はるあらし

11.ここにはいない人



 おれが夕飯を食べ終えると、愛美は口には出さないものの、早く早く、と瞳でせっついてきた。
 そんなに急ぐ必要はまったくないと思うのに、どうも妹は、思いついたら即実行、という短期決戦型の人間であるらしい。考えてみれば、母は言うに及ばず、どちらかといえば兄も即断即決の人である。父は黙って考え、ある日いきなり思いきった決断を下すタイプだ。桜庭の家の中で、おれだけが異端であるような気がしてならない。
「別に今日じゃなくてもいいんじゃないか?」
 と何度も言ってはみたが、ちっとも聞き入れられなかった。
「なに言ってるのよ、お兄さん。こういうのは思いついた時にすぐ段取りを決めないと。時間を置くとまた余計な考えが浮かんで、あれこれ迷っちゃうかもしれないじゃないの」
「お前はもう少し迷ったり悩んだりしたほうがいいんじゃないかな、とおれは思う」
「悩んでるわよ。悩んでるから、助言を必要としてるのよ」
「だから、おれも智兄も、相談に乗ってやるって。外の人に助言を求めるのは、それからでも遅くないだろう」
「お兄さんや智兄さんはダメよ。私とは全然立場が違うもの。それにお母さんのことよく知ってるから、逃げ方やかわし方の助言は出来ても、立ち向かう方法なんて思いつかないでしょ」
「…………」
 確かにその言い分には一理あるな、と思った。おれも兄も、あの母への対抗策を考えるよりは、いかにして逃げ道を見つけるか、という方向に思考が向かいそうだ。
 そして同時に、愛美のことを少し見直した。今まで、桜庭の娘と気軽な大学生を上手に両立させて楽しんでいるとばかり思っていた妹だが、それでも内心では、将来的に母とやり合うことも視野に入れ、いろいろと模索していたわけだ。まっすぐに決められた道を言われるがまま歩いていればよほど楽だろうに、愛美は愛美で、懸命に曲がり道を探してずっと彷徨っていたのだろう。
 そう思えば、この性急さも頷ける。大学卒業までそんなに猶予があるわけでもないし、焦っているのも理解は出来る。なるべく力になってやりたいなと思う兄心ももちろんある。
 あるけどね。
「いや、でも、今日はもう遅いし……」
「遅くないわよ、まだ九時だもの。子供じゃあるまいし、まだ宵の口よ」
 でもハルさんはもう寝てるかもしれないぞ。小学生みたいにパタンと寝る、って本人も言ってたし。
「お母さんがいない時のほうがいいでしょ。なんでそんなにグダグダ言うのか、そっちのほうが判らないわ。自分の彼女に電話かけるくらいで、どうしてそう尻込みする必要があるのよ」
「ハルさんは彼女じゃなくて、見合い相手だ」
「同じじゃないの」
 全然違う。
「お前、そういう強引なところ、母さんにそっくりだな」
「うるさいわね。いいから、さっさと電話してアポとって。なんなら、私が代わりにハルさんに電話するけど?」
「いやいや、待て待て」
 だんだん殺気走った眼つきになってきた愛美が、おれのスマホに手を伸ばしてきたので慌てて止めた。放っておくと、本当に勝手にハルさんに連絡を取ってしまいかねない。妹の顔が母親そっくりに見えてきて、ちょっと肝が冷える。
「わかった。自分の部屋でかけるから」
 スマホを自分の背に廻しながらそう言うと、愛美は一瞬不満げな表情になったが、すぐに納得したように頷いた。
「いいわ、じゃああとで結果を教えて。そうよね、彼女との電話なんて、人に聞かれたくはないわよね」
 違うっていうのに。


          ***


 愛美に変なことを言われたから、という理由だけではなく、おれは自分の部屋で、しばらくスマホを手に逡巡を続けていた。
 女性に電話をかけるだけのことで、こんなに緊張したのは久しぶりだ。高校生の頃、はじめて出来た彼女に最初の電話をかけた時がこんな感じだったかもしれない。電話して、まずなんて言えばいいんだ? という初歩的な問題で、たっぷり五分は悩む。あんまり長く悩んでいても、愛美が 「まだ?」 と部屋に突撃してきそうで、それも落ち着かない。前門の虎後門の狼、という気分である。
 この場合、やっぱりおれとハルさんとの関係が非常に微妙であることが、ネックになっているのだろう。これが本当に彼女か、あるいはきっぱり友人と言ってしまえる間柄なら、もっと気楽に電話くらいかけられるのだが。
 ……いきなり電話して、ハルさんはどういう反応を示すのだろう。
 ようやく覚悟を決めて、おれはベッドに腰を下ろすと、ハルさんの番号を呼び出した。呼び出し音が、一回、二回と続くたび、脈打つ鼓動が速くなる。

「はい、春音です」

 三回目の呼び出し音の後、ハルさんの明るい声がスマホの向こうから聞こえた。
 朗らかに笑っている顔がぱっと頭に浮かぶようなその声に、おれは全身で安堵する。第一声に訝しげなものが混じっていたら、まず言い訳からはじめないといけないところだった。
「あの、桜庭です」
 我ながら間抜けな名乗り方をして、「突然お電話して、すみません」 と謝る。ハルさんに不審がられないようにどう説明すればいいのかを、大至急で頭の中で組み立てた。
「えーと、今、よろしいですか」
「はい」
 ハルさんの声に、特に変化のないことが救いだ。
「実は、いきなりで申し訳ないんですけど、妹の愛美のことでお願いがありまして……あ、おれには、大学生の妹がいるんですが」
 考えてみれば、ハルさんの手許には、母代筆とはいえ釣り書きがあるのだし、こちらの家族構成くらいは知っているはずなのに、おれは慌てて注釈を入れた。やっぱりまだ緊張しているらしい。
 でもハルさんは、知ってます、などとは言わず、また 「はい」 とニコニコして答えた。いや、電話だからもちろん顔は見えないのだが、ニコニコしているように、おれには思えた。
 そのことにほっとして、今度は少しは落ち着いた声が出せた。
「その妹が、大学卒業後の進路について、いろいろ悩んでいましてね」
 おれが一通り説明をするのを、ハルさんは時々、はい、と相槌を打ちながら聞いてくれていた。
 いきなりの電話で、いきなり見知らぬ妹の話をされているのに、ハルさんの声からは、驚きも戸惑いも感じられない。というか、そういえばおれは、この人が驚くところを一度も見たことがない。おれはハルさんと会ってから驚きの連続なのになあ。
「──そんなわけで、一度、ハルさんのお話を伺いたいと言っているんです。図々しい頼みであることは承知なんですが」
「はい、承知いたしました」
「唐突な申し出ですし、断ってもらって、全然構いません。妹にはおれから上手いこと言っておきますから」
「ですから、承知いたしました」
「すみません、突然電話してこんなこと」
「哲秋さん、ちょっと一回深呼吸いたしましょう」
「は?」
 思わず聞き返すと、スマホの向こうで、ハルさんが、「さあ大きく息を吸ってー、よろしいですかー、では、今度はゆっくり息を吐きますよー」 と、ラジオ体操みたいなことを言っている。おれは無言になった。
「落ち着きましたか?」
「……そう、ですね」
 どちらかというと、不安でいっぱいです。
「ではお話を進めましょう」
 ハルさんの屈託ない声に、一瞬ついていけなくて、は? と反問する。なんの話でしたか? と言いそうになったのを、慌てて喉の奥に押し込んだ。そうか、愛美の話か。
「お会いするのは、いつがよろしいですか?」
「え」
 あっさり言われた言葉に狼狽したのは、そもそもこの頼みごとを持ち込んだおれのほうだった。
「妹と会ってもらえるんですか、ハルさん」
「さっきからそう申し上げておりますのに」
 そういえば、承知いたしました、とか言ってたな。あれ、了解した、の意味だったのか。でも普通、その返事の前に、いろいろと訊ねてみたり、疑ってみたり、辞退してみたりするものではないのだろうか。
「私と愛美さんとでは、置かれた状況もまったく違いますから、参考になることは何も申し上げられないかもしれませんけれど。それでもよろしかったら」
「それは、もちろん」
 いくらなんでも愛美だって、ハルさんと会って話をすれば解決方法が得られる、なんて楽観視はしていないだろう。ただ、あの母親を知らない人間の目線からの意見も聞いておきたい、ということだと思う。
「哲秋さんも同席されるということでしたら、お仕事のある平日の夜より、お休みの日がよろしいですかしら」
「そうですね。あ、でも、ハルさんの都合のいい日で構いませんよ。そんなに急いでいる話でもないし」
「哲秋さんは急いでらっしゃらなくても、愛美さんは急いでらっしゃるのではないですか? 急ぐというより、気分的に切羽詰まっていらっしゃるのでは?」
「いや──」
「でなければ、哲秋さんもこんな風にお電話をなさらないでしょう?」
「…………」
 妹にうるさく催促されて電話をしているのはお見通しらしい。ハルさんは冷静だ。
 結局、次の日曜に、という話になった。まさか二週続けてハルさんと会うことになるとは。しかも今回は、仲人おばさんも母も通さず、デートという名目でもない。いわばまったく無関係な妹のために、わざわざ時間を割かせてしまうわけだ。
「すみません。なんでもお好きなものをご馳走しますから」
「まあ、楽しみです」
 ふふ、とハルさんが嬉しそうに笑った。甘えるところは甘えて、こちらの申し訳なさを大幅に軽減させてくれる。こういうところ、本当に上手いよなあ、とおれは感心するしかない。
 そして気づいた。そうだ、今度会うのも食事をするのも、妹を含めて、なのだった。
「あの、ハルさん」
「はい?」
「その、おれとハルさんのことなんですけど、妹には表向きのことしか言ってないんですよ」
「まあ」
「妹は、あの見合いも、一般的な見合いとしか思っていません。おれたちが、普通の 『お付き合い』 というものをしていると思っています」
「まあ」
「今後も、本当のところは黙っていようかと思っていまして」
「まあ」
「それで、出来ればハルさんにも、そのつもりでいてもらえたらと」
「まあ」
「…………」
 ハルさんの口から出るのは、すべて同じ 「まあ」 という言葉だったが、その言葉に含まれる楽しげなものは、一言ごとに明らかに増加の一途を辿っていた。今、顔が見えれば、ハルさんはものすごく瞳をキラキラさせているだろうことが、その声音から容易に想像できるほどだった。
「あの、ハルさん」
「では、私も考えないといけませんわね」
「……いえ、ですからね」
 何を考えるのかは知らないが、考えなくていいです。というか、考えないでください。
 と思ったが、遅かった。
「どういう役作りをしていけばよろしいですかしら。迷ってしまいますわ」
「…………」
 ハルさんの口調はウキウキと弾んで楽しそうだ。その楽しみに水を差すのは気が引けたが、「役作りはしなくていいです」 とおれはキッパリ言った。
「桜庭のご次男を落とそうと陰謀を張り巡らせている狡猾な悪女、なんてどうですかしら?」
 キッパリ言ったが、相手はまったく聞いていなかった。
「それとも、桜庭家の乗っ取りを企む悪女、とか。報復のために哲秋さんに近づこうとしている悪女、とか」
 ハルさんはどうしても、悪女の役がやりたいらしい。
「報復って、おれにですか」
「桜庭一族に、のほうが、スケールが大きくてよろしいですわね」
「ハルさん、桜庭の家に恨みでも?」
「残念ながら、ございません」
 ハルさんの声は、本当に残念そうだった。
「……お願いですから、いつものハルさんのままでいてください」
 いつもの君のままでいて、なんて歯の浮く口説き文句のような言葉を、こんな形で言うことになろうとは、人生とは判らない。「いつものハルさん」 も、大概変わり者だけどなあ。というか、そもそもどうして、「普通の見合い相手」 の役は選択肢の中に入っていないんだ?
「妹と三人で、和やかに食事をしながらお話ししましょう。普通に」
「でも、少しくらいはサスペンス要素があったほうが、楽しいんじゃございません?」
「そんなものがなくても、おれは充分楽しいです」
 つい言ってしまってから、口を噤んだ。それからちょっと慌てて、再び言葉を続けた。
「え、と、つまりそんな設定がなくても、楽しく会話は出来ます」
「そうですかしら」
 応えるハルさんの声に変化はない。ほっとして、そうですよ、とおれは力強く請け負った。
 それからようやく普通に、時間と場所を決めた。では日曜日に、ということになる。
「楽しみにしております」
 と、ハルさんは最後にそう言った。楽しみにしているのは、おれと妹との会食のことなのか、それともまた何かを企んでいるのかは判らない。
 こちらこそ、と返して、通話を切った。途端に、しんとした静寂が部屋の中に満ちる。
「…………」
 手にしたスマホの画面が黒くなっている。おれは口を閉じ、単なる小さな機械になったそれを見つめた。

 ──今の今まで、この電波の向こうにハルさんがいたんだよなあ。

 と当たり前のことを思い、少し不思議な気分になる。
 ハルさんの声がすぐ耳元で聞こえていた時は、まるで目の前に彼女がいるような気になっていたが、通話が切れた途端に、その姿がかき消えてしまったような心細さを感じるのはなぜなんだろう。ぽつんと一人きりでいることを、改めて自覚させられる。これまで、誰かと電話で話しても、こんな気持ちになったことはないのだが。
 ハルさんは、今、ここにはいない。当たり前だ。
 当たり前のことなのに、妙に、なんていうか。
「──……」
 そこまで考えてから、無理やり思考を中断させた。
 軽く頭を振って、ベッドから立ち上がる。じゃあこのことを愛美に伝えるか、と思いつつ何気なく顔を動かしたら、サイドテーブルの上に置いてあるA4の封筒が目についた。
 ハルさんの見合い写真と釣り書きの入った封筒だ。
 そうだ、なんとなくここに置いたままなんだったな、と思い出し、封筒から固い台紙を取り出した。
 ぺらりとめくり、着物姿で微笑んでいるハルさんの写真を見て、思わず口許が綻ぶ。まったく澄ました顔して、と思うと、何ともいえず可笑しかった。
 この澄まし顔よりも、舞台の上で間抜けな着ぐるみたちと一緒に踊っていた時の顔のほうが、よっぽどハルさんらしくていいな、と思う。あの時、ショーに出演していた子供たちの親が、こぞって観客席で我が子の撮影をしていたが、今ならその気持ちが判る気がした。
 おれもハルさんの踊りをスマホに撮っておけばよかった。あんなに大活躍だったのになあ。もう見る機会はないだろうなと思うと、ものすごく惜しいことをした気分になる。
 ちょっと考えて、おれは自分の机の上に、ハルさんの姿が見えるように写真を立てて置いた。
 別にいいよな、これくらい。おれの部屋に誰かが無断で入るようなことはないし、またすぐにしまえばいいことだし。ほんの少しの間くらい、いいよな。
 おれはその写真の前に自分のスマホを置き、部屋を出た。



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