はるあらし

10.妹の悩み



 ハルさんとのデートから三日経った夜、仕事を終え家に帰り、着替えを済ませて食事をとるためにダイニングに下りていくと、妹の愛美がテーブルに広げた雑誌をめくりながら、ミルクティーを飲んでのんびりと寛いでいた。
「雑誌を見ながらお茶なんて、母さんに見つかったら怒られるぞ」
 母は何事においても 「ながら」 は許さない人である。食事は食事、お茶はお茶として楽しむべきものであり、他のことをしながら食べたり飲んだりする行為を、下品なことだと忌み嫌う。こんなところを見られたら大目玉をくらうことは確実だ、とおれは忠告したが、愛美はちらりと舌を出して笑った。
「大丈夫よ。今日はお母さん、遅いんだって」
 母親の見ていない場所での妹は、お洒落や流行の音楽に関心を持つ普通の大学生だ。この家ではテレビもNHK以外観るのは禁止されているのに、ちゃっかりと、ドラマやバラエティー番組に詳しかったりする。
「お前、そういう使い分けが上手いよな」
 感心して言うと、愛美はふんと軽く肩をそびやかした。
「当たり前でしょ。智兄さんだって、哲兄さんだって、そうじゃない。お母さんの言いつけを守って生活してたら、息が詰まってしょうがないわよ」
「まあ、そうだよな……」
 そこは同意して頷くしかない。
 おれたち兄妹は昔から、表面上は母の支配下に大人しく納まりながら、見えないところで適当に息を抜いていた。そうしなければ精神を病みそうだ、と本能的に悟っていたのだろう。逆らうには母はあまりにも強すぎて、おれたちはそれぞれが自分たちのやり方で、この家の縛りからそっと抜け出し衝突を避けながら表の顔を保っていくしかなかったのだ。
 兄は表と裏を自在に操り、妹はこっそりと自由な場所を作って、おれは常に本音を隠して一歩身を引きながら。

 おれたちは一応 「家族」 という体裁を取り繕ってはいるけれど、実態はいつだって、お互いが他人同士のように遠かった。

「ね、お兄さん、この間、お見合い相手とデートしたのよね?」
 いきなり愛美が声を潜めて、好奇心丸出しの瞳を輝かせながら、つつつとおれの隣の椅子までやって来て座り直した。この家には大人数の客に対応するために、端と端では会話が出来なさそうな長ったらしいテーブルが据えてある広間が別にあるのだが、ここは家族用のダイニングなので、テーブルは普通サイズで椅子は六脚しかない。わざわざ移動してこなくても十分声は届くのに、すぐ間近に顔を寄せられて、おれは思わず少し上体を後ろに反らした。
「ああ、まあ」
「どうだった?」
「……楽しかったよ」
 母に返したのと同じ答えを口にすると、愛美はさらにずいっと詰め寄った。おれの身体はさらに後ろへとずれる。さすが母娘だけあって、こういう時の顔と口調と迫力は母によく似ていた。
「お相手は、どんな人なの?」
「どうって……」
 質問に口ごもったのは、妹のその迫力に押されたわけではなく、本当に返事に困ったからだ。ハルさんがどんな人か──なんて、おれのほうが聞きたいくらいである。
「えーと……」
 なんて言えばいいのだろう。いい人、という言葉では決して括れないものがあるが、性格は悪いわけではない。変な人、とか、面白い人、というのは間違ってはいないが、それは女性に対してあんまりな形容ではないかという気がする。かといって、優しい人、というのも少し違うし。おっとり、はしてるけど、毒舌家だしな。いやいやでもなあ。
「……可愛い人、かな」
「なんだかずいぶん自信なさげな言い方なのねえ」
 散々迷って、ようやく出したおれの言葉に、愛美は不思議そうに首を捻った。おれには今のところ、これ以外の説明が思いつかないのだから、しょうがない。
「ふうん。可愛い人、ね」
 興味深げに訊ねてきたわりに、愛美はそこでなぜか一気にトーンダウンして、視線をおれから外すと、テーブルの上に放置されていた雑誌に手を伸ばし、ずずずと自分の許へと引き寄せた。しかし再び読みはじめるでもなく、どこか上の空でぱらぱらとページを指で弄ぶ。
 兄が他の女性のことを口にしたので拗ねている、というわけではないだろう。おれと愛美は昔から良好な関係を保ってきた兄妹ではあるが、逆に言うと、他の兄妹のように喧嘩も言い争いもしたことがない。ぴったりとくっついて遊んだ記憶もないし、そもそも同じ家に暮らしていながら、一緒に過ごした時間もそんなに多くはない。兄と妹というよりは、仲の良いイトコ、くらいの距離感で育ってきた。それはおれと愛美だけでなく、兄の智にも言えることだ。
「お兄さんは、その人とお付き合いしてるのよね?」
「……そうだな。一応ね」
 愛美には、おれとハルさんが双方合意のもとで、(仮)つきの付き合いをしている、ということは言わないでいようと決めていた。兄は信用しているが妹は信用していない、ということではなく、まだ大学生の愛美の耳に入れるようなことじゃないな、と思ったからだ。
「結婚する前提でお付き合いしてるの?」
「…………」
 その問いかけには答えようがなくて黙り込む。もともとあの見合い自体が結婚を度外視した、お試し見合いだった、とは言えない。
 おれが口を噤むと、愛美も無言になった。相変わらず指だけはぱらぱらとページを繰って動いているが、目はまったく雑誌を見ていない。ダイニングに沈黙が落ちる。
「……あのね」
 しばらくして、ぽつりと愛美が呟くように声を出した。
「お兄さんのお見合いのこと、私、知ってた」
「うん」
 それは当日のお前の態度で気づいてたよ。
 あの時完全に無責任な傍観者として成り行きを楽しんでいたように見えた妹は、けれど今は、どこか怒ったような顔で唇を引き結んでいる。
「知ってたけど、黙ってたの。お母さんに口止めされてたのもあるけど、口止めされてなくても黙ってたと思う。……そう言ったら、お兄さん、怒る?」
「別に怒らないよ」
 事前に知っていれば、おれは何としても母と顔を合わせないうちに家を逃げ出していただろうが、どちらにしろ日時を変更されるだけで、結果的には同じことになっていただろう。
 そんなことになっていたら、ますますハルさんをこちらの勝手な都合で振り回していたと思うと、むしろ、そうしていなくてよかった。
「そうよね。お兄さんは怒らないわね。昔から、お兄さんが怒ったところなんて、見たことがないもの」
「…………」
 独り言のような愛美のその台詞が、何に対しても怒らないくらい心が広い、という意味ではなく、怒るよりも先に諦めてしまう、という意味であることくらいは判る。しかし実際その通りなので、おれは反論せずに黙っていた。
「私、ちょっと期待してた」
「何を? おれが怒るところを?」
「じゃなくて、お兄さんが反抗することを。いきなり降って湧いた理不尽なお見合い話を、冗談じゃないって蹴とばすか、その気はありませんってお見合い相手にキッパリ断るか、そういうところを見たいなって思ったの。お母さんに怒られても命令されても、結婚相手くらい自分で見つける、って強い態度に出るんじゃないかって」
 それがいざ蓋を開けてみたら、おれは文句を言いながらも従順に見合いをし、母に言われるがまま見合い相手とデートをして、現在はお付き合いというものをしているわけだ。内実はともかく、表からはそうとしか見えないだろう。愛美のこの表情はつまり、そんな兄に失望した、ということなのだろうか。
 ハルさんに一度キッパリ断ってはいるものの、結局は流されているおれが、その失望に対して弁解する余地はない。
「頼りない兄さんでごめんな」
 謝ると、愛美は視線を雑誌に向けたまま、ぶるぶると勢いよく首を横に振った。
「違う、違うの。お兄さんが謝るようなことじゃない。悪いのは私なの。お見合いのことを黙ってたのだって、お兄さんを利用しようとしただけのことなの。つまり……その」
 言いにくそうに一旦言葉を濁し、ため息と同時に吐き出した。

「──前例としてやり方を学習しておきたかった、というか」

「え」
 おれは驚いて目を瞬く。
「もしかして、母さん、お前にも見合い話を持ってきたのか」
 つい声を大きくして問いただすと、愛美は 「しっ」 と唇に人差し指を当てておれを制した。慌てて廊下へ目をやったのは、キッチンでおれの食事の用意をしているスミさんのことを気にしているらしい。
「ちょっとやめてよ。こんな話をしてるのがお母さんに伝わったら、本当に喜んで見合い写真を持ってきかねないじゃないの」
「じゃ違うのか」
「当たり前でしょ」
 だよな、まだ学生なんだもんな、とおれはなにがしほっとする。自分のことだけでも手一杯なのに、この上妹の結婚話まで持ちあがったら、とてもじゃないけど支えきれそうにない。
「……でも、遠からずそういうことになるんじゃないかっていう気はしてる。お母さん、私が大学を出たら、一、二年家で花嫁修業してから結婚を、ってなんの迷いもなく考えてるみたいだし」
「……ああ」
 花嫁修業なんて古臭い、とは思うが、母がそういう確固とした考えを持っていることは間違いないだろう。当然のように決められているその将来の予定に、愛美が特に異議を申し立てたことはない。だから本人もそのつもりでいるのかと、おれは今の今まで思っていたくらいだった。
「私も結婚する相手は、どうせ見合いで見つけるのよね。きっと面白みのないいいとこのボンボンと」
「面白みのないいいとこのボンボンで悪かったね」
「別にお兄さんがそうだとは言ってないじゃないの。否定はしないけど」
 兄も妹も、そこは否定してくれないのである。
「……つまり、そうやって母さんに勝手に結婚相手を決められるのがイヤだってことか?」
 でも、「見合いなんだから気に入らなければ断ればいい」 と言っていたのはお前じゃないか、と思いながら訊ねると、愛美はまた首を横に振った。
「そんなのはどうだっていいのよ。私はその気になればいくらでも男に嫌われるような言動だって出来るし、面と向かって相手に断ることも出来るもの」
 後半部分は、おれへのあてつけもあるようだ。どうも愛美は、おれが優柔不断なため、相手に断ることも出来ずに付き合うことになっている、と考えているらしい。……いや、その通りといえばその通りなんだけど。
「じゃあ、何が?」
「…………」
 おれの問いかけに、愛美はまた無言になって視線を雑誌へと戻した。止まっていた指の動きが、手持無沙汰そうに動きを再開させる。
 ややあって、ぴたりとその動きを止め、

「……私、大学を卒業したら、働きたい」

 と、ぼそりと言った。
「働く?」
 問い返すと、愛美はきっとおれに顔を向けた。途端に早口になって喋り出す。
「会社はどこだっていいの。桜庭関係のところでも、コネ入社と言われてもいい。とにかく、一人の社会人になって自分の手で報酬を得たい」
「どこでもいいから働きたいのか」
「そりゃ、希望はあるけど、そこまで望むのは贅沢だと思うし」
 桜庭系列はほとんどが優良企業で、どこも学生の就職希望の多いところばかりだ。そこでいい、というのも傲慢な話だと思うが、それ以外を望むのは贅沢だ、というところに、現在の愛美が置かれた境遇の複雑さがあるのだろう。
「私、バイトもしたことがないのよ。このまま、社会のことをなーんにも知らずに、お茶やお花を習って、適当に経済力のありそうな結婚相手を見つけて家庭に入るなんて嫌。……私、お母さんみたいにはなりたくないの」
「…………」
 母は名家と呼ばれる家に生まれ育ち、なんの苦労もなく成長して、名門の女子大を出た後、一度も外の世界を知ることのないまま父の妻になった。家のことはすべてスミさんがやってくれているし、子供たちの教育には熱心だったが子育てというもの自体には無関心だった。母自身、そういう家庭で育ってきたようなので、仕方のないことなのかもしれないが。
 愛美は、そんな母のようにはなりたくない、と言う。
「……学校を出たら働きたいって、母さんには言ってみたのか?」
 おれが言うと、愛美は力なく首を横に振った。
「まだ。言ったところで、そんな必要はないって一蹴されるのは目に見えてるし。どう説得していいのか、私も判らなくて」
 母のようになりたくないと言ったって、おれたち兄妹は、生まれた頃から母に頭を押さえつけられることに、良くも悪くも慣れてしまっている。今さら、頭の上に置かれた手をはねのけようとしても、その方法がそもそも判らない。ちなみに仕事上で有能な父は、家庭内では、まったくアテにはならない。
「それでおれの見合いを見て、失敗と成功の秘訣を学ぼうとしたわけだな」
「そう。でも、ちっとも役に立たなかったわ」
 すみませんね。
 愛美はふうっとため息をついて、つまらなさそうにまた雑誌のページをめくりはじめた。その横顔がいかにもしょんぼりとしていたので、おれはちょっと迷ってから口を開いた。
「……あのさ、愛美」
「うん?」
 返事はするが、愛美は雑誌から目を上げもしない。
「おれの見合いの相手──ハルさんっていうんだけど」
「ハルさん?」
 やっと雑誌から顔を上げ、こちらを向いたが、その瞳は明らかに揶揄を含んでいる。
「へえー、もうそんな呼び名で呼んじゃう仲なんだ」
「そうじゃなくて」
「お見合いが上手くいって、結構ですこと」
「聞けってば。そのハルさんはさ、お父さんが経営する会社で働いてるんだ」
 ぴくりと愛美の片眉が上がった。今度のは、少し怒りが混じっているように見える。
「ふうーん。お父さんの会社でね。秘書? 受付嬢?」
 厭味ったらしい言い方だな。
「いや、海外事業部」
「…………」
 おれの答えに、愛美はますます不機嫌な顔になった。とにかく何もかもが面白くない、という雰囲気だ。気分としては八つ当たりに近いかもしれない。
「社長の娘がそんな部署に入るなんて、どうせ本人が希望したんでしょ。そんなワガママが通るなんて、父親も甘すぎるんじゃないの? 努力でその部署に入った人たちに、よく思われてないわよ、きっと」
 つんけんした口調には無数の棘がちくちくと仕込まれている。普段の愛美はこういう意地の悪いことをストレートに口に出すタイプではないのだが、よっぽど鬱屈が溜まっているらしい。
「詳しくは知らないけど、ひょっとしたら、その通りかもしれない」
「絶対そうよ」
「ということは、お前もコネで入社すると、同じことを言われるな」
「…………」
 愛美が口を閉じて、目を逸らす。
「おれはそういうのが嫌で、自分のことを隠して今の会社に入った。要するに桜庭の名前から逃げたんだ。でもハルさんは、そういうのから逃げなかった。もしかしたら、社長の娘ってことで周囲にちやほやされてるのかもしれないし、それとも腫れ物に触れるような扱いをされているのかもしれない。どう受け入れられているのか、それとも受け入れられていないのか、それは知らないけど、少なくとも、ハルさんはそういうものを背負う覚悟を持ってその会社に入ったように、おれは思った」
 そして、堂々としていた。
「お前はそういうところまで考えて、『働きたい』 って言ってるのか? ちゃんとした覚悟もないまま母さんを説得しようなんて、そりゃ無理だ。ちょっとだけ働く気分を味わってみたい、っていう程度なら、アルバイトでいいだろう。それくらいなら、おれも、智兄も、母さんには知られないように協力できる」
「…………」
 愛美は下を向き、唇を噛んで長いこと黙っていた。
 しばらくして、窺うようにそろそろと顔を上げ、おれの目を覗き込んだ。瞳からは、さっきまでの攻撃的な色は消えているが、その代わり、頑固そうな強い光が底のほうで輝いているみたいだった。

「……ね、そのハルさんと、一度、会わせてもらえないかな」

「え」
 唐突なそのお願いに、おれは戸惑って声を上げた。
 次にハルさんと会う日取りはまだ決まっていない。また勝手にセッティングされた場合に何かあるといけないからと、デートの終わりにお互いの連絡先の交換はしたが、なにしろおれたちは、(仮)つきの付き合いをしている身である。仲人おばさんを介さずに、「お会いしませんか」 と誘うのはルール違反であるような気がする。
「いや、でも……」
「お願い。参考までに、話を聞いてみたいの。私、お遊び気分で働きたいって言ってるわけじゃないのよ。これからのこと、自分でもっとちゃんとしっかり考えたいの。いつならいい? ハルさんの都合に合わせるから。お兄さんも来てくれるでしょ?」
 こちらの躊躇はお構いなしに、妹はぐいぐい迫ってくる。やっぱりあの母の娘だけあって、強引だ。しかしその真剣さもひしひしと伝わってきたので、きっぱりと切り捨てることも憚られた。
「ううーん……」
 ぽりぽりと指で頬を掻いて迷ってから、
「……とにかく、一度聞いてみる」
 もごりとそう答えると、愛美が嬉しそうにはしゃいだ。
 その顔を見て、ふと、不安になった。
 ──なんだかんだで、結局おれ、どんどん流されてないか?



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