短編9

サボテンに水(5)




 朝起きて、一階に下りていくと、洗面所から出てきた和希と鉢合わせた。
 顔を洗ったのか、前髪から水滴をぽたぽたと滴らせた和希が、階段を下りてきた菜穂を見て、ぴたっと足を止める。最近お馴染みになった固い表情をしていたが、菜穂と目を合わせると、一瞬、きゅっと眉を寄せた。
「朝練は?」
 するりと菜穂の口から言葉が出た。
 なんでもない声を出せたことに、自分自身がいちばんほっとする。和希は少し驚いたような顔をしたが、すぐに視線を外し、ぶっきらぼうな声を出した。
「今日から休み」
「あ、そうか。もうすぐテストだもんね」
 試験の一週間前から、すべての部活は休みに入る。菜穂が所属している茶道部は、週に二日か三日くらいしかないので、いつもそういうことに気づくのが遅れてしまうのだ。
 そこで会話を終わらせて、菜穂は自分も顔を洗うために、突っ立っている和希の横をすり抜けるようにして洗面所へ向かった。
 ドアのノブに手をかけたところで、後ろから 「菜穂」 と名前を呼ばれて、動きを止める。
 のろのろした動作で振り向くと、和希が同じ場所、同じ姿勢でまっすぐ立ったまま、こちらに強い眼差しを向けていた。
「顔色が悪い」
 一言だけのその言葉に、唇をゆるやかに上げた。
「……大丈夫だよ」
 そう言って、洗面所に入り、パタンとドアを閉めた。


 昼休みには、乃梨子にも眉を寄せられた。
 言いたいことはいろいろとあるのだろうが、彼女が口にしたのは、まず、菜穂のお弁当についてだ。
「なんか、最近、パッとしないわね」
「そうかな」
 とは返したものの、菜穂にもそれくらいの自覚はある。和希が作らなくなってからは自分が作っているわけだが、入っているのは普通の卵焼きとウインナーとあとは冷凍食品だ。パセリとミニトマトで誤魔化しているとはいえ、漂う手抜き感は否めない。
 料理には慣れているが、食べるのが自分だけだと思うと、菜穂は途端にやる気が失せてしまうタイプなのである。美味しいと思うのも不味いと思うのも自分一人なのだから、どうだっていいやと思ってしまう。子供の頃、父が食べない時のご飯は適当にインスタント食品やお菓子で済ませてしまっていたので、その癖が抜けないのかもしれない。
 それに、あんまり食欲もないし。
「量も少なめじゃない? ひょっとして菜穂、このところ体調悪い? 朝と夜はちゃんと食べてるんでしょうね?」
 少し笑った。実を言うと、今朝、母に同じことを聞かれたばかりなのだ。
「大丈夫、食べてるよ」
 菜穂は、母に対して言ったのと同じ返事をした。母は心配そうな表情をしたが、乃梨子は疑わしそうな目を向けてきた。
「新田とのことがストレスになってんじゃないの? あんなザツで無神経な男は、菜穂には合わないのよ。何か腹の立つことがあって遠回しに伝えても、絶対通じないでしょ、バカだから。なんだったら、あたしがズバッと言ってあげるけど?」
 乃梨子は新田にとことん厳しい。意外と、乃梨子みたいな女の子こそ、新田と合うのかもしれないなと菜穂は思う。ズケズケ言われても、新田なら、やだなーもうきついんだからー、などと笑い飛ばせてしまいそうだ。
「新田君は、いい人だよ」
 菜穂はそう言って、箸で摘んだ白いご飯の固まりを口の中に入れた。
 新田は何も悪くない。
 悪いのは、菜穂のほうだ。


          ***


「いやー、やっとテストが終わったねえ、菜穂ちゃん」
 晴れ晴れとした顔で新田に笑いかけられ、菜穂は、そうだね、と笑い返した。
 試験日程の最終日、学校は午前中だけで、昼には帰宅することになる。メシ食っていかない? と誘われて、一緒に教室を出た。
「どこ行こーか。やっぱファミレスかなあ」
「でも、この時間だと混むかもしれないね」
 と話していると、廊下でぼそぼそと立ち話をしている男子二人組の声が耳に入ってきた。

「……達が、体育倉庫の裏でシメてやるっつって」
「うっわ、古典的。教師にバレたらまずいだろ」
「だよなー。なんか、もともと気に入らなかったのに、よりにもよって最近あの一年に接近してるのが自分の元カノだって聞いて、キレちゃったらしいんだよ」
「あー、プライドが粉砕された感じ? 別れたっつっても、あいつ、元カノに未練タラタラだったもんなー」
「そうそう。そんでさ、もうバレーなんか出来なくしてやるって」

 菜穂の顔から血の気が引いた。
 隣の新田にも聞こえたのだろう。ありゃー、という感嘆するような声を上げ、少し気の毒そうな顔で首を傾けた。
「あー、とうとうボコられちゃうんだね、あの一年生。かわいそーだね、ただモテるからって憎まれちゃって……って、えっ、菜穂ちゃん?!」
 驚く新田のことは振り返りもせず、菜穂は体育倉庫目指して勢いよく駆けだした。


 マットやハードルなどの雑多な道具がしまわれた体育倉庫は、体育館のすぐ脇にある。
 部活は今日まですべてが休みだ。体育館はしんと静まり返り、人っ子一人いない。校庭を横切って帰宅する生徒たちはいるが、試験を終わらせて浮かれているのか、誰もそちらのほうには目もくれない。楽しげなざわめきだけが、風に乗って流れてくる。
 はあはあと息を切らせながら走ってきた菜穂が、歩調を緩めて建物へと近寄っていくと、恫喝する低い声が裏のほうから聞こえてきた。
 生意気なんだよ、とか、いい気になってんじゃねえぞ、とかの、お決まりの文句と共に、建物の壁を蹴るような音もする。和希の声は聞こえてこなかった。
 気配を殺しながらぴたりと壁に張り付いて、そろそろと覗き込んでみると、まず三人の大柄な男子生徒たちの背中が目に入った。
 倉庫の裏は狭い。邪魔にならないようにと、かなり塀に寄せて建てられているからだ。じめじめとして薄暗く、雑草が茂ったその場所で、三人に取り囲まれた和希は、ただ黙って理不尽な暴力に耐えていた。
 殴られたのか蹴られたのか、腹部を手で押さえて、少し前かがみになっている。その顔に怯えや恐怖はないが、警戒心に満ちた鋭い眼が、逃げ道を探して彷徨っていた。
「なに立ってんだよ、そのひょろひょろ伸びた背丈で見下ろされるとムカつくんだよ。ここに手をついて土下座しろよ」
「……そんな理由がない」
 男子生徒の要求に、和希はきっぱりとした口調で言った。
 負けん気の強い、不条理に決して屈さない性格は、和希の生来のものだ。母親に連れられて、菜穂と父にはじめて対面した時も、今とは比べ物にならないひ弱な体格だったにも関わらず、彼はこんな尖った目で、自分たちと対峙していた。きっと、小さな身体で、暴れる父親から母親を守る時も、こういう顔をしていたことだろう。
 しかしその性質は、今はただ、相手を激高させる原因にしかならなかったらしい。三人のうちの一人が、「座れっつってんだろ!」 と怒鳴るのと同時に、ガッと音を立てて、和希の右足を蹴りつける。
「つっ……」
 和希が顔を顰めて、呻くような声を出した。咄嗟に庇おうとした右足を、男子生徒は容赦せずに二度、三度と続けて蹴った。後遺症のある右足。目立たないとはいえ、和希の歩き方が他の人と少し違っていることを知っている生徒は多い。それを知っているからこそ、わざとその場所に狙いをつけているのだろう。
 菜穂の目の前が真っ赤になった。
 すぐに身を翻し、体育倉庫の正面扉から中に飛び込んで、茶色の袋を引っ掴む。勢いだけで持ち上げて、再び裏へと廻った。
「和希に、何すんのっ!」
 両足を踏ん張って大声で怒鳴ると、三人の男子生徒がぎょっとした顔でこちらを振り向いた。袋を手に仁王立ちになった菜穂の姿を見て、和希も目を見開き、何かを言いかけたようだったが、その口が開ききる前に、菜穂は思いきり袋を投げつけて、中身をぶちまけた。

「うわっ!」
「なんだ?!」
「ゲホッ……なんだよ、これ!」
「ちょ……菜穂、これ、石灰……」

 運動場のライン引きに使われる石灰の粉を盛大にまき散らされ、真っ白になったのは、三人ばかりではなく、和希もだ。しばらく四人で咳き込み、もうもうと空中に湧き上がる白煙を、バタバタと手で払う。目も開けられない彼らの中へと突進して、菜穂は素早く和希の手を掴んで引っ張り、その場からダッシュして逃げ出した。


          ***


「大丈夫? 和くん」
「大丈夫じゃねえ」
 倉庫から離れた校舎裏まで辿り着き、やっと走るのをやめて振り返ると、和希はひどく憮然とした表情をしていた。ゲホッ、と咳き込みながら、真っ白になった制服から粉を払う。
 みんなもう帰ったのだろう。校舎のほうからは、人の声もしなければ、気配もない。
 菜穂がまだぜいぜいと肩で息をしているのに、同じ距離を引きずられるようにして走った和希は、もうすでに普通の呼吸に戻っている。なるほど、基礎体力の差か、と思いつつ、ばくんばくんと激しいリズムを刻む心臓の上に手を置いた。
「あー、疲れた」
「体力がないのに無茶するからだ」
「雪が降ったみたいだね、和くん」
「何を呑気なことを……」
 苦々しい顔つきで言いながら、じろりと睨む。
「ああいう時は、普通に先生を呼んでくるとかすればいいんだよ。菜穂は普段ぼーっとしてるのに、なんで突然あんな行動に出るんだ。お前を見た時、俺は心臓が止まるかと思った」
「つい」
「つい、じゃねえ。下手をしたら、菜穂までとばっちりを食ってたかもしれないんだぞ。何かのはずみでお前がケガでもしたら、自分が痛めつけられるよりも、よっぽどきつい。頼むから、もう二度とあんなことはしないでくれ」
 和希の声には、本気の怒りと心配が滲んでいる。菜穂はそれには答えずに、和希の頭に目をやった。そこにはまだ、払いきれない石灰の白い粉が、菓子にまぶされた砂糖のように乗っていた。
 ドタバタにまぎれて、これまでのぎくしゃくした距離が一旦吹っ飛んでしまっていたからか、菜穂はほとんど何も考えず、そこに手を伸ばそうとした。あの夜よりも前はよくやっていたようなことだったから、意識がその頃に戻ってしまっていたのだろう。
「和くん、まだ──」
 頭についてるよ、と言おうとした言葉は、和希にその腕を掴まれて途切れた。
 そのまま抱きしめられて、思考も停止した。


「……菜穂」
 掠れた声で名を呼ばれ、髪に頬を押しつけられた。背中に廻った腕は力強く、びくとも動かない。
「菜穂、好きだ」
 息をするのも忘れてしまいそうだ。
「俺じゃダメなのか? 俺はあの家に入ってから、一度も菜穂を姉だなんて思ったことがない。いつもいつも気持ちと煩悩を抑えつけるので精一杯だった。菜穂に喜んでもらえるように料理をはじめて、菜穂に弟として見られないように身長を伸ばす努力をした。部活に励んでたのだって、毎日同じ屋根の下に好きな女がいるっていう拷問的な状況に耐えられなかったからだ。今の俺があるのは、ほとんど菜穂のためだって言っても過言じゃない。……他の男に取られるなんて、頭がおかしくなりそうだ」
 背中にあった手が離れ、今度は両肩に移動した。背の高い身体を折り曲げるようにして、和希の真面目な顔が、菜穂を正面から覗き込む。
「──あいつが好きなのか、菜穂」
「…………」
 菜穂は唇を引き結び、視線を地面へと落とす。
 新田のことは、嫌いではない。それは本当だ。
 ──でも、「嫌いじゃない」 というのと 「好き」 というのとは、天と地ほどに違いがある、というのも、本当だ。
 話していても、一緒にいても、ともすると意識が上滑りしそうになる。笑っても気持ちがついていかない。距離が空くとほっとする。新田はあまり言葉に気を遣ったりするほうではなくて、空気どころか人の気持ちを読むことも得意ではないようだったが、そのことに傷つくことさえなかった。今まで菜穂の横をただ通り過ぎていく人々と同様に。
 好きになれたらいい、と思ったけれど。
 彼の存在は、菜穂の何も動かさない。菜穂の心を激しく揺さぶるのも、深く傷つけるのも、胸の中を占めているのも、いつもたった一人だけだった。
「菜穂、俺は確かに、菜穂のことを何もかも知ってるわけじゃない。同じ家で暮らしてるからって、菜穂が何を考えてるのか、全然判らないこともある。特に、今回のことで、それを思い知った」
 こんなに近くにいるのに。
 気持ちが読めない。何を考えているのかさっぱり判らない。何が判らないのかということさえ、判らない。菜穂のことは自分がいちばん理解していると思い込んでいただけに、本当にショックだった──と和希は言った。
「けどさ」
 瞳に、真剣な光が宿る。
「けど、俺は菜穂と一緒にいると、いつも、胸の奥で忘れていた何かを思い出すような気持ちになって、安心する。他の誰でも、そんな気持ちにはなれない。菜穂だけなんだ」
 表面的には忘れてしまっているもの。頭の隅に追いやられ、引き出しの中にひっそりと眠っているもの。もうすでに自分の中の一部になってしまっていて、普段は気にかけもしないけれど、でも、確実に現在の自分の芯となっているもの。

 それはたとえば、嵐の晩、稲光と雷鳴が轟く夜に、ベッドの中で丸くなって恐怖と戦っていた日のことであったり。
 一人っきりで食事をしながら、親の帰りをただひたすら待っていた記憶であったり。
 帰って来なかったらどうしよう、今度こそ自分は一人になってしまうかもしれない、という不安。困ったことや悲しいことがあっても自分の中にしまい込むしかない孤独。小さな身体で、小さな手で、今あるものを逃がさないように、壊さないようにと祈るような気持ちでいたあの頃の必死さ、懸命さ。寂しさ。
 どれだけの言葉を費やしても、判らない相手には判らないそれらのことが、口に出さなくても判り合える。ふとした仕草、小さな気遣い、無言の行動で、相手が判っていることが判る。
 共鳴する。分かち合える。そのことに、安心する。
 ……泣きたくなる。

「菜穂も、ずっと、気を張ってきたんだろ。みんなから、しっかりしてる、なんて言われて放っておかれてさ。頼ることも、甘えることも出来ないで。不安も苦しいこともいっぱいあったんだろうに、それを吐き出すことも出来ずに、一人で頑張るしかなかったんだろ」
 この子は一人ででも大丈夫だからと。
 そんなわけないのに。
「新しい母親が出来た時、本当は、菜穂は力が抜けるはずだったんだ。ようやくすべてを投げ出して、子供に戻って甘えることが出来るはずだった。……なのに、新しい母親はいかにも弱くて頼りない。そのコブはピリピリして可愛げない」
 ちょっと自嘲するように笑った。
「菜穂は落胆してもよかった。怒ってもよかったんだ。なのに、そうしなかった。自分だって子供のくせに、『守ってあげるね』 って言った」
 実際、俺のピンチにはいつだって、さっきみたいに助けに来たし……とため息をつく。
「俺は母さんにそのことを聞いた時、本当に泣いたよ。涙が止まらなかった。嬉しくて──可哀想で。そんなことを言う菜穂こそ、誰よりも、誰かに守ってもらわなきゃいけなかったのに」
 和希の手が、優しい動きで菜穂の髪の毛を梳く。すぐ近くまで、顔が寄せられた。
「そういう菜穂が、俺は、ずっと好きだった。俺のほうが菜穂を守れるようになりたいって、ずっと思ってた」
「…………」
「俺じゃダメか、菜穂」
「…………」
 菜穂は下を向いたまま、何も言わない。身動きもしない。
 和希にもう一度、「菜穂」、と静かに呼びかけられて、ぴくりと肩を揺らした。
 しばらくの沈黙の後で、ぽつりと呟く。
「──サボテン、みたいだなって、思ったんだよ」
「え?」
 唐突な言葉に、和希が問い返す。上を向けば、さぞかし怪訝そうな顔が目に入るのだろうと思ったけれど、そのまま口だけを動かした。
「全身に針を立てて、誰も近づかせないようにしているみたいだった。触れてくる相手は誰彼かまわず刺してやる、っていう感じで、でも、誰よりもその子のほうが、触れられたら痛いんじゃないかって顔をしてた」
 昔見た、男の子の姿を思い出す。ひょろりと細い身体に、不安と怯えと決意をいっぱいに抱え込んでいた。
「……すぐに判ったよ。その棘は、誰かを傷つけるためのものじゃない。ただひたすら、母親を守るためのものなんだな、って。優しい子なんだな、って思ったよ」

 優しい優しい、小さなサボテン。

「だから、守ってあげたかった。誰よりも幸せになって欲しかった。今までつらいことがあった分、たくさん痛い思いをした分、怖くて寂しい思いをした分、幸福になれるように」
 そればかり、考えていた。
 ──その 「幸福」 は、日の当たる場所、誰にも恥じることのない明るい場所で、すべての人に祝福される、夢のように美しいものであることだけを、願っていた。
「……私じゃダメだよ。お父さんも、お母さんも、傷つくし、悲しむよ。和くんも、他の人たちにいろいろ言われる。そんなの、イヤだよ」
 涙がぽとぽと零れた。
 禁断の恋、なんて言葉だけは甘やかでも、現実はそんなに甘くはない。血の繋がりがないとはいえ、戸籍上ではれっきとした姉と弟だ。両親も決して賛成はしないに決まっているし、周囲からも好奇の目で見られる。人は誰も、自分の目で見えるものしか見ない。菜穂はそれを、身をもって知っている。待っているのはきっと、明るい未来などではない。
 和希が幸せになれなければ、なんの意味もないのに。

「頑張ろうよ、菜穂」

 力強い声で言われて、肩を掴む手に、ぐっと力が篭った。ようやく上を向くと、和希は逸らすことなく、ひたむきな目を菜穂にぶつけている。
「俺、高校を卒業したら、家を出る。そこからはじめてみよう。何も悪いことなんてしないのに、今から諦めるなんて馬鹿げてる。ゆっくりでいいんだ、みんなが納得できる道を見つけよう。ちゃんと幸せになれる方法を、二人で探してみよう」
 考えるだけで気の遠くなるようなことを、和希は大真面目に、そして堂々と言い切った。
 あまりにも健康的で、バカみたいに一直線で、途方もなく子供っぽく単純で、でも、大人の男の人のように頼もしいその言葉に、菜穂は泣きながら、笑ってしまう。
 ──愛しいサボテン。
 零れ落ちる涙を、手の甲で拭った。
「……頑張れる、かな」
「時間がかかることくらいは覚悟の上だよ。俺、気が長いしね。自分で言うのもなんだけど、けっこう執念深いし。だから菜穂も、もう逃げるのはやめて、ちゃんと俺と向き合ってよ」
「……私、和くんを幸せにしてあげることが出来るかな」
「菜穂じゃないと無理だ」
 口で言うほど、簡単なことではないだろうと思う。なにより大事にしてきたつもりの 「家族」 というものを、今度は菜穂自身の手で壊してしまう可能性だってある。それは怖い。とても怖いけど。
 菜穂も和希も、他の人を選べれば、ずっと容易に幸せが掴めたのだろう。そう出来れば、それがいちばんいいと思っていた。でも和希は、それは無理だと言う。
 そして、菜穂も多分、無理だ。新田との付き合いで、それを痛感した。
 ……他の誰かでは、無理なのだ。

「──じゃあ、頑張ってみようか」

 菜穂がそう言うと、和希は明るい太陽のような笑顔になった。
 頑張ってみようか。つらいこと、苦しいことは、たくさんあるかもしれないけれど。その笑顔がこれからも見られるように、やってみようか、二人で。
 幸せになれるように。
「……菜穂」
 寄せられた顔を、今度は避けずに見つめ返す。軽く唇が触れたところで、するりと身を引いたら、和希が不満そうに口を曲げた。
「和希が高校を卒業するまでは、ここまで」
「え。ウソ。マジで?」
 菜穂のきっぱりとした言葉に、本気でショックを受けたような顔をしている。
「今、頑張ろうって言ったばかりだよ」
「ええーっ、そういう方面での 『頑張る』 も含まれてんの?」
「当たり前でしょう」
「マジで? 俺、今までも散々我慢してきたのに、これからまた二年以上、忍耐を強いられるわけ?」
「無理っていうなら、やっぱり」
「いやいやいや、無理じゃない、頑張ります。全国大会目指してバレーに打ち込み、煩悩を空の彼方に昇華させる努力をします」
 慌てたように言ってから、和希は、はあーっと盛大なため息をついて、がっくり肩を落とした。


          ***


 翌日、菜穂は新田とちゃんと顔を合わせ、頭を下げて謝った。
「そーかー、ダメだったかー」
 少し残念そうだったものの、新田はやっぱり軽い調子でそう言って、頭を掻きながら、あははと笑った。乃梨子はいろいろ厳しいことを言うけれど、基本的に、彼はやっぱりいい人なのだなと菜穂は思う。
「でも、俺のこと、嫌いってわけじゃないんでしょ?」
「うん」
「じゃあ、これからも友達として仲良くやっていこうよ。ね?」
「新田君が、イヤじゃないのなら」
「イヤじゃないイヤじゃない。そのうち俺の恋愛相談に乗ってね、女の子のことは女の子に聞いたほうがいいだろうから」
「……うん」
 きっとその時は、この 「何も考えていないところ」 を真っ先に忠告することになるのだろうなあ、と思う。菜穂は彼のこういうところが本当に嫌いではないし、ある意味長所であるかもしれないなと思うくらいなのだが、他の女の子もみんなそう思うだろう、というほど楽観的にはなれない。
「あ、そーだ。友達としてでいいから、菜穂ちゃんの美味い弁当、また食わせてよ! 俺、あの卵焼きの味が忘れられないんだよねー」
「……うーん」
 曖昧に首を捻った。
 それは、和希がものすごくイヤがりそうだ。

 今日の菜穂のお弁当は、和希が腕をふるって作ってくれた、豪勢なおかずが詰まっている。
 昼休み前には、和希からのメールが届いた。
『一緒に愛も山ほど詰めこんであるから、味わって食え』
 それを見て、菜穂はほんのりと笑う。
 きっと、美味しいだろう。



 水をやらなくても勝手に育つサボテン、と新田は思っているようだが、それは違う。
 成長速度が遅いだけで、意外と、サボテンは水やりの加減が難しい。
 やらないと枯れるし、やりすぎたら腐ってしまう。
 適度の水やりと日光と栄養、そしてたっぷりの愛情を与えられて、サボテンはようやく、美しい花を咲かせられるのだ。

Fin.



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