短編2

ゆめや(2)




「え……」
 どこかぼんやりとした声で問い返したのは、その言葉が聞き取れなかったわけではなかった。ちゃんと耳には届いたし、文脈も、ひとつひとつの単語の意味も、きちんとした言葉として認識できた。
 ──けれど、頭が、それを理解しようとすることを拒絶した。
「会いたいと思う人は、誰一人としていない、と言わはりますんや」
 と、ユメ屋が同じことを繰り返した。黒いサングラスのせいでどんな表情をしているのかは判らないものの、最初からまったく変わらない声、動かない眉と、生真面目に言葉を紡ぐ口が、ひどく冷淡なものに感じられる。
「そんな……わけ、ないだろ」
 貴之が出す自分の声は、まるで他人のそれのように遠かった。俺って、こんなにも頼りなく弱々しい声しか出せなかったっけ?
 ユメ屋の口調は、何かの報告書でも読み上げるように淡々としている。
「なんでも、祥子さんには、親も兄弟もないそうで。世話になった伯父さん夫婦には申し訳なくて合わせる顔がないし、お友達ももうそれぞれ家庭を持ってるから、自分のことで煩わせたくない、と言われますんや。なんですな、祥子さんいうのは、えらい人に気い遣わはるタイプの方ですな」
「…………」
 しばらく口が利けなかった。喉に大きな塊がつかえているみたいで、声が出せない。
 祥子の両親は、彼女が高校生の時に、旅行に出た先で事故に遭い、亡くなった。部活があるからと留守番を引き受けた一人娘に真っ先に届いた知らせは、旅館に着いたよと報告する母の弾んだ声ではなく、旅先の地元警察からの沈痛な声だったそうだ。
 それから祥子を引き取ってくれたのが母方の伯父夫婦で、彼らは祥子に親切ではあったけれど、やはりお互いにいろいろと気詰まりな部分はあったらしい。両親が遺してくれたお金で大学進学を決めた祥子は、それと同時に一人暮らしをはじめた。
 そんな経緯もあったためか、貴之が祥子と出会った時、彼女は人一倍周囲のことを気にして、他人に遠慮する女の子だった。誰に対してもわけ隔てなく優しいけれど、どこか自分と人との間に一線を引いている。和を大事にするようで、その実、容易に自分の中にまで踏み込ませないような頑ななところもあった。
 そんなところに貴之は惹かれて、苦労の末、彼女の心を手に入れたのだ。
 だから貴之にとって、ユメ屋の言うことは納得の出来るものだった。祥子なら、確かにそう言いそうだ。けど──
 じゃあ、俺は?

 ユメ屋の台詞からは、すっぽりと貴之という存在が抜けていた。

「でも、俺は──俺には、会うって言っただろ? 俺は祥子の夫なんだから、今更そんな遠慮なんかするわけがない。いや、そんなことより」
 そんなことより、なにより。
 祥子は、この世の誰よりも、まず真っ先に貴之に会いたいと願うはずじゃないか。彼女のいちばんの身内、十年も一緒に暮らしていた、彼女にとって世界でただ一人の夫なんだから。
「それですわ」
 ユメ屋は、詰め寄る貴之に動じることもなく、しかつめらしく頷いて見せた。
「祥子さんが私に言われましたんは、正真正銘、それだけ。──だから、会いたい人はいない、と」
「な……」
 驚いて口を動かそうといる貴之を、ユメ屋がもみじの葉っぱほどの大きさの手の平で制す。
「私も正直、困ってしまいましてな。今までのお客はんはどなたも、会いたいと願う人が一人はいらっしゃるんが普通で、こういうケースは経験したことがないもんですから。だからって、ほなサイナラというわけにもいきません。それでしょうがなく、私の方から、『ご主人さんは?』 とお訊ねしてみましたんや。本来、これはルール違反なんですけども」
 なにしろ、夫婦っていうても、相方に二度と会いたくないと思われる方は多いですからなあ──というユメ屋のしれっとした言葉を聞いて、貴之は怒りと焦燥で胸の奥が痛いほどちりちりした。俺達はそんな夫婦じゃなかった、と怒鳴りつけたい衝動を必死で抑える。
「そうしたら、祥子さん、黙ってしまわれて」
「黙って……?」
 そうやって聞くのが精一杯だった。頭の中は、ひたすら疑念と混乱に占められて、思考が上手にまとまらない。
 ユメ屋が、はい、と頷いた。
「なーんにも、言わはりません。完全黙秘、というやつですわ。貝よりも固く口を閉ざされて、あれでは私にもどうにもなりません。それでまあ、あんまりにもラチが明かないので、こちらに来てみたわけなんですけど」
 こちら、というのは、貴之の夢の中、という意味なのか。いや、そもそもこれは本当に夢なのか? 少なくとも現実ではないことは確かだが、それは 「本当ではない」 というのと必ずしも同義ではない。
「……けど、こちらに来ても、ムダでしたかね」
 ユメ屋はちらりと貴之の顔を見て言った。そして、そのままあっさり消えてしまいそうだったので、貴之は慌てた。
「待てよ。待ってくれ。頼むから、俺を祥子に会わせてくれ。会わせて、話をさせてくれ。祥子の口から、理由が聞きたい。いや、そんなことより、俺は祥子の顔が見たいんだ。ちゃんと目を覚まして、動いて喋る祥子が見たい。頼む」
 今にも退場しそうなユメ屋に追い縋る。もうこの際、恥も何もない。矢継ぎ早に懇願の言葉を出す貴之を、ユメ屋はまた、ちらっと見た。同情も憐憫もその顔にはなかったが、少し困ったように口をへの字にした。
「──お客はんの意向を無視して、あんさんを祥子さんに会わせることは出来ません。けどまあ、もう一度祥子さんのところに行って、あんさんのその言葉を伝えるだけのことはしてみましょう。これも仕事のうちですから」
 それでは、と短く言って、ユメ屋は現われた時と同じように唐突に、闇の中に姿を消してしまった。
 同時に、真っ暗だった周囲が、薄っすらと明るみはじめる。夢から醒めるということなのだろうか。
 貴之は母からはぐれた子供のように心細い気分で、そこに立ち尽くしていた。ぐるぐると、答えのない問いかけだけが頭の中を駆け巡る。
「──祥子、どうして?」
 その問いを声にして、ぽつりと呟いた。



          ***


 目を覚ましたら、すでに午前九時を過ぎていて、貴之は取るものもとりあえず病院に駆け込んだ。
 が、慌ただしく入り口に足を踏み入れた途端、携帯の着信音が鳴って舌打ちする。電源を切るのを忘れていた。
 そして携帯を開き、発信者の名を見て、顔を顰めた。姓しか登録していないその名は、由香のものだ。
 ここで無視をしてまた何度か掛けてこられても面倒なので、入り口から外へと出て、貴之は携帯を耳に当てた。
「はい」
「もしもし? あたし。聞いたわ、大変なんだってね」
 由香の若々しく元気な声が、今はひどく貴之の神経を逆撫でする。八つ当たりのような感情だとは判っているのだけれど。
「誰から聞いたんだよ」
「あたしの上司。あなたの会社でももう、いろんなところに広まってるみたいよ。奥さんが事故に遭ったって」
 それを聞いて、もう一度舌打ちしたくなった。病院からの電話は会社にかかってきたから事情を知っている人間はそりゃ多いのだろうが、取引先の会社にまで言うことか。
 由香の上司は、もちろん貴之と自分の部下との関係を知らない。きっとただの噂話として彼女に伝えたのだろう。けれど、そういう軽々しさも当事者にとっては腹立たしいばかりだった。
 ……まるで、祥子の身に起きたことを面白がるみたいに。
「ねえ、それで、奥さんの容態はどうなの?」
 そう訊ねる由香の声は抑えられている。今はもう会社にいて、もちろん人目のない場所を選んでいるのだろうが、それなりにあたりを憚っているのだろう。
「……まだ、意識が戻らない」
 訊ねられたら、答えないわけにもいかない。貴之が言葉少なにそう言うと、携帯の向こうからの声は、「ええー?!」 と、一オクターブ跳ね上がった。
「やだー、それって、まずいんじゃない?」
 と、由香は言った。昨日から眠れないほど妻を心配し続け、今も病院のすぐ前にいる貴之に向かって、「まずいんじゃない」 と、なんの躊躇もなく。
 上司の悪口言ってるの本人に聞かれちゃってさあー、と、ぺろりと舌を出して笑いながら貴之に話した時と、まったく同じ口調で。
「…………」
 貴之は怒ったり呆れたりするよりも、呆然としてしまった。返事をするために、口を開く気力も湧かなくなってしまうほど。
 別に、上辺だけの心配が欲しかったわけじゃない。誰からの同情も労わりも、今はただ、自分にとっては煩わしいだけだ。
 ……でも、それにしたって、なんで?

 なんで──ここまで、無神経になれるんだろう。

 無言の貴之をどう思ったのか、いいやそもそも、そんなこと気にもしていないのか、由香は声を潜めてくすくすと笑った。嫉妬や意地悪な気持ちからではなく、本当に、ただ無邪気に、笑ったのだ。
「ねえ、じゃあ、あたし奥さんのお見舞いに行こうかなあ」
 お見舞い?
「…………なんで」
 やっとの思いで声を絞り出す。喉がひりつくようだ。
 由香は、「楽しそうに」 くすくす笑ったままだった。
「だって意識がないんでしょ? だったら、あたしが行っても、旦那の不倫相手だって判らないわけじゃない。奥さんの前に堂々と姿を見せるのって、スリルがありそう」
「…………」
 今度こそ声も出なくなって、貴之は何も言わないまま、一方的に通話を切った。あまりにボタンを強く押しすぎて、親指がぶるぶると震えている。
 それからすぐに由香からの番号を着信拒否にし、由香の携帯番号とアドレスをすべて削除した。本当なら、携帯電話そのものを真っ二つに割ってしまいたいくらいだった。
 なんで、なんで、なんで。
 同じ疑問ばかりを繰り返す。気が狂いそうなほどの憤怒で、眩暈がした。
 なんで俺は、こんな女と。
 判っていたことだ、由香が良くも悪くも、何も考えていない娘だってことは。彼女が貴之を誘ったのは、ちょっとだけ楽しい思いをしたかったのと、スリルを味わうため。貴之がそれに乗ったのは、彼女の持つ若さにふらりと引き寄せられたため。
 そこにあったのは、恋や愛なんてものじゃない。
 それでも身体の関係を持って一年ほども続いたくらいなのだから、貴之は由香のことを嫌いではなかった。あの娘のあっけらかんとした悪びれなさが、こちらの罪悪感までも薄れさせてくれるようで、会っている時はそれなりに楽しみもした。
 だけど。
 「好意」 に向かっていたそのベクトルが、今は真逆を向いて、しかも加速をつけている。若さゆえの無知と残酷、想像力の欠如、楽しければいいじゃない、という価値観は、今の貴之には到底受け入れられない。いいやもっと言えば、憎悪すら抱きそうなくらいだった。
「…………」
 激情のまま携帯を操作し終えてから手を止め、今度は虚脱感に襲われた。俺は一体、なにをしてるんだ、という自己嫌悪ばかりがひたすら押し寄せてくる。
 祥子がすぐ目の前の建物で、未だ醒めない眠りに就いているというのに。
 貴之の見た夢がただの夢でないのなら、祥子はいずれ 「あっち」 に行ってしまうということだ。そんな時に、貴之は浮気相手の言動に腹を立て、携帯を握り締めたまま突っ立っている。
 なにをしてるんだ、ともう一度虚ろに思ってから、はっとした。
 思いついたら、頭のてっぺんからすうっと血の気が引いていくような気がした。
 そうだ、どうして考えもしなかったんだろう、こんな単純なこと。
 ……もしかして、祥子は、貴之が浮気をしていることを、知っていたんじゃないか?

 だからこそ、「会いたくない」 と、思っているんじゃないか?


          ***


 祥子は昨日とまるで変わらない状態のまま、ベッドで眠っていた。
 穏やかな顔つきは、本当にただ寝ているのと何も違わない。確かに年齢を重ねてはいるけれど、会った頃の可愛らしさは今も残ったままだ。そういえば最近、笑うと目尻に皺が出来るようになったと、ひどく気にしていたっけ。
 そんなの、前からあったぞと貴之が笑ったら、そんなことないとムキになって頬を膨らませた。これ以上皺が増えたら困るからあんまり笑わないでいよう、と決心したそばから、貴之の冗談に大笑いして、もう笑わせないでったら! と怒っていた。
 祥子のその目元のあたりに指を伸ばしかけ、寸前で、ピタリと止める。
 ──今の貴之に、祥子に触れる資格があるはずない。
 事故に遭う前、祥子の態度に特に変わったところはなかった。いつものように朗らかで、貴之の体調を気遣って。車に撥ねられる当日の朝でさえ、いってらっしゃいと笑って見送ってくれていた。
 ……でも。
 でも本当は、祥子はもうとっくに、貴之に見切りをつけていたのかもしれない。自分を騙して裏切って、若い女と付き合うような夫は、もう必要ないと思っていたのかもしれない。
 ひょっとして、事故がなかったら、近いうち、祥子の方から離婚でも切り出されていたんだろうか。
 そうしたら、俺はその時、どういう反応をしただろう。泡を食って、真っ青になって、土下座でもして謝っただろうか。もう二度としないからと、なんとか思い留まらせようと必死になっただろうか。
 祥子と別れるつもりなんてカケラもなかった。祥子を失うくらいなら、貴之は本当に何でもしただろう。情けなくても、みっともなくても。
 愛しているのはお前だけなんだと頭を下げて、由香のことはただの遊びのつもりだったと弁明して。

 ──そうして、祥子はさらに、俺のことを軽蔑しただろうか。

 由香が悪いのではない、彼女に対して怒る権利もない。悪いのはすべて貴之だった。一生を一緒に生きようと誓った相手がいるのに、なんの覚悟もなく、流されるまま遊びの浮気に走った貴之が、あまりにも無責任だっただけ。気持ちは入っていないなんて、そんなのは単なる言い訳だ。
 何を言ったって、祥子の愛情と信頼を踏みにじったことは、間違いないんだから。
 貴之は、祥子に甘えていたのだろう。自分が祥子を誰より大事に思っていることは、特に言葉になんてしなくても、祥子の方でも判っていると思い込んでいた。いつもどんな喧嘩をしても、最後には結局祥子は貴之を許してくれる。貴之は思い上がってもいた。
 今こうして、手痛いしっぺ返しをされてはじめて、貴之は自分のその傲慢さを痛感した。
「祥子……」
 名を呼んでみたが、彼女からの返事はもちろんない。
 貴之がどんなに呼んだところで、祥子が目を覚ますわけがないのかもしれない。祥子は、貴之を見限ったんだから。最後に会いたい相手として、貴之の名前すら出すこともしないという、これ以上なく容赦のないやり方で。
「祥子」
 このまま、「あっち」 へと行ってしまうのか、と思ったら、くらりとした。
 貴之と会うことも話をすることも拒んで、一度も目を開けることなく、どこか手の届かないところへ行ってしまうのか。貴之の言い訳も弁明も、何ひとつ聞かないまま。
 それが、俺の浮気に対する祥子の報復なのか。
 ──そんなこと。
 ベッドの端にそっと手を置き、祥子の顔に自分のそれを寄せる。囁くように、眠る妻の耳元に、話しかけた。
「祥子……お願いだ、俺と会って」
 せめて、夢の中だけでも。

 祥子を傷つけて、悲しませ、苦しませた。許してもらえなくても、それを謝りたい。
 貴之を怨んで憎んで、この世に絶望したまま、誰とも会わずにひとりっきりで 「あっち」 へ行くなんて、それだけはさせたくない。
 ……祥子に、そんな、寂しい思いをさせるわけにはいかない。

「──ごめん」
 身体を折り曲げ、祈るように、白い布団に自分の額を押し付ける。
 閉じた瞼が熱くなるなんて、子供の時以来のことだった。



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