はるあらし

21.隠れているもの



 日曜日、身支度を整えてリビングに行くと、珍しく父がいた。
「あれ、今日はゆっくりなんですね、お父さん」
 少なからず驚いて声をかけたおれを、読んでいた新聞から目だけを上げて、父がちらりと見る。しばらく見ない間に白髪が増えたようだが、相対した人間を一瞬で見抜くような鋭い眼で見るのは相変わらずだ。
「これを読み終えたら出る」
 と返事をする父の前のテーブルには、数種類の新聞がどっさりと積まれていた。この量の新聞を毎日欠かさず全部目を通すのが父の日課であるらしいのだが、家で読んでいる姿を見ることは滅多にない。今日は時間が余ってるのかな、とおれは首を傾げた。
「お前も出かけるのか」
「そうですね、もう少ししたら」
 部屋の時計を一瞥してから答える。ハルさんとの約束の時間までにはまだ余裕があった。
 じゃあ、とすぐにその場を立ち去るのも何なので、L字型の長いソファの端に腰かけたが、正直、間がもたない。きっちりと上等なスーツを着込んだ父は、無言で新聞を読んでいるだけで、しんとした室内には、パラパラという紙をめくる音しかしなかった。
 こうして見ると、父はけっこう小柄な人である。部下や仕事相手に対しては、黙って座っているだけでも威圧感があるらしいのだが、こうして家にいる時は、見た目も雰囲気もごく普通の男性だ。あまり会うことがないので、見かけるたびに、こういう人だったかな、という覚束ない印象を受ける。
 たまに雑誌などで顔写真を見ることはあるが、実際に間近で見ると、また違うものだな……と思ってから苦笑しそうになった。これって、息子が父親に抱く感想としてはあんまり一般的じゃないよな。
 大体、この人、いくつになるんだっけ。六十を越えてたかな、まだだったかな。定年ってものは考えなくてもいい立場なんだろうけど──ということを漫然と考えていたら、
「仕事はどうだ」
 と、父にいきなり話しかけられた。
 おれはちょっと驚いた。思えば、就職して以来、父にこんなことを聞かれたのは初めてではないだろうか。
「え──ああ、まあ、なんとかやっています」
 なんと答えたものか迷って、結局やや適当な返事をしたおれに、父は、む、とか、ふん、とかの声を喉の奥で発した。目線は新聞に向かったままだ。なんとなく、年頃の娘に対して、どういう態度をとっていいか判らず困惑する父、みたいな感じである。父は父で、ほとんど会話も交わさない次男坊との距離の取り方を、掴みかねているのかもしれない。
「忙しすぎてノイローゼ寸前だと聞いたが」
「お母さん、お父さんにまでそんなことを?」
 呆れかえって、もはや驚く気にもならない。大きな溜め息をつくと、新聞に目を向けながら、父がわずかにくすりと笑った。
「母さんと、智と、二人からそれぞれ聞いた。言い方は、大分違っていたが」
 兄は父の近くで働いているのだから、何かのついでに話題を出すこともあるだろう、とは思う。しかし母はいつの間に父にそんな話をしたのだろう。
 というか、この夫婦、子供のことで会話をすることもあるのか。
「真に受けなくていいですよ。おれは心身ともに健康です」
「だろうな」
 すんなり肯定され、少々拍子抜けした気分になる。母よりも兄よりも顔を合わせる機会が少ない父に、そこまで当然のように頷かれるのも面白くない。
 口を噤んだおれを、父はちらりと見て、また少しだけ笑った。今度のは、どこか妙に意地の悪さが覗いている。
「あの会社が、社員に過剰労働を押しつけなければいけないほど忙しいかどうかはともかく」
 パサ、と音を立てて、新聞を畳んだ。
「お前は、そういうタマじゃない」
「…………」
 意味がよく判らない。おれは眉を寄せた。
「そこまで繊細じゃない、ということですか」
「繊細──そうだな、繊細ではないな」
 顎に手を当て、父は面白そうにくすくす笑った。こんな風に笑う父を見ることも、あまりない。
「繊細というなら、智のほうがよっぽど繊細だ。兄妹の中で、お前がいちばん図太い」
 父の言葉に、おれは困惑するしかない。あのいつでも自信に満ちた兄よりも、ちゃっかりしていて母の気質を引き継いだ妹よりも、おれが図太いなどと言われるとは、思いもしなかった。
「そんなことを言われたのは、はじめてです」
「そうか?」
「優柔不断のボンボンと言われることはよくありますけど」
「うん」
 おれの言葉に、父は否定はせずに頷いて、

「──という仮面を、長いこと被ってきたんだろう」

 と、さらっと付け加えた。
「……は?」
「あんまり長いことその仮面を被り続けてきたから、お前自身にも、その下にある本当の顔がどういうものだか、よく判らなくなっているんだろう。それだけのことだよ」
 父はそこで笑みを消し、積んである束から次の新聞を取って広げた。勝手に話を打ち切って、おれが置いてきぼりなのも気にする様子がない。
 これだから、トップに立つ人間はイヤなんだ。意味が判らないまま放り出されるほうの身にもなってみろ。
「……お父さん」
 姿勢を正し、改めて呼びかけてみたが、父はまた新聞に目を向けたきり、顔を上げようともしない。おれは構わず続けた。
「菊里商事を、ご存知ですか」
 父の横顔に変化はない。ほんの一瞬、新聞をめくる指の動きがぴくりと止まったようにも思ったが、次にその口から出た淡々とした声は、まったく普段のトーンと変わりなかった。
「グループ内の企業のことは、全部知っているに決まっている」
「何か、あるんですか」
「何かとは?」
「あの会社について、知っていることがあるんじゃないですか」
「お前が知っていると思うことが何か、私には知りようがないから答えようもない」
 まるで禅問答だ。兄が菊里商事について何かを知っているようなら、当然父も知っているはずだ。少しでもそれを聞き出せたらと思ったのだが、父は兄よりもよほど手強かった。さっきまでの父親としての顔を見事に拭い去って、桜庭唯明という食えない経済界の大物の顔をしている。こうなるともう、おれなんかに、太刀打ちできるような相手じゃない。
 いっそ、ハルさんに直接聞いてみたほうがいいのだろうか。しかしただでさえ、ストーカー問題を抱えているこの時に、余計な心配ごとを増やすようなことを言うのはどうだろう。昨日の電話でも、おれの体調をまだ気遣っていたのに。
 大体、なんて言って聞けばいいんだ? ハルさん、桜庭がお父さんの会社になんらかの介入をしようとしているかもしれないんですが、そちらの経営状態に何か問題でもあるんですか、とか? まさか、そんなこと聞けるわけがない。
「やめておきなさい」
 無言になって考え込んでいたら、ふいに父が言った。はっとして目を上げる。
 父はおれに横顔を見せたまま、表情を変えもしないで言葉を継いだ。
「お前には、関係のないことだ」
「おれは──」
「部外者が口を挟むようなことではない」
「…………」
 一刀のもとにすっぱり切り捨てられて、おれは思わず拳を握った。
 ──部外者?
 確かに、そうだ。おれとハルさんは友達でもなければ、恋人でもない。期間限定の、ただの見せかけの関係でしかない。桜庭の姓はあるが、父や兄とは立場が違う。ただの個人として、ハルさんの勤め先や家庭のことまで踏み込んでいく、義務も、権利も、おれにはない。
 ……ない、けど。
「判りました。もう結構です」
 おれはそう言ってソファから立ち上がった。父は黙ったまま、新聞に目を向けている。
 リビングのドアノブに手を置いたところで、静かな声がかかった。
「お前の見合い相手──菊里のお嬢さんは」
 そこまで知っているのか。誰から聞いたのだろう。母がそんなことまでわざわざ父の耳に入れるとも思えないから、兄か。それとも、誰も知らないような情報源でも持っているのか。
「下の名前は、なんていうんだ?」
「春音さん、ですよ」
 おれが答えると、父は浅く頷いた。
 はるねさん、と口の中で呟く。
「……覚えておく」
 ぽつりとした調子で、そう言った。


          ***


 結局約束の時間よりもかなり早く着いてしまったそのカフェの中で、コーヒーを飲みながら時間を潰した。
 ここを待ち合わせ場所としたのは、ハルさんの要望によるものだ。母と仲人おばさんが勝手に決めた待ち合わせ場所は、以前と同じ駅前広場の噴水前、ということだったのだが、この店はそこから大分離れた郊外にある。
 車だから自宅まで迎えに行きますよと言ったら、それならここまで来てもらえませんかとハルさんに言われたのだ。朝から用事があって外出するので、一度家に帰るよりはそのほうがいい、ということらしい。もちろんおれに異存はないのだが、ハルさんはいろいろと忙しいのだなと思う。
 窓際の席から、ぼんやりと外を眺めた。
 よく磨かれたガラス窓を通して、うらうらとした暖かい陽射しが入る。でも、道行く人は少し身を縮めて猫背になって歩いているので、風はまだ冷たいらしい。
 このあたりはおれもあまり来たことがないので、地理にも詳しくはないのだが、大きなビルなどもない、のどかな場所のようだった。マンションや住宅が立ち並ぶ中に小さな公園やスーパーなどがあり、平和的な光景が広がっている。
 公園の向こうは少し小高くなっていて、その上に白く大きな建物があるのが見えた。
「…………」
 コーヒーカップを持つ手の動きが止まる。
 その時、道の向こうから、まっすぐこちらに近づいてくる女性の姿が目に入った。
 山にでも行きましょうかとおれが言ったためか、いつものお嬢さんっぽいワンピースではなく、少し大きめのセーターに細身のパンツというラフな格好をしていた。髪も後ろで緩く束ねられていて、女性というよりは女の子という感じで可愛らしい。
 ハルさんは、おれが座っているのを見つけると、ガラスを隔てた向こう側で、ニコニコと手を振った。
 そのまま店に入ってくるのかと思ったら、窓のすぐ傍で立ち止まり、ちょいちょいと手招きする。
「?」
 お茶はしないのかな、と思って、席を立つ。
 店を出ると、小走りに駆け寄ってきたハルさんが、「哲秋さん、お元気そうでなにより。車はどれですか?」 と挨拶もそこそこに早口で訊ねてきた。
 どうしてそんなに急ぐんだ、と面喰らいながらも、おれは駐車場に停めた自分の車に彼女を案内して、二人で乗り込んだ。
「ハルさん、どうし──」
「発進させてくださいな、早く」
 ハルさんはくすくす笑って楽しそうだが、なにしろ意味が判らない。当惑したまま、エンジンをかけ、アクセルを踏む。
 車を走らせても、ハルさんはなんの事情説明もしようとしなかった。というより、こちらを向きもしない。ずっと窓からドアミラーを覗き込んで、まあ、と嬉しそうな声を上げている。相変わらず、わけの判らない人である。
「あの……」
「哲秋さん、その道を右に行ってくださいます?」
「え、ここですか?」
 いきなり言われて、戸惑いつつも進路変更をした。
「まあ、ウインカーを出したらダメですわ、哲秋さん」
「はあ?」
「それでは意味がないじゃありませんか」
 なにが?
 意味不明の注意をされて、問い返すヒマもなかった。ハルさんが、右を曲がったら、次は左、また右、と次々に指示を出してくるからである。とにかく言われる通り、ウインカーは出さずに走ってはみるものの、おれは自分がどこへ向かっているのか、さっぱり判らなかった。
「ハルさん、せめて目的地を教えてもらえませんか」
 ハンドルを操りながらおれが訊ねると、ハルさんがようやくこちらを向いた。
 きょとんとした顔をしているが、その顔をしたいのはおれのほうだ。
「目的地?」
「どこかに向かっているんでしょう?」
「まあ、いやですわ、哲秋さん」
 目をパチパチ瞬いて、呆れた声を出された。この場合、どうしておれが呆れられなければならないのか、理由が判らない。
「お気づきになりません?」
「は?」
「運転する時は、安全のためにバックミラーを確認することをお勧めいたします」
「そんな余裕はありませんでしたよ」
 言い返しながらちらりとミラーに目をやると、後方離れたところに、灰色の車が一台走っていた。
 距離があるので、運転席の人物の顔までは見えないが、とりあえず、男であることだけは判る。
「…………」
 隣のハルさんを見ると、ね? と言うように、にっこり笑われた。
「ハルさん、ちょっと飛ばしますよ。しっかりシートベルトをして」
 ためしに、ぐんっとスピードを上げて走ってみた。
 すると灰色の車は、すぐにスピードを上げるようなことはしないまでも、信号がギリギリ赤になっても止まりもせず、ぴったりと等間隔を置いて、おれの車の後ろをついてくる。

「……いつから尾けられてるんです?」

 おれの問いに、ハルさんは首を捻った。
「いつからですかしら。歩いていて、気がついたら、同じ車が目に入るなと思って。ほら、以前、哲秋さんに心理学講座を受けましたでしょう? あれから私、自分の視界に入るものは、なるべく注意深く記憶するようにしているんですの」
「それは偉かったですね」
「はい、頑張りました!」
 子供のように自慢げなハルさんへのツッコミはこの際置いておくとして、おれはハンドルを握りながら、どうするかな、と素早く頭を回転させた。
「あの車と、乗っている人物に、見覚えはありますか」
「ございません。乗っている人の顔まではよく判りませんけど、あまり若くはないようですし」
「…………」
 尾行者の首根っこを押さえつけて、目的を吐かせてやりたいのは山々だが、今はハルさんがすぐ近くにいる。万に一つでも彼女を危険に巻き込むような真似は出来ない。
 おれはもう一度、バックミラーに映る車を見た。
 古い型の国産車。車の性能でいうのなら、あちらよりもこちらのほうが数段上だろう。振り切ってしまうのも不可能ではないが──

 でも、これからまた、ハルさんを他の男からの視線に晒しておくのも、業腹だ。

「ハルさん、正直に答えて欲しいんですが」
 はい? とハルさんがこちらを向く。
「あれがストーカーだとして、本当に心当たりはないんですね?」
「ございません」
「たとえば、過去、付き合った男とか……それとも、現在、揉めているような男とか」
「まあ、哲秋さん」
 おれがごにょごにょと曖昧に濁した台詞の意味を、ちゃんと読み取ったのだろう。ハルさんはむっとしたように眉を上げた。
「他に誰か付き合っている人がいるのに、哲秋さんとデートをするほど、私、器用じゃございません」
「そうですか」
 声に弾んだものが出ないようにするのに、ちょっと苦労した。
「じゃあもう一つ正直に答えてください」
「はい」
「あれは、興信所の類だと思われますか?」
「…………」
 少しの間、沈黙があった。
「──実は、そう思います」
 やっぱり。
「視線に粘ついたものがないな、とは、最初から思っていたんですの。個人的な気持ちが含まれていない、といいますか──なんというか、たとえて言うなら、プラスチックの箱の中にいるカブトムシの幼虫を見ているような」
 今ひとつ判りにくいたとえだが、要するに、「冷静に観察されているような」、と言いたいのだろう。
「だから、あまり危機感を覚えなかった?」
「いい気分ではありませんでしたけど」
「それが、桜庭関係のものかもしれないとも思ったし?」
「…………」
 また黙ってから、きゅっと首を竦めた。確かに正直だ。
「可能性の一つとして、考えてはおりました」
 やれやれ、と息を吐く。しかしハルさんは、そんなおれに向かって、にこっと無邪気な笑顔を向けた。
「でも、これで、その可能性はなくなりましたわね」
「え、なんでですか」
 驚いて問い返すと、まあ、という顔をされた。
「だって、今の状況で判るじゃありませんか。私だけじゃなく哲秋さんにもこんなにあっさり尾行を気づかれるなんて、たとえ興信所だとしても、ヘボもいいところですわ。そんなところ、桜庭家が関わっているはず、ありませんでしょう?」
「…………」
 おれは口を噤んだ。
 桜庭のことを他の家の人にこうも自信満々に言い切られてしまうのも複雑だが、確かにそれは言えるな、と思ったのだ。やり方からして素人ではないようだが、あまりにもお粗末すぎる。あの母が、こんな三流どころに依頼をするわけがない。
 ……それに、考えてみたら、ハルさんが視線に気づいたのは、時期的に、おれが母にハルさんとの付き合いを続けると言ったのよりも前、仕事を口実に何もかもを宙ぶらりんにしていた最中だ。いくら強引な思考と行動をする母でも、そんな時に見合い相手の素行調査を依頼するなんて、辻褄が合わない。

 少なくとも、素人ではない。
 でも、母とは関係がない。
 じゃあ、なんだ?

「ハルさん、今日のドライブの行き先、変更してもいいですか?」
「はい?」
 おれの突然の申し出に、ハルさんが不思議そうに首を傾げた。
「やっぱりお疲れですか?」
「そういうわけじゃないです。元気ですよ。いいですか?」
「構いませんけど……どちらへ?」
 ごほんと咳払いをして、目線をフロントガラスに据える。なるべく、真面目な顔を保って言った。
「──ラブホテル」
 返事がない。ちらっと隣に目をやる。
 ハルさんが顔を赤くして固まっているところを、おれははじめて見た。



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