短編18

パレット(4)




 ……土手で描く風景画が、どんどん増えていく。
 本当なら、もう別の写生ポイントを見つけて移動する頃合いだ。この場所での景色はあらかた描き尽くした。
 短い秋はあっという間に過ぎるし、本格的な冬に入れば、こんな吹きさらしの土手、寒くて寒くて、筆を握るどころじゃなくなる。
 でも私は、それをなんとなく来栖さんに言いそびれ続けていた。
 土日のたびにここで彼と会うようになって、すでに二カ月が過ぎようとしている。その間もちろん、雨が降ることもあったし、どちらかに用事があって来られないという時もあったけれど、ほぼ毎週のように顔を合わせていたのは間違いない。

 二カ月。

 その間、別に何があったというわけではないのだ。相変わらず、私は人と接するのが苦手で、話すのだってちっとも上手にならない。未だに、何かあればすぐに視線が足許へと向かってしまう。
 来栖さんはずっと私のことを名前しか知らないままで、それ以上のことを聞きたがる様子もなかった。大学のことや、バイトのことなど、面白おかしく話してはくれるけれど、彼がどこに住んでいるのかも、連絡先も、私は知らない。
 どちらかが黙って来なくなれば、きっと、それっきり。
 二人の座る位置は、人が一人か二人挟めるような距離、から、半人分挟めるような距離、くらいには縮まったけれど、そこから先に踏み込んでくる気配はまったくない。もちろん、指の先すら触れてくるようなこともない。たまに──というか、しょっちゅうおかしなことを口走って私を困惑させる来栖さんは、そういうところだけまるで高潔なお坊さんのように厳格だった。
 私は未だによく判らないのだ。彼がどうして毎週ここに来るのか。



 買ってもらったホットミルクティーをちびちびと飲んでいる間、来栖さんはスケッチブックに描かれた風景画を真面目な表情で見入っていた。
 こうやって、休憩中、自分が描いた絵を彼に見せるようになったのは最近のことだ。以前の私がこれを知ったら、きっとびっくりして声も出ないくらいだろう。この私が他の誰かに対してそんなことをするなんて、と。
 ……でも、今までにそんなことがなかったのは、別に他の人に見せるのがイヤだったわけじゃない。父はこちら方面にちっとも興味を持たないし、なるべく絵から離れて欲しいと望んでいる母に見せるのは論外だったというだけの話。数少ない友人達は、私がこんなものを描いていることさえ知らない。
 ナオさんの描いたものを見たい、と正面切って言ってくれたのは、来栖さんだけだったのだ。
「ナオさんの描く景色は、綺麗ですね」
 スケッチブックをこちらに返しながら、来栖さんは微笑んで言った。
「風景を美化してますか」
 受け取ったそれに目を落として私が聞くと、「いやいや」 と笑って否定された。
「そういうことではなく、ナオさんの目には、ここにある川や建物が、こういう綺麗な景色として映っているんだなあと思っただけです。ワタシは前にも言ったように絵のことはよく判らないので批評は出来ませんが、この景色の中に自分がいられたらきっとさぞかし気持ちがいいだろうなあ、と思います」
 そこまで言ってから、そういえば、と来栖さんは思いついたように続けた。
「ナオさんの絵の中には、人はいないんですね」
 その指摘に、私はイタズラを見つかった子供のように、肩をすぼめた。
 そう、私が描く風景画の中に、人間は入っていない。一枚もだ。たとえ実際の景色に男性や女性や老人や子供の姿が混ざっていたとしても、私はいつだって故意にそれを 「ないもの」 として扱った。
「…………」
 しばらくスケッチブックを見つめてから、ようやく、声を絞り出す。
「……あの」
「はい」
「私、小っちゃい頃から、絵が好きで」
「はい」
 来栖さんの声にも口調にも波はない。訝しそうにすることもなく、ただ穏やかに返ってくる相槌に背中を押されているような気持ちになって、私は続けた。
「絵だけを描いていればそれで満足、というような子供だったんです。幼稚園とかで、他の子が園庭で走り回って遊んでいても、私だけはずっと教室の中で画用紙に向かっているっていう、そんな」
 なおちゃん、あそぼうよ! と誰かに声をかけられても、ううん、と断り、遊んでいるみんなの姿をせっせと画用紙に描いては、にこにこと楽しそうにするだけの子供。
 あの頃はまだ、私の絵にはたくさんの人物が現れて、紙の上を縦横無尽に駆けまわっていた。笑う男の子、泣く女の子、怒る先生、優しいおかあさん。誰もが現実と遜色なく生き生きとして、私はそんな彼らを絵という形ですぐ間近な場所に留めておけることが、嬉しくてしょうがなかった。
 ……けど。

 母にとって、私のその姿は、「歪な子供」 としてしか、映らなかった。


          ***


「──そんな私に、母親は、何度も、絵なんて描いていないで、みんなと遊びなさい、って言いました」

 きっと、本当に心配だったのだろう。
 他の子供たちがきゃあきゃあと賑やかに声を上げて遊び回っている中、離れた場所でぽつんと一人、ひたすらクレヨンを動かしている自分の娘。
 この子はあの輪の中に入っていけないのではないか、孤立しているのではないか、と不安に思っても無理はない。
 今なら、その当時の母の気持ちも理解できる。だけど、生まれて数年しか経っていなかった幼稚園児には、まったく判らなかった。だからいくら母に窘められても、絵を描くことはやめようとしなかったし、自分の思ったことをそのまま口にすることも憚らなかった。

「お絵かきなんてつまらないよ、お友達と一緒に遊んだほうがずっと楽しいでしょう? って母に言われて、私は首を横に振りました。ちっともつまらなくない、外に出るよりも、絵を描いているほうがずっとずっと楽しい──って」

 お友達とお喋りしたり、遊んだりするのも楽しいけれど、それよりも絵を描いているほうが楽しいのだと、私としては訴えたつもりだった。
 他の子が元気にはしゃいでいるところや、弾けるように笑っているところ。そういう様子を絵にしていると、まるで自分も同じような気持ちになって、わくわくしてたまらないのだと。
 でも、小さかった私には、それを伝えきるだけの語彙も能力もなかった。いや、あったとしても、母には理解できなかったかもしれない。母は私と違い、闊達で社交的なタイプで、社会において最も重要なのは人脈を広げること、と考える性格であったから。
 とにかく、私の迂闊な返事で、母の不安はより一層深まることになった。この子は上手に人と付き合うことが出来ない、いずれ自分の殻に閉じこもり、脱落者として世間から取り残されてしまうのではないか、と。

「……母はそれから、いろんなところに私を連れていって、いろんな人に相談をするようになりました。よく覚えていないんですけど、病院の先生とか、カウンセラーみたいな人と、何度も話をした記憶があります」

 その頃の私は、よく判らないまま彼らの質問に答えたり、お話をしたり、簡単なパズルや積み木をさせられていた。一体どうしてこんなことをしなければならないのか、と考える知恵があるわけでもなく、ただ言われるがままに手と口を動かすだけだった。
 自分の好きなことにのめり込みがちで、少し内向的な性格でもあるようですが、特に問題があるとは思えませんよ、お母さんももう少しゆったりとした気分で見守ってあげたらどうですか。
 胸のところについた名札に難しそうな肩書きの入った人たちが言うのは、大体そういう内容のものが多かった。
 そんな時、母は安心したような顔で、頷きながらそれを聞く。そしてまだ少し疑うような色を瞳に浮かべ、隣に座る私にちらっと視線をやりながら、呟くように言うのだ。
 ──遊びもせずに絵ばかり描いているなんてちょっと普通じゃないから、心配でたまらなくて。
 普通じゃない。他の子と全然違う。なんだかおかしい。
 まだあまり物心のついていない幼稚園児とはいえ、母のそういう言葉だけは、胸に突き刺さるように衝撃を受けたことをよく覚えている。

「……そうか、私は、『普通じゃなくて』『他の子と違って』『なんだかおかしい』 子供なのか、って。そういうことを口にする時の母の顔が、ひどく悲しそうにも見えて、ものすごく申し訳ない気持ちにもなりました。だったら、私がもっと 『普通』 になったら、母も喜んでくれるのだろうかと、思いました」

 絵を描くことがいけないのか、とようやく思った。クレヨンを持つたび、母の目に懸念が浮かび上がることにも気づきはじめていた。「絵を描くこと」=「普通じゃないこと」 だという考え方が、次第に私の頭の中に根を下ろすようになった。

「それで、絵を描くのを、ぱたりとやめました。園庭に出て、他の子たちと遊ぶようになったら、母はとてもほっとして」

 以前のように朗らかな笑顔を見せて、「みんなと一緒で楽しそうね、直」 と頭を撫ぜてくれるようにもなった。
 母のその嬉しそうな顔を見て、私もほっとしたのは確かだ。やっぱりこれでよかったんだ、と思った。
 けれど、同時に。

「──絵を描いたら、この笑顔もまたなくなってしまうのか、と思ったら、怖くなりました」

 安心感が、今度は恐怖心となって、どっと跳ね返ってきた。
 一度戻ってきた母の笑顔をまた曇らせるようなことはしたくない。自分が 「普通ではないこと」 をすれば母を困らせることになる。それはイヤだ。それは悲しい。それは……怖い。
 ものすごく、怖くてたまらなくて。
 ……幼稚園の 「お絵かきの時間」 で、みんなが一斉に絵を描いていても、大手を振って画用紙に思いきり書きなぐっても許されるだろうその時間でさえも、何も出来なくなった。
 クレヨンを持とうとすると手が震える。真っ白い紙を見ているだけで苦しくなった。
 異変に気づいた幼稚園の先生が母親に連絡を入れて、それから幾度か、話し合いもされたらしい。
 ある日、先生が私に向かって、「直ちゃん、いっぱい絵を描いていいんだよ。直ちゃんのしたいことをしてごらん。ママも、直ちゃんの絵を見たいって」 と言った。
 子供でも嘘だと判った。そんなことを、母が言うはずがない。
 でも、胸につかえた何かが、反論の言葉を出すのを邪魔した。本当は、ずっとずっと絵を描きたくてたまらなかったのだ。描いてもいい、と言われるのを、胸が焦がれるほどに待ち続けていた。
 さんざん逡巡した末、クレヨンを手に持って、白い紙に線を引いた。
 ……その途端、ポロポロと、目から涙がこぼれた。

「母はそれ以降、私が絵を描くことについて、あまり言わなくなりました。やっぱり複雑そうだし、いい気分にはなれない、というのは変わらないようですけど。私も、母の前で絵を描くことはなくなりました」

 絵を描く時は、自分の部屋に一人でいる時だけ。母が不安にならないよう、心配しないよう、幼稚園や学校では、友達を作る最大限の努力をした。元来、そういったことは不得手なので、友達といってもグループ内の目立たない一員として、ひっそりと紛れているのがせいぜいだったが。
 彼女たちの前では、決して、絵のことなんて口にはしない。好きなものがアイドルでもなくゲームでもなく漫画でもなく、美術の時間や写生大会の時にイヤイヤやらされるような絵を描くことだなんて、言えない。
 それは、「普通ではない」 ことなのだ。

「小学校、中学校、高校と、ずっとそんな感じでした。……学校で、誰かとお喋りしたりするのも、決して、イヤではないんです。ものすごく緊張してしまうし、私は話すのが苦手なので、ただ聞いていることのほうが多いんですけど。それでも──それでも、やっぱり、どうしても」

 一人で絵を描いているほうが楽しい、と思えてしまう。
 いつも母親の目から逃れようとし、学校の友人たちにも言えない。そうまでしても、絵を描くのをやめられない。
 こんな自分は、やっぱり人間として欠陥がある。そう自覚できてしまうから、ますます人と交わっていいのかと躊躇する。その態度が 「つまらないのか」 と受け取られて疎んじられることに気づき、委縮する。欠陥品としての自分に向けられる人の目が、どんどん怖くなっていく。
 だからこそ、自分の中から他者の存在を弾いてしまうのだ。頭から、心から、そして描く絵の中からさえも。
 私は、どうしようもなく、小さく弱い人間なのだった。


          ***


「んー……」
 来栖さんは、長く続いた私の話を、じっと黙って聞いていた。
 話している間、私の目はスケッチブックに据えられたままだったけれど、いかにも困惑したようなその声を耳に入れて、それよりもさらに下の地面へと向かった。当たり前だ、「風景画の中に人物が入っていない」 というところから、いきなりこんな家庭内の話にまで展開されては、どういう返事をしたものか迷うに決まっている。
 私は恥じ入り、そして思いきり後悔した。
 人が苦手なんです、とそれだけのことを言うつもりだったのに。
 どうしてこんなことを口にしてしまったのか。
 まるで、自分を正当化するための言い訳のように。
「──何が 『普通』 か、っていうのは世間における命題のひとつですけど、そしてワタシはそれについて一時間くらいは余裕で自説を述べる用意もありますけど、今ナオさんに言うのはそれではないような気がするな……とすると……」
 ぶつぶつと苦悩するような声に、私がようやく顔を上げてみれば、来栖さんは自分の頭を両手で抱えてうーんうーんと本気で唸っていた。
「……あの」
「うん、まあ、でも、とにかく」
 おずおずと声をかけようとしたら、来栖さんは唐突に吹っ切ったようにぱっと頭から手を離して、晴れ晴れとした表情になった。いつものことだけど、切り替えが早すぎて、ついていけずにまごつく。

「──とにかく、ナオさんは、絵を描くのが好きなんでしょう?」

 問われたことが、一瞬、判らなかった。
 ぽかんとしてから、徐々にその言葉が胸に染み入ってきた。小さな声で、はい、と返事をする。
 来栖さんはにこっと笑って、頷いた。
「だったら、いいじゃないですか。ワタシはねえ、それは、とても幸せなことだと思いますよ」
「幸せな、こと……?」
「世の中には、自分の好きなものが何なのか判らない人もいて、探しても探しても見つからない人も、たくさんいますから。見つかっても、最後までやり遂げられない人、とかも」
 ほんの少しだけ、来栖さんの声が弱くなった、ような気がした。
「好きなものをちゃんと見つけて、長いことブレないでいられるナオさんは、非常に立派です。好きなものに偏向しすぎて、寝ることも食べることも忘れてしまうような人もいますが、ナオさんはお母さんのことを気遣って、一生懸命、他のこととバランスをとろうとしているんでしょ? それはね、決して落ち込むようなことではないです。むしろ誇ってもいい」
「そんな……」
 いくらなんでも、過大評価のしすぎだ。私は余計に恥ずかしくなって、俯いた。
「いろいろ大変なことはあるんでしょうけど、ひとつずつ、ゆっくりやっていきませんか。まだ高校生なんだし、自分のことを自分で決めつけてしまうのは早いですよ。人が苦手、だとナオさんは思ってるけど、案外、そうでもないかもしれないし」
「でも」
 なおも異議を申し立てようとしたら、その前に、「あ、そうだ!」 と声を上げられた。
 こ、今度はなんですか……と腰の引けた私に、来栖さんはとても良い喩えを思いついた、というような嬉しそうな顔で、

「ナオさんは、まだほとんど白いままのパレットなんじゃないですかね」

 と、言った。
「パ、パレット……?」
 突然出てきた単語に目を瞬く。つい、自分の近くに置いてあるそれに視線が向かった。
 絵の具のチューブから絞られたたくさんの色が並べられ、ごちゃごちゃと混ざり合ったパレット。
「まだ大部分が白いそのパレットには、これから時間と共に、いろんな色が置かれていくんだと思いますよ。人によっては、色が混ざりすぎてちょっと汚くなったりするかもしれませんけど──こんなにも綺麗な絵を描くことのできるナオさんのパレットは、どんなに色が増えても、やっぱり綺麗なんじゃないかな、と思います」

 来栖さんはこちらを向いて、私と目を合わせると、ほんのりと優しく口許を綻ばせた。
 その笑顔のほうこそ、とても綺麗だと、思わずにいられないくらいに。

「…………」
 鼓動が高くなる。頬が熱くなってきたのを意識した。
 ……それは決して、怯えによる感情からではない、ということは私にだって判る。
「誰がどう言おうと、ワタシはナオさんの絵が好きですよ」
 こちらの動揺に気づいているのかいないのか、来栖さんはにこにこしながら続けた。
「いいじゃないですか、それで」
「…………」
 彼にとって、その言葉は大して意味のないものであったのかもしれない。
 だけど。

 普通じゃなくても。他の人と違っても。なんだかおかしくても。

 ──私は私のままでいい、と言われているように聞こえた。
 下を向いたら、ぽつりと、涙が落ちた。


          ***


 絵を描き上げて、立ち上がってから、私は自分が持っている限りの勇気をかき集めて、口を開いた。
「……あの、来栖、さん」
 もう少し寒くなったらこの場所は移動する。ここには来なくなる。来栖さんに、それをちゃんと伝えないと。
 それから、どうするのか。来栖さんは、どう思うのか。私は、どうしたいのか。言葉にして、ちゃんと──
「はい?」
 同じく立ち上がった来栖さんが、微笑んで私の顔を覗き込む。
 息を吸って、吐き出すと同時に、言葉を出そうとした、その瞬間。

「あっ、いたいた!」
 という、陽気な声が聞こえた。

 急いで口を噤み、土手の上へと目を向ける。 そこでは、三人の若い女の人たちが、こちらに向かって陽気に手を振っていた。
 いや、こちらに、ではなかった。彼女たちの目は、はっきりと来栖さんのほうにしか向けられていない。
 来栖さんは、一瞬、わずかに顔をしかめた。
「なんでこんなとこにいんの?」
 少しぶっきらぼうで、愛想のない言い方は、私には聞き慣れないものだ。けれど女の人たちは、まったく気にする素振りもなく、愉快そうに笑い声を立てている。
 きっと、普段の来栖さんは、「友達」 に対して、そういう話し方をする人なのだろう。
「林田にムリヤリ聞いちゃった。ここんとこずーっと付き合い悪いからさ、どこで何してんのかって」
「土手ってもけっこう広いじゃん? このあたりかなあって目星をつけて探してたんだけど、思ったより時間かかったわー。ねえねえ、その子が例の……」
「うるさい」
 来栖さんが低い声で遮って、何かを言いかけていた女の人はぴたりと口を閉じた。それだけの怒気が彼から放出されたのを、私も感じた。その顔に、いつも乗せられている笑みはカケラも見当たらない。
 私がびくりと身じろぎしたことに気づいたのか、来栖さんはこちらを向いて、慌てて取り繕うように苦笑した。どう見ても、ぎこちない動きで。
「ごめんなさい、びっくりしたでしょう。あの人たち、ワタシの大学の同級生です。魔女みたいに真っ赤な口してるけど、別に取って食ったりしないので安心してください」
 三人の女の人たちは、みんな綺麗にお化粧していた。唇を彩る美しい色の口紅は、ちっとも魔女みたいなんかではなくて、ぐんと大人っぽさを引き立てる役割をしっかりとこなしている。パーマのかかった茶髪は丁寧に整えられ、着ている洋服も洗練されていて、スカートからすらりと伸びた足は細い。
 いつも、絵の具がついて汚れてもいいようなシャツとジーンズ、という格好の私とは大違いだ。
「魔女ってひどーい」
 土手の上で、けらけらと笑い声が弾けた。
「ねえ来栖ー、もう帰るとこなんでしょー? だったら遊びに行こうよー」
「うるさいですね、あんたたち。ワタシはこの人と話してるんで、割り込まないでくれます? まったく、人のプライベートスペースにずかずかと」
「『この人』 だって」
 女の人たちは、今度は三人で頭を寄せて、くすくすと笑いはじめた。ちらりちらりと飛んでくる、好奇心いっぱいで何かを言いたげな視線に、私の忍耐力は尽きた。
「……あの、じゃあ」
 スケッチブックと道具を引っ掴み、くるりと身を翻して走り出す。土手の上には到底行く気にはならなかったので、草をかき分けるようにして駆けた。
 草の先がちくちくと腕に刺さって痛い。それでも止まらず、脇目もふらず、足を動かした。
 ……逃げる私の後ろで、来栖さんの声が聞こえたけれど、振り向かなかった。



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