起きてたのか」

 ぽつりと零された呟きに、菜穂は何も返さなかった。なんのこと? と聞き返したほうがいいのだろうか。それとも、無様に揺れそうな声を、出したりしないほうがいいのだろうか。
「だから、俺から逃げようとしてるのか?」
「…………」
 和希の声は、明らかに傷ついていた。こんな声は聞きたくない。今、和希がどういう顔をしているのかだって見たくない。
 知らない。覚えてない。あれは夢の中の出来事だ。菜穂がそう言ったら、和希はもっと傷つくのだろうか。
 それを思うと、余計に何も言えなかった。
「菜穂──」
 自分のすぐ前に、和希の背の高い身体がある。部屋の照明を遮って、菜穂の身体はすっぽりとその大きな影に覆われてしまっている。堪らずに、顔を伏せた。足が小刻みに震えているのを、どうしても知られたくない。
 伸ばされた手が、菜穂の頬に触れた。
「!」
 びくっと大きく身じろぎする。
 手は一瞬止まって、すぐに引っ込められた。
「…………」
 長いこと──少なくとも、菜穂はそのように感じられた沈黙の時間を経て、和希は無言でするりと踵を返した。部屋のドアを開け、廊下に出る。
 カチン、と音がして、また閉まった。
 菜穂は顔を上げないままだったので、和希がその時どういう顔をしていたのかは、判らない。


 翌日、菜穂は新田に、交際を了承する返事をした。



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