短編15

魔王さまのムコ(5)




「ただいま!」
 魔王さまがスーパーの袋を提げて帰ってきた時には、すでに獣人の姿は部屋の中にはなかった。
「あれ? 俊之、じいがおらぬようだが」
 きょろきょろと室内を見回している彼女に、「もうあちらに戻ったよ」 と教えてやる。魔王さまはぱちぱちと目を瞬いてから、つまらなさそうに唇を尖らせた。
「なんだ、気ぜわしいやつだな。せっかく、わらわがこちらで覚えた料理をじいにも振る舞ってやろうとしたのに」
 スーパーの袋から、特売品だったのだろう肉のパックを五つくらい取り出しながら、ぶつぶつと言う。あの大きな身体には、それらすべてを調理しても足りないような量だが、きっと魔王さまの手料理を出されたら、過保護な獣人は感極まって泣き出していたに違いない。
「いろいろと、忙しいんじゃない?」
 吸っていた煙草を、灰皿の上でちょんと軽く指で弾いて灰を落とし、俊之は言った。
「しかしだな、こちらにはわらわの様子を見に来ているはずなのだぞ? それを、俊之と話しただけでさっさと帰ってしまうとは。じいがおらねばこの肉はどうやって片づけるのだ」
 冷蔵庫の中に買ってきたものを押し込めながら、魔王さまはなおも不満顔だ。どちらかというと、獣人が帰ってしまったことよりも、買ってきた五パックの肉をどうしようかということのほうに、より大きく関心が向いているように見える。
「また冷凍しておけば?」
「もちろんそうする。しかし冷凍室が小さいのでな、全部入るかどうか……あまり冷凍期間が長いと、味が悪くなるし」
「じゃ、大きい冷蔵庫を買おうか」
「でも、独身男に大きな冷蔵庫は必要ないと言っていただろう?」
「それはつまり、独身じゃなくなれば必要になるってことでしょ?」
「そんな言葉遊びは後にして、俊之もこの肉の使い道を考えてだな」
「君、僕のお嫁さんになる気はある?」
 冷蔵庫の前にしゃがみ込んでいた魔王さまの手から、五パックの肉がぼとっと床に落ちた。
「……は?」
 大きな目をますます大きく見開いて、魔王さまがこちらを振り向く。褐色の肌が、一気にがーっと赤く染まった。
「な、な、な、なにを」
 しどろもどろになって固まっている彼女の傍らでは、冷蔵庫がピーピーと鳴りだして、開いたままの扉を閉じるようにと警告を発している。
 俊之は煙草を咥えて、灰皿を手に立ち上がり、床に落ちた肉とその他の食材をとりあえず適当に冷蔵庫の中に放り込むと、パタンと扉を閉めた。いくらエアコンをつけているといっても、この暑さの中で室内に出しっぱなしにしておいたらすぐに傷んでしまう。胃腸の弱い魔王さまが、それでまたお腹を壊すようなことになったら困る。
「聞こえた?」
 自分も腰を屈めて、床にぺたんと座り込んでしまった魔王さまと目線を合わせた。一瞬ぴったりと合ったはずの黒い瞳が、ふらふらと泳ぎだして何もない虚空へと逃げる。
「やっぱり暑いせいかな、幻聴が聞こえた」
「僕のお嫁さんになる気はある? って言ったんだけど」
「オヨネさんとは誰のことであったかな」
「誤魔化さない」
 煙草を口の端にぶら下げたまま手を出して、魔王さまの鼻を指でギュッとつまんでやる。日本人ではほとんどお目にかかれないくらい高くて形のいい鼻だから、非常につまみやすかった。
「ひたひ、ひたひ! ひたひ、とひゆひ!」
「真面目に聞く?」
 ばたばたと両手を振り回していた魔王さまは、俊之の確認にこくこくと慌てて頷いた。ようやく指を離され、赤くなった鼻を隠すようにして押さえる。
「けっこう容赦ないな、俊之!」
「ちゃんと手加減したよ」
 女の子相手に、本気で力を入れるわけがない。俊之が本気でやったら、多分、今頃鼻の骨が折れている。
 観念したらしく、魔王さまの視線は、少しの間うろうろと彷徨ってから、再び俊之のほうへと戻ってきた。
「その、つまりそれは、わらわと子作りを……」
「順番が違う。僕は、お嫁さんになる? って聞いてるんだ。子供のことはそれから考えればいいことだよ」
「……意味が、判らない」
 本気で意味が判らないようで、魔王さまの表情は相当に困惑したものになった。上目遣いに、ちらちらと俊之の顔を窺っている。
「つまり」
 唇に挟んでいた煙草を今度は指で挟んで、俊之はまっすぐ魔王さまの顔を見た。
「魔王を廃業して、こっちで僕のお嫁さんとして一緒に暮らすつもりがある? って聞いてるんだけど」


          ***


「…………」
 魔王さまは最初ぽかんとしてから、すぐに空気を一変させた。今になって理解が追いついて、それがゆえに怒りも湧いたらしい。
「……じいに何を聞いた、俊之」
 顔から表情が消え、冷たい光を放つ黒い瞳が細められる。低くなった声音からは、いつもの無邪気さが抜け落ちて、魔界で君臨する王としての姿の片鱗が覗いていた。
「何って」
 俊之はまったくそれには動じずに、淡々とした調子で答えた。白い煙を吐き出し、片手に持った灰皿に煙草を押しつけて消す。
「君が今の魔界で、かなり危なっかしい立場に置かれていること、かな」
「…………」
 忌々しそうに魔王さまが大きなため息を吐き、ちっと舌打ちした。
「余計なことを言いおって」
「じいは心配してるんだよ、君のことを」
「そんなことは知っておるわ」
 ふん、とそっぽを向く。
 床から立ち上がり、すたすたと部屋を横切っていったかと思うと、ワークチェアの前で少し迷うように立ち止まり、しかし結局そこには座らずに、畳の上のラグにどっかりとあぐらをかいて腕を組んだ。腹立たしくとも、話を続ける意思はあるということか。人と話をする時は顔の位置がなるべく同じ高さに来るように、という俊之の教えに、魔王さまは忠実だ。
 俊之も腰を上げ、彼女の前に行って座った。相手は反抗期の中学生のように膨れっ面で余所を向いているが気にしない。どういう態度であれ、人の話はちゃんと耳に入れる性格だということは知っている。
「人間界の現在の王様は、魔界にひどく嫌悪感を持つ人物であるらしいね」
「……まあな」
 渋々、魔王さまは頷いた。
「寿命が短い人たちしかいないあちらでは、もともとは同じ生き物として仲良くやっていたという大昔の記憶も記録も消え失せて、魔族というものは排除すべき恐ろしい敵になっている。それでも、魔界の人たちの姿や能力を恐れてか、今までは積極的に手を出してくることはあまりなかった。けれど現王になってからというもの、魔族なんて滅ぼしてしまえばいい、という極端な意見が前面に出てくるようになった、と」
 つまりそれだけ、現在の人間界が疲弊しているということじゃろうのう、と、獣人はしみじみした顔で話していた。


 たまたま運悪く続いた自然災害、天候不順、それに伴う農作物減少による食糧事情の悪化。
 経済は停滞し、物価は上昇し、それに伴い貧困化が進む。ここ数年、人間界はそういう逼迫した状況下にあったらしい。
 そんな場合、普通、人々の不満は、一直線に国家や政治家へと向かうところだ。しかし人間界の王は能はないが悪知恵だけはよく廻る性質であったらしく、その負の感情を故意に、自分が忌み嫌う魔界へと向けさせた。
 反逆や暴動が起こる前に、この人間界の苦難は、すべて魔の力の干渉によるものだと偽の情報を流し、悪いのはあいつらだ、という方向に人心を操ったのである。
 ──まあ、客観的に見れば、それはかなり有効な手段だったろうな、と俊之も思う。
 怒りや苦しみは、強引に抑えつけようとすれば、その分、なおさら強く大きくなりがちだ。少しずつその原因を取り除いていければいちばんいいのだろうが、それが無理ならそういったものを別のほうへ誘導してやればいい。少なくとも、自分は加害者ではなくみんなと同じ被害者なんだよ、という顔をしていれば、攻撃される可能性は低くなる。
 しかし、無理やり敵役を割り振られた魔界の人々にとって、そんなものは迷惑以外の何物でもない。自分たちは何もしていないのに、勝手に人間界から憎悪だけを向けられるのだから、当然だ。
 別の場所に暮らしているとはいえ、一方的に、非難され、罵られ、蔑まれれば、そりゃあ、本来は温厚な魔族たちだって、いい気分はしないに決まっている。その上、先日の鎧男のように、妄想を拗らせた挙句血気逸った人間にいきなり突撃をかましてこられたりしては、無視をするのも難しい。やられたらやり返す、くらいのことはしたくなっても無理はない。
 だが問題は、魔界と人間界の人々の間には、圧倒的に力の彼我の差がある、ということだ。
 いきなり襲いかかられて、反撃したら相手が死んでしまった、という事態になれば、魔族からしたら正当防衛でも、人間から見れば、やはりあいつらは言葉も道理も通じない凶暴な生き物なのだということになる。結果、どんどん敵対意識が強くなる。さすがにそんな成り行きでは、魔族のほうだって黙っていられず、こうなったら本当に人間たちをやっつけてしまおうか、という意見も出てくる──

 あちらの世界では、魔、というのは、そもそも 「異端」 という意味合いでしかなかったはず。
 けれどもそれを、イコール 「悪」 だと決めつけたのは人間界の人々のほう。
 疎外され、別の土地に追いやられ、傷つきながらもひっそりと静かに暮らしていた魔界の人々にとって、この迫害ともいえる扱いには、もう耐えられないと思う者が出はじめるのも無理はなかった。

 そんなわけで、魔界は今、人間界とつかず離れずの、昔ながらの共存関係の持続を望む穏健派と、こうなったらもうこちらから人間界に攻め込んでしまえという過激派の真っ二つに分かれ、議論を戦わせているところなのだという。
 魔王さまはもちろん穏健派だが、数少ないヒト型、しかもまだ二十歳の若さの女性では、誰もまともに意見を聞こうとしない。それどころか最近では、命を狙われるようなことまである始末。魔王さまに跡継ぎはおらず、彼女が死ねば、次の魔王は間違いなく獣型になって、過激派にはそのほうが都合がいいからだ。
 獣人をはじめとした穏健派が、相手は誰でもいいからまず子供を、と言い張るのはそのため。とりあえずこちらの世界で暮らしてみたら、という俊之の提案に一も二もなく肯ったのも、魔王さまが子作りに励む期間、彼女の身を危険から遠ざけておきたい、という意図があったのだそうだ。
 その間に儂たちだけで事態の収拾と沈静化を図ろうとしたのじゃが──と、うな垂れて言ったあの獣人は、やっぱり過保護な爺やなのだった。


「……でも子供が出来たとしても、君の立場が危ないのは変わりはない」
 たとえ跡継ぎが出来たとしたって、経験不足の魔王さまが軽んじられるのは同じだろう。いざとなったら、子供ごと殺してしまえばいい、と考える輩だって必ず出てくる。
「だったらもう、魔王の座は他の誰かに譲って、君はこっちで暮らせばいい」
「簡単に言うな」
 魔王さまは吐き捨てるように憤然と言った。
「それはわらわに、魔界とそこの住人たちを捨てろ、というのと同義だぞ」
「そう言ってるんだよ」
 冷然と言い放つ俊之の言葉に、魔王さまはますます眉を吊り上げた。怒りの波動が、ゆらりと彼女の全身から立ち昇る。触ったらバチバチと静電気が弾けそうで、さすがに魔王というだけあってその迫力は普通の女の子の比ではなかったが、俊之はそれにも頓着しなかった。
「どちらにしろ、ヒト型魔族がそれだけ減少しているんだ。魔王の世襲制にはすでに破綻が来ている。君が産んだ子供が、また女の子だったらどうする? その子にもこんな風に延々と相手探しをさせる気かい? 運よく男の子だとしても、その時にちょうどいい年頃のヒト型の女の子がいないかもしれない。君がおそらく、ヒト型の最後の魔王だ。だったら引退の時期を少し早めたって、大して問題なんてありゃしないよ」
 あくまでも淡々と言葉を継ぐ俊之に、今度は怒りで顔を真っ赤にした魔王さまが握った拳をぶるぶると震わせた。その指の隙間から、ちらちらと炎が噴き出すのが見えている。どうやら溢れそうな火術を、必死で制御しているらしい。
「俊之、いい加減にしないと怒るぞ」
「実際のところ、あちらの世界で、君のことを大事にしているのは、あのじいくらいのもんだろう? 子供の頃から、友達もおらず、遊び相手もなく、獣型ばかりに囲まれて、一人ぼっちで過ごしていたことの方が多かったんだろう?」
「それでもだ!」
 ばん、と魔王さまが平手で床を叩いた。ラグに、くっきりとした焦げ目がついた。
「それでも、わらわには魔王としての責任がある! わらわが今退いても、次代の王がすぐに決まるものか! いくらわらわが力量不足とはいっても、ただでさえ政情が不安定な時に、玉座を空にしたら混迷は必至。その結果、困ることになるのは罪もない住人たちだぞ! 父上を含め、代々の魔王が、ずっと守り抜いてきた魔界を、魔族たちを、そうあっさりと捨てられるか!」
「──だったら」
 俊之は、ラグの上にあるその手を掴み、ぐいっと強く引き寄せた。
 彼女が驚くのも構わず、そのまま自分の腕の中まで引っ張って抱き込むと、間近に顔を寄せる。

「君は、子供を作るより先に、やることがあるんじゃない?」

 静かに、だがきっぱりと言うと、魔王さまが怒るのも忘れて、目を瞠った。
「あの過保護なじいに、まず第一に子供を作るのが魔王の役目、と説き伏せられてきたんだろう? でも、君も疑問は抱いていたはずだ。この状況で、今すべきことは、それではないんじゃないかと。もちろん、こちらの世界で夫探しをすることでもない。君が今、もっとも優先しなきゃいけないのは、あちらで他の魔族の信用を得て、味方をなるべく多く作り、地盤を固めることじゃないのかい? そのためには、どうすればいいと思う?」
 俊之の言葉に、闇のような黒い瞳が、ふらりと揺れた。
「……しかし、じいが」
「じいの意見はこの際棚の上に置いておきなさい。あの人は君にとっては最大の忠臣で、親代わりもしてくれた大事な恩人で、どうしても心配させたくないという気持ちはわかる。けど、だからって、なんでもかんでも言うとおりにしていればいいというものじゃない。自分に魔王としての責任があると思うなら、君は君の考えをしっかり持って、口にしないとダメだよ」
「…………」
 魔王さまはじっと、俊之の顔を見つめた。
「──わらわの考えか」
 そして一言、ぽつりとそう言った。


          ***


 数日後、魔王さまは、獣人と相談した上で、魔界に帰ることになった。
 夫の件も子供の件もとりあえず後回し、という魔王さまの強い主張に、渋い顔をしていた獣人も最終的には折れざるを得なかったらしい。今なにより自分に必要なのは子供ではなく、穏健派と過激派をまとめ上げる統率力だと思う、と説得され、獣人は涙ながらに、ひいさまも成長されて、と何度も言った。
「正直、難しいことは多いじゃろうがのう」
「そこをフォローするのがあなたの役目なんじゃないですか」
 魔王さまは決して、上に立つ器にないというわけではない。努力をすることも知っているし、自分の立ち位置も弁えている。なにより、魔界と魔族に対する深い愛情がある。
 彼女に足りないものがあったとすれば、自信と経験だろう。前者はこちらでいくらか得ただろうが、後者は、あちらで身につけていくしかないものだ。
 周りの人々は彼女を危険から遠ざけ、囲い込んで守るのではなく、それを支えることこそが重要なのではないか──と、俊之は思ったことを口にした。
「……うむ、そうじゃの。本当にそうじゃ。儂は考え違いをしておったのかもしれぬ。俊之どのには、大変、世話になったのう。ラーラさまはきっと、お父上同様、立派な魔王になられるじゃろう」
 うんうんと納得して、黒マントを羽織った獣人は、先に帰っていった。
 部屋に残されたのは、俊之と魔王さまだけになった。おそらく獣人は気を利かせてくれたのだろうが、魔王さまはさっきからずーっと俯いて、無言のままだ。
 頬を膨らませ、後ろで手を組み、ぐりぐりと片足のつま先を床に押しつけ回転させている。そろそろラグに穴が開く。煙草の焼け焦げを作らないようにと注意していたのだが、その努力も無駄な気がしてきた。

「……俊之なら、痛いのを我慢してもよいと思ったのだがな」

 ようやく、ぼそりと出した言葉がこれだったので、俊之はぷっと噴き出してしまった。
「それは別に、もう少しあっちが落ち着いてからでもいいんじゃない?」
 そう言うと、魔王さまは驚いてぱっと顔を上げた。何度も目を瞬き、口を丸く開けて、俊之を見る。
「──また、ここに来てもいいのか?」
「あれ、来ないつもりだったの?」
 その問いに、俊之のほうこそきょとんとしてしまう。
「じゃあ、永遠の別れのつもりだったわけ? ひどいな」
 自分にはそんな気はさらさらなかったので、けっこうショックだ。ショックを受けている自分自身に、ちょっとびっくりした。
「だ、だって」
「僕、お嫁さんになる気はある? って聞いたと思うんだけど」
「え、あれはだから、説教の前振りというか、わらわから決意を引き出すための技法というか、そういう」
「そんな理由で、プロポーズする男がいる?」
 苦笑した。俊之は自分のことを一応、「嘘をつかない人間」 と位置付けているため、口にした言葉はすべて、それなりの覚悟と責任を伴っているつもりだ。あの台詞だってもちろん、本心から出したものだった。
 しかしそれが、本人に通じていなきゃ、しょうがない。魔王さまだけでなく、俊之もどこか大事なところが抜けている。

「子供だけを作ってそれで終わり、って関係にするつもりがなくなったから、君を今、あちらに帰すんじゃないか。そんな理由で抱く気が失せたんだ」

 そう言って、軽く身を屈めて、唇を重ねた。
「君は君のやるべきことをして、またここに堂々と戻っておいで。遠距離恋愛っていうのも、たまにはいいさ」
 赤くなった魔王さまは、自分の頬を両手で押さえた。
 それから、ぱあっと花が綻ぶような笑みを浮かべると、
「浮気したら丸焼けにするぞ、俊之!」
 わりとシャレにならない脅し文句を残して、元気にあちらの世界へと帰っていった。




          ***


 ──そして数カ月経ち、そろそろ真冬になろうとしている。

 仕事から帰って、俊之は自分の部屋のドアを開けた。
 コートを着ていても、冷たい風にどんどん熱が奪われていきそうな低い気温の時には、築年数を重ねたアパートの一室は、外とさして変わりがない。真っ暗な部屋の電気をパチンと点けると、そこには誰もいない、冷え冷えとした空気が居座っているだけだ。
「…………」
 一度、待っている人間がいた状態を経験すると、駄目だなあ、と思う。
 毎日毎日、帰るたび、心のどこかで 「おかえり、俊之!」 と明るい笑顔と声を期待してしまう自分がいる。魔王さまが来るまではなんとも思わなかったのに、二人でいた時期を過ごしてしまうと、一人に戻るのがなかなか慣れない。電気を点けるたび、朝とまったく変わらない室内を見るたび、自分以外の誰かがいないという事実を再認識してため息が漏れる。
 部屋の中には、誰も座らないワークチェア。人の手形の焦げ跡のあるラグ。買い換えようかな、と思うものの、なんだかその気になれなくて、いつまでもそのままだ。食事を作るのも億劫で、最近は外食に頼ることが多くなった。
 窓に近寄り、スーツの中に手を入れて、取り出した煙草に火を点けた。
 外はもう、深い闇に包まれている。びゅうびゅうと吹きつける風が、ガラスを叩く音しか聞こえない。そこに映る自分の姿を見るともなしに見ながら、俊之は煙を吐き出した。

 ──元気にしてるのかね。

 あれっきり、まったくなんの音沙汰もない彼女の姿を思い浮かべ、心の中で呟く。
 なにしろあちらとは、手紙のやり取りも出来なければ、スマホの電波だって届かないので、確認するすべがない。
 無沙汰は無事の便り、などと言うが、本当にそうなのだろうか。なにしろあの魔王さまは、いろいろと頼りないところがあるからな。上手くやっているかどうかはともかく、病気や怪我をしていないといいのだが。
 ──実を言えば、もう少し頻繁にこちらに戻ってくるものだと、軽く考えていた。
 獣人があれだけしょっちゅう行き来していたのだから、次元の穴とやらは簡単に通行可能なものなのだろう。だからこそ俊之だって、あんな風に分別くさい大人になって、あちらに帰るよう、促してやれたのだ。

 危ない目に遭うようだったら、すぐにこちらに戻ってこればいい。
 迷うことがあったら、自分に相談しに来ればいい。
 この部屋が、困難に直面せざるを得ない彼女の、安らぎの場所になればいい。
 そう考えていたからこそ。

 それがどうだ、魔王さまは夏に別れたきり、一度もこちらに姿を現さない。少しは政情が落ち着いてからと思っているのか。それとも、何か予想外のことが起きたのか。
 あちらに、帰すべきじゃなかったのか。
 いろいろ考え出すと、キリがない。最近はストレスで胃も痛くなってきた。煙草の本数も増える一方である。このままでは魔王さまが帰るより、俊之が肺癌になるほうが早いかもしれない。
 とにかく、少しは近況が判れば安心もするのだが。かといって、こちらから会いに行くことも出来ないし──
 そんなことを考えていた時だ。

 バン、と勢いよく部屋のドアが開いて、黒マント姿の獣人が倒れるようにして中に飛び込んできた。

「と、俊之どの! ラーラさまが、儂のひいさまが……!」
 彼の大柄な身体は、あちこちが血に染まっていた。



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