短編17

楽土(7)




 城から外へ、まるで汚れた猫を捨てるように無造作に放り出されたアルを、イーガルが待っていた。
 アルとディーが連れて行かれてからというもの、毎日毎日、辛抱強く様子を見に来ていたらしい。城の門から兵によって突き飛ばされ、なんとか自由の身になれたはいいものの、イーガルがすぐに駆けつけなかったら、往来に倒れ込んだまま馬車に轢き潰されていたかもしれない。
 数日の間ほぼ飲まず食わずで尋問を受け続け、ひどく衰弱していたアルを、イーガルは自分の家に連れ帰り、傷の手当てに食事にと、あれこれと世話を焼いてくれた。
 数年前まで、イーガルと二人で暮らしていた場所だ。
 アルはベッドに横たわり、ぼんやりとした状態で、懐かしいその家の天井を見ていた。
 イーガルの家は古く狭く小さく、その上、ゴミは溢れているが生活必需品のほうはてんで不足している。盗人の元締めなんかをしているくせに、なんでこんなに貧乏なんだと、子供心に何度も不思議に思ったものだっけ。イーガルこそ、見知らぬ誰かからの救済が必要なんじゃねえの?
「……相変わらず、きたねえ家……」
 ぼそりと呟くと、カップになみなみと熱い茶を入れてきたイーガルが、ふんと鼻息を吐いた。
「うるせえ。くたばりぞこないのくせに、口だけは達者な野郎だ」
 くたばりぞこない。確かにそうだなと自嘲した。一度目は警吏の恰好をした男に後ろから刺されて死にかけ、二度目は罪人として処罰されそうになった。
 どちらも、助かったのはディーのおかげだ。
「──驚いたよ。あのディーが、十年も前に誘拐された王女さまだったとはな」
「…………」
 イーガルが、長いため息と共に、しみじみとした言葉を落とす。
 アルは返事をせずに、そのまま天井に目を向けていた。


 ──王女が誘拐されるという、前代未聞の出来事が起こったのは、およそ十年前。
 王女は当時、まだ三歳にも満たないくらいの年齢だった。城の庭園で遊んでいたところを、押し入ってきた賊に連れ去られたのだという。近くにいた召使も乳母も護衛も、すべて惨殺されるという、荒っぽいやり方で。
 王妃はショックで倒れ、王は攫われた王女の捜索と犯人を捕まえるために、莫大な人手と費用を注ぎ込んだ。当然だ。親としての情もあっただろうが、なにより、国と王家の威信がかかっている。
 ……が、一月経ち、二月経っても、犯人はおろか手がかりさえも掴めない。王女は行方知れずのまま、安否すら判らない。国外に出たとも、どこかに売られたとも、そんな情報も入らない。誰が、なんの目的で、幼い王女を連れ去ったのかも、まったく謎のままだった。
 王は王女の行方を探させ続けたが、月日が重なるにつれ、諦めの空気が広がっていくのはどうしようもなかった。二年三年と経過すると、もはやそれはほとんど名目上のものとなった。はっきりと言葉に出す者はいないが、誰もが心の中では同じことを考えずにはいられなかったのだ。

 王女はもう、生きてはいないだろうと。

 王女が行方知れずになって五年が過ぎると、王はとうとう正式に捜索を打ち切らざるを得なくなった。王女は生死不明のまま、葬儀が行われることもなく、王家に名が残っているだけの存在となり、誰も表立ってはそのことを口にする人間もいない。この国の王室の、最大のタブーとなったのだ。
 ──その王女がまさか、十年という歳月を経て、下町の片隅にひょっこり姿を現すなどと、誰が予想できただろう?


「あれから、大変だったんだぜ」
 ディーがアルを助けるために 「聖なる力」 を使ったことで、下町は一気に大騒ぎになった。医者でさえ匙を投げそうな深い傷を、子供が掌をかざすだけで治してしまったのだから、無理もない。あの時、アルの家にはすでに野次馬が集まっている状態で、それを隠すのはどうやっても不可能だった。
 すぐに城へ知らせが行き、倒れていた三人と、体力を使い果たして同じく気を失ってしまったディー、そしてアルが、否応なく連行された。
 アルはディーと引き離され、次に会えたのは、城内のだだっ広い謁見の間、玉座にいる王の横に座っている姿を見た時だった──というわけだ。
「…………」
 視線だけは依然として天井に向いているものの、アルの目はそれを見ていなかった。
 ディーは、美しく豪華な、絹のドレスをまとっていた。アイダから貰ったおさがりの服を着て、アルの家で定位置のソファに腰かけて本を読むディーとは、別人のようだった。
 片や玉座の隣、片や後ろ手を括られて膝をつく罪人。

 ……もう、世界が違うということか。

「エルドラン公はあっという間に捕まって、死罪にされたらしい。王の怒りは凄まじくてな、裁きの場を設けることもしなかった。本人はおろか、妻子から使用人に至るまで全員が死罪を賜ったってんだから、相当なもんさ。財産はすべて没収され、屋敷は火をかけられて燃やされた。まあ、それほどの重罪ということなんだろうが、恐ろしい話だね」
 イーガルは、故意にだろうが、素っ気ないほどに淡々とした口調で、アルが捕らえられていた間に起こったことを説明した。
「結局、エルドラン公の目的は何だったのか、はっきりしないままだ。王女を攫って、地下室に閉じ込めて育てて、どうしようとしてたんだか。いずれは王と王太子を亡き者にして、ディーを……いや、王女を立てて自分が後見人の地位にでも収まり、この国をいいように動かすつもりだったのかねえ」
 エルドラン公はそういう思惑をもって、幼い王女を閉じ込め、特殊な教育を施したのか。
 なんの疑問も持たない、「簡単に操れる意志のない人形」 になるように。
 しかしどうであれ、本人がいなくなった今、真相は闇の中だ。
「だが、年月が経ってから、いきなりこれが成長した王女だと言っても、信用されるもんかね」
 イーガルが不可解そうに言って、首を捻る。アルはそちらを見ないまま、感情のこもらない声で、一本調子に答えた。
「聖なる力を持っていることを示せば、それがすなわち王族であることの証明になる、って考えたんじゃねえの。実際、そうだったろ」
 王家の人間にしか引き継がれない力。おそらく、聖なる力とは、「あの血統のみに遺伝する能力」 のことなのだ。
「それに、さ」
 話し続けながら、目を閉じる。疲労感が全身に圧し掛かってくるようで、口を動かすのも苦痛だった。
「……それに、ディーと王妃を並べてみれば、すぐに判るよ。あの二人は、似てるんだ、すごく」
 囚われの身になっていた時、アルは一度だけ、その人を見た。護衛が目を光らせるその傍で、いかにも怖ろしげに身を縮ませ、眉を寄せて、卑しい盗人と同じ空気を吸うのも嫌だというように形の良い唇を歪ませていた王妃。

 ディーと、そっくりな顔をしていた。

 まったく、皮肉な話だ。あの暗い地下室を出て、手足が伸び、健康的な顔色になり、透けるような金髪に変わったディー。以前のガリガリに痩せたみすぼらしい子供を覚えている人間がいたとしても、今の姿を見て同一人物だと判るはずがない、と高を括っていたアルが、あまりにも浅はかだったのだ。
 その 「変わった姿」 が、王妃に瓜二つだなんて。
 娘が誘拐されてからほとんど表に出なくなっていた王妃の顔を、そもそも下町に住むようなアルが知っているはずもない。しかし王の近くにいるような人間には、すぐに判る。生誕祭で王妃によく似た面差しを持つディーを見つけたのは、エルドラン公本人か、あるいはその手の者だったか。
 いずれにしろ、そのせいで、ディーの居場所が特定されることになったのは間違いない。あの警吏の恰好をした男たちの目的は、やはりディーのほうにあったということだ。

 たとえ離れ離れになっても、せめて思い出だけは残るように。
 そう思って連れていった生誕祭が、すべての元凶だったと。
 いや、いいや、違う。ディーはもともと、アルの小さい家でこまごまと家事をして暮らすような存在ではなかったのだ。
 これからは王女として、なんの不安も心配もなく生きていける。衣食住だって比べるまでもない、国の最高レベルのものが与えられる。教育だって。
 それになにより、実の両親と、家族と一緒にいられるのだから。
 ──これでよかったんだと、思うしかないじゃないか。

「疲れたな……イーガル、眠ってもいいか?」
「ああ、ゆっくり眠れ」
 イーガルの静かな声を最後に、アルは意識を闇に溶かした。
 今は、何も考えたくない。



 数日後、心配して引き留めるイーガルの申し出を断り、アルはようやく自分の家に戻った。
 ドアを開けても、もう誰も、「おかえり」 と駆け寄って出迎えてくれる人間はいない。
 アルは口を閉じ、出入り口の壁によりかかりながら、空っぽの部屋を眺めた。
 よかったじゃないか。これでもう、何かに煩わされることもない。ディーが待っているからと、急き立てられるように家路を急ぐこともない。いつ出るのも帰るのも自由。ディーのことでいちいちハラハラしなくてもいい。心を揺らされることもない。もとの、身軽で気楽な生活が戻ってきたのだ。
 十年前に三歳ってことは、俺が見つけた時にはもう十二歳くらいだったってことかよ、ディー。ジェイが、「俺よりも年上か」 ってショックを受けちゃうよな。何も出来なかったあの子猿が、実は王女さまだったなんて、笑っちまう。なんの冗談だよ、これ。
 はは、とちっとも可笑しくなさそうな乾いた笑い声が洩れる。
 ……ほんの一年と少し、一緒にいただけだ。
 それなのにどうして、こんなにも喪失が苦しいのか。
 最初は憐れみもあったかもしれない。孤児院を脱走し、行く当ても、帰る場所もなく、放浪するしかなかった幼い頃の自分を見ているような気分も、確かにあった。
 イーガルから受けた恩を、ディーの面倒を見ることで別の形にして返せれば、という気持ちもあっただろう。
 ──でも、途中から、そんなこと別に、どうでもよくなってた。
 聖なる力なんてなくたって、ディーの存在は、アルにとっての癒しであり、救いだった。愛しい子供。いずれ手離すことは覚悟していても。
 望んだのは、こんな別れじゃなかった。
 斜めになった身体を壁沿いにずるずると滑らせ、アルは虚ろになった顔と心でその場に座り込んだ。


          ***


 アルへ。
 おげんきですか。
 わたしは、あまりげんきがありません。じぶんのことを、ディーとよんではいけないんだって。わたしはわたしと、よばなくてはいけないんだって。よくわからないけど、みんながそういうので、わたしといいます。
 ディーは、ディーというなまえではない、とみんなはいいます。それに、ほんとうは、わたくし、といわなくてはいけないのだとも、いいます。わたしがなんどもしたをかむので、わたしでいい、ということになりました。
 みんな、ディーが、じゃない、わたしが、いろんなことをうまくやれないと、ためいきをつきます。おこりはしないけど、ちいさなこえで、「これがおうじょだなんて」 といいます。
 ここのひとたちは、おもっていることを、ことばにしないみたい。イーガルのおじさんや、アイダおばさんのように、ちゃんといってくれたら、わたしにもわかるのに。こころのなかでおもっていることを、ほかのひとと、ひそひそごえではなすので、よくわかりません。
 わたしがわるいのかな?
 アルは、しっぱいしてもいいんだといってくれたけど、ここでは、しっぱいはゆるされない、んだって。おうぞくだから、なんでもできてあたりまえ、なんだって。わたしがしっぱいすると、みんなのまゆがぎゅっとまんなかによって、いやそうなかおになるので、なんだかむねのところがいたくなります。
 おとうさまは、はやくおうじょとしてのものをみにつけなさい、とわたしのかおをみないでいいます。
 おかあさまは、よく、ないています。「どうしても、あれがじぶんのむすめだとおもえない」 と、おとうさまに、こっそりいうのをききました。
 おにいさまは、ちっともくちをきいてくれません。
 アルのいえにかえりたい。アルのいえはあたたかかったのに、ここはとても、つめたいかんじがします。おおきいまどがあっても、ちかのへやのように、くらくおもえます。
 だれも、ディー、いっしょにほしをみよう、っていってくれません。
 さみしい。
 さみしい。さみしい。さみしい……


 −−−−−−


 アルへ。
 今日、お母さまがお亡くなりになりました。
 さいごまで、きちんと私の顔を見ないままのお別れでした。
 おそうしきが、国をあげてせいだいに行われる、ということで、みんないそがしそうです。私が話しかけても、だれもちゃんと返事をしてくれません。お部屋でじっとしていてください、って、そればかり。
 私もおそうしきに出る予定だけれど、人前では何もしゃべってはいけないのだって。ずっと下を向いて、だまっているように、と言われました。
 王女があまりにも、むちで、れいぎ知らずあることが知れると、がいぶんがわるい、んだそうです。
 お兄さまは、お母さまが亡くなったのは、お前のせいだ、と私に言いました。
 戻ってきた王女が、こんなにもげせんな、育ちのわるい、むきょうような娘であることに、ぜつぼうしたせいだって。だから、お前が城に来てから一年で、体と心が弱って、死んでしまったんだって。
 こんなことなら、お前なんて戻って来なければよかったのに、とお兄さまは言います。
 さらわれてからすぐに死んでいれば、お母さまの頭の中には、美しい思い出だけが残ったのに、とどなります。
 そうなのかな。
 私、死んでいれば、よかったのかな。
 きっと、いま私が死んでも、このお城の中のだれも、「かなしい」 と言ってくれないと思います。
 それは、とても、かなしいことのような、気がします。
 私は別に死んでもいいけれど。
 でも、その前に、いちどでいいから、アルの顔が見たい。
 それだけ。それだけです。
 アルに会いたい。


 −−−−−−


 アルへ。
 最後に顔を見たあの日から、もう三年が経ちましたね。アルと一緒に過ごした時間の、二倍以上の日々を、私はこの城で過ごしたことになります。
 そう考えたら、あの頃の記憶もそろそろ薄れてもいいように思うのに、一向に消えてくれそうにありません。困ったことです。
 暗い地下室で暮らした十年のことは、もうあまり覚えてもいないのにね。アルの家の内部は、目を閉じればすぐに鮮明に浮かんでしまうんです。不思議。
 アルと話したこと、笑ったこと、夜空を見上げたこと、アルの背中、アルの声、すべてが未だに私の心に留まり続け、美しい輝きを放ち続ける。この先も、ずっと。
 アルに手紙を書くのも、もうすぐ最後になりそうです。
 あと少ししたら、お隣の国に行かなければならないの。
 驚いてしまうでしょう。何も知らず、何も出来なかった小さなディーが、王女として隣国へ嫁入りなんて。私もびっくりしてしまいました。
 兄の王太子が強硬に話をまとめたようです。あの方、本当に私のことがお嫌いみたい。母王妃が亡くなったのを、未だに私のせいだと責めるのです。しつこいったらありゃしない。アルも少ししつこいところがあったけれど、とてもあの方には敵わないと思うわ。
 私、イヤだって、ちゃんと言いました。アルに、「命令されても、自分の意に沿わないことなら従わなくていい」 って、何度も言われたでしょう? だから、その通りにしたのだけど。
 やっぱり、無理のようです。
 この場所では、私の意見なんて、紙屑よりも軽くて薄っぺらいのです。父王が一度肯ったのなら、それはもうどう足掻いても、覆せないことになってしまうのです。
 ようやく少しは王女として恥ずかしくない振る舞いが出来るようになったのだから、あとはひたすら国のために尽くせと、そういうことらしいです。
 王女に生まれたからには、政略の駒として、見たこともない人のお嫁さんになるのは当然だと、みんなは口を揃えて言います。それが王族としての義務だと。
 義務って、なんでしょう?
 義務を強要されるからには、権利だって与えられるべきではないのですか。家庭教師の先生は、そう教えてくれました。
 じゃあ、私に与えられている権利ってなんですか。望むことも、拒否することも、自分の意見を述べることも封じられて、私に何をしろと言うのでしょう。
 誰からも愛されず、必要ともされず、それでも王族として自分を殺し続けることだけを求められるのなら、地下室に閉じ込められていたあの時と、一体何が違うというのでしょう。
 私にとって、本当に生が実感できたのは、アルと暮らしていたあの短い期間だけでした。
 生誕祭に二人で出かけたこと、とても楽しかった。ずっと忘れません。隣の国に行っても、隣に誰がいても、一生忘れません。
 世界が広いこと、美しいことを、私に教えてくれてありがとう。
 アルと、イーガルのおじさんと、ジェイと、アイダおばさんと、下町のみんなと過ごしたあの時間は、私にとって、かけがえのない宝物です。
 毎日毎日が、新しいことを知る驚きと、人の温かさを知る喜びの、連続でした。
 あの頃はそれをなんと呼ぶのか判らなかったけれど、今の私はもう知ってる。
 あれが、「幸福」 というものであったと。
 聖者さまも馬鹿ね。国なんて作らなくたって、探しものは、すぐそこにあったはずのに。
 楽しいことだけが、あるところ。
 アルと一緒に過ごしたあの場所こそが、私にとっての、楽土であったと──



「…………」
 ディーは──もう 「ディアナ王女」 としか呼ばれない、十六歳になったディーは、自分が書いた手紙を封筒に入れて、厳重に封をし、机の上の小さな箱の中にポトリと落とした。
 アルと離れてから、何十通、何百通と書き続けた手紙。一通も出されることはないまま捨てられている、ということを、現在のディーはもちろん知っている。
 それでも、書かずにはいられないのだ。もう習慣になっているというのもあるし、こうしていないと、自分が保てる自信がなかった、というのもある。
 あれから三年。
 アルはもう、恋人が出来ただろうか。それとももう、結婚しているだろうか。ほんのいっとき共に暮らしたおかしな子供のことなんて忘れて、自分の家庭を持ち、幸せな日々を送っているだろうか。
 ──笑って、いるだろうか。
 掌で顔を覆った。押し殺すように息を吐いて、机に突っ伏す。
 アル、アル。
 せっかく教えてもらったのに、ディーはもう、笑い方も忘れてしまった。


          ***


 一年の最初に、王族は城のバルコニーに出て、国民に手を振り、挨拶をするのが習わしだ。
 ディーが王女に戻ってから三年。はじめの二年は、ディーはそこに立つのを許されなかった。なにしろ育ち方が特殊なため、大勢の国民を前にして、どんな粗相をするか判らないからと、警戒されていたらしい。特に、兄の王太子の反対が大きかったようだ。
 しかし十六になった今年、ようやくはじめて、ディーも王族の一員として並ぶことを許された。次の新年を待たずして、ディーは隣国に行くことになっているからだ。これが最初で最後の機会だからと皆に説得されて、兄は渋々折れたのだという。
 正直、ディーは挨拶なんてどうでもよかった。国民にどう思われようと、それもどうでもよかった。みっともないだとか恥だとかは散々言われてきたことだ。今さら、そんなことを気にしたりはしない。
 ディーがそこに立ちたかったのは、一縷の希望を胸に秘めていたからだ。
 はじめて、公の場に、ディアナ王女として堂々と顔を出せる。バルコニーの下は、たくさんの国民で埋め尽くされているはず。その中に──ひょっとして、アルがいるのではないかと。
 来るという保証はない。来ていたとしても、見つかるとは限らない。でも、だけれども。
 そんな不安と切実な願いを抱きながら、足を踏み出す。バルコニーに通じる大窓が開け放たれるのは、一年に一度のこの時だけだ。王が先頭を行き、王太子が続き、そのあとをディーが進む。
 ディーが顔を見せた途端、国民の歓声がひときわ大きくなった。割れんばかりの声と、想像をはるかに超えた群集に、眩暈がしそうだった。
 一歩一歩手すりに近づく。鼓動が速まる。視線はずっとバルコニーの下にいる人々に釘付けになっている。アル。アル。どうか。
 中央に王、その右に王太子、左にディー。叩き込まれた作法どおり、その位置に到着した。あとは微笑んで手を振るだけだ。
 その瞬間、ディーはその人を見つけた。
 思わず、手すりに手をかけた。上半身が前のめりになる。王の隣の王太子が聞こえよがしに舌打ちをしたけれど、構わない。

 ──アル。イーガルのおじさんも。

 アルがいた。たくさんの人々の中の、たった一人。距離だって遠い。けれどディーの目は、しっかりとその人を捉えた。
 三年の歳月を経て、アルの外見も少し変わっていた。髪は黒いままだけど、以前よりも短い。顎が尖って、あの頃よりもぐんと大人びたようにも見える。
 そして、雰囲気も違う。
 アルをはじめて目にした時、彼の周りだけ明るい光が包んでいるように思えた。なのに今は、まるで冷たい氷が覆っているかのよう。
 けれど、アルだ。間違いない。間違いようがない。ずっとずっと、思い描いていたあの顔。
 アルは、笑いもせずに、じっとディーに視線を向けていた。鋭い眼が、睨みつけるように下から注がれる。隣に立つイーガルのおじさんが、ディーを見て涙ぐんでいるのとは対照的だ。周囲の人々が手を打ちさかんに声を上げて騒いでいるのに、アル一人だけ身動きもせず、無表情でバルコニーに立つディーを見上げている。
 ……と。
 アルが、ふいっとディーから視線を逸らした。そのまま、くるりと身体の向きを変え、ひしめく人々を乱暴に押しのけるようにして歩き出す。イーガルのおじさんが、慌てたようにこちらとそちらを見比べて、何か声をかけているようだったけれど、アルはそれさえも無視した。
 足を止めることもなく、その場から去っていく。
 アルの後ろ姿が雑踏に紛れて消えるのを、ディーはバルコニーの上に立ち尽くし、ただ見ているしかなかった。



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