はるあらし

18.疑心伝心



 二回ほど呼び出し音が続いて、それが途切れたと思ったら、すぐに朗らかな声で応答があった。
「はい、春音です」
 いつもと変わりない声に、ほっとする。
 ちょっと迷ってから、おれですけど、と言うと、くすっと笑う気配があちらから伝わってきた。少し照れる。
 思うのだが、こういう時の第一声として、もっとも適しているのは何なのだろう。桜庭です、と名乗るのも、今さら堅苦しい気がするから、いつもこんな中途半端なオレオレ詐欺のような言い方になってしまう。そもそも、かけた時点で、ハルさんのスマホにはおれの名前が表示されているはずなのだから、名乗る必要はないのだろうか。
 というようなことを考えるせいで、毎回、電話をかけるたびに一拍の間が空く。ハルさんはそれが可笑しいらしい。
「こんばんは、哲秋さん。今日は少し遅めの時間なんですのね」
 はあ、と答えて、スマホを耳に当てながら、ちらりと自分の腕時計に視線を走らせる。昨日まで大体八時頃にかけていたのだが、今日はすでに九時を廻っている。
「すみません、ちょっと仕事でバタバタしていて」
「お忙しそうですね。今もまだ会社にいらっしゃるんですか?」
「そうです」
 今おれがいるのは、会社の中の休憩スペースだ。フロアの一角、透明なドアで仕切られたその場所には、自販機やソファが設置されていて、社員が仕事の合間に一息つけるようになっている。昼間は大きな窓から陽がさんさんと差し入り、人の出入りが多く賑やかなところだが、今はこの時間なので誰もいない。照明も半分落とされて薄暗く、しんと静まりかえる中で、自販機のかすかなモーター音だけが聞こえてくる。
 おれはその静かな暗がりで、いちばん端のソファに座り、スマホから聞こえてくるハルさんの声に耳をそばだてた。
「ハルさんは、今は家ですか?」
「はい。哲秋さんとは違って、今日は早めに帰宅できましたの。そろそろ寝ようかと思っていたんですけど」
「え、そうなんですか?」
「冗談です」
 ふふっと笑う。ハルさんの言葉は、本気と冗談の境目がよく判らない。
「……でも、今日は、哲秋さんのお電話がないので、何かあったのかと思って」
 ぽつりとそう付け加えられたのは、どうやら冗談ではないようだ。もしかして、おれからの電話を待ってたのかな、と思う。このところ毎晩同じような時間帯に鳴っていた電話が途切れて、ハルさんは少し心配したのかもしれない。立場が逆だ。
「ハルさんは自分のことだけを心配してください。今日は変わったことはありませんでしたか」
「はい、ございません」
 ハルさんは、おれの問いかけに、先生の質問に答える小学生のような生真面目さで返事をした。どこか楽しんでいるフシが窺えるのは、おれが毎日毎日同じことを同じ口調で言うからなのだろう。
「最近は、視線も感じないってことでしたよね」
「そうなんです。どんな目的があったにしろ、もう諦めたんじゃございませんかしら」
「…………」
 スマホを持ったまま、おれは空いている片手の指を折る。五、六……今日でちょうど一週間だ。
「おれが電話をかけるようになってから、ぴたりとストーカー行為が収まったのか……」
 そう呟いたのは独り言のつもりだったのだが、ハルさんの耳にはしっかり届いてしまったらしい。
「というより、天下の往来で、四人で大騒ぎをした日から、ですわ。どこの誰かは知りませんけど、多分、あれを見て、やる気を失くしてしまったのでは?」
 ハルさんの声には、少しからかうような笑いが含まれている。
 確かに一週間前、衆人環視の中で、派手な口喧嘩をやらかしたことは否定しない。楚々としたハルさんの外見にふらふらと惹かれたどこかの男が、あの様子を見て、イメージと違ったと宗旨替えしたとしても、そう不思議ではないかもしれない。

 ──でも、本当にそうだとも、限らない。

「やっぱり気のせいだったのかもしれませんし」
 おれが黙ったままなのをどう解釈したのか、ハルさんがわざとのように軽い調子で言った。
 以前から感じていたことだが、ハルさんはどうも、この件に、あまり深い意味を持っていないように思える。はっきり言うと、危機感が薄すぎる。
「いや、視線を感じるってことは、自分では意識していなくても、なんらかの根拠や理由がある場合が多いんですよ。同じ車を見かけた、とか、視界の端に似た人物がよく入る、とか。表層意識ではそのまま流れる景色の一部としてスルーされていても、案外、無意識の領分でしっかり覚えているものなんです」
「まあ、心理学講座ですわね、桜庭教授」
「真面目に聞きましょう、ハルさん」
「まあ心外です。私はいつだって大真面目ですけど」
 嘘つけ。
「帰る時はちゃんと誰かと一緒にいるようにしてますよね? 夜道を一人で歩くとか、危ないことはしてませんか。油断は禁物ですよ」
「大体、大丈夫ですわ」
「ちょっと待った。大体って何ですか。ハルさん、もうすでに気が緩んじゃってませんか。この一週間、うるさいくらいに何度も言ってるのに──」
「ふふ、哲秋さん、あまり物事を深く考えすぎると老けましてよ?」
「ハルさんが太平楽に構えすぎなんです」
「そうそう、それはちょっと置いといて」
「ダメですよ、どこに置くつもりなんですか。戻してください」
「今日、会社で面白いことがありましたの。聞いていただけます?」
 笑み混じりの無邪気な声に釣られて、思わず、「なんです?」 と聞き返すおれも、相当な間抜けだ。結局、おれはまんまと話を逸らされて、ストーカーのことはなしくずしになり、それでも通話を切った時には、かけてから三十分以上が経過していた。


 休憩室を出て、部署に戻ると、同じく残業をしていた同僚に、「彼女への定時連絡は終わりか?」 と笑いながら冷やかされた。おれがこの部屋を出る時にはもう一人仕事をしていたのだが、そちらはすでに帰ったようだ。
「定時連絡?」
「お前、最近ずっと、決まって同じ時間に電話してただろう。マメなやつだなあ、って、みんな感心してんだぜ」
「なんでそんなこと知ってるんだ」
 ちょっとばかり動揺して問い返すと、「もうすっかり噂になってる」 と笑われた。さらに動揺する。
「別に、彼女じゃないけど」
「照れるな照れるな。そういうのは態度で判るって」
 どんな態度なんだ。そんなにおれ、毎日チラチラ時計を気にしてたかな。自分では、いつも電話をかける時は、職場の人間には知られないようにさりげなく席を外しているつもりだったのだが。
「まだ付き合いはじめか? いいねえ、アツアツの時期は」
「いや、だからさ」
「ああー、俺も彼女が欲しいよなあー。侘しく残業してても、泥のように疲れてても、途中で彼女の声を聞いたら、よしやるぞ、って張り切る気にもなるよなあー。俺も、お仕事頑張ってね、なんて甘くて可愛い声で言われたいよ」
「…………」
 彼女が欲しい彼女が欲しいとぶつぶつ言いながら、パソコンの画面に向けている顔が鬼気迫って怖かったので、おれはそのまま口を閉じた。何を言っても、今のこいつの耳には入りそうにない。
 大体、説明しようがないしな。
 (仮)つきで付き合っている見合い相手が、どこの誰とも判らない相手にストーカーされているかもしれなくて、安全確認のために毎日電話をかけているんだ──なんて。
 そんな内容、おれが聞いたって、どこからどう突っ込んでいいのか困る。
 それによく考えたら、いつも安全確認は最初の数分だけで、あとは普通の他愛ないお喋りだったりするし。それとも、毎回性懲りもなく、ハルさんの話術にひっかかっているおれがアホだというだけの話なのだろうか。
 ハルさんの声を聞いていると、つい、当初の目的を忘れてしまうんだよなあ……と、おれはこっそり息を吐いた。
 まあ、そんなことばかり考えていてもしょうがない。ハルさんは今日も無事で安心した。デスク上のパソコンを開き、やりかけの仕事をさっさと終わらせるべく、キーボードに指をかける。
 よし、やるぞ、と心の中で言ってから、自分で噴き出しかけた。
 電話を切る前、それではお仕事頑張ってくださいね、とかけられた声を思い出す。なんとなく、耳元がくすぐったい。
 ──確かに、ハルさんとの電話は、気分転換の役割を大きく果たしているらしい。


          ***


 ひとつの可能性に思い当たったのは、その夜、家に帰り着いた時だ。
 いや正確に言うと、帰って、母親の顔を見た時だ。
「お帰りなさい、哲秋さん」
 と、いつも通り、物差しを入れたようにぴしゃんと背中を伸ばした姿勢で言う母の姿を、おれは思わずまじまじと見つめた。
「? なんです?」
 母が訝しげな表情で、玄関で動きを止めてしまったおれに問う。
 口を開きかけ、また閉じ、少し考えてから、おれは再び口を開いた。
「……お母さん」
「な、なんです」
「まさか、お母さんの差し金じゃないでしょうね」
「サシガネ?」
「…………」
 母は眉を寄せ、本気で意味が判らないという顔をした。おれは黙ったまま、同じように眉を寄せる。
 ひょっとして、と疑いの心が鎌首をもたげた。

 ──ひょっとして、母親が、興信所にハルさんの人となりを調べさせている、とか?

 「お試し見合い」 を終わらせてからは、相手であるハルさん自身には、まったくと言っていいほど興味を持たなかった母親だが、それでも、おれがまだ断ろうとしないことに、何かしら思うところがあったのかもしれない。今になってハルさんのことをあれこれ調査しはじめたとしても、おかしくはない。少なくとも、あり得ない、と断言することはおれには出来ない。この母ならやりかねない、とは思うが。
 そもそも、ストーカーにしては、まったく近づいてくる気配もないというのもおかしな話だ。ハルさんに一方的に好意を抱いた男だというのならなおさら、もう少し直接的な行動に出そうなものではないか。見ているだけで満足、という偏った性癖の持ち主なら、なぜおれが接触した途端、ぴたりとナリを潜める必要があるだろう。
 ……もしかしたら、ハルさんも、おれと似たようなことを考えているんじゃないだろうか。
 今ひとつ彼女に切迫感がないようなのは、性格的なものなのではなくて、相手に暴力的な意図も、害もない、と見ているためなんじゃないか。
 尾行者が桜庭の関係かもしれないと思っているから、おれには何も言わなかったし、今も何も言おうとしない。訊ねても、話をすぐにはぐらかしてしまう。
 そういうことなのか?
「…………」
 その思考に捉われたおれが、あまりにも長いこと、視線を据えつけたままじっと固まっていたためか、母親が少し気味悪そうに一歩後ずさった。
「哲秋さん、相当お疲れなのではありませんか」
「疲れてはいませんが……」
 母親にこの件を問い詰めたものかどうか迷う。無関係なら知らないとキッパリ言うだろうが、無関係でなくても知らないとキッパリ言うだろう。母はそういう人である。むしろ、こちらに向けて、矢のような質問攻めが返ってくることを覚悟せねばならない。下手をすると、藪の中の蛇を突っつくことになるだけだ。
「蛇か……」
「…………。蛇が、どうかしましたか」
「いえ。そうですね、こちらからわざわざ手札を晒すこともないか」
「…………」
 母はしばし無言になった後、もう一歩離れて、話の矛先を強引に変えた。
「そういえば、あちらのお嬢さんとお会いする日を、今度の日曜日にするつもりでおりましたけど。どうしましょうね、哲秋さん」
「え、今度の日曜ですか」
 おれは目を瞬いた。
 相変わらず唐突な決定だな。今日が木曜日だから、日曜といえばしあさってじゃないか。
「ハルさんにはまだ……」
「は?」
「いえ、春はまだ先かなと」
「…………」
 ハルさんにはまだ伝えてないんですよね? と危うく訊ねかけて思い留まる。
 今日の電話で、ハルさんは何も言っていなかったのだから、きっとこのことをまだ知らないのだろう。母親の決める予定は予定として、明日また電話をかけることだし、その時に都合を聞けばいいか。
「ですが、そんな状態なら、もう少し先に延ばしたほうがよろしいですか」
「はい?」
 そんな状態ってなんのことだ、とおれはきょとんとした。
「どうします?」
 今までずっと、キャンセルは認めない、という強硬な態度でいた母が、珍しくおれに問いかけている。気のせいか、妙に腰が引けていて、こちらを窺うような上目遣いだった。
「どうしますって、結構ですよ。日曜ですね、わかりました」
 ほとんど上の空の棒読みで返事をしたのは、胸の内でいろいろと考えていたからだ。
 会うのが次の日曜にしろ、別の日にしろ。
 ──その時、ハルさんに、事の真偽をちゃんと確認してみよう。
 電話だと、またしれっと誤魔化されるかもしれない。なにしろハルさんは、そのテのことには悪魔的な才能があるからな。実際に顔を合わせてからのほうがいいに決まっている。
「……よろしいんですか」
「よろしいですよ、もちろん」
 疑うような顔つきで、やけにしつこく念を押してくる母親をあしらい、おれは自分の部屋に向かった。
「お疲れなのでしたら、日を改めますけど」
「その必要はありません」
 ハルさんの都合が悪ければなんらかの手は打つが、おれとしては早いほうがいい。
「大丈夫、なんですか」
「仕事は休みです。大丈夫ですよ」
「ではせめて、空気の澄んだ場所に行って、心身を休めて、リフレッシュなさい」
「はあ、空気の澄んだ場所ですね」
 階段を上りながら、すでにすっかり日曜日のことに意識を飛ばしていたおれは、母親の言葉の意味もろくすっぽ考えもしないで相槌を打った。とりあえず思考の端にはひっかかり、空気の澄んだ場所か、じゃあドライブがてら山にでも向かうかな、と思う。静かなところのほうが、話もしやすいだろうしな。
「おかしなことになる前に、お父様かお兄様に相談されるんですよ、哲秋さん」
「はいはい」
 聞き流して適当に答えてから、おかしなこと? と足を止めて振り返ったが、その時にはもう母親は、キッチンのほうへパタパタとスリッパの音をさせて小走りに向かっていた。
「スミさん、スミさん、家庭の医学はどこにあったかしらねえ」
 などと言っている。体調でも悪いのか。
「家庭の医学ですか。ございますけど、お加減が悪いんでしたら、お医者さまに診ていただいたほうが」
「いえね、ちょっと事前に心の準備をしておかなくてはと思ってね。精神的なものとなると、病院も口の堅いしっかりしたところを選ばないと……」
「精神的なものですか」
「どうも仕事が忙しすぎるらしくて」
 二人でひそひそと話し合っているが、仕事が、というところからして、母自身のことではないのだろう。鬱病、とか、ノイローゼ、とかの、穏やかではない単語がちらちらと聞こえてくる。
 誰か知り合いの話かな、と首を傾げながら、おれは再び足を動かした。



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