短編16

ワンモア(4)




 ──しばらくしてから、保とマネージャーの彼女がうまくいっていないようだ、という話が俺の耳に入ってきた。
 最初からそれは予想できていたことだったし、保の反応から察していたことでもあったから、驚きはなかった。ふーん、やっぱりね、くらいにしか思わない。
「あの彼女、けっこう可愛いのに。何がいけなかったんだろうなあ」
 第三者の無責任な噂としてその情報を伝えてきた同級生は、嘲笑ややっかみのほとんど混じらない、素直な羨望を乗せてそう付け加えた。あーあもったいない、とでも言いたげな口調と顔つきは、それだけ、保と彼女がどうなろうとさして関心がない、ということの表れでもある。
 ちょっとだけ付き合って別れる。そんなのは、よくあることだ。俺と同じように、こいつもそう思っているんだろう。三十分も経たないうちに、自分がそんな話を口にしたことすら、忘れているかもしれない。
「あいつとお前って、仲良かっただろ? 聞いてないの?」
 不思議そうに問われて、俺はちょっと笑った。
「前はよくつるんでたけど、今はあんまり話もしないな。お前こそ、保とは仲が良かったっけ?」
「いや、違う違う。俺はその彼女のほうをちょっと知ってて」
 つまり、この男の彼女が、剣道部のマネージャーの女の子と友達なのだそうだ。その友達関係っていうのも、トイレまでくっついていく親友同士、というものではなく、お昼を一緒に食べるグループのメンバー、という程度のもので、目の前の男も直接の面識はない。だからこいつの彼女も、あくまで軽い話題のつもりで提供したのだろう。
「最初のうちは、すごく楽しそうだったんだってさ。毎日浮かれてて、話すのは彼氏のことばっかり。朝も帰りも一緒で、夜遅くまでラインでお喋りして、部活が休みの日はどっか出かけて、せっせと菓子まで手作りしたりしてさ」
「あー……」
 俺は薄ら笑いで、曖昧な相槌を打った。
 なるほど。あの彼女は、そういう、「健気に尽くすタイプ」 であったと。まあそりゃ、そもそもがマネージャーなんて役割をしたがる女の子なんだもんな、そういう資質を持ち合わせていることは、自明の理であったかもしれない。
 朝も帰りもぴったり一緒、ラインを送れば相手には必ず即返を要求し、せっかく身体を休められる日に外デート、相手が甘いものが苦手でも構わずキラキラした目でケーキやらクッキーやらを差し出してくる 「彼女」。
 そういうのが好きな男も、多数、いるんだろう。現に、今ここで喋っている男の顔は、かなり羨ましそうだ。そういうのが男女交際の醍醐味だと思っているのだろうし、自分の彼女もそれくらいしてくれたらなあ、なんてことも考えているのかもしれない。
 ──けど。

 保は、苦手だよな。

 今ではほとんど接触がなくなったとはいえ、高一のはじめから二年の夏休みまでは、しょっちゅう一緒にいたんだから、俺にだってそれくらいはわかる。俺がそういうのをひどく疎ましく思ってしまうのと同様、保もかなり煩わしく思ってしまう性質の人間だろう、ということは。
「最初はそれで楽しかったんだけど、だんだん、相手が素っ気なくなりだしたんだって。彼氏のために部活後のレモンやスポーツドリンクを用意したら逆に怒られたって、泣いてたこともあったらしいぜ」
 そりゃそうだろ。彼女は立場的には、「剣道部のマネージャー」 なんだから、保だけに個人的な差し入れをしたらダメに決まっている。他の部員に対してもバツの悪い思いをするだろうし、なにより和が乱れる元になる。そういう公私混同をするなと注意したら、彼女のほうは、「怒られた」 と泣いたわけだ。
 自分で勝手に押しつけておいて、それに見合ったものが返ってこないと、ひどいとなじる。保はさぞかし、うんざりしただろう。その気持ち、俺にはよくわかる。
 ……うん、よくわかる。嫌になるくらい。

 そんなことがあるたび、きっと保は心の底から思い知ったはず。
 ──奈月なら、こんなことはなかったのに、と。

「で、近頃はなんか雰囲気もギスギスしてきちゃってさ。思ったよりも楽しくなかった、もっと男らしくて優しい人だと思ってたのに違った、って不満をぶち上げてるんだって」
「……へえ」
 俺からすると、保は十分、男らしいところもあるし、優しいところもあると思うんだけど。
 剣道の胴着を着けて竹刀を振る保の上に、彼女はどれほど肥大した幻想を乗せていたのか。
「まあでも結局、合わないってことだったのかな。しょうがないよなあ」
 さっきから最小限の返事しかしない俺の態度を、この話に興味がないととったのか、同級生は締めくくるようにそう言った。でも結論としては、俺もまったく同意見だ。結局、あの二人は合わなかったのだ。ただ、それだけのこと。
「なあ、その話って、もうあちこちに広まってんの?」
 トン、と指先で机を叩きながら出した俺の問いかけに、男は、ん? と目を瞬いた。
「さあ、どうだろ。俺は自分の彼女から聞いただけだけど……でも別に口止めもされなかったし、本人もさんざん愚痴って、あんまり隠すつもりがないようだし、知ってるやつは多いんじゃねえ?」
「……ふーん」
 俺はもう一度指で机を叩き、視線を宙に投げた。

 奈月は、このことを知ってるんだろうか。
 知ったら、どう思うんだろう。


          ***


 普段、俺の遊びの誘いにはあまり乗ってくれない奈月だが、映画は別だ。
 奈月は映画を観るのが好きなのである。ハリウッドの超大作も、B級コメディーも、アクションものも、アニメも、興味が引かれたものはなるべく行くようにしている、のだという。空いた時間があれば、一人ででもさっさと出かけてしまうというのが奈月らしい。
 だから、コレ今話題になってるんだって、観に行かない? と水を向けると、よほど好みじゃないものでない限り、二つ返事で了承してくれる。俺も映画は嫌いじゃないから、そうやって休みの日に何度か、二人で出かけた。シネコンで待ち合わせて、映画を観て、お茶を飲みながら感想を言い合って、じゃあ、と別れるという、デートとは程遠いものなのだが。
 それでも、映画を観ている時の奈月は、いつもの落ち着いた姿とは違って、いちいち登場人物に感情移入しながら、笑ったり涙ぐんだりハラハラして前のめりになったりするので、俺は大画面を見るよりも、そちらを見ているほうがずっと面白いくらいだった。
 作りものだとわかっているのに、どうしてああも手に汗握って、食い入るような眼差しを向けられるんだろう。
 映画に誘うってのは実は口実で、俺は本当は、奈月のその真剣な横顔を見たいのかもしれなかった。


 その日、俺たちが観たのは恋愛ものだった。
 すぐにベッドシーンに突入してしまうことが多い洋画では珍しく、その話はじれったいほどに男女の仲が進まなかった。特に男が、あっちに行ったりこっちに行ったりフラフラと迷ってばかりで、はっきりしない。
 こんな優柔不断な男のどこがいいのか、二人のヒロインは必死になって自分を選んでほしいと訴えている。俺は字幕を目で追いながら、ちょっとイライラしていた。どっちも捨ててやりゃいいじゃん、こんなやつ。
 「彼は優柔不断なんじゃなく、優しい」、だってさ。「誰かを傷つけると、自分もまた傷ついてしまう」、だって。そんなわけあるか。こいつはただ、自分に酔ってるだけだ。本当に優しいんだったら、こんな中途半端な立ち位置で、彼女たちを苦しませられるはずがない。
 二人の女の間を揺れ動いていたヒーローが、「真実の愛」 ってやつに気づく場面を、奈月はどう思って観ているんだろう。
 俺はストーリーそっちのけで、そんなことばかり考えていた。


 そんなわけで、映画が終わり、カフェで向かい合って座った途端、「面白かったね」 と嬉しそうに言う奈月に、俺はまったく同意できなかった。
「そうかなあ」
「穂積くんは、好きじゃない? ああいうの」
「うん」
 ぜんぜん、好きじゃない。はっきり言うと、今もまだ腹立ちが胸の中でくすぶっている。俺が不機嫌な空気を醸し出しているのを敏感に感じ取ったのか、奈月は少し意外そうに、目をぱちぱちさせた。
「そっかー。私は、登場人物全員の心理描写が細かくて、今どき珍しいくらい丁寧なつくりの映画だと思ったけどな」
 そりゃ、ヒロインAの心情は、奈月には手に取るようにわかっただろう。自分と重ねて観ていたら、登場人物の一人になったような気分で、さぞ映画鑑賞にも熱が入ったに違いない。
「ヒロインがなんであんな男に惚れるのか、さっぱり理解できなかった」
「え、そう? あのヒーロー、少し穂積くんと似てると思ったのに」
「はあ?」
 奈月の言葉に、本気でびっくりした。冗談なのかと見返してみれば、ホットチョコレートの入った白いカップを持ち上げながら、奈月はきょとんとした顔を俺に向けている。どうやら大真面目に言っているらしい。
「どこが? 俺、あんな優柔不断じゃないと思うんだけど」
「なんていうか、偏屈で、了見の狭いところが」
「俺が?」
 ますますびっくりして目を丸くする。今まで、軽いだのいい加減だのと言われたことは数あれど、そんな評価を下されたことは一度もない。
「なに、奈月の中では、俺ってそういう男なの? 偏屈で、了見が狭いって?」
「うん、わりと」
「うわ、あっさり肯定した」
 怒るより、呆れるより、戸惑いのほうが大きくて、何を言ったらいいのかわからない。呆然としていると、奈月が今になって少し気が咎めるような表情になった。
「ごめん、言いすぎだった?」
「いや……ていうか、そんな風に言われたこと、一回もなかったから」
「だから自覚がないんだね」
 奈月はさらっと酷いことを言った。たぶん、本人は毒舌を吐いているという認識もないんだろう。まったく否定する気がないのがすごい。それくらい、奈月にとっては、当然のことなのか。え、俺が、偏屈? マジで?
「俺って、あんなに、何考えてるかわかんないようなやつかなあ」
「うん、似てる、似てる」
 奈月がくすくす楽しそうに笑いだす。その顔を見ていたら自分もちょっと気分が浮上して、噴き出してしまった。不思議なもので、奈月がそう言うのならそうなのかもしれない、と思えてくる。
「けど、俺があの立場にいたら、もっと上手いことやるよ」
 俺は冗談めかしてそう言い、軽く笑った。
 でも奈月は、一緒になって笑うことも、サイテー、と見下すこともしなかった。
「上手いこと、二人の女の人と距離を取って、自分から離すの?」
 そう言って、口許にやわらかい笑みを残したまま、首を傾けた。

 ほんの束の間、言葉に詰まった。

「……さあ、どうだろ」
 少しの間を置いてから、微笑を貼り付けて返事をする。
「穂積くんはきっと、二人の女の人に好意を持たれても、どっちとも上手に付き合おう、とは思わないよね。あのヒーローもそう。そういうところが、似てると思ったんだよ」
「二股なんて、面倒だからね」
「それくらいなら、徹底的に突き放そう──穂積くんは、そう思うんじゃないのかな」
「…………」
 奈月の静かな視線がまっすぐ向かってきて、居心地の悪くなった俺はあやふやに笑って、コーヒーカップを持ち上げた。
 そうかもしれない。俺があの立場になったら、二人とも突き放すのかもしれない。けどそれは、優しさからなんかじゃない。
 ただ、鬱陶しいから。自分の領域に侵入されたくないから。ぎゃあぎゃあと自分の権利ばかりを主張するやかましい女たちに、これ以上、振り回されたくないからだ。

 俺はそういう、ろくでもない人間だった。

「確かに、俺って偏屈で了見が狭いのかも」
 納得して頷いたら、どういうわけか奈月は眉を寄せ、唇を曲げた。
「そういうところが、ひねくれてるんだよ」
「なんで。素直に肯定したのに」
「ちっとも素直じゃない」
 奈月が言ったことをその通りだと認めたのに、どうしてそんなむくれるような顔をされるのか、意味が判らない。でも、奈月のそういう顔は滅多に見られるものじゃないので、かえって嬉しくなった。
「奈月は、あのヒーローを好きだと思うヒロインの気持ちがわかった?」
「…………」
 口にしてしまってから、この流れでこの質問は少々微妙な意味を含んでいるものとして受け止められかねないんじゃないか、と気づいたが、手遅れだ。奈月はちょっとだけ困ったように、手元のカップに目を落とした。
「……どうだろう。でも、好きになるのに、理由はないんじゃないのかな」
 ぼそりと独り言のように言ってから、また顔を上げて、今度は瞳に悪戯めいた光を浮かべる。

「穂積くんは、告白してくる女の子には、必ず 『なんで?』 と理由の説明を求めるようだけど」

「げ」
 思わず声が出た。
「なんで知ってんの?」
「私にも一応人脈があるんです、『なんで君』」
 ぴしゃりとやられて、俺は首を竦めた。奈月の人間関係なんてそんなに広いものでもないと思うのに、そういうしょうもない話はちゃんと伝わるんだなあ。
 きっとその話には、少しばかり悪意が上乗せされた諸々も付随していたのだろうけど、奈月はそれについては何も言わなかった。
「だって、どうして俺と付き合いたいと思うのか、よくわからないからさ」
「理由はない、って返されたらどうするの?」
「理解できない、って思う」
 ふー、と奈月が大きなため息をついた。また呆れているらしい。
「…………」
 少し無言で考えて、俺は手にしていたコーヒーカップをソーサーに置いた。
 カチン、という音がする。

「……奈月は」
「うん?」
「奈月は、まだ、保のことが好き?」
「…………」

 俺のその問いに、奈月は黙った。唇を結び、俺と真っ向から目を合わせる。
 しばらくの間、沈黙が続いた。店の中を流れるかすかなBGMと、客同士のお喋りの声が、俺と奈月の間を通り抜けていく。
「私」
 ずいぶん長く感じた、けれど実際にはたぶん一分くらいの時間を経て、奈月が口を開いた。
「──私、ずっと、たもっちゃんのことが好きだった」
「うん」
「理由はないの。ただ、好きだった。小っちゃい頃から、変わらずに」
「うん」
「十年以上も積み上げてきたその気持ちを、簡単に捨てたり、忘れることは、出来ないし、しない」
「……そっか」
 その言葉に、少し笑いながら、目を伏せる。
 奈月はきっと、そう言うだろうと思っていた。もう何とも思ってない、ときっぱり返されたら、もしかしたら俺は失望したかもしれない。だってやっぱり、それは嘘だと思うから。
 奈月はいつも正直だ。自分の心に正直であろうとする奈月を、俺は気に入ってる。
 保のことしか目に入らない奈月を見るのが、好きだった。
 ……だからいいんだ、これで。
 奈月が続けて何かを言いかけようとしたけど、俺は片手でコーヒーカップを持ち上げ、もう片手でそれを制した。

 もういいよ。
 そこから先は、聞きたくない。

「きっと、さ」
 カップに口をつけて、微笑する。
「きっともうすぐ、あの映画みたいなハッピーエンドが見られるよ」
「え?」
 奈月は怪訝な顔をしたが、俺はそれ以上は何も言わず、カップを傾けて褐色の液体を飲み干した。
 コーヒーはすっかり冷めて、おまけにとてつもなく苦かった。


          ***


 保が俺に会いに来たのは、それから一週間くらい経った昼休みのことだ。
「お前、奈月とは付き合ってないんだってな」
 開口一番、保にそう言われ、俺は唇の端を上げた。 もう真冬に入ろうという現在、廊下の空気は冷え冷えとしている。閉じられた教室の扉からは、室内の賑やかな声が漏れ聞こえてくるが、外を歩いているやつの姿はほとんどなかった。
「奈月に聞いたんだ?」
 ひんやりとした壁にもたれて両手を制服のズボンのポケットに突っ込み、いかにもやる気がなさそうに立つ俺を、ガタイのでかい保は怒りを含んだ表情で見下ろした。
「ああ。『付き合ってない』 って、奈月ははっきり答えたぞ」
 だろうね。驚いて、とんでもない、といわんばかりに否定する奈月の顔が目に浮かぶ。
「俺も、付き合ってるよ、なんて言った覚えはないけど」
「でも、わざと、そうとられるような言い方をしたよな?」
「まあ、そうだね」
 へらっとしながら言うと、保が眉を吊り上げ、「お前……!」 と俺の胸倉を掴んだ。口元から笑みを消し、無表情で険しい保の顔を見返す。
「俺、そんなに悪いことした? 別に嘘をついたわけじゃない。第一、俺と奈月が付き合っていようがいまいが、保には関係ないことじゃん」
「…………」
 保は歯噛みをして、忌々しそうに舌打ちすると、どん、と小突くように乱暴に俺から手を離した。
「……お前みたいなやつを、奈月が選ぶわけない」
「だよね。奈月が選んだのはたもっちゃんただ一人。でもそのたもっちゃんは、奈月じゃなくて、別の女の子を選んだんだよね」
 たっぷり皮肉を込めて言うと、保は俺を睨んでから、その視線を下にやった。
「──彼女とはもう別れた」
「あっそ」
 肩を竦めて受け流す。やっぱり、そういうことになったわけね。
 ほらな、保。結局同じだろ?

 実際に、付き合ってみないと判らない。
 付き合ってみて、はじめて気づくんだ。
 この相手は違う、ということに。

 でも、それに気づくまで、奈月だけ別の場所に置いておこうとするお前のやり方は、俺は好きじゃなかった。

「……長いこと、奈月は妹みたいなものだと思い込んでた。だから奈月の気持ちには応えられない、って。でも、他の子と一緒にいても、いつも違和感がつきまとってた。違う、そうじゃない、って思う。振り向いた時目に入るのが、奈月の姿じゃないことに、ものすごくがっかりする。どこに行って何をしても、返ってくるものがひとつずつ奈月と違うことに、苛ついてしまう。気がついたら、隣にいる相手に 『奈月』 って呼びかけようとしてるんだ」
 保はまるで自分自身に確認するように、ぽつりぽつりと言葉を紡いでいった。俺がそっぽを向いていてもお構いなしだ。

「やっとわかったんだ、俺。自分にとっての一番は誰なのか」

 そういう次第で、ヒーローは、「真実の愛」 に目覚めました、とさ。
 勝手に唇が歪んだ。バカバカしい。映画にあった陳腐な台詞を、現実でも聞かされることになるとは、思いもしなかった。
「今日の放課後、もう一度、奈月に、今の俺の気持ちを伝える。いいな? 穂積」
「──好きにすれば」
 気のない口調で、放り投げるように俺は言った。胸の中を、冷たい風が吹いていくみたいだった。
 好きにすればいい。もしかして保はここで、俺が腕ずくで止めることでも想像してたのか? 殴り合って、お互い傷だらけになって、「今度奈月を泣かせたら承知しない」 とでも言ってやったら、保は満足だったのか? そんなくだらないこと、するつもりはないよ。
 俺が両手をポケットに突っ込んだままリアクションを取らないでいると、保は口を噤んで、厳しい顔になった。
「奈月のことは、穂積より、誰より、俺がよく知ってる」
「そうだね」
 十年以上一緒にいたんだから、当たり前じゃないか。
 ──俺は奈月のことなんて、ぜんぜんわからない。
「本当にいいんだな?」
「好きにすれば、って言ったと思うけど」
 だんだん相手をするのが億劫になってきた。適当にあしらうように返して、足を動かす。
 教室の扉をガラリと開け、中に入ろうとする俺に向かって、
「……アホが」
 と、保が罵るように吐き捨てて、荒々しくその場を立ち去った。


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