はるあらし

23.対決前夜



 食事を済ませて、ハルさんの家に着いた頃には、もうすっかり夜になっていた。メーター下にあるデジタルの時刻に目をやると、「22:08」 と表示されている。
「こんなに遅くなって、おうちの方が心配されていませんか」
 家の前に車を停めて、おれがそう言うと、助手席のハルさんが、ふふ、と笑った。
「母や兄は、哲秋さんほど私を子供扱いしておりませんもの。まだ深夜というわけでもないですし、私にだって、普段、残業や会社のお付き合いで、もっと遅くなることくらいありますのよ?」
「それはそうでしょうけど」
 と、なにげなく答えながら、こっそりと内心で呟く。
 ──母や兄、か。
「でも、それとこれとは話が別なんじゃないですかね」
 おれは男で、しかも恋人ではなくただの見合い相手という立場で、さらに言うなら(仮)のいわく付き物件である。会社の飲み会で遅くなる、というのとは、心配の方向も度合いもかなり違うのではないだろうか。
「兄は、先日の一件で、哲秋さんのことは信頼しているようですわ」
「おれをですか?」
 意外に思って問い返した。先日の一件というと、響氏がおれをストーカーと間違えたり、目の前でハルさんと口論したりした時のことのはずだが、あの成り行きで、どこをどうしたらおれを信頼できるのか、さっぱり判らない。
「想像していた感じと違った、と、あの後でしきりと申してました」
「一体、どんなのを想像してたんでしょう」
「兄も、頂いた釣り書きを拝見しておりますから。あの内容から、ある種のイメージ映像を作り上げていたようですわね」
「…………」
 ああ、あのウソばっかりの母代筆釣り書きね……とおれは納得した。頭脳優秀で、資格マニアで、趣味はピアノにバイオリンに乗馬にクラシック鑑賞、というアレね。
 響氏がどんなイメージを頭に描いていたのか、なんとなく判った気がする。そりゃ、あの釣り書きと比べれば、現実のおれはさぞかし 「感じが違う」 だろう。
 思わずハンドルに突っ伏すと、ハルさんがまた笑った。
「お友達の葵さんにも、失礼なことをした、ととても反省しておりました。最近はお会いになっていませんか?」
 葵、という名前を出されて、否応なくこれからすべきことを頭に浮かべる。腹の下のほうが少し重くなったが、顔には出さずに笑って見せた。
「……そうですね。実は今夜あたり、電話をしてみようかと思っていたところです」
「では、兄があの時のことを謝っていたと、お伝えしてくださいね」
「判りました。でも、本人はまったく気にしていませんから大丈夫ですよ。友人のおれから見ても、葵の外見はちょっと胡散臭いですし」
「チャラチャラしたところが?」
「そうです、チャラチャラしたところが」
 そう言って、同時に噴き出す。
 おれはそれから、葵がオーナーを務めている輸入雑貨の店について、ハルさんに説明した。学生よりももう少し上の若い女性がおもな客層ということだから、まさに彼女にはぴったりだろう。ハルさんは非常に興味深そうに、おれの話を聞いていた。
 車はさっきからずっと、ハルさんの自宅前に停車したままだ。おれは話を打ち切ろうとしなかったし、ハルさんも切り上げようとする気配を見せない。お互い、家のほうに視線を向けることもしなかった。
「哲秋さんも、そのお店には行かれたことがあるんですか?」
「あります。一度だけですけどね。なにしろ周りが女性ばかりで、あまりにも居たたまれなくてすぐに逃げるように出てきたので、じっくり見て廻ったわけじゃないんですけど」
「まあ、楽しそうな光景ですわね」
 華やかな店内で、おれが女性客に囲まれてぽつんと浮きまくっている場面を想像しているのか、ハルさんが本当に楽しそうな顔をした。
「でも、なかなかいい店でしたよ」
「素敵でしょうね。私も機会があったら行ってみようかしら。どこにあるんですか?」
「じゃあ、おれが今度、お連れします」
 その言葉に、ハルさんは一瞬、笑顔のまま表情を止めた。
「おれも、ハルさんと一緒なら、ゆっくり店内を見られますしね」
「……そう、ですね。では今度、仲人さんからお話がありましたら」
「また近いうちに電話します。その時に予定を決めましょう」
「…………」
 車内のわずかな光と、外にある門灯の明かりに薄っすらと照らされるハルさんの顔に、戸惑いが走ったのが見て取れた。少しの間黙り込んで、おれが訂正も取り繕ったりもしないことが判ると、ますます困惑したように瞳を揺らした。
 続けておれは口を開きかけたが、その時、菊里家の門が、少しだけ開かれた。
 内側から、誰かの丸顔が、ひょこっと覗く。
「──……」
 それを見たら、以前に屋上遊園地で見た、熊の着ぐるみを思い出した。
 つい、ぷっと噴き出してしまう。途端に、ぴんと張りつめた空気が一気に緩んで、少し間の抜けたものになった。
「あんまりのんびりしてたから、お迎えが来ましたね」
 照れ笑いとともに、車のドアを開けて外に出る。
 心配そうに顔だけを出して様子を窺っていた響氏は、おれを確認すると、ほっと安心した表情になった。ぺこりとお辞儀をして、こちらに向かって歩み寄ってくる。きっといつまでも家の外に停車している車を不審に思い、また妹のストーカーではないかと、怖々ではあるが見に来たのだろう。
「すみません、遅くなりまして」
 頭を下げると、響氏までもが照れくさそうに頭に手をやった。シャツの上にカーディガンという格好の響氏は、体格が丸っこいこともあり、背広姿の時よりも、さらに人が好さそうに見える。
「いえ、こちらこそ、無粋な真似をしてすみません。カメラからだと、誰が乗っているかまでは見えなくて」
 ハルさんの家は、一階部分がガレージ、門を入って外階段を上り、自宅玄関へと通じる造りになっている。ガレージの上に据えつけてある小型のカメラを通して、響氏はさぞかし家の中で見知らぬ車にやきもきしていたに違いない。
「哲秋さん、前言撤回ですわ。兄もまだ十分、私を子供扱いしております」
 同じく車から出てきたハルさんが、溜め息と同時に嘆くように言った。さっきまでの戸惑いも困惑も顔から消して、いつも通りのハルさんに戻っている。
「お兄さんは心配してるんですよ」
「そうだよ、ハル。僕は心配してるんだよ」
「まあ、何を心配していたんですかしら」
 いや、違った。反動なのか、誤魔化すためなのか、ハルさんはいつもよりも、真面目に悪ノリをしていた。
「え、何をって、だから」
「車の中で不埒な真似をしているんじゃないか、とか?」
 その言葉に、響氏は本気で飛び上がった。暗いのに、顔が赤くなったのがはっきり判るほどだった。
「そそっ、そんなことは別に……! ただ、また、ハルが変なのにつきまとわれてるのかと」
「まあ、哲秋さんを 『変なの』 呼ばわりするなんて」
「ちがっ! いやいやいや、ちがい、違いますよ、桜庭さん! 僕は決してそんな!」
「せっかくいいところでしたのに。ねえ、哲秋さん」
「えっ、ええっ! そ、そうなんですか、すみません! 僕、とんだお邪魔を! ではあの、気にせず、続きをどうぞ!」
「……ハルさん、そのへんで」
 あわあわと動転し、くるりと背中を向けて再び門の中へと駆け込もうとした響氏のカーディガンを掴んで引き止め、おれはハルさんを嗜めるようにじろりと睨んだ。
 非常に憎めない性質をしている響氏は、どうも日常的にハルさんによって遊ばれているらしい。ハルさんの場合、これも愛情表現の一つなのかもしれないが。
「少しお喋りして、ハルさんを引き留めてしまいました。これで帰ります。ご両親にもよろしくお伝えください」
「あ、は、はい。いえ、こちらこそ、わざわざ妹を送っていただきまして」
 まだ動揺の抜けきらない響氏が、ぺこぺこと何度も頭を下げる。
「あの、もしよかったら、中でお茶でも」
「いえ、もう遅いですから」
 おれが辞退すると、響氏はちらっとハルさんに目をやった。
 それからまたおれを見て、何かを言いかけ、口を噤む。
 この人、以前も同じことをしたな、とおれは思った。ストーカー騒動の時も、別れ際、こんな風に、何かを言いたそうにして止めていた。

 ……ハルさんの前では出来ない話、ということか。

「そうだ。今さらですけど、おれの名刺をお渡ししておきます。先日も、バタバタしていてろくに挨拶もできませんでしたから」
 思いついたように言って、おれは車のドライバーズボックスの中から自分の名刺を取り出した。会社で使っているもので、社名と名前、そして、社内の直通番号が載っている。
「あ、これは、どうもすみません」
 響氏はどこかしらほっとしたような顔でそれを受け取ると、暗がりの中で目を凝らしてまじまじと名刺を眺めた。
「僕のは家に置いてあるんです」
「いや、結構ですよ。菊里さんのことはハルさんに伺ってますから」
 白々しい会話を交わすおれと響氏を見て、ハルさんはなんとなく要領を得ない顔つきをしている。
「名刺交換だなんて。お仕事でもありませんのに」
「社会人の男っていうのは、こういう形でしかコミュニケーションが取れないんですよ、ハルさん」
「そうだよ。名刺が増えていくと、それだけで嬉しいんだよ、ハル」
「理解に苦しみますわ」
 響氏が大事そうにおれの名刺をポケットにしまいこむのを見届けて、おれは車に乗り込んだ。
「じゃあ、失礼します」
 そう言うと、響氏がハルさんに気づかれないように、そっと目顔で、ありがとう、という合図を寄越した。


          ***


 家に帰ると、母親が不機嫌そうにおれを待ち構えていた。
「遅いお帰りですこと」
「そうですか?」
 ハルさんと同じく、おれだって仕事や付き合いで、普段はもっと遅いこともある。しかしそれについて母親に文句を言われることは滅多にない。現在の母が気に入らないのは、お試し見合いの相手とのデート、というその一点であることは判っていたので、おれは素知らぬ顔で肩を竦めるだけにした。
「哲秋さん、言うまでもないことですが」
「なんです?」
「あちらのお嬢さんとは、ちゃんと節度のあるお付き合いをされているんでしょうね?」
「もちろん」
 ラブホテルに行きましたけど、清い関係です。
「年頃の娘さんを、こんな遅い時間まで連れ回すなんて、感心しませんね」
「今日は、ちょっと遠出をしたもので。あちらのお兄さんには、遅くなったことをお詫びしましたよ」
「お詫び?」
 母は今度は露骨に不快そうな顔つきになった。
 母にとって、菊里家はあくまで格下の相手である。桜庭の人間が頭を下げるなんて、とんでもないことだ、と憤慨しているのが、ありありとその表情に出ていた。
「…………」
 まるで子供だな、とおれは思う。
 頭を下げること、非を認めることを、最大の屈辱と考える。礼儀を持つことと卑下することを混同し、矜持と高慢とを、間違える。

 そうだ。
 ……それは、「間違い」 だ。

「先方には、哲秋さんはお疲れだと念を押しておいたはずなんですけど」
「そうらしいですね」
「それなのに、遠出をされたとは。あちらはどうも、お気遣いが少々足りない方とお見受けしますが」
「おれのほうから、ドライブしませんかとお誘いしました」
「それにしたって配慮がありませんね。お仲人を通して、きちんと」
「お母さん」
 さらに言い募ろうとしていた母は、おれの語調の強さに、驚いたように言葉を止めた。
「言いたいことや聞きたいことがあるなら、今後は直接おれに言ってください」
「直接、って」
「家族だけならともかく、あちらにまで、余計なことを吹き込まないでください、ということです」
「吹き込むって、あなた」
 母が目を見開いた。何かを言おうとして、また思い直し、結果、中途半端に口を開けたまま固まってしまう。今までずっとクラゲみたいにのらくらしていた次男坊に説教されて、すぐには気持ちがついていかないらしい。
「つまらないことで、心配させたくないんです」
「つまらないって」
「くだらない、と言ってもいいですけど」
「……あちらのお嬢さんが、何か」
「お母さん」
「な、なんですか」
「春音さん、ですよ」
 父に対して答えたのと同じ調子で言い返し、唖然と立ち尽くす母を放って、おれはさっさと自分の部屋へと向かった。
 思考はすでに、早いところ葵に電話をしないと、ということに占められていた。
 まだこれから、片をつけなきゃいけない問題が残っている。


         ***


 葵から返事があったのは、翌日の午後だった。
「悪かったな、面倒かけて」
 そう言うと、スマホの向こうで、葵が笑った。しかし、その笑い声は、いつもよりも多少強張っている。
「こんなこと、なんでもないよ」
「でも、いろいろと大変だっただろ。別れた彼女に連絡取るなんてさ」
「哲、俺を誰だと思ってんの? 自慢じゃないけど、別れていようといまいと、俺はいついかなる時でも、女の子には躊躇なく気軽に電話できるよ」
 本当に自慢にならないな、と思ったが、黙っておいた。
「それで、早いほうがいいんだよね? 哲」
「できるだけ」
「だろうと思って、今日で段取りつけたから」
「今日でいいんだな? 何時なら会える?」
「夜は家を空けられないんだってさ。夕方の四時くらいなら、って言うらしいんだけど、どうしようか。哲、今も会社だよね?」
「四時ね。わかった、って伝えてもらえるか」
「仕事は大丈夫?」
「なんとかする」
 今すぐでもいいか、と言われていても、おれは同じ返事をしただろう。拒絶されるか、ゴネられるか、そちらのほうが可能性が高いと思っていたので、下手をしたらもっと強硬な手段を取らなければいけないかもしれないな、と考えていたくらいだ。
 会えるのであれば、あちらの気が変わらないうちに、一刻も早いほうがいい。
「じゃあね、場所は」
 メモを見て話しているのか、葵が一本調子で喫茶店の名前と住所を告げた。書き留めながら、大体あのあたりだな、と頭の中の地図を広げて目星をつける。
 現在住んでいるところからも、実家からも離れた場所を指定してきているのは、知り合いにでも見られたら困る、という考えからなのだろう。
「……哲、一人で大丈夫?」
 どこか心配そうな葵に問われて、さすがに苦笑した。
「大丈夫だよ。そんなにおれ、緊張してるような声を出してるかな」
「いや、そんなことないよ。しっかりしてる。けどさ、相手が相手だからさ」
「大丈夫だよ」
 自分でも不思議なくらいに、落ち着いている。そう言うと、葵はちょっと安心したように、うん、と答えた。
「そういえば、葵」
「ん、なに?」
「ハルさんのお兄さんが、お前に謝っておいてくれって」
「ああ、あれね。うん、気にしてないよ、別に。面白い兄妹だよね、あそこ」
「それでさ」
「うん?」
「……そのうち、お前の店にハルさん連れていってもいいか?」
 あはは、と明るく笑う声がする。今度のは、さっきのような不自然な笑い方ではなかった。
「いつでも来てよ。けどその時は、事前に連絡してよね。俺、準備万端で二人をお待ちしてるからさ」



 ──四時五分前になって、おれはその店に到着した。
 ほとんどが四人から六人で向かい合って座る形式の席ばかりの、ゆったりとした喫茶店だった。商談をしているような二人連れの中年男もいれば、五人くらいのグループで賑やかにお喋りしている女性たちもいる。いちばん奥では、広い座席に悠々と一人で陣取り、コーヒーを飲んで寛いでいるらしい若い男の茶髪と背中が見えた。
 そこと反対側の壁際のテーブル席に、彼女は座っていた。
 目の前にはアイスティーが置かれてあるが、手をつけた形跡はない。そのわりに、身じろぎもせず、視線はじっとグラスに釘付けになっている。まるで、毒入りの飲み物を前にしてでもいるかのようだった。
 おれがその席に行って、向かいに座ると、弾かれたようにぱっと顔を上げた。
 まず何から話そう、どこから切り出そう、とこれまで考えていたことの一切が、その顔を見た途端、頭から吹き飛んだ。
 おれは依頼やお願いに来たわけではない。説得のために手間をかけてここに呼び出したわけでもない。挨拶も、久しぶり、なんて言葉も、必要だとは思えなかった。
 そんなことに余分な時間をかけるなんて、真っ平だ。
 彼女と正面から視線を合わせ、単刀直入に、いちばんの疑問を口にした。
「……どうして、おれの見合い相手を調べるなんて真似をした?」
 相手の顔から、すーっと血の気が引いていく。おれは重ねて、もう一度聞いた。
「何のために、そんなことをしたんだ。──深雪」



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