短編12

月夜の桃色ウサギ(2)




 小夜が裕也と出会ったのは大学生の時だから、その付き合いはもう六年近くになる。
 長いような、短いような六年だったな、と今になって振り返ってみると、そう思う。最初のうちの、お互いが遠慮したり当惑したりもじもじしたりの微妙な距離のある期間を過ぎれば、あとはやんわりと穏やかに流れていった年数だった。
 周りのことが何も見えなくなるような激しく情熱的な恋愛ではなかったけれど、それなりに心地よく温かい気持ちに包まれる関係が、ずっと続いていた。
 裕也はとても優しく誠実で、育ちが良いためかおっとりとしていて、感情よりも理を優先させるような性格だった。小夜は、友人たちが自分の彼氏のことを愚痴る時に出てくる、子供っぽい、ワガママだ、勝手なことばかり言う、というような不満を、裕也に対して抱いたことは一度もない。
 二人の間で意見の食い違いが生じても、彼は常に、喧嘩ではなく話し合いという手段を選んだ。どちらが正しくてどちらが間違っているか、どちらの言い分がより筋が通っているか、どちらの意見が道理に合っているか──それを冷静に考え、公正に結論を出し、説得をするか認めるか妥協点を探すかを模索する。だから小夜は、裕也との付き合いにおいて、普通恋人同士ではありがちな、泣いたり、怒ったり、声を荒げて詰め寄ったりという行為を、したことも、されたこともなかった。
 大学を卒業して互いに社会人になってからも、それは同じだった。慣れない仕事に疲れたりストレスが溜まったりしたこともあっただろうが、裕也はそれを小夜にぶつけることはなく、一人でどうにか処理していたようだ。
 職場のあれこれを、愚痴という形で外に出すことを、彼はみっともないことだと忌避していた。だから、時々、無口になったりぷっつりと連絡が途絶えたりすることで、小夜はそれと察するしかなかった。そういう時に踏み込んで訊ねることを、彼はひどく嫌がるからだ。
 そして同様に、小夜が職場や仕事に対する不満を口にすることも裕也は嫌がった。聞いたとしても、「それは君にも悪いところがあるんじゃないか」 と諄々と諭されたりするので、小夜はそのうち、彼の前で仕事の話をすることも聞くこともぷっつり止めてしまっていた。その後に来る少々ギスギスした空気に耐えられなかった、というのもある。

 会うのは自分の心に余裕がある時だけ。忙しい時やカリカリしている時には、連絡を控える。

 いつの間にか、それが二人の間のルールとなった。笑いながら楽しい時間を過ごしたほうが、小夜だっていいだろう? と言われれば、そうだねと肯うしかない。会っている時間、裕也はそれはそれは優しく丁寧に小夜に接してくれるのだ。そろそろ長すぎる春と言われるような期間付き合っているにも関わらず、決してぞんざいな扱い方をしてくることのない恋人に、どんな不満があるだろう。周りの友人知人は、みんなこぞって裕也を褒め称え、理想的な彼氏よねえと嘆息混じりに小夜を羨んだ。
 二年前に裕也が転勤になって離れた場所に行っても、彼とのその関係は変わらなかった。裕也はまめに連絡を寄越してきていたし、時間があればちょくちょく会いにも来てくれた。誕生日やクリスマスなどの行事には欠かさずプレゼントを用意して、そろそろ将来のことも視野に入れたほうがいいからと、正月には小夜を実家に連れて行ったりもした。
 堅実で、順調すぎるほど順調な交際。誰もが、そう思っていただろう。小夜の周りも、裕也自身も。このまま何の問題もなく結婚して、幸福な家庭を作っていくのだろうと。
 三か月前、いきなり小夜のもとを訪れた裕也が、土下座して自分の浮気を告白し、謝罪をするまでは。


          ***


「かいつまんで言うと、お酒を飲みながら職場にバイトで来ていた女の子の相談にあれこれと乗っているうちに、気がついたらそういうことになってしまっていたと、そういうことでした」
 裕也の説明と弁明は一時間ほどあったが、一言で言ってしまえばそういう内容だった。口に出してみると、本当にただそれだけのことなんだなあと、小夜自身、ちょっとびっくりするくらい簡単なことだった。これを一時間尺に引き延ばした裕也は、ある意味すごいなと感心してしまいそうになる。
「よくある話だな」
 けっ、というようにウサギが吐き捨てた。義憤のためというよりは、思っていたよりもずっと 「よくある話」 すぎて、面白くもなんともない、という感じの言い方だ。
「にょん吉くんにも経験がありますか」
「なんで俺に振る」
 いかにも男女交際に精通しているという態度を取っていたくせに、ピンクのウサギは小夜の問いかけに明らかにたじろいだ。
 若干身を引いてから、ぷいっと顔を背ける。
「俺の下半身はそんなに無節操じゃない」
「貞操観念が強いんですか」
「つか、彼女がいる時に他の女にも手を出すチャンスに恵まれるなんてラッキーな事態に遭遇したことがない」
「わりとサイテーな意見ですね」
 にょん吉くんはあまり真面目なタイプではないらしい。それはなんとなく気づいていたが。そしてあまり、モテるほうでもないらしい。それもなんとなく気づいていたが。
「女子高校生には人気があるじゃないですか。写真撮られたり、握手されたり」
「ぜんっぜん嬉しくねえ。あいつらの声ってキンキン耳に響いてうるせえし。抱きついてこられても、この格好だと胸が当たっても尻を触ってもなんの感触も伝わってこねえしよ」
 ウサギは、なんの感触も伝わらないらしいモコモコのピンクの手の平を見てぶつぶつ言った。ますます子供の夢が壊される。マスコットキャラが、みんながみんな、こんなことを考えているわけではないと信じたい。
「そういうセクハラ発言はやめたほうがいいのでは?」
「セクハラしたくとも出来ねえ、っていう話だよ。健全すぎるほど健全だよ。つまりホントにこんなもん、やってる本人にはなんのメリットもねえ、ってことだよ。意味がわからねえよ」
 どちらかといえば、意味が判らないのはにょん吉くんのほうだ。
「だからちゃんと女がいるにも関わらず、他の女ともヤるような野郎は嫌いだ。自分ばっかりいい思いしやがって」
 道徳的・倫理的な観点からではなく、かなり私怨を混じえて、にょん吉くんは裕也を非難した。
「そんなやつは再起不能なまでにボコッてやれ。俺も手伝ってやろうか」
「お気持ちだけいただきます。……本人も、どれだけ殴ってもいい、と言ってましたけど」

 どれだけ殴ってもいい。なじってもいい。責めてもいい。小夜にはその権利がある。
 君を騙し続けるのは耐えられない。僕自身もこのことでずっと苦しんでた。これから一緒にやっていくのに、僕たち二人の間に嘘があるのはよくないとも思った。だから正直に言おうと決めたんだ。
 本当に僕が悪かった、このことは僕に全面の非がある。
 ごめん、ごめん、本当に悪かった──
 そう言って、頭を下げ続ける裕也を、小夜はただ黙って見つめ続けていた。

「で、なんでそれで揉めてんだよ。そんなやつはとっととぶん殴って捨てて終わりにすりゃあいい。それでスッキリするだろ。女の敵は痛い目を見て、世の中に一人フリーの女が増えて、世界は平和になり、俺も喜ぶ」
 ウサギはあっさりと言った。本当に、そんな単純なことだったらどんなにいいだろう。
 小夜は少し口を閉じて、再び顔を前方へと向けた。すでにトークショーがはじまり、イケメン武将隊が並んで、笑顔で何かを話している。周りを取り囲む観衆からも、明るい笑い声が沸いた。
 殺伐とした戦国時代からはかけ離れた、平和でのどやかな光景だ。
 それを見ながら、ぽつぽつと続けた。
「……ごめん、ごめんって、床に頭を擦りつけるようにして謝るんですよ。疲れていたし、酔っていたし、ついフラッと誘惑に乗ってしまっただけで、たった一度の過ちだったって。その子とはちゃんと話し合いをして決着をつけたし、今後絶対にこじれることはない。だからどうか許してほしいって」


 小夜はそもそも、裕也の浮気を疑ったことなど一度もなかった。彼を信頼していた、というよりは、あの性格でそういったことが出来るはずがないと思い込んでいたところがある。
 遠距離恋愛とはいえ、これまで彼の言葉の裏を読もうとしたこともなかったし、携帯をこっそり確認してみようと思ったこともない。彼女という立場と、これまでの年数の上にあぐらをかいていたと言われればそれまでだ。
 だから裕也の突然のその懺悔は寝耳に水だったし、青天の霹靂でもあった。怒るよりも悲しむよりも、困惑ばかりが先に来て、何を言えばいいのかも咄嗟には思いつかないくらいだった。一時間にも及ぶ裕也の説明と謝罪を黙って聞いていたのも、他にどうしていいかよく判らなかったという理由がいちばん大きい。
 ゆるゆると思考がまとまってきたのは、裕也を帰して、一人になって静かに時間を過ごしてしばらくしてからのことだ。そこに至って言われた内容が心と頭に染み込んできて、今さらながら腹を立てたり、ちょっと泣いたりして、小夜はなんとかその事実を呑み込み、ようやく自分なりの結論を下した。
 別れよう、と。

 しかしその返事を聞いた裕也は、信じられない、という顔をした。

 納得できない。意味が判らない。自分は誠心誠意謝罪をしたし、嘘偽りなく自分のしたことを正直に告げた。もう二度とこんなことはしないと誓うし、なんなら書類に残したっていい。もちろん非は自分にあるのだから、そのことに対する責めは甘んじて受ける。
 でも、それは、別れてもいいということじゃない──
 ここで、小夜と裕也の思惑には決定的な食い違いが生じることになった。浮気したことは済んでしまったことだからもういい、でもこれ以降はやっていけない、と考える小夜と、一度の間違いでこれまでの関係を終わりにするということが理解も出来ず許容も出来ない、と言い張る裕也。
 どれだけ話し合いをしようとも二人の意見は一致することはなく、結果、裕也は週末になると小夜に会いにやって来て、小夜はこの場所へと逃げに来る、という現状になっているのだった。


「修羅場だなあ」
 にょん吉くんが呑気な口調で言った。愛想の良いニコニコ顔が、完全に傍観者の無責任なニヤニヤ顔に見える。
「気のせいか、面白がってるように見えます、その顔」
「こういう顔なんだよ。面白がってるのは間違いないけど」
「どっちが正しいと思います?」
「敢えて言うなら、どっちもアホだ」
「それは敢えて言うほどのことじゃないと思います」
 結局、にょん吉くんはこの話を真面目に聞こうという気はさらさらないらしい。不思議とそのことに気分が楽になって、小夜はふうと息をついた。
「……そんな調子で、なかなか決着がつかないもんだから、最近では周りまでがうるさくなってきて。私と彼は大学の時からの付き合いなので、共通の友人も多いんですよね。だから彼の友達に、あんなに反省して謝ってるんだからいいじゃないかと言われたり、私の友達に、疑われてもいないのに浮気したことを告白して謝るなんて誠意があるよと言われたり」
 裕也が真面目で他人に優しい性格であることは、友人たちはみんな知っている。事情が判ると、同情票は小夜ではなく裕也のほうに集まった。自分から正直に告げて非を認め、何度も頭を下げているのに、どうして許してやらないのかと、今では小夜のほうが叱られたりしている。
 この頃時々、本気で判らなくなる。

 ……悪いのは、小夜のほうなのか?

「くっだらねえ」
 にょん吉くんがせせら笑った。
「許す許さねえは、あんたが決めるこったろ。そんなもん、他のやつらが口出しするようなこっちゃない。ついでに言えば、その男にも決める権利はない。土下座して謝ったから許してくれて当たり前、なんてのは、そいつの身勝手な言い分だよ。別れるもよし、ほだされるもよし、周りの雑音なんて気にしねえで、あんたはあんたの心にだけ従えばいい」
「…………」
 きっぱりした言い方に、小夜は口を噤んで隣のウサギを見た。表情は何ひとつ変わらないとぼけたニコニコ顔なので、彼が何を考えているのかはまったく判らない。
「私……」
 言いかけたその時、前方から、「あっ、にょん吉くんだー!」 と幼い声が飛んできた。
 顔を向けると、そろそろトークショーにも飽きてきたらしい小学校低学年くらいの男の子が、満面の笑みでこちらに人差し指を突きつけている。
「ちっ、見つかった」
 にょん吉くんはマフィアから命を狙われるハードボイルド小説の主人公のような口調でそう言って、呑気な風貌からは想像できないほど機敏な動きでベンチから立ち上がった。
 立ち上がってはじめて気がついたが、こうして近くで見ると、彼はとても背が高かった。着ぐるみというと普通もう少し小柄なものだと思うのに、にょん吉くんは威圧感があるくらいのっそりと大柄だ。一体製作者は、どういう意図でこのウサギを作ったのだろう。これでは中に入れる人はかなり限られる。
 にょん吉くんはピンクの手を軽く挙げて、小夜に挨拶した。
「俺はずらかる。また来週相手をしてやるから、ここに来い」
 小夜は目をぱちくりさせる。
「え、なんですかその当然のような強要」
「続きを聞かせろ、っつってんだよ。こんな仕事をしている俺よりも不幸なやつがいると思うと、まだしもやる気が出るからな」
 にょん吉くんは非常に失礼なことをズケズケ言うと、ぱっと身を翻して人だかりとは逆の方向に向かって駆けだした。
「にょん吉くーん!」
「待ってー!」
 普段は少々にょん吉くんに対して怯えがちな子供たちなのだが、逃げられると追いたくなるのが人情というものらしい。ウサギがでっでっでっと走っていくほう目がけて、数人がキャーキャー言いながら勢いよく走って追いかけはじめた。
 公園内を走り回るピンクのウサギと、それを追う子供たち。
 コンパスの長さがまったく違うのだから、普通に走れば大差をつけて引き離せそうなものだが、やはり重量と動きにくさという点で、その駆けっこは子供たちに軍配が上がった。追いつかれて、しがみつかれ、にょん吉くんがドテッと転ぶ。
 子供たちは大喜びで歓声を上げ、地面に腹這いになったにょん吉くんの上に馬乗りになったり、足を引っ張ったりとやりたい放題だ。にょん吉くんはさすがに子供たちの前では声を出したりはしなかったが、ピンク色の手で地面をバンバン叩いたり、乗った子供をかなり乱暴に振り落とそうともがいていた。
 どう見ても小夜からは 「怒っている」 ようにしか見えないのだが、子供たちは 「遊んでもらっている」 つもりなのか、暴れるウサギにますます大はしゃぎである。にょん吉くんが珍しく子供と戯れている、という微笑ましい光景に、大人たちは笑い、子供たちが続々と駆け寄っていく。
 あーあ……。
 小夜はちょっとハラハラしながらその様子を見守ったが、結局、さんざん子供たちに小突き回されたにょん吉くんは、慌てて走ってきた役場の法被姿の男性に救出された。
 土に汚れ、ヨレヨレになりつつ、にょん吉くんがゆらりと立ち上がる。
 彼はその場で仁王立ちになると、まだキャーキャーと喜んでいる子供たちに向かって、左手で支えた右腕を曲げて、ぽにょぽにょした拳を天に突き上げる仕草をした。
 無邪気な子供たちが、意味が判らずきょとんとする。
「にょん吉くん、それ何のポーズうー?」
「変身するのー?」
「私もやるー!」
 しかし、子供ではない小夜には判った。
 きっと本ウサギは、右手の中指をぴんと突っ立てているつもりなのだろう。指はないけど。
 そして心の声で言っている。
 ──ガッデム! と。
「…………」
 こらえきれず、勢いよく噴き出してしまう。
 お腹を押さえて大笑いしてから、こんなに楽しく笑ったのは本当に久しぶりだなあ、と思った。



BACK   NEXT

Copyright (c) はな  All rights reserved.