短編12

月夜の桃色ウサギ(5)




「……本当は、自分でも、こんなやり方はよくないと判ってたんです」
 別れるとだけ告げて、ろくに理由も言わず、話し合いをしたいと望む相手から逃げ回る。
 これではただ平行線を辿るだけ、こじれることはあっても、解決することはない。いつか裕也が疲れて諦めることを願っていたけれど、そうなったとしても、それは相手にも、自分にも、長い時間に渡ってもやもやとしたしこりを残し続けるだろう、ということも判っていた。
「でも、他にどうしたらいいのか思いつかなくて」
 自分の心は決まっていたが、それを裕也に伝えるすべが見つからなかった。正論を述べさせたら、彼の右に出る人間はいない。そして小夜は、自分が少々特殊な家庭環境に育って、考え方、感じ方が、世間通念や他の人とはちょっとばかりズレているという自覚もある。裕也と揉めはじめてから、母親や友人たちに、どうして許してやらないのかと言われ続け、余計に自分の意見を口にするのをためらうことになった。
 おかしいのは、間違っているのは、小夜なのか?
 その思いが離れなかったから、裕也と正面から向き合うのを避け続けるしかなかったのだ。付き合っていた頃から、意見を違えた時には話し合い、というルールに則ってやってきた小夜は、裕也にはいつでも 「正しい理屈」 しか通じないということもよく知っている。この胸の中にあるものをしっかりと言葉にする自信もないのに、裕也を納得させられることが出来るとは、到底思えなかった。
「──だけど、今になって、ちょっとだけ、判りました」
 小夜はおかしくないし、間違ってもいない。他人から見てどうであろうが、自分の心には背いていない。それをどう裕也に伝えればいいのかはやっぱりよく判らないままだが、自分の気持ちと感情がどういう形をしているのかは、少し判った。
 小夜自身が、何を求め、何を望んでいたのかも。
「だから、今度こそちゃんと裕也と話をして、決着をつけます」
 ベンチから立ち上がってにょん吉くんのほうを向き、そう言うと、ウサギは黙ったままじっとこちらを見つめた。
 少し間を置いて、
「……俺もついていってやろうか」
 と、ぼそりと低く言われたが、小夜は首を横に振った。
「これは、私と裕也の問題なので」
「けどよ、危ないかもしれないだろ。相手が逆上して、何するかわかんねえぞ。今はそういうの、よく新聞にも載ってるだろ。だからボディーガード代わりにさ」
「その格好でですか?」
「ウサギがストーカーをぶん殴っても罪にはならない」
「そんなわけないじゃないですか」
「だったら見つからないように、離れた場所からこっそり監視しててやる」
「どう考えても目立ってしょうがないです」
 電柱の陰に隠れても、植え込みの中に潜んでも、大きな身体がはみ出てバレバレだ。それでなくともピンクのウサギは周囲の注目を一斉に引くこと間違いなしである。
「でも、やっぱり」
 にょん吉くんはなおももごもごと言った。ベンチから立ち上がり、考えるようにぐるぐるとその場を廻りはじめるものだから、さっきからこちらの様子を窺っている子供たちが、好奇心に目をぴかぴか輝かせている。
 ねえねえにょん吉くん、なに遊んでんの? と今にも聞きたそうなワクワクしたその顔に、小夜はぷっと噴き出してしまった。
 態度は悪いウサギだけれど、彼はやっぱり子供たちを惹きつける、明るい何かを持っている。
「にょん吉くんに、善意はないんじゃありませんでしたっけ」
「……善意なんかじゃねえよ」
 ぴたっと動きを止めたにょん吉くんから、むっつりと不機嫌そうな返事が返ってきた。こちらを向いたウサギの中では目つきの悪い人がじろりと睨みつけているのかもしれないが、外側は可愛いので迫力はない。
「大丈夫、一人でちゃんとやれます。決心できたのは、にょん吉くんのおかげです。ありがとう」
 ぺこっと頭を下げたが、にょん吉くんは無言のままだ。
「じゃあ、行ってきます」
 小夜は笑顔でウサギに向かって手を振り、踵を返して歩き出した。


          ***


 小夜が暮らす祖父の家の玄関の前で、裕也は座って本を読んでいた。
 人に警戒心を起こさせない、柔らかな顔立ち。下を向いた真面目な視線が、律儀に文章を追っている。きっちりとした服装に落ち着いたコートを着て、見た目はどこもかしこも折り目正しい好青年である。他人の家の敷地内で座り込んでいても、外で読書を楽しんでいるようにしか見えないのは、この外見のおかげだ。
 きっと、いつも、こうしていたのだろう。日曜になると電車に乗ってここまでやって来て、数時間もの間、文庫本のページをめくりながら、ただひたすら小夜の帰りを待ち続ける。陽射しが穏やかになってきたとはいえ、まだ風は冷たいのに。せっかくのお休みを丸一日棒に振ってまで。
 憎めない。嫌いにはなれない。今まで彼がこんな風に小夜を待って過ごした時間と、この場で一人座り込む姿とを想像して、胸が締めつけられそうになるくらいには、裕也に対する情はまだ残っている。
 ──けれどもう、続けてはいけない。その意思もない。
 終わりにしよう。私も、あなたも。
「……裕也」
 歩み寄って声をかけると、裕也がぱっと顔を上げ、目を見開いた。その表情に喜色と安堵が広がる。すぐに立ち上がって、小夜に向かって腕を伸ばした。
「小夜、やっと僕と会ってくれる気になってくれたんだね。ずっとこの時を待ってたんだ」
「うん、ごめんね。逃げ回ってばかりいて」
 抱きしめようとする裕也の手をするりと避けると、彼は明らかに落胆したように肩を落とした。行き先を失った両腕を気まずそうに下ろして、小夜の顔を覗き込む。
「僕を許してくれるんだろ? だからこうして僕に会いに来たんだろ?」
 一瞬前まで勝利を確信していた瞳が、不安そうに揺れた。この場所で粘って粘って、小夜が帰ってきたら、その時点で二人の仲は修復できるものと思っていたのだろう。会えたら勝ち、会えなかったら負け。裕也の中では、そういう構図だったのだろうか。
「ちゃんと話をしに来たんだよ。私の思っていること、考えていることを、裕也に伝えておこうと思って」
「うん、話し合おう。君の要求も聞くし、僕の言い分も聞いて欲しい。もちろん謝罪は気の済むまで何度でも──」
 裕也の言葉を、ふるふると首を振ることで止めた。
「謝罪は要らない」
「でも、小夜は僕のことを怒って」
「怒ってるわけじゃない。……ううん、その時は確かに、腹も立てたし、悲しかったし、傷つきもしたけど」
「うん、そうだと思う。だから僕はこうして精一杯」
「そうだと思う?」
 意気込んで続けて言葉を出そうとした裕也は、同じ台詞を繰り返し正面から目を合わせた小夜を見て、気圧されたように口を噤んだ。

「──だったら、どうして言ったの?」
「え」

 小夜の問いかけに、裕也はきょとんとした。
 まったく意味が判らない、というように。
「どうしてわざわざ自分から浮気したなんて言ったの? 私、そんなこと疑ったこともないし、怪しんだりしたこともない。浮気をしたら必ず報告してね、なんて約束をしていたわけでもなかったのに」
 裕也は戸惑う表情になった。そんな基本的なことをどうして今さら、と思ったのかもしれない。
「だから、それは──君を騙していることに耐えられなくて。ちゃんと正直に言って、謝ろうと」
「私が傷つくだろうとは思わなかった?」
「思った。思ったよ。だから」
「それでも言ったの? そのまま黙っているという手段もあったのに。私が傷つくこと、悲しむことを判っていてもなお、告げずにいられなかったのはなんのため? 耐えられなかったのは、誰の何?」
「……小夜、よく判らない」
 本当に判らないのだろう。裕也が困惑するような目を向けた。
 小夜はひとつ息を吐く。
「耐えられなかったのは、私じゃなくて、あなたの心。裕也の良心、裕也の罪悪感。その罪悪感を取り除くために、あなたは私に浮気のことを告げた。そんな話を聞かされて、私がどれほどショックを受けるか、どんなに傷つくか、どんなに悲しむかは、あまり問題じゃなかったんでしょう? 問題だったのは、裕也にとっての 『筋を通す』 ことだけ。裕也は潔く自分の非を認めて満足したかもしれないけれど、そのために私がこの先ずっと苦しみを負い続けていくことは考えなかった。私を傷つけないために、自分の中にその棘をしまい込み続けていくことは、裕也の選択肢には存在していなかった。そうでしょ?」
「それは違う! 僕は──」
 裕也はムキになって、違う違うと抗弁した。小夜が傷つくのは判っていたけれど、後になって知ったらもっと傷つくと思ったから、僕は僕の罪悪感を消すためにそのことを言ったわけじゃない、という内容の長い台詞を一通り黙って聞いてから、小夜は再び静かに口を開いた。

「──私、この世界の誰よりも、なによりも、おじいちゃんを愛してた」

「……え?」
 突然の話題転換に面食らったのか、裕也がぽかんとした顔になった。
「私の両親の仲が悪かったのは知ってるよね? ちっちゃい頃から、私を愛してくれて、私の存在を認めてくれて、私の気持ちを理解してくれるのは、ずっとおじいちゃん一人だけだった。だからおじいちゃんは、私にとって唯一の家族。誰よりも、なによりも、愛してた。大事だった」
「それは……うん、知ってるよ、もちろん」
「そうだね、知ってるよね。私、何度も言ったもんね。でも、それは、『頭で』 知ってる、というだけだったんだよね。心では、まったく判っていなかった。知ろうともしていなかった。祖父のほうが自分の親よりも大事、ということが、裕也には、きっと理解できなかったんだよね」
 それを責めてはいけないのだろう。父親にも母親にも愛されて、健全な家庭で温かく育ってきた裕也には、そんなことが理解できなくて当然だったかもしれない。
 ……でも、理解できなくても、理解しよう、理解したい、という気持ちだけでも欲しかった。
 そう思うのは小夜のワガママなのか?
「おじいちゃんが亡くなった時、お葬式に来てくれたね。きちんとお悔やみの言葉を述べて、何か手伝えることがあったらなんでも言って、って優しく言ってくれた」
 そう、裕也はずっと優しくしてくれた。祖父を失った小夜に慰めの言葉もかけてくれた。最初から最後まで、ずっと誠実な態度で、礼儀正しい弔問客として、一連の儀式に付き合ってくれた。
 そして、その日の夕方には、また明日から会社だからと、慌ただしく電車に乗って帰ってしまった。
「──私はただ、そばにいて欲しかっただけなのに」
 悔やみの言葉は要らなかった。葬儀の手伝いなんて望んでもいなかった。いちばん近くにいて、小夜の涙を受け止めて欲しかった。それだけだった。
 言葉は要らない。他には何も要らない。
 ただ、小夜の身を切るような悲しみに、静かに寄り添ってくれさえすればよかった。

 ちょっとくらい乱暴でも、黙ってぽんぽんと頭を撫でて欲しかっただけだった。

「でも……でも、小夜は、葬式の時に、泣いてなかっただろう? 普通に見えたし、大体、そんなことは一言も」
 裕也の言葉に小夜は頷く。
「うん、そうだね」
 だから、父も、母も、誰も、気づかなかった。
「お葬式の時に泣かなかったのは、それよりも前に散々泣いて泣いて、涙が干乾びてしまっていたからだよ。泣きすぎてぼんやりと虚脱してただけなのを、裕也は疲れているんだねという一言で片付けてしまったけど」
「それは……だって」
「最もつらい時、裕也に連絡できなかったのは、あなたがそういうのを嫌がるから。お互いに笑顔でいられない時や精神的に安定していない時は電話をしない、会わないようにもしようと言われていたから」
「…………」
 淡々と話す小夜に、裕也は黙り込んだ。
「もちろん、そのことだけが理由じゃないの。それまででも、少しずつ、少しずつ、違和感は覚えてた。自分がしんどい時には会わない、楽しめる時にしか会わない、っていうのは、なんだか変じゃないのかなって。それは本当に──恋人同士と呼べるのかなって」
 疑問を抱きながらもそれを口にしなかったのは、仲の悪い父と母をずっと見ていたからだ。家の中では、会話も交わさず、笑みさえ浮かべることもなかった両親。その姿を見ていたら、二人でいる時は笑い合っていたいという裕也の考えには、確かにそうだと頷かざるを得なかった。
 だから疑問に蓋をした。少しずつ溜まっていくやりきれなさは見ないフリをした。悔しいこと、悲しいこと、腹が立つことがあっても、自分の心の中にしまい続けた。喧嘩になるよりはこのほうがいいんだと無理やり自分を納得させた。友人たちにも口々に、羨ましい、理想的だと言われて、なおさら外には出せなくなった。
「ずっと自分がおかしいんだと思ってた。いつも優しくしてくれる裕也に対してこんなことを思ってしまう自分が間違っているんだって。お互いに笑っていられるほうが、幸せに違いない。一生懸命、そう思おうとした」
 けれどそれが、祖父の葬儀で一気に崩れた。
「なんていうかね、いくつかあった支えの一本が取れてしまったような感じになったの。そうしてぐらぐらしてるところに、浮気のことを聞かされた。それが最後の一押しだった」

 やっぱりダメだ──とそう思った。

 もう無理だ。この人とはやっていけない。それを確信した。
 浮気をしたことが理由ではない。小夜の心情よりも、自分の筋を優先させる裕也の 「正しさ」 に、心底、うんざりしてしまったのだ。
 裕也はいつだって正しいことしか言わない。筋の通った、道理に適った、歪みのない正論だ。その 「誠意」 を盾にして謝られるたび、小夜は自分のほうが責められているような気分になった。
 父と母のように。彼らも、口には出さずに、いつだって小夜を責めていた。お前が悪いのだと。お前がいるせいで自分たちは別れられないのだと。自分たちが不幸なのは、何もかも、小夜のせいなのだと。
 正論と真実。どちらも反論できない。だから小夜は、黙っているしかなかった。
 ──でも、もういい。
 正しさなんてクソ喰らえだ。そんなもの、ゴミ箱に放り投げてしまえ。誰にどう責められたって知るもんか。
 小夜の痛みに、悲しみに、傷ついた心に、手を差し伸べてもくれない男は要らない。そこを見ないで笑っていたとしても、それは小夜の求める 「幸せ」 とは違う。いくら優しくされても、大事なところが重ならない人とは続けてはいけない。
 どちらが正しくて、どちらが間違っているかなんて、もうどうでもいい。
 小夜は、自分自身の心にだけ従う。
「別れよう」
 口を結んだままの裕也をまっすぐ見据えて、きっぱりと言った。


         ***


 夜の七時を過ぎて、居間の炬燵に入って夕飯のインスタントラーメンをずるずると啜っていたら、ピンポーンとインターフォンが鳴った。
 この家のインターフォンは旧式のため、カメラはもとより、通話機能もついていない。ただベルが鳴るだけである。箸を置いて、はーいと声を出し、玄関へと向かう。
 ガラッと戸を開けたら、そこにいたのはウサギだった。
「…………」
 暗い玄関にのっそりと立つ、巨大なピンクのウサギ。なんというシュールさなのだろう。卒倒しなかっただけ偉い、と小夜は自分を褒めたくなった。
「……心臓にめちゃめちゃ悪いのでやめてください」
「若い娘が夜間の訪問客を誰何もせずに戸を開けるとはどういう了見だ。お前の防犯意識は五十年くらい遅れてんじゃねえのか」
 小夜の心臓を一瞬止めさせた張本人……じゃなくて張本ウサギは、理不尽にもいきなりインネンをつけてきた。
「疑問が山ほどあるんですけど、まず、どうして私の家を知ってるんですか」
「俺はあの資料館の常連だと言っただろう。あそこの職員のばあさんによ、数年前までここで働いてたじいさんが死んだって聞いたから、線香上げに行きたいんだけど、って相談したら、泣かんばかりに感激されて、あれこれ調べて住所を教えてくれたぜ」
「お年寄りを騙すのはどうかと思います」
「騙してねえよ。本当にいつかはじいさんに線香の一本でも上げに行こうとは思ってたんだよ。それがたまたま今日になったってだけの話だよ」
「じゃあ、うちに上がっていきます?」
「なんだと?」
 ウサギの声に険がこもった。ニコニコ顔がこちらに向けられたのは、どうやらギロリと睨まれているらしい。
「アホかお前。夜に軽々しく男を家に上げるんじゃねえ」
 だから、なぜ説教。
「今はウサギでしょ?」
「中身は彼女のいない独身三十男」
 子供が聞いたら泣きそうだ。
「……そもそも、どうして、そんなウサギの恰好してるんですか」
「夜に男が若い娘の一人暮らししてる家を訊ねるわけにはいかねえだろ。俺の常識と美意識が許さない。この姿ならギリでセーフ」
 もうー、面倒くさい人だなあ!
「でもその着ぐるみって、島津さんの個人的な所有物じゃなくて、役場のものですよね? こんな時間に着ていていいんですか」
「倉庫から拝借してきた」
「許可を得て?」
「そんな許可が取れると本気で思ってんのかお前。無断に決まってるだろ」
 ふんぞり返って言うことではない。この格好で、のしのしと住宅街を闊歩してきたのだろうか。警察に捕まらなかったことを祝うべきなのか、通行人を恐怖のどん底に突き落としたであろうことを窘めるべきなのか。
 月夜を歩く、ショッキングピンクのウサギ。
 その姿を頭に浮かべて、つい口許が綻んだ。これほど現実離れしている光景もそうはあるまい。
 ──ただそれだけのことで、こんなにも心が温かくなるのはどうしてなんだろう。

 人と人の間には、暗くて深い河がある。
 でも、その河をなんでもないようにぴょんと飛び越えて、ふわりと触れてくる人もいる。

「それであの、お線香を上げに来てくれたんじゃなかったら、どんなご用件で」
 大体判っているが敢えて訊ねてみると、にょん吉くんはぴたっと黙ってもぞもぞと上半身を動かした。
「……ストーカーの件はケリがついたかと思って」
 ストーカーじゃないですと言うのも面倒になってきたのでやめた。
「心配して、来てくれたんですか?」
「そんなんじゃねえよバーカバーカ」
 小学生か。
 笑いだすのをこらえるのがけっこう苦しい。腹筋が痙攣しそうだ。
 ウサギになってきたのは、顔を隠すため、という理由もあるのかもしれない。
「じいさんの孫が刺されて殺されてるのが見つかった、なんて記事が新聞に出たら、俺だって寝覚めが悪いんだよ。あの人にはいろいろと世話になったからな」
「……そうですか。はい、大丈夫です。裕也とはちゃんと決着をつけました。もうここには来ないそうです」
 その結論が出るまで、数時間という時間を要したが、とにかく小夜と裕也の恋人関係は清算された。過程はどうあれ、最後には 「お幸せに」 と言い合うことが出来たのだから、穏やかで、平和的ないい別れ方であったと思う。
 これからは、この六年の思い出を、静かに胸の底のほうに埋めていく努力をしていくことになるのだろう。小夜も、裕也も。
「キッチリ別れたんだな?」
「はい」
「綺麗さっぱり?」
「はい」
「……うん、そうか」
 ウサギはぽつりと言って、ピンクの手でぼかんぼかんと小夜の頭を叩いた。だから痛いです、にょん吉くん。

「よく頑張った」

「…………」
 頭上から降ってきた言葉に、ちょっと涙が零れそうになる。
 それから突然、にょん吉くんの声が、少し上擦ったものになった。
「まあなんだ、長いこと一人の男と付き合ってきたんだろ。せっかくフリーになったんだったら、他にも目を向けてみたらどうだ」
「他にですか」
「たとえばの話だが、ウサギとかウサギとかウサギとかな」
 すごいウサギ押しだな。
「うーん、ウサギの彼女というポジションはちょっと……」
「じゃあ、役場の広報課の係長とか」
 範囲がピンポイントすぎるんですけど。
「まだ男は当分コリゴリという気分なんです」
「だったらウサギにしとけ。人畜無害だからな。なにしろセクハラしようにも出来ねえし。オトモダチから始めましょう、ってやつだ」
 決めつけるように言われて、結局、笑ってしまった。
 ウサギのお友達か。
 ……うん、そういうのも、悪くない。
「そうですね。ゆっくりと、はじめてみましょうか」
「おう」
 にょん吉くんの笑顔が月光に照らされて輝いた。



          ***


 季節が夏に入る頃には、小夜はすっかり 「にょん吉くんの彼女」 として認識されることになってしまった。
 ベンチにウサギと一緒に座っていると、気を遣ってくれるのか、誰も近くに寄ってこない。女子高校生には写メを撮られ、子供たちからは、にょん吉くん彼女が出来てよかったね、と温かく見守られる。非常に居心地が悪い。小夜が来ないなら俺も仕事しない、などとにょん吉くんが言うので、役場の法被青年からは、お願いだから来てやってください、と土下座されんばかりに頼まれる始末だ。まったくワガママなウサギなのだった。
「平日にも会ってるんだからいいじゃないですか」
「あれは島津。これはにょん吉くん。だから別」
 小夜の文句にもにょん吉くんはどこ吹く風だ。
「人間のほうだって、相当ワガママですけどね」
 態度は悪いし、言葉遣いはぞんざいだし、優しさが非常に判りにくいし、時々異様に面倒くさいし、歴史のことを語りだすと止まらなかったりするし。

 ──でも島津は、小夜の気持ちを大事にしてくれる。
 何かあったなと思ったら、たどたどしくでもこちらに向かって手を差し出してくれる。
 不器用さの裏で、彼がそう努力しているのを感じるたび、小夜はいつも胸がじんわりとする。

「あーあっちいな」
 隣のにょん吉くんがぶつぶつ言った。
「だから早く脱げばいいのに」
「だって小夜はこの姿でいる時のほうが優しい」
「同じですよ。失礼な」
「同じじゃねえし。この格好の時なら抱きしめても文句言わないのに、島津の時だと逃げる。にょん吉くんの彼女とか言われても否定しないのに、島津さんの彼女って言われると、違いますって全否定。けっこう傷つく」
「だって実際まだ彼女じゃないし」
「いつになったら彼女になるんだよ」
「ゆっくりはじめましょうって言ったら、おうって返事したじゃないですか」
「あー、あんなこと言わなきゃよかった!」
 にょん吉くんは大げさに嘆いて、ジタバタとピンクの足で地団駄を踏んだ。
「この格好の時に抱きしめても、ぜんぜん感触が伝わってこなくてすげえつまんねえ! 胸が当たっても尻を触っても楽しくない!」
「どうりでよくお尻のあたりで手がモゾモゾ動いてると思ったら……。マスコットキャラがセクハラするのはやめましょうってあれほど言ってるのに」
「小夜限定だ。じゃあ脱いで抱いてもいい?」
「まだダメ」
「お前鬼か!」
 ぎゃんぎゃん文句を言うにょん吉くんの声を聞き流して、抜けるような青い空に目をやった。いい天気だなあ、とのんびりと思う。
 武将隊は今日も元気に戦っている。楽しそうな歓声が上がった。
 ──祖父の愛した古戦場が、幸福な空気に包まれる。
「今日のお仕事が終わったら、デートしましょうか、薫さん。二人で手を繋いで、ゆっくりお散歩しましょう。私、にょん吉くんのモコモコの手も好きだけど、薫さんの大きな手も好きなんですよ」
 そう提案すると、にょん吉くんは押し黙って、しばらくしてから、「……おう」 とくぐもった声で返事をした。
 この中では、きっと暑さのせいばかりでなく、顔も身体も赤く火照っているのだろう。それが見られないのはちょっと残念だ。
 ピンクのウサギも好きだけど、その中の人も好きですよ、と伝えるのはいつにしようかなあ、と小夜は空を眺めながら考えた。

Fin.



BACK   短編部屋TOP   INDEX

Copyright (c) はな  All rights reserved.