短編17

楽土(5)




 イーガルが久しぶりに顔を見せた。
「一カ月ぶりくらいじゃないか。どこかに出かけてたのか?」
 「よう、来たぜ」 と手を挙げるその様子に、特に変わったところはないようだ。ディーがこの家に住み着くようになってからというもの、菓子だの本だの洋服だのを手土産に頻繁に訪れていたイーガルが、ここ最近ぱったりと姿を見せなくなって、少し気になっていたアルは、内心でほっとしながら彼を出迎えた。
「ああ、ちょっと旅行にな。しかし俺もトシかね、帰ってきたら体調を崩してよ。無理してここに来て、ディーに病気を移しちゃいかんと思って、遠慮してたのよ」
 椅子に腰かけたイーガルが、髪の薄くなった頭を掌でぺろんと撫ぜながら言う。体調を崩した、と聞いて心配したが、ちょっと浅黒い顔色はいつもの通りだ。確かに本人の言うようにトシではあるが、イーガルは同年代の男性に比べればよほど若々しく、覇気がある。
「もう大丈夫なのか?」
「ああ、すっかりな」
「独り身で病気なんて、不便だっただろ。俺を呼べばよかったのに」
「なあに、わざわざお前に看病してもらうほどのことじゃねえ」
「念のため、しばらくディーには近づくなよ」
「気遣うなら終いまできちんと気遣え!」
 いつものように軽口の応酬をしていると、二人分のカップを載せた盆を手に、ディーが台所から出てきた。
「イーガルのおじさん、病気だったの? 大丈夫?」
 テーブルの上に、湯気の立つカップを置きながら、ディーは眉を下げてイーガルの顔を覗き込んだ。いつもなら、孫に甘い爺そのまま、愛想のない顔なりにデレっとなるイーガルが、今日はどこかぽかんしてディーを見返している。
 うん? と首を傾げるディーに、「いやあ……」 と少し困惑したように、もう一度頭に手をやった。
「ほんの一カ月見ない間に、こうも変わるもんかね。すっかり見違えたなあ、ディー」
 ディーはその言葉に目を瞬き、自分の身体を見下ろした。
「どこも変わってないよ?」
「いや、変わったよ。変わった」
 イーガルは確認するように言ってから、しみじみと大きな息を吐きだした。
「……そうか、もう一年も経つんだもんなあ」


 ──ディーが、あの屋敷の地下の部屋から、アルに連れられこの家に来て、もう一年。
 その間、ガリガリに痩せ細った身体は徐々に肉がつき、体型は少しずつ丸みを帯びていった。小柄であるのは変わりないが、身長もゆるやかに右肩上がりで伸びている。白っぽかった頬は、すっかり健康的なバラ色だ。
 人により、成長過程で髪の色が変化することがあるが、どうやらディーはそのタイプだったようで、栗色だった髪は今、陽に透けるような輝く金色に変わりつつある。
 最初の頃を思えば驚異的なほど、いろんなことが出来るようにもなった。料理も掃除もまだまだ子供のお手伝いの範疇だが、一人でお茶を淹れたり運んだりするなんて、以前のディーを知っている人間にしたら感動ものだ。
 失敗だって多いが、しょうがない。物事というのはそうやって、何度も自分の手と頭で経験を積み重ねていくしかないものなのだから。
 そしてなにより、ぐんと語彙が増えた。
 言葉のどこもかしこも拙くて、噛み合わないことが多かった会話も、スムーズに続けられるようになった。何も知らない連中から見れば、それくらいは当たり前、というレベルのことでも、ほぼ動物並みだった子供が、たった一年ほどの間に人間になるというのは、素直にすごいことだとアルは思う。
 文字の読み書きも、日々進歩している。本を読む時はまだアルの手を借りることもあるし、書く文字だって決して流暢ではないが、ディーはちゃんと、努力をするということを知っている。帰りが夜遅くなって、テーブルの上に 「アルへ、もうねます、おやすみ」 というたどたどしい筆跡で書かれた自分あての手紙が置かれてあるのを見つけた時には、うっかり涙ぐみそうになったくらいだった。
 そんなわけで、アルとディーの共同生活は、今のところ何の問題もなく、順調に続けられている。
 今のところ。……今のところは。


「ディー、いるか?」
 元気な声と共に、入口の扉が開いて、ジェイがひょいと顔を覗かせた。
 ジェイも親の仕事の手伝いをはじめて、以前ほど暇ではないようなのだが、それでも時間を見つけてちょくちょくディーを誘いに来るのは変わらない。
 もとはアルがそう頼み込んだことであるし、ディーがここまで健康になれたのは、ジェイが遊び仲間と一緒にディーをあちこち引っ張り回してくれたからでもある。だからアルだって、その点についてはジェイに感謝するにやぶさかではない。
 やぶさかではないが、しかし。

 ……それにしたって、お前、毎日のように来すぎじゃねえ?

「ジェイ。なに?」
 語彙が増えたとはいっても、ディーはもともとそんなに口数の多いほうではない。アルと二人で食事をする時などには、頑張って一生懸命 「今日あった出来事と、思ったこと」 をあれこれ話そうとするのだが、それ以外の時の応答はわりと必要最小限だ。
「あのさ、オーソンが面白いものを見つけてさ。今から見に行こうぜ」
「面白いもの?」
 問い返すディーの手を、遠慮なく部屋の中まで入ってきたジェイが掴む。のんびり説明するのがじれったいのか、「いいから、行こう」 とせっかちに引っ張っていこうとする彼に、ディーはちょっと困ったようにアルとイーガルを見た。
「いいよいいよ、行って来い、ディー。今日は夕飯を一緒に食おうな」
 と鷹揚に返したのはイーガルで、アルは無言で座っていた椅子から立ち上がり、ディーの手をしっかりと握るジェイの掌の皮膚を、指でぎゅうっと摘み上げてやった。
「いてて! なにすんだよ、アル!」
「なにすんだじゃない。なんでお前はいちいち毎回、ディーの手を握るんだ? ディーはもう、そんなことして連れて行ってもらわなくても大丈夫なんだっての。そう馴れ馴れしく触るなと、昨日も言ったばかりだよな?」
「大きなお世話だよ! 子供の世界に大人がしゃしゃり出てくんな!」
「お前はそろそろ子供じゃないから言ってんだよ。今しっかり釘を刺しておかないと、二年後も三年後も同じようにベタベタしそうだ」
「父ちゃんが、ディーは大っきくなったらすげえ美人になりそうだから、恋敵のいない今のうちにツバつけて所有権を主張しとけって」
「余計なこと言いやがってあのゴリラ! お前もそういう品のない助言を真に受けるな……って、おい!」
 アルの怒鳴り声など意にも介さず、ジェイはディーの手を引いて、ぴゅうっと外へ出て行ってしまった。くそ、と罵ったところで、風のように素早い子供たちの姿はすでに影も形もない。
「おめえも過保護だなあ」
 忌々しそうな息を憤然と吐いて再び椅子に腰を下ろしたアルに、イーガルが呆れたように言う。
「イーガルだって人のこと言えないだろ」
「まあなあ。ディーを見てると、昔のことをいろいろ思い出しちまってよ。やっぱりトシかねえ。どっかのクソガキはあんなに素直でも可愛くもなかったけどよ」
「悪かったな」
 むっつりとふくれて頬杖を突く。なんとなく面白くない気分になったのは、自分の子供時代を悪しざまに言われたからではなく、イーガルの目にはっきりと、昔を懐かしみ、追慕する色合いが現れていたからだ。しんみりとした口調で、「トシだ」 などと言うのもやめて欲しい。
 まだ年寄りになるのは早い。イーガルにはいつまでも、怒るとおっかない、威勢のいい親父でいてもらいたいのだ。
「フラフラしていい加減なところもあったお前が、こうもちゃんと子供を育てられるとは、正直思ってもいなかった。──しかしなあ、アル」
 イーガルの口調が真面目なものになり、こちらに向ける眼差しに慮るものが乗せられる。アルは咄嗟にそこから目を逸らしたが、イーガルは途中で止めることはしなかった。

「……ずーっとこのまま、ってわけにもいかねえだろうよ」

 その言葉に、宙を彷徨っていたアルの視線が下を向いた。
「お前だってやっと二十一になったところだろうが。今はいなくとも、これから、本気で惚れた女、ってのが出来るかもしれん。その時、ディーはどうする? そうなったら三人で暮らすのか? そうもいかねえよな、なにしろお前とディーはそもそも血の繫がりがあるわけでもねえ、これ以上ないってほどの赤の他人なんだからよ。たとえ、恋人か、あるいは女房を説得できたとしても、ディーが気の毒だ。あの子はあれで、優しい心を持ってるからな、どうしたって遠慮するだろう。その時になって、じゃあサヨナラ、なんてぽいっと放り出すわけにはいかねえんだぞ」
「そんなことは……わかってるよ」
 自分だって経験したことだ。「庇護されている子供」 の気持ちは、イヤというほどアル自身が知っている。
 だからアルは、下を向きながら、喉の奥から絞り出すようにして返事をした。わかってる、と。しかしその返事を受け入れて、あとは知らんぷりしてくれるほど、イーガルは甘くはない。
「言っておくが、俺とお前のことを言い訳に使うなよ。俺とお前、お前とディーには、確とした違いがある。お前は男で、ディーは女だ。ディーが男の子だったら、俺だってこうもお節介なことは言わねえが、あの子は女の子で、しかもどう見てもお前のことを根っから信頼してるときてる。お前にとっちゃいつまで経っても可愛い子供のままでも、ディーのほうがお前をいつまでも兄代わり、親代わりとして見るとは限らない」
「…………」
 反論したくとも、何も言葉が出てこない。イーガルの言うことは、どれもその通りであったからだ。

 ──アルがあれこれと気を廻してしまうように、そしてジェイが父親から言われたように、この一年で、ディーは非常に綺麗になった。

 痩せて、ボロボロの衣服を身につけて、知識もなく、野生の猿のようだった青白い子供は、まるで固い殻を脱ぎ捨てるような変貌を遂げつつある。肉がつき、頬に色を乗せ、瞳に知性の片鱗を覗かせはじめれば、ディーの面差しはどこか品のある、よく整ったものだったのだと、嫌でも気づかされるほどに。
 このままだと間違いなく、ディーは美しい娘になり、美しい女性に成長していくだろう。
 それでもこの同居生活を同じように維持していけるのかといえば、判らない、としか言いようがなかった。ディーの心情も、アル自身の心情も、どちら方面に変わっていくのか予想がつかない。
 この先、ディーがとんでもなく大きな傷を負うことになるのか、アルが自分を追い込んでいくことになるのか。どちらにしろ、あまりいい目は出ないだろう、という以外には。
 そうなる前に、なんとかしろ、と忠告するイーガルの言い分は、本当にもっともだと納得できる。

 ……できるけれど。

「エルドラン公の動向も気になるしな」
 抑えられた声で出された名前に、アルは顔を上げた。この場所に他に人はいないというのに、自分も無意識に声の音量を下げる。
「──エルドラン公が、どうか」
 イーガルは、難しい表情になり、顎に手を当てて唸り声を上げた。
「……情報屋によると、どうもやっぱり、部下を使って極秘で探っているようなんだよなあ」
「消えた娘の行方を?」
「他に該当するものがない。表沙汰にはならないように相当慎重に動いているようなんで、はっきりとしたことは言えねえが」
「一年も経ってるのに……?」
 アルは眉根を寄せた。
 イーガルがそう言うのなら、その情報の信憑性は高いのだろう。一年経った今になって、いきなり探しはじめた、というのも考えにくい。とすると、エルドラン公はこの一年、そうやってこっそりと、ディーの消息を調べ続けていたということだろうか。

 地下の部屋に閉じ込めて、あとは放っておいただけの子供を、なぜそうまでして?

 秘密が露見するのを恐れて、というのならまだしも判るが、ここまで時間が経って何もなければ、大丈夫だろうと安心するのが普通ではないか。逆に、こそこそ嗅ぎまわり続ければ続けるほど、誰かに不審がられる危険が増す。
 あんな境遇に置いて、エルドラン公に魔力持ちの娘に対する愛情があったとは、到底思えない。
 ──では、他にディーを見つけなければならない事情でもあるとでも?
「よく判らないが、あまりいい感じはしねえ。ひょっとして、ディーの身の上については、何かとんでもない裏があるかもしれん。もしも公の手の者が、お前やディーのことを探り当てたら」
「それこそ取り越し苦労だよ、イーガル」
 自分の言葉で不安を吹き飛ばすように勢いよくそう言って、アルは肩を竦めた。
「この一年で、髪の色を含めて、ディーの外見はだいぶ変わった。たとえ地下の部屋にいた頃のディーを見知った人間がいたとしても、そいつが今のディーを同一人物だと気づくはずがない。魔の力だって、あれっきり一度も使っていないんだ」
 アルが何度も言い聞かせているのもあるが、ディーにはそもそも、自分の意志でその力を操ることは出来ないらしいのである。野犬に襲われて身の危険を感じたあの時が、力を顕現させた最初で最後の機会だったのかもしれない。今になると、まるで夢のようにも思えるほどだ。
「そうかもしれん。しかし、アル」
「わかってる」
 イーガルの言葉を遮って、アルは静かな声で言った。
「わかってるよ、イーガル。ディーをどうするか、ちゃんと考える。……考えるから」
 テーブルの上で握りしめられたアルの拳を見て、イーガルはそれ以上、何も言わなかった。


          ***


 地下の部屋で、アルがディーを見つけてくれたのは、冬に入る少し前のことだった。
 それから季節がぐるっと一巡りし、寒い冬を越えて、二度目の春がやって来ようとしている。ぽかぽかと暖かく、色とりどりの花が咲いて、街中がむせかえるような甘い匂いに満たされるこの時期が、ディーは大好きだ。
 そんな春のある日、アルが 「祭りに行かないか」 と誘ってくれた。
「お祭り?」
「そう。毎年これくらいの頃に、街の真ん中にある広場で、王の生誕祭が催されるんだよ。ものすごい人出だけど、大道芸人とか、屋台とかもたくさん出て、賑やかだぞ。行くか?」
「うん」
 アルに誘われて、ディーが断るはずがない。実のところ、お祭りも大道芸人も屋台も、どういうものかさっぱり判らなかったのだが。
 にこにこ笑って大きく頷くと、アルも目許を和らげて微笑んだ。
「生誕祭、ってなに?」
「んー、まあ、誕生日を祝う祭りってとこかな」
 お誕生日か。それは知っている。下町はみんな貧しいから、わざわざお祝いをする人はいないけれど、近所のユーナという女の子が、母親に焼き菓子を作ってもらったと言って喜んでいた。
 アルにその話をして、ディーの 「お誕生日」 はいつ? と聞くと、うーんと困った顔をされた。そして、じゃあ俺がお前を見つけた日を誕生日にしようと言って、翌年のその日には本当に焼き菓子を作ってくれたのだった。器用なアルは、料理も菓子作りも、とっても上手だ。
「王様のお誕生日なんだね」
「そういうこと。だから代替わりすると、祭りの日取りも変わる。先王の時の生誕祭は真冬の寒ーい日でさ、みんなガタガタ震えながら祝ったらしいぜ」
「ふうん」
 それは大変そうだ。そうまでしてお祝いしなきゃいけないのか。
「こんな気候のいい時に生まれた今の王は、それだけでひとつ、民に善政を行ったと言えるかもな。祭りは毎年やってるけど、去年は連れてってやれなかったから、今年は見せてやろうと思って。あの頃はまだ体力もなかったけど、今は平気だろ」
 というより、あまり人の目の多いところには出せなかった──というのが本当のところではないか、とディーは心の中で考えた。
 自分が地下の部屋で暮らしていたことは絶対誰にも言うなよ、といつも口を酸っぱくして念を押すアルは、普段、ディーが下町から離れた場所に行くのも嫌がる。

 なのに今回は、どういう風の吹き回しだろう。

「お祭りには、王様も来るの?」
 ディーがそう言うと、アルは声を立てて笑った。
「まさか。あくまでも王の生誕を国民が勝手に祝う、ってだけのことだよ。バカ騒ぎをする口実だな。王は城の中で豪勢な宴でも開いてるんだろうさ」
「ふうん」
 みんなが誕生日を祝ってあげているのに、王様はそれを知らないのか、と思うと、なんだか変な気分になる。みんなは変だと思わないのかな?
「庶民が王を見る機会っていったら、一年のはじめの挨拶の時くらいだな。城のバルコニーに王と王妃と王太子が出てきて、手を振るんだ。すげえ遠くて、顔もよく見えないけど」
 それに、と続けた。
「王妃はここ数年というもの、めっきり表に出てこない。もともと病弱だったらしいが、あれ以来、気が塞いでちょっと心を病んでるって噂もあって」
「あれ以来?」
 ディーの問いに、アルが、おっと、というように自分の口を手で押さえた。腰を屈め、ディーの耳に口を寄せてこそっと囁く。
「……十年くらい前、王室に不幸があったんだよ。でも、それについちゃ、大っぴらに言うのはタブーとされてる。おまえも、人目のあるところで、その話はするんじゃないぞ」
「うん」
 もともとそんなに興味のある話題でもないので、ディーは素直に頷いた。
 それよりも、アルとお出かけすることのほうが、ずっと重要だ。


 広場は大勢の人でごった返していた。
「すごいね」
 目をぱちぱちさせながら、感嘆するように言うしかない。いろんな階層の人たちが集まっているらしく、ずっと下町にいたディーにとって、派手に着飾った男女や、ぴかぴか輝く宝飾品など、馴染みのないものも多かった。
 綺麗にお化粧をした女性たちが、通りすがりに、または遠目から、アルのほうをちらちらと注目している。くすくす笑ったり、中には声をかけてくる人もいたりして、アルはそんな彼女たちにそつなく対応していたけれど、ディーはちょっぴり胸のところがもやもやした。
「なにか食べるか? ディー」
 アルがこちらを向いて問いかける。
 その目が自分に向けられていることに、安心するような、でも、なんとなく落ち着かないような、おかしな気持ちになった。いつもなら、ただお腹がほっこりするだけなのに。
 ……ディーがいない時、アルはああいう綺麗な女の人に、こんな顔で微笑んでいたりするのかなあ?
 アルはディーのほとんどを把握しているけれど、ディーはアルのすべてを知っているわけではない。鍵師の仕事をしているのは知っていても、もう一つの 「仕事」 についてはあんまり話してくれないし。真夜中、ディーが眠っている間にひっそりと出かけて、ひっそりと帰ってくる時、そのすべてが 「仕事」 ではないらしいことも薄々気づいてはいるが、それについても教えてくれない。

 ──なんか、イヤだな。

 とは思うものの、何がどうイヤなのか、自分ではよく判らない。アルは 「自分が思っていること、考えたことを、ちゃんと言葉に変換するようにしろ」 とよく言うけれど、ディーにとってそれはまだ容易なことではなかった。
「どうした? もう疲れちゃったか?」
 はあーとため息を吐きだしたら、アルに顔を覗き込まれた。ちがう、と答えようとした途端、誰かとぶつかって口を噤む。行き交う人が多すぎて、人々の頭の先を見通すことの出来ないディーには、まっすぐ歩くことも難しいくらいだった。
「はぐれるなよ」
 アルが心配そうな顔をする。以前なら、こんな時、軽々と担ぎ上げるか抱っこしてくれるか、どちらかだったのに、最近はまったくしてもらえない。重くなっちゃったからかなあ、とディーは少し悲しくなった。
「アル」
 名を呼んで、手を伸ばす。触れた瞬間、大きな手は躊躇したように動きを止め、それでもすぐにぎゅっとディーの手を握ってくれた。
「──あのさ、ディー」
「うん?」
 見上げると、アルは前方に目をやって、こちらを向いてはいなかった。でもその横顔は、なぜか妙に固いように見える。
「こうして二人で祭りを見て廻ったこと、時間が経っても、覚えてるといいな」
「……うん」
 忘れたりしないよ、と言いかけて、思い止まる。その言葉を出すのは、かえってためらわれた。
 だってその言い方、まるで、これが最後みたいではないか。お祭りは毎年行われる、とアルは言ったのに。
 二人して、押し黙ったまま雑踏の中を歩く。
 繋いだ手から伝わる温もりと、自分の中で蠢く不安な影に気を取られ、ディーもアルも、その時自分たちをじっと見つめている存在がいたことには、ちっとも気づかなかった。



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