短編17

楽土(1)




 物心ついた時から、ディーは薄暗い地下にいた。
 地下だから、もちろん窓なんてものはない。暗がりの中、そこにあるものを浮かび上がらせているのは、壁に取り付けられた二つのランプだけである。
 小さなベッド、小さなテーブル、小さな椅子。
 そして、小さな女の子。
 部屋を囲んでいる四面の壁はすべて灰色で、うち一面にはドアがついているが、それが開かれることはあまりなかった。
 朝昼晩、食事が運ばれる時と、一日一回外に連れ出される時だけだ。
 食事を持ってきてくれたり、外に連れて行ってくれたりする男の人は何人かいるようで、その時によって違った。顔が四角だったり、真ん丸だったり、ディーのような痩せっぽっちだったり。見慣れてきた頃に突然いなくなり、新しい顔が増えるということもよくあった。
 その人たちの中で、ディーの記憶にはっきりと残っている存在は一人もいない。名前も知らないし、ほとんど話したこともないので、すぐに頭から抜けてしまうのである。今までに何人の男の人たちの顔を見てきたかということも、まったく把握していない。大体、ディーは数をかぞえるのがあまり得意ではなかった。
 男の人の中には、怖い顔でじろりと睨みつけて終始無言なのもいれば、そうでもないのもいる。
 ディーはどちらかというと、「そうでもないの」 のほうが好きだった。そちらは、気が向けば、ディーとちょっぴりお喋りをしてくれることもあるからだ。ずーっと地下の部屋にいるディーにとっては、他人との接触は唯一で最大の娯楽だった。
 一日に一度外に出られる時に、なるべく身体を動かす、というのも、「そうでもないの」 のうちの一人が以前教えてくれたものだ。
 その人によると、ディーに太陽の光を浴びさせるのは、病気になって死んでしまわないように、というのがいちばんの目的であるらしい。けれど運動をしないとどちらにしろ弱って抵抗力がなくなってしまうので、外に出た時にたくさん歩いたり走ったりして体力をつけたほうがいい、と言われた。
 彼はそれからすぐに姿を見せないようになってしまったけれど、ディーは今もその教えを忠実に守って、外に出るたび、狭い面積をひたすらぐるぐる廻るようにしている。
 それに、外に出たからってそれくらいしかやることがない、というのも事実なのだ。
 外といっても、そこは四方を高くて頑丈な壁に囲まれた場所だからである。その向こうには何があるのかさっぱり見えない。
 下には枯れかけた芝が敷き詰められてあるだけ。
 顔を上げれば、そこには壁によってぽっかりと切り取られたような空が見えるが、逆に言えば、変化があるのはそこを流れていく雲くらいのものだった。


 ディーは自分がいるこの状況を、疑問に思ったことはなかった。
 気づいた時にはもうこの地下の部屋にいて、それ以来ずっと同じ環境で過ごしてきたのだから、疑問に思いようがない。石の壁や石の床がどれだけ冷たかろうと、ベッドが硬くて粗末であろうと、毎日毎日同じ服を着ていようと、それがディーにとっての普通、ディーにとっての日常なのだ。
 来る日も来る日も、誰かが運んでくれるご飯を食べて、外に出て運動して、眠くなったら毛布にくるまって寝る。暑い、寒い、くらいは思うものの、その思考がそれ以上に発展することはない。文字を書くことも読むことも出来ず、まったく知識というものを与えられてこなかったディーには、生きるための本能以外はあまり身についていなかった。
 もしもこの状態で、たとえばドアが開かなくなったら。誰も食事を運んでこなかったら。
 そんな不安さえ、ディーは抱いたことがない。
 その時にはきっと、お腹が空いたなあ、と思いながら、ただ大人しく死を迎えるだけだっただろう。
 死への恐怖すら、知らないまま。


 地下の部屋には陽が射さず、時計というものもないので、ディーには 「時間」 についての概念がない。食事を運ばれたり、外に連れ出されたりすることで、かろうじて、一日という単位と、朝、昼、晩という区切りがあることを知っているだけだ。
 朝と昼と晩が順番にやって来て、眠ることで一日が終わり、起きることで一日が始まる。ディーのそれまでの人生とは、単調なそれの繰り返しでしかなかった。
 ──が。
 ある日、その単調さが崩れる出来事が起こった。
 薄っぺらい毛布にくるまって、ぐうぐう眠っていたディーは、カチャカチャという音によって目を覚ました。
「?」
 寝惚けまなこで起き上がり、目をこすりながら首を傾げる。今は、朝と昼と晩のうちのどれでもない、「眠り」 の時間だ。食事を運んでくる男の人たちが、この時間帯にドアを開けることは今までに一度もなかった。
 まだお腹は空いていないけど、ご飯を食べるのかな、とディーは思った。
 眠くて頭がとろんとしているので、あまり気は進まないが、食べろと言われれば食べるしかない。男の人たちはいつも、ディーが食事に手をつけて食べきるまで、近くに立ってじっと見ているからだ。たまに、足で床を叩いて急かされることもある。
 ふわーあと欠伸をしながらベッドから降りた。裸足に石の床が触れて、ひんやりとした冷たさが伝わる。
 窓もなく時間も判らない地下の部屋だが、ディーも暑さや寒さが移り変わっていくことくらいは知っている。たぶんもうすぐ寒さはもっと厳しくなって、吐く息が白くなったりするのだろう。
 ベッドから降りても、まだドアは開かなかった。いつもなら、カチンという音ひとつであっという間に開いて、食事を手に持った男の人が姿を見せるのに。
 控えめにカチャカチャと鳴っていた音は、カチン、という音を最後に、ようやく止まった。待っている間にまた眠くなってきて、ディーはもう一回、大きな欠伸をした。
 しかし、いつもであれば躊躇なくパッと開くドアは、この時はなんだかやけに動きが鈍かった。そろそろとした動きは、まるで何かを警戒しているような。「おい、メシだ」 という言葉もなく、まだ顔も見せないドアを開けている人物は、ひたすら沈黙を貫いている。
 部屋の中も外も、あるのはただしいんとした静寂のみ。ディーはさらに眠くなった。
 再び欠伸をしかけた時、細く開いたドアの隙間から、誰かが滑り込むようにして素早く部屋の中に入ってきた。

「……え」
 その人は、頼りない灯りに照らされてぼーっと突っ立っているディーに気づき、息を呑んだ。

「な、なんでこんなところに子供がいるんだよ」
 次いで、うろたえた声を出した。
「ごはん?」
「はあ?」
 うとうとしながら問いかけたディーに、大きく目を見開く。
 閉じかける目をこすりつつ見てみたら、その人は、食事を乗せたトレイを手に持っていなかった。
 あれ、ご飯じゃないのかな。
 そういえば、格好もいつもとちょっと違うし。この部屋に来る人はみんながみんな石の壁に紛れてしまいそうな灰色の服を着ていて、それがディーに個別認識を難しくさせる理由の一つでもあるのだが、今ドアのところにいる人が着ている服は、上も下も真っ黒だ。
 栗色の髪をしたディーとは違い、その人は髪も黒い。
「え、なに、おまえ、なんなの?」
 黒の人はディーを見て、周りを見て、混乱していた。「なんなんだよ、ここ」 と茫然と呟いている。
 しかし、「お前は何なのか」 という問いに、ディーは答えを持ち合わせていない。きょとんと彼を見返すしかなかった。

「おまえ、エルドラン公の娘……じゃないよな、いくらなんでも。ひょっとして、メイドか? 何か失敗でもして、罰としてこんなところに閉じ込められてるとか?」

 黒の人は、手で顎を摘みながら、顔を近づけてまじまじとディーを見つめた。ただでさえ暗いし、ディーは人の見分けが得意ではないのでよく判らないのだが、こうして近くで見ると、この人といつもの男の人たちとはいろいろ違う気がした。
 肌がぴんと張っているし、手足も長いし、ちょっといい匂いがする。無愛想に食事を突き出してくる人たちは、どんよりと澱んだような目をしていることが多いが、この黒の人の目はぴかぴかとした輝きに彩られ、周りまでが明るい空気に覆われているかのようだった。
「しかしこの部屋、無駄に設備が揃ってねえか。やだな、拷問部屋とかじゃないだろうな。俺、そういうの嫌いなんだけど。おまえ、どれくらいここにいるんだよ。一日? 二日?」
 黒の人がぶつぶつと零す言葉のほとんどは、ディーにはちんぷんかんぷんのものばかりだったのだが、とりあえず最後の質問だけは判ったので、張り切って答えた。
「ずっとだよ」
「……ずっと?」
「ずーっと」
 ちゃんと言ったつもりなのに、黒の人は眉を寄せて口を噤んでしまった。もしかしてこの答えはよくなかったのだろうか。しかし持っている語彙が少なく、他者と会話を交わすことにも慣れていないディーには、これ以上説明の補足をする単語が思いつかない。
「おまえ、名前は?」
「ディー」
「ちゃんとした名前は?」
「ディー」
「…………。いくつだ?」
「ディーは一人しかいないよ?」
「…………。あのさ、ふざけてるわけじゃないんだよな?」
「?」
 ディーがこてんと首を傾けると、黒の人は何かを呻いて頭を抱えた。変なもの見つけちまったなあ、とぼそぼそ言いながら、ディーの両肩に手を当てて顔を覗き込む。
「ディーはずっとここにいるのか?」
「うん」
 だからさっきからそう言っているのに。
「ここに入れられる前はどこにいた?」
「ここの前……? どこ?」
 問いかけられている内容が理解できず鸚鵡返しにすると、黒の人はさらに変な顔になった。イヤな臭いを嗅いでしまった時のような顔だ。おいおい冗談だろ、と呟く声が、聞き取りにくいくらい低い。
 少し考えるように眉を寄せて黙った後で、うんと頷く。
「よし、まったくわからんが、見つけちまったものはしょうがない」

 その言葉と共に、ディーの身体がふわりと浮いた。

 黒の人の顔がすぐ間近にきて、その代わり石の床がぐうんと遠くなる。こんな経験ははじめてで、ディーは目を丸くした。
 わあ。人間も、鳥みたいに空を飛ぶことが出来るのかー。
 ディーにとって、動物の中で唯一知っているのは、壁で切り取られた空の中を行く鳥だけである。ただ見上げるだけだった鳥と同じように、自分も今、飛んでいる。思わず、足をバタバタと揺らした。
「こら、暴れるな。いいか、これからしばらく声を立てるなよ。人形みたいにじっとしてろ。出来るか?」
「うん」
 人形、というものは知らないが、大声を出すな、静かにしていろ、というのはもっと小さい頃によく言われた言葉なので、ディーにも理解できる。そんな時よくやったように、両手で自分の口を押さえてみせると、黒の人はホッとしたように目を細めた。
「行くぞ」
 囁くような声で言うと、彼はディーを肩に担いだまま、また滑るようにドアから出て、足音も立てずに走り出した。


          ***


 ディーを担いだ黒の人は、動作が非常に敏捷だった。
 どこかにするする登ったかと思うと、どこかに軽々と飛び降りる。ディーという荷物を抱えている分動きにくくなりそうなものだが、そんなことを思わせないような身軽さで、あちこちをひょいひょいと移動した。
 ドアの外、というと、ディーは壁に囲まれた外の一角へと通じる道筋しか知らないのだが、黒の人が辿っているのは、それとはまったく異なっていた。
 長い廊下は明かりがところどころにあるくらいで、暗さには慣れているはずのディーの目にも細かいところまではよく見えない。見えたとしても、飾ってある鎧や豪勢な花器など、ディーには意味も用途も知らないものばかりなので、判らないのは同じだっただろうが。
 しいんとした静けさに支配された建物の中を、黒の人は闇にまぎれて疾走した。かすかに人の声がしようものなら、すぐさま立ち止まり、壁にぴったりと張り付いて、ディーのほうを向き人差し指を唇に当てる。自分の掌で自分の口を塞いだままのディーは、そろそろ息が苦しくなってきた。
 途中、狭いところを潜るようにして通ったり、高いところから飛ぶような浮遊感を味わったりして、黒の人はやっとディーを地面に下ろしてくれた。
「よし、もういいぞ」
 言われて、ぱちぱちと目を瞬く。

 いつの間にか、ディーは建物の 「外」 にいた。

 黒の人の肩の上で、ぐらぐらと揺られたり振り回されたりしているうちに、景色を見る余裕もなくなっていたらしい。ディーの足元にあるのは、冷たくて固い床ではなく、柔らかな緑の草だった。そこには、月に照らされて自分自身の真っ黒な影が落ちている。
 夜空はよく晴れわたり、星々が白く鮮烈な光を放っていた。今自分たちが乗り越えてきた目の前に長く連なる塀は、月光を浴びてくっきりとした陰影を作り出している。冷たい風が、直に肌に触れた。

 これが、外。

 口を半開きにして、ディーはぽかんと周囲を見回した。
 こんなにも視線というものは遠くにまで伸びるものだったのか。灰色の壁に遮られない世界は、こんなにもあらゆる未知のものに溢れかえっているものだったのか。
 街灯が照らす煉瓦造りの道も、ひしめくように立ち並ぶ大小の家々も、そこかしこに見える色鮮やかな木々も花々も、ディーの目には馴染まないものばかりだ。

 なんて、広い。

「自分で動けるな? 行くぞ」
 黒の人が背中を見せてさっさと歩きだす。彼の姿は外でもやっぱり闇に同化し、今にも溶けて消えそうだった。それを見失わないよう、ディーは目をいっぱいに広げて、自分も足を動かした。
 なんだろう、なんだろう。
 お腹の上のあたりが騒がしい。まるでそこだけ、中身が飛び跳ねているみたい。今まで、自分の肉体で感じるのは、空腹と痛みくらいだったのに、それとはぜんぜん違う。
 今にも外に出て地面に落っこちてしまいそうだと思ったので、ディーは自分の胸を手で押さえ、小走りに黒の人の後を追った。


          ***


 黒の人は、身体を斜めにして、建物と建物の狭い隙間を抜けるように歩いた。
 たまに後ろにちらりと目をやって、ディーがなんとかついてくるのを見ると、また前を向いて進んでいく。そもそも最低限の運動くらいしかしていないディーにとって、歩幅の大きい彼のペースに合わせるのは大変だったが、ふうふう言いながら頑張った。
 やがて、建物の壁がなくなり、ぱかっと周囲の景色が開けたところで、黒の人は足を止めた。
 ディーに向かって手招きし、高い木の根っこのところに座らせる。
 近くには、同じような木がたくさんあった。そしてすぐ前には、煉瓦造りではなく、轍跡のついた砂利道。

「いいか? ここでじっと座ってるんだぞ。あと二時間もすれば夜が明ける。そうすれば、別の町に向かう荷馬車が一斉にこの道を通っていくからな。そのうちの誰かが、林道の入口にぽつんと座り込んでる子供を見つけて、声をかけてくれるだろうさ」

 黒の人はディーにそう言って口の端を上げた。
 ディーは顔を上げて彼をまっすぐ見返したが、何も言わなかった。「しばらく声を立てるな」 という指示に従い黙っていたのだが、彼はその無言を自分に対する責めだと受け取ったらしい。少し顔をしかめた。
「これで勘弁してくれよ。俺は俺で、一応、人としての義務は果たしただろ? どういう事情だか知らないけど、監禁されてた子供を外に出してやったんだから。それ以上のことは責任持てない。悪いが、これからのことはおまえの運次第だ。まあ、普通に考えて、どっかの孤児院にでも行くことになるだろうからさ、あとは自力で頑張りな」
 じゃあな、と去っていく彼の後ろ姿を、ディーはその場に座って見つめ続けていた。



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