はるあらし

19.問題派生



 翌日、仕事が終わって時計を見ると、午後七時を少し過ぎたところだった。
 今日は久しぶりに早めに帰れそうだな、とデスクの上を片付けながらおれは思った。このところの少々入り組んだ仕事が一息つき、周りの同僚たちの顔も、気のせいか嬉しげに緩んでいるように見える。
「桜庭、ちょっと飲みに行かないか」
 同じく帰り支度をしていた隣の席の先輩が、笑いながら声をかけてきた。
「いいですけど、岡野さん、奥さんが待ってるんじゃないですか」
 岡野さんは既婚で、まだ小さな子供もいる。早く帰れる時は早く帰ってあげたほうがいいんじゃないだろうか、と思って返事をすると、背中をべちんと叩かれた。
「だからちょっとだって。ビール一杯。ここんとこ、忙しかったからな」
「そうですね」
 ビール一杯か、それもいいかな、とおれは考えた。
 ハルさんに電話をするには、まだ早いしな。
「要するに、後輩を労ってやろうという、俺の優しい心遣いだ」
「なるほど」
「でも、割り勘だぞ」
 真面目な顔で釘を刺されて、ぷっと噴き出してしまう。岡野さんは何かというと、「毎月嫁さんに小遣いを貰っている俺と、独身貴族のお前とじゃ、歴然とした貧富の差がある」 と嘆くのだ。もちろん岡野さんも、他の同僚たちと同様、桜庭の家のことを知らない。
「わかりました。じゃ、行きましょうか」
 このあたりで 「軽く一杯」 というと、大体行く店は限られる。どこも会社帰りのサラリーマンたちが立ち寄るので、この時間ではもういっぱいかもしれないな、と思いながら鞄を持っておれは席から立ち上がった。
 ──と、その時、スマホの着信音が鳴った。
 岡野さんとおれが、同時に、ん? という顔を見合わせ、同時に自分のスマホを取り出す。
 鳴っていたのは、おれのではなく岡野さんのだった。どうやら、二人とも、似たような着信音を使っているらしい。
「もしもし。──うん、終わったとこ。これからさ……え? そうなのか。それで、医者はなんて? うん、うん……」
 岡野さんは表情を引き締めてしばらく話をした後、通話を切って、くるりとおれを振り向いた。
「悪い、やっぱり今日はこのまま家に帰るわ。こっちから誘っといて、ゴメンな」
 申し訳なさそうに拝む格好をする。
「それは構いませんけど……何かありましたか」
「子供が怪我しちゃったみたいでさ」
 岡野さんはぽりぽりと頭を掻きながら、自分のデスクの上にちらりと目をやった。デスクに乗せられた透明な保護シートの下には、自宅の床の上に這った姿勢で顔だけを上げてにっこり笑う、小さな可愛い女の子の写真が挟まれている。確か、まだ一歳くらいだったか。
「それは……大変ですね。大丈夫ですか」
 おれもその写真を見ながら問いかけると、岡野さんは、うん、と頷いた。
「転んでちょっと頭を打ったらしい。病院で検査して大丈夫って言われたそうだし、コブも出来てるようだから、平気だと思うんだけどな。でも嫁さんがやっぱり不安がってて、なるべく早めに帰って欲しいって」
「そりゃそうですね。おれのことは気にしなくていいですから、急いで帰ったほうがいいですよ」
「悪いな」
 岡野さんはもう一度謝ると、自分の鞄を手に取った。平気だと思う、と言ってはいたが、心配そうに眉が下がっている。子煩悩な人だから、きっとこれから、家にすっ飛んで帰るのだろう。
「じゃあ、飲みに行くのはまた次の機会にな。そうだ、お前もせっかく仕事が早めに終わったんだから、今日は彼女とデートでもしろよ」
 今にも走り出したそうにそわそわしながら、岡野さんは早口で言った。本当にすぐに走っていくのは決まりが悪い、とでも思っているのかもしれないが、口調はほとんど心ここにあらずといった感じである。
「デートって……」
「いつもよりも早い時間に電話があったら、彼女だって喜ぶだろ」
「…………」
 ホントに噂になっちゃってるのか……とおれは戸惑った。一体、この部署のどれくらいがそのことを知っているのだろう。ひょっとして、この一週間、おれがスマホを持って休憩室に向かうのを、ここにいた人間すべてに素知らぬふりで見られていたんじゃないだろうな。
「じゃあな」
 岡野さんはそう言って、大股でフロアを横切り出口へと向かった。
 再び席に腰かけて、その背中をなんとなく見送っていたおれの耳に、また軽快な着信の音が届く。あれ、岡野さん、スマホを忘れていったか? ときょろきょろして気づいた。今度はおれのだ。紛らわしい。
 手に持ったスマホの画面に落とした目を見開いた。

 ハルさんからだった。

 はじめてのハルさんからの電話に、おれはさっと緊張した。何かあったのか、と思ったからだ。
 このところ動きを見せなかったストーカーが、今度こそ何かを仕掛けてきたとか。いや、今まさに、誰かに後を尾けられているとか。やっぱり油断してはいけなかったのではないか。さっさと警察に通報するか、もっと確実に彼女を守る手立てを考えるべきだったのではないか──
 と、ほんの一秒足らずの間に怒涛のように考えて、おれはすぐさまスマホを耳に当て、鋭い声を出した。
「どうしました」
「どうしました?」
 おれが第一声を放つと同時に、あちらからも同じ問いかけがされて、二人の声がダブった。
「…………」
 一瞬、意味が判らなくて間が空いた。
 なに、これ。
 てっきり、ハルさんからのSOSだと思って身を固くしていたため、すぐには体勢を立て直せない。しかも、ハルさんの声にはいつもの朗らかさはなくて、どちらかというと厳しいくらいのものだったから、なおさらだ。
 どうしてハルさん、いきなり怒ってるんだ?
「え、と、ハルさん、ですよね?」
「そうです。哲秋さん、大丈夫なんですか?」
「…………」
 はあ?
「大丈夫って、それはこっちの台詞ですよ。何かあったんですか」
「まあ、何を仰ってるんです。それを私が聞いているんじゃありませんか。哲秋さん、大丈夫なんですの?」
「は? ですから何が大丈夫なんですか。ハルさんこそ、無事なんですね?」
「無事ってなんのことですか。哲秋さんこそ、頭は無事ですか?」
「…………」
 なんだろう、このまったくラチの明かない不毛な会話。
 「頭は無事か」 というのも、なんだかすごい質問だなと思うのだが、スマホを通して聞こえてくるハルさんの声は、どこまでも大真面目だった。もしかして、この電話、さっきの岡野さんの奥さんからの電話と、どこかで混線でもしてるんじゃないか。おれは転んだりも、頭を打ったりもしてないんだけど。
「ちょっと、落ち着きましょう、ハルさん」
 おれも落ち着こう。とりあえず、現在、ハルさんに危険が迫っているという緊急事態ではないようだ。
 ふと気づいたら、自分の斜め前の席で、昨日 「彼女が欲しい」 とパソコンに向かって怨念を放っていた同僚が、ものすごく羨ましそうな目でこちらをじっと見つめていた。決して羨ましがられるような会話の内容ではないと思うのだが、おれはそこから視線を逸らし、スマホを耳に当てたまま、そっと席を立つ。
 ここじゃ、ちゃんと話も出来ない。
「もしもし? 少し場所を移動しますから、待ってください。その間、ゆっくり息を吐いて」
 部屋を出ながらハルさんに向かってひそひそと話していると、後ろから、「ああー、俺も奥さんか彼女が欲しいいいー……」 という恨みがましい呻き声が、歯ぎしりと共に聞こえてきた。怖い。
 こうして、また噂が独り歩きをはじめるわけだな、とおれはひそかにため息をついた。


 部屋を出て、廊下をまっすぐ進むと左手にエレベーターがあり、さらに進むと階段がある。ここでいいかと、おれは階段を少し降りて狭い踊り場で足を止めた。この時間、階段を使おうなんて物好きはいないだろう。
「ハルさん、どうしたんです」
 改めてスマホの向こうに問うと、「ですから哲秋さん」 というもどかしげな調子の返事が返ってきた。いつもおっとりと構えているハルさんにしては珍しい。わけが判らないのは相変わらずだが、「何か」 があったのは確かなようだ。
「お身体は大丈夫なんですの?」
「はい?」
 頭の次は身体ときたか。
 ここに至って、おれは気がついた。ハルさんは怒っているのではなく、心配しているのだ。それでさっきから、忙しなく何度も、大丈夫か、と訊ねているらしい。
 しかし、どうして、いきなり?
「おれは頭も身体もいたって健康ですけど」
「嘘です」
 ぴしりとした口調で叱られた。ハルさんには悪いが、その言い方がいかにも弟を怒る姉みたいで、なんとも可笑しい。いや、愛らしい。つい、口許が綻んでしまう。
「嘘じゃないですよ」
「無理してらっしゃるんでしょう」
「無理もなにも……」
「最近ずっと、お仕事がお忙しかったんじゃないですか」
「まあ、少しは」
「それで体調を崩されたんですね」
「いえ、どうしてそこに直結するのか、よく……」
「私、毎日哲秋さんとお話していたのに、何も気づかなくて」
 ごめんなさい、と小さな声で謝られて、おれはようやく慌てはじめた。ハルさんの声は、今までに聞いたこともないほど、消えそうに弱々しい。決して、演技をして楽しんでいるわけじゃない。可笑しいとか愛らしいとか言っている場合じゃなかった。
「あのねハルさん、何か誤解が──そもそも、おれが体調を崩したなんていう話、どこから仕入れたんです?」
「ついさっき、仲人さんからお電話があって」
 ああ、とおれは思った。日曜日の予定を伝えるためだな。
「哲秋さんが今、ご多忙続きで心身のバランスを崩されて、とてもお加減が悪いようだから、絶対に無理をさせたりしないようにと申しつかりました。静かなところでゆっくり寛げるように手配をして、よくよく注意をして様子を見ておくようにと」
「はあ……?」
 なんだそれは。大体、「心身のバランスを崩して」 って、何?
「……何か、勘違いされてるんじゃないですかね。おれは特段いつもと変わりありませんけど」
「うそです」
 今度のは、さっきの叱りつけるような強い調子ではなくて、子供が拗ねるような、ぽつりと零すような言い方だった。十代に戻ったようにどぎまぎする。
 困ったな。

 なんだかやたらと可愛いんですけど、ハルさん。

「無理なさってるんでしょう?」
「違いますよ」
「私に気を遣って」
「違いますってば。落ち着きましょう、ハルさん」
 おれはもう一度同じことを言った。今日のハルさんは妙に強情だ。普段の余裕がちっとも感じられない。
 ……取り乱している、と言ってもいい。
 どうしたのだろう。
「一週間前、元気に言い争いをしたばかりじゃないですか。ハルさんもさっき言ってましたけど、毎日電話で話もしましたよね? おれの口調や話の内容に、どこか正常さを欠いているような傾向はありましたか」
「……だから、それは」
「気を遣って無理してたって? そんなに調子が悪いとしたら、おれはそれを完全に隠しおおせられるほど演技上手じゃないですよ。それに、気を遣う、なんてことが出来る時点で、心身のバランスが崩れているわけじゃないことの証明になると思うんですけど」
「…………」
「なんなら、今からハルさんのところに顔を見せに行ってもいいですよ。ちょうど仕事も終わったところですしね」
 その言葉は、あながちハルさんを納得させるためだけのものでもなかった。今からハルさんに会いに行こうかと、この時のおれは本気で思っていたのだ。
 彼女の顔が見たいと思った。
 安心させて、笑わせてやりたいと思った。
 それは、空いている片方の手を拳に握って、抑え込まなければならないくらいの、強い衝動だった。
「……本当に、大丈夫なんですか」
「はい」
 ハルさんの問いかけに、きっぱり答える。
「本当に?」
「はい」
「本当に本当に?」
「はい。おれを信用してください」
 小学生のようなやりとりをして、どうやらハルさんはおれの言葉を信じてくれる気になったらしい。
 ほっとした安堵の息が、電波を通じて伝わった。
「でしたら、よろしいんですけど」
 やっとハルさんの声にいつもの明るさが戻って、おれもほっとした。
 同時に、首を捻る。
「しかしなんでまた、そんな話になったんですかね」
「多分、仲人さんの言葉は、そのまま哲秋さんのお母様の言葉ですわ。何かよっぽどご心配かけるようなことをされたんじゃありませんか」
「心当たりがないですけど」
 そういや昨夜の母は、少し様子がいつもと違っていたような気がするな。あの人の思考もハルさんに負けず劣らず変わってるから、理解が難しい。
 それにしても、こんな風にハルさんを不安にさせるような言い方をしなくたってよさそうなものだ──と、おれは母親と仲人おばさんに対してひそかに腹を立てた。
「それでハルさん、日曜のこと、もう聞かれたんですよね? ご都合はいかがですか」
「はい、大丈夫です」
 答えてから、ふふっと笑った。いつものその笑い方につられて、おれも微笑んだ。
 ハルさんは、やっぱりこうして笑っているほうがいい。
 そうしてから、思い出した。
「あ、山」
「はい。川」
 間髪入れず、にこやかなボケが返ってくる。ハルさん……。
「違います、合言葉じゃなくて、日曜は、天気が良かったら、ドライブがてら山にでも行きませんか、ってことです」
「それは楽しそうですけど……長時間の運転はお疲れになるのでは?」
「車を動かすのは好きだから、気分転換になっていいですよ」
「そうですか?」
 それから二人で待ち合わせの場所と時間を決めた。母と仲人おばさんがセッティングしたほうは、この際無視させてもらうことにする。
「では、日曜日に」
 と、ハルさんは言って、最後に念を押すように付け加えた。
「くれぐれも、ご無理はなさらないでくださいね」
「わかりました。ハルさんはけっこう心配性ですね」
 思わずそう言ってしまうと、ハルさんはぴたりと口を噤んだ。
 一拍の間を置き、
「人のことは言えないと思いますわ、哲秋さん」
 と笑った。
 今、何か別のことを言おうとしたんじゃないか──とおれは一瞬訝ったが、それを確認する前に、電話は切れた。



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