はるあらし

17.口喧嘩



 ハルさんはおれの顔を見て、一瞬戸惑ったような表情を浮かべたが、すぐににこっとした笑顔に代えた。
「こんばんは、哲秋さん。気持ちの良い晩ですわね」
「え、ハル、知り合いなのか」
 この場面にまったくそぐわない、すっとぼけた挨拶を口にするハルさんに、男が驚いたように目を真ん丸にした。ぽっかりと口も開けながら、ハルさんを見て、おれを見る。
「じゃあ、ス──」
 と何かを言いかけたところで、ばちんっ! という大きな音に遮られた。
 ハルさんが、彼の丸っこい背中を平手でぶっ叩いたのである。「……うわ、いい音がした」 と後ろにいた葵が感嘆するくらい、威力も強烈であったらしく、男はしばらく身動きも出来ずに顔を伏せてプルプルと悶絶した。
「こんな所でお会いするなんて、偶然ですわね」
 ビルとビルの間の薄暗い路地は、まことに 「こんな所」 と表現するに相応しい場所ではあるが、偶然ではない。おれは表情を引き締め、くるりとハルさんを向いた。
「ハルさん、どういうことです」
「あら、私ったら、紹介もまだでしたわ」
 ハルさんはおれの言葉をスルーして、頬に手を当て、ふふっと笑った。白々しい。おれは眉を上げたが、ハルさんは気づかないフリをした。
「こちらにおりますのが、私の愚兄で、菊里響、と申します。ひびき、って、なかなか良い名前だと思われません? 残念ながら、すっかり名前負けしておりますけどね。お兄さん、こちらは桜庭哲秋さんですわ」
「え」
 ハルさんの兄である響氏は、ぱっと顔を上げると、痛みで薄っすらと涙を溜めた目をちまちまと瞬きして、再びおれを見た。驚きと、訝しさと、警戒心の混じった眼差しに、それを上回る困惑が乗せられる。
「桜庭……じゃあ、その、ハルの見合いの」
 ぶつぶつと独り言のように呟いてから、眉を寄せた。
「いやしかし、その桜庭のご子息が、どうしてまたこんな、スト……いっ!」
 響氏はまたも言葉を呑み込んだ。ハルさんのパンプスのヒールの先が、彼の足を素早く踏んづけたところを、おれは目撃した。
 じろりとハルさんに目をやる。ハルさんはおれの剣呑な視線を受けて、悪戯っ子のように首を縮めた。
「説明をしてもらえますよね?」
「説明? いやですわ、哲秋さん、そんな怒ったようなお顔をなさって」
「まだ怒ってません」
 まだ、という部分を強調した。
 おれはそう察しの悪いほうではない。さっきからの経緯を考えれば、出てくる結論は一つしかないではないか。それは決して、さらっと流していいようなものでも、笑いごとで済まされるような内容でもないはずだ。
「ハルさん」
「はい」
「……お兄さんは、さっきから、『ストーカー』 と言おうとされてるんじゃないですか?」
「まあそんな。多分、『スットコドッコイ』 って言おうとしたんではないですかしら」
「ハルさん、いい加減に──」
 厳しい顔つきでハルさんに向かって一歩詰め寄ったおれを、後ろから葵が慌てたように 「お、おいおい、哲、ちょっと落ち着いて」 と止めた。ハルさんに足を踏まれて黙らされた響氏が、びくっと反応し、妹を守ろうとしてか、ぱっと前に立ちはだかる。びくびくして、泣きそうになっているが。
「そんな顔してたら、ハルさんが怖が……いや、ハルさんはまったく平気そうだけど、お兄さんが怖がるだろ。お前らしくないぞ」
「そうですわ、そちらのチャラ男さんの仰るとおりです」
「え、今なんて」
「チャラチャラ音がする、素敵なブレスレットをされたそちらの方は、哲秋さんのお友達ですか?」
「…………。哲、この人、思ってた以上に変わってる」
「す、すみません、すみません、妹は思ったことをすぐに口に出す悪癖があって。あの、怒らないでください。ぼぼぼ僕、暴力行為はまったく得意ではありません」
「怒ってないし、暴力なんて振るわないから、そんなに怯えた顔でぺこぺこするのやめてくんない? 言っとくけど俺、チンピラとかじゃないからね。けっこう本気で傷つくんだけど」
「ハルさん、とにかくこっちへ」
 おれはあとの二人を無視してハルさんの腕をぐっと掴むと、少し強引に引っ張って路地から抜け出した。狭い場所から四人の男女がぞろぞろと出てきたことに、通行人たちが一斉にぎょっとしたような顔で注目する。
 ハルさんの顔がはっきり見える明るい場所まで出ると、腕から離した手で、今度は彼女の手を取った。
 上体を傾け、まっすぐ顔を覗き込む。

「──誰かに尾け回されてるんですね?」
「…………」

 真面目な声で問いただすと、ハルさんはしばらく無言でおれを見返していたが、ようやく観念したものと見えて、溜め息をつき、誤魔化すのをやめた。
「……私の気のせいでなければ」
 渋々のように返され、おれはさらに眉根を寄せる。
「いつ頃からですか」
「二週間ほど前、からですかしら」
「…………」
 その答えに、思わずハルさんの手を掴む力が強まった。しなやかな細い指は、逃げもせず、大人しくおれの掌の中に納まっている。
 彼女の後ろで、相変わらず事態が把握できずにおろおろしている、ハルさんの兄に視線を移した。
「警察には知らせたんですか」
 その問いに、響氏はうろたえたようにぶんぶんと首を横に振った。
「ハルが、事を大げさにしたくないと言うもので──」
 と言いかけ、
「え、じゃあ、君たち二人は、この件に無関係ということか……」
 今になって、ようやく理解が追いついたようにぼそっと呟く。妹思いの優しそうな人なのだが、どうやら響氏は、その名前とは違い、打てば響く、というタイプではないらしい。
「大げさにも何もないでしょう。何かがあったら遅いんですよ」
 連絡を取らなかったこの一カ月の間に、そんなことが起きていたとは──という驚きと、なにより自分への苛立ちが、おれの口調をきつくしていたのかもしれない。さっきから、葵がもの珍しげに、しげしげとこちらを見つめている。
 ハルさんは首を傾げて、少し困ったような顔をした。
「でも、具体的に何かをされているわけではありませんし。なんとなく、外にいる時に、視線を感じる、という程度なんですの」
「充分じゃないですか」
「気のせいかもしれません」
「気のせいじゃなかった時のために、万全の態勢を取っておくべきだという話です」
「どちらにしろ、それくらいじゃ、警察だって何もしようがありませんわ」
「だから、今みたいに自分でストーカーをおびき寄せてどうにかしようなんて、無謀なことをしようとしたわけですか。それが危険に繋がるという意識もなく?」
「ですから兄にも協力してもらいました」
「そういうのを素人判断と言うんです」
 おれがびしりと決めつけると、ハルさんはむっとしたらしい。子供のように頬を膨らませて、口を尖らせた。言葉が過ぎているのは判ったが、こちらも少し頭に血が昇っているため、簡単には態度を軟化させられない。
「でも実際、危険なんてなかったじゃありませんか」
「それはおれと葵がいたからでしょう。失礼ながら、お兄さんはあまりボディーガードとして向いているとは思えません。もしも尾行者がもっと屈強な男だったらと想定したら、こんな狭くて暗い路地に自ら入り込むなんて、どれだけ危ないかということくらいは、常識として判りそうなものだ」
「こうでもしなきゃ、捕まえられないと思って──」
「だからその、捕まえる、という発想が、そもそもおかしいってことでしょう!」
 つい、声が大きくなった。通りを歩く人たちが、ちらちらとこちらを振り返る。
「なあ、哲、ちょっと冷静になろうぜ」
「ハル、お前もいちいち言い返すのをやめて、もう少し素直に」
 成り行きを見かねてか、葵と響氏がおれとハルさんの間に割って入ろうとしたが、「ちょっと引っ込んでて」 というぴしゃりとした言葉が、おれたちの口から同時に出た。おればかりではなく、どうやらハルさんも、相当ムキになっているらしい。きっとなってこちらを向いたが、おれは意地の悪い気分でその視線を受け止めた。
「哲秋さん、言ってはなんですけど、私、そこまで叱られるようなことはしていないと思います。この二週間の様子を見たうえで、危険はなさそうだと判断して行動に出たんですもの」
「その判断の基準はどこからどう出たんです」
「今までの経験からです」
 と、ハルさんはふんぞり返った。
「こんな風に、見知らぬ男性に追いかけ回されたことは、今までに何回かあります。私、見た目はもてますから」
 それを聞いた葵と響氏が、揃って頷いた。
「うん、中身はさておき、確かに見た目はもてそうだよね……」
「まあ、ほとんどの男は、ハルの中身を知ったらすぐに諦めるんですけどね……」
 二人でぼそぼそと話し合っている。
「今回もそうだとは言い切れないでしょう。大体、二週間もハルさんを尾け回している時点で、まともな相手だとは思えない。どんな目的かもはっきりしないのに」
「ですから、それを聞き出そうとしたんじゃありませんか。さっきだって、兄もまず、『目的は?』 と訊ねたと思いますけど?」
「おれと葵をストーカーだと勘違いしてね」
「哲秋さんがいなければ、本物を捕まえられていたかもしれませんわね」
 堂々巡りの口論になってきた。おれはいつの間にか、自分がハルさんの手を強い力で握りしめていることに気がついた。
 ……こんなに力を入れたら、ハルさんが痛いだろう。
 と思った途端、頭が冷えた。
 ぎこちなく、手を離す。ハルさんが口を結び、空いた片方の手で、たった今解放されたばかりのそれを包み込んで、俯いた。
 おれは深呼吸をするように、大きく息を吐きだした。
「──すみません」
 強張った声でなんとか謝る。
 ハルさんははっとしたように顔を上げ、おれと目を合わせた。黒目がちの瞳に浮かんでいるのがどういう感情なのか、おれにはよく判らない。でも、そこに怒りはないように見えた。
「菊里さん」
 突然の名指しに、響氏は驚いて全身で身じろぎした。
「あ、は、はい」
 と返事をし、反射的になのか、さっきまであれだけ怖がっていた葵の身体に隠れようとする。しかしながら、体格が葵の一・五倍くらい横に大きいので、非常に無理がある。
「これからも誰かの視線を感じるようなら、迷わず警察に通報されたほうがいいと思います。もしも今回、おれと葵が本当になんらかの理由でハルさんを狙っていた場合、菊里さん一人では対処しきれなかった可能性が高いですし」
「あ……そ、そうですね」
 出来るだけ冷静に言うと、響氏は恥じ入るように肩をすぼめた。
「僕も少し考えが足りませんでした。今までにも妹が一方的に異性から好意を持たれることが何度かあったんですけど、大した結果にはならずに解決できていたものですから……今回もその程度のことかと」
「そうかもしれませんけど、昨今は何かと物騒ですし、用心しておくに越したことはないですから」
「その通りです。これからしばらく妹から目を離さないようにします」
 深々と頭を下げられ、なんとなくバツが悪い。これじゃ、どちらがハルさんの保護者なのか判らないな。
 おれが出しゃばりすぎなのか──と、今さらになって反省が込み上げる。
 ハルさんは、こんな状況に陥っていたこの二週間の間、一度もおれに連絡を寄越そうとはしなかった。それがなにより、彼女にとってのおれの存在の薄さを示しているのに。
「ハルさん」
 目を戻すと、ハルさんは黙ったまま、おれから視線を外さずにいた。いつもの人を喰ったようなニコニコ顔ではない分、どこか頼りなさげにも映る顔を、まっすぐおれに向けている。
「冗談事ではなく、気をつけてください。どんな人間なのか判らないんだから、ナイフとかの凶器が出てくる可能性だって皆無じゃない。くれぐれも、自分一人だけで対応しようとは思わないでください。いいですね?」
「…………」
 念を押すように言うと、ハルさんは今度は反論せず、こっくりと頷いた。
 おれはそれを見て、とりあえず、ほっとした。
 何をしでかすか判らない性格ではあるが、そうそう迂闊な女性だとも思わない。よほどのことがなければ、自分から危険に首を突っ込んでいくようなことはしないだろう。
「帰りは、お兄さんの車で?」
「はい、そうします」
「それなら安心だ。気をつけて」
「哲秋さん」
「はい?」
「どうしてここにいらっしゃるんですか?」
「…………」
 いきなり、かつ、今さらの問いかけに、不意を突かれて思考が停止した。
 そうだった。すっかり忘れていたが、どうしてここにいるかといえば、偶然を装ってハルさんに声をかけようと目論んでいたためなのだった。
「いや、あの」
 困った。よくよく考えてみたら、今のおれはストーカーなみに怪しいではないかと気がついて、しどろもどろに言葉を探す。ここまでのゴタゴタで、たまたま近くを通りがかって……という言い訳は、すでに頭から吹っ飛んでいた。
「葵が──あの、中学の時からの友人なんですけど」
「葵さん、ですか。あのチャラチャラの」
「そうです、チャラチャラの」
「……ちょっと二人とも……」
 葵が渋い顔をしたが、今はそれどころじゃない。
「久しぶりに会って、えーと、どこかで食事でもしようかと、店を探していまして」
「ああ、このあたりですと、和食の美味しいお店がありますものね」
「そうそう、そこです」
 冷や汗交じりでいい加減な返事をすると、ハルさんがぷっと噴き出した。多分間違いなく、嘘だと気づいている。葵は笑いを噛み殺し、響氏はきょとんとおれとハルさんを見比べた。
「哲秋さん」
「あ、はい」
 ハルさんがにっこり笑った。
「お元気そうで、よかったです。どうしていらっしゃるかなって思っていたんですよ」
「…………」
 ハルさんの言葉に、おれはどう返事をしていいのか判らなかった。今まで、なんの連絡もしなかったことを詫びるべきなのか。
 おれもです、と正直に言うべきなのか。
 しかしどちらかを口にする前に、ハルさんに軽く頭を下げられて、言葉を喉の手前で止めた。
 ……おれは、なんて言おうとしたんだろう?
「それでは、帰ります。兄の運転ですと、変質者に遭遇する確率よりも、事故に遭う確率のほうが高そうですけど」
「いやだなハル、僕は安全運転だよ」
「安全運転でも、下手なんですわ」
 ハルさんが笑って言い返した。仲の良い兄妹ならではの空気が、二人の間に流れていて微笑ましい。いろいろと酷いことは言うが、ハルさんはきっと自分の兄のことが好きなのだろう。
 響氏はおれを見て、何かを言いかけたようだったが、ハルさんをちらりと見て、思い直したように口を閉じた。
 じゃあ、と二人が立ち去りかける。その背中に、「ハルさん」 と声をかけた。
「はい」
 ハルさんが振り向く。おれは言った。
「明日の夜、電話してもいいですか」
「…………」
「心配ですから」
 ハルさんは一拍の間を置いて、「はい」 と返事をし、ゆっくりと微笑んだ。


 二人を見送ってから、おれと葵はそのあたりをぶらぶらと散策しながら、食事できそうな店を見つけることにした。ハルさんの言う、和食の美味しい店、というのがどこにあるかは知らないが、あちこちにある飲食店はどこも賑わっているようだ。
「なんか、思ってたのとぜんぜん違う成り行きになったねえ」
 葵がのんびりと足を動かしながら、くっくと笑って言った。周囲は暗いが、煌びやかなネオンに照らされて、くっきりと葵の面白そうな横顔を闇に浮かび上がらせている。
「まったくだ」
 と、おれは心から同意した。どうしてハルさんが関わると、こうも予測不能の出来事が起こりがちなのだろう。
「けど、ハルさんに会う、っていう目的は達せられたから満足だよ」
「満足なのか」
 こんな変なことに巻き込まれたのに? と隣を窺うと、葵は本当に満足そうに頷いている。
「すっごく楽しかった」
「楽しいかね」
 物好きだ、とおれは呆れたように呟いたが、葵はまったく気にしていないようで、サングラスを外すと、機嫌のいい猫のように目を細めておれを見た。
「うん、珍しいものが見られたから」
「ハルさんは珍種の動物じゃないぞ」
「そっちじゃない、そっちじゃない」
 明るく噴き出して、手を大きく振る。
「──長い付き合いだけど、俺、哲があんな風に誰かに向かって怒るの、初めて見たからさ」
 そうかそうか、よかったよなあ、と一人で納得したように言って、葵は笑った。



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