はるあらし

25.言わないこと



 翌日、おれは二日酔いで痛む頭を抱えながら、しかしそれをなんとか周囲に悟られないように、気を張って仕事をしていた。
 昨日の仕事を、おれは深雪に会うために、少しばかり強引に片づけて早退したのである。上司には、「緊急な用事ができて」 という、嘘ではないが曖昧な理由を口にして。その緊急の用事で早退したおれが、次の日、見るからに、飲みすぎました、という顔をしてぐったりしているわけにはいかない。
 ガンガン痛む頭をなるべく動かさないように、普段と変わらない態度で過ごしていたつもりなのだが、誰にも気づかれずに、というのは、やはり無理があったらしい。特に、隣の席の人には。
 午後になって、休憩室でブラックの缶コーヒーを喉に流し込んでいたら、近寄ってきた岡野さんに、声を潜めて訊ねられた。
「なんだよ、ヤケ酒でも飲んだのか」
 おれは気まずく、ぽりぽりと頭を掻くしかない。
「すみません、判りますか」
 アルコール分はもうほとんど抜けているはずだし、酒の匂いが残っているということもないと思う。それでもやっぱり顔や動きに出てしまっているかなと反省しながら謝ると、岡野さんは少し笑った。
「大丈夫、他のやつにはバレてないって。そんな些細な変化を目敏く見抜くほど、他人の動向を気にするようなヒマ人は、ここにはいないよ」
「岡野さんはヒマそうでなによりです」
「バカ、俺はひときわ後輩思いの、心優しい男なんだ」
「それは、どうも」
 友達思いの友人と、後輩思いの先輩に囲まれて、幸せだ、と思っておくことにして、おれは笑った。
「お前が酒を翌日に持ち越すほどに飲むのも珍しいからな。……昨日、よっぽどの問題でも起こったか?」
 しかし実際、岡野さんは後輩思いであるらしい。そうやって問いかける表情には、好奇心よりも、心配や気遣いの色のほうが濃く現れていた。
「うーん……」
 それを無下に振り払うこともできず、しかしなんと答えていいものか判らずに、困って首を捻る。
 問題……というか、昨日の早退の理由であった 「問題」 については一応解決した、と言ってもいい。そう思う。
 けれど、その問題の後始末について、おれは少々迷っているのだった。


 ──つまり、このことを、すべて包み隠さずハルさんに打ち明けるべきか否か、ということだ。
 怖い思いや嫌な思いをして、この件でいちばん迷惑をこうむったのは、他の誰でもない、ハルさんだ。しかもその原因は、これっぽっちも彼女自身にはない。いわば、おれと深雪が引きずってきた過去のゴタゴタに、いわれなく巻き込まれてしまった形である。
 だから、おれは事の成り行きを、はじめから終わりまで全部ハルさんに知らせて、その上で謝るべきだと考えた。
 そうしなければ、ハルさんだって納得できないままだろうし、今後も安心して過ごすことができないだろう、と思うのだ。いくらおれが、「解決しましたからもう大丈夫です」 なんて言ったところで、詳細な事情と理由が知らされなければ、不安は払拭しきれないに決まっている。結局、どうして自分が見も知らぬ男に尾け廻されなければならなかったのか、理由を知らないままでは、何が何だか判らない不気味さは、これからも彼女の中に居座り続けることになる。
 そんなことにさせないためにも、彼女にはきっちりすべてを話す必要がある、とおれは思った。
 しかしそれに異を唱えたのが葵だ。いや、異を唱える、なんていう表現では足りない。葵はきっぱりと、「大反対だ」 と言い切った。
「そんなこと一切合財打ち明けられて、ハルさんが 『そうでしたか、すべてが判ってスッキリしました』 なんて、清々しく笑えるとでも思う? いつでもどんな場合でも、正直が美徳になるなんて思ったら、大間違いだよ、哲」
 と、飲みに行ったバーで、葵は断固とした口調で言った。
「それは判ってるけど」
「いいや判ってないね。元カノとのいざこざなんて、どう聞いたって楽しい気分になるわけないでしょ。哲はそれで誠意を尽くそうってつもりなのかもしれないけど、聞かされたほうはたまったもんじゃないって、理解してる? 人と人との間には、知らなくていいこと、知らないほうがいいこと、ってのが歴然と存在するんだよ。男と女には、特にね」
「でも、おれと深雪のことを説明しないと、ハルさんにとっては結局すべてがあやふやなまま、ってことになる」
「一度説明をはじめたら、今度は本当に一から十まで説明しないといけなくなるよ」
「するつもりだ、って言ってる」
「全部? 付き合うきっかけから、別れるまで? 別れてから、あの女が狂言自殺みたいなことをやらかしたことも? あっちの身勝手な言い分を、哲が黙って受け入れてたことも、全部?」
「本当のことだから、仕方ない」
「バカじゃないの。本当のことだから、口に出せばそれが美しいものになるとでも思ってんの? 逆だよ、逆。一旦言葉にしてしまえば、それはハルさんの心に残っちゃうんだよ。たとえその時には納得しても、あとから疑いが生じたり、形を変えて歪んできたりするものなんだ。大体、普通の女が、とっくに別れた男の付き合ってる相手を調べようなんて行動に出るもんじゃないでしょ。俺はあの女がどういう女か知ってるからまだしも納得できるけど、そんなことを知らないハルさんからしたら、ただ困惑するだけだよ。そこまでするなんて、哲とあの女の間に、別れた後も何かがあったんじゃないかって、邪推されるのがオチだね」
 そう主張する葵に、納得しきれず反論し、バーで延々と議論しているうちに、いつもよりも度を越えた酒量を胃に入れることになったわけだ。
 そして結論は出ないまま、二日酔いだけが残った。
 ──薬も飲んだのに、おれの頭からは、なかなか痛みが去ってはいかない。


「……正直は必ずしも美徳ではない、って、岡野さんも思いますか」
 起こったことのあれこれをすっ飛ばして、そう問いかけたおれに、岡野さんは何をどう解釈したものか、途端に、何もかも理解した、というしたり顔になった。何をどう理解したのか、おれにはさっぱり判らないのだが。
「そりゃあそうだよ」
 やけに力強く同意している。
「疑われても、やってない、って言い張るのが、男の優しさってもんだぞ、桜庭」
「は?」
 疑われる?
「……『やってない』 って、何をですか」
「いいんだ、みなまで言うな。判ってる」
「判ってるようには思えないんですが」
「いいか桜庭、たとえ目の前に証拠を突きつけられても、知らない、って断固として否定しなきゃいけないんだよ、男はな。そこで、ごめんなさいって謝るのは一見正しい行為に思えるが、それはしちゃいけないんだ。他の女と抱き合っているところを見られたとしても、違います、これは浮気じゃありません、僕はいつでも君一筋です、ってキッパリ言い切れ。それがお互いにとって、最もいいことなんだからな。絶対に認めたらダメだぞ。女なんていうのは、一度許したようなことを言っても、必ず後で何回も何回も蒸し返してくるもんなんだって」
「…………」
 そういう方向に解釈されたのか。
 まあでも、岡野さんの言うことは、葵の言うことと、共通点がないわけでもないな……と思って、おれは否定するのはやめた。なるほど、岡野さんの異性への処し方は、葵とそっくりだ。似た者同士の二人なら、そりゃ言い分は似通ったものになるだろう。
 こんな二人の意見を参考にしてもいいのか。ますます迷う。
「俺も嫁さんと付き合ってる頃、何度か疑われたことがあったけど、それで乗り越えたぜ。正直は必ずしも美徳じゃない。うん、いい言葉だ、まさにその通り」
「そこでドヤ顔をするのはマズイんじゃないですかね」
「今はもちろん清廉潔白だけどな。なんたって娘が可愛いから、家庭第一だ」
「それは知ってますけど」
 独身時代にはいろいろあったとしても、結婚してからの岡野さんが、本当に良い夫で、良い父親であることは知っている。
 先日、頭を打ってケガをしたという娘さんは、現在はもうなんの問題もなく、毎日元気に遊び回っているのだそうだ。
「……岡野さん」
 おれは空になった手元のコーヒー缶に視線を落とし、ぼそりと呼びかけた。
「うん?」
「おれ、岡野さんにも、言ってないことがあるんです」
 岡野さんは噴き出した。「なんだよ、気色わりいな」 と声を上げて笑う。
 その顔を見て、ぼんやりと思った。
 良い夫で、良い父親で、良い先輩で。

 ──この人のいい岡野さんは、おれが桜庭の次男であることを知ったら、どういう反応をするのかな。

 こんな風に心配してくれたり、気安く会話をしてくれることはなくなるのだろうか。態度をころりと変えられるだろうか。距離を置かれるだろうか。
 どうして黙ってたんだ、とおれを責めて、なじるだろうか。
「あ、判った。俺の机の引き出しに入れておいたチョコ食ったの、お前だろ。二倍にして返したら許してやる」
 岡野さんは、酒も好きだが、甘いものも好きなのだ。
「そんなんだから、最近、腹の周りに貫録が……」
「うるせえよ」
「……おれが実は、この会社の社長の息子だって言ったら、どうします?」
「あ?」
 唐突な質問に、岡野さんはきょとんとして、それからニヤリと笑った。
 この会社の社長の息子が、現在まだ学生であることは、よく知られている。そのことを前提とした、ただの冗談だと思っているのだろう。
「そうだな。俺の出世を融通してもらうかな」
「それだけですか?」
「あん? それだけって? 他には、そうだな、家を買う時の借金を頼むとか? いや、それはイヤだな。お前、きっちり計算して利子も取り立てそうだしな」
「今まで、岡野さんたちみんなを騙してたおれに、腹が立ちませんか」
「ははっ、なんだそりゃ」
 おれの言葉に、岡野さんは陽気な笑い声を立てた。
「騙すも何もねえだろ。だってお前、今まで俺たちと一緒に、ちゃんと働いてたじゃないか。たとえばお前がどっかの御曹司で、修行のために身分を隠してヒラ社員からはじめてるんだとしてもさ、それでも、これまで数年、大学出てから、コツコツ毎日真面目に出社して、仕事してきたんだろ。そうやって、一から積み上げた信用とか、実績とかってもんがあって、それは厳然とした 『事実』 として、社内にも俺たちにも存在してるわけだ。それがあるのに、腹を立てたりする理由がねえよ」
「…………」
 そうですか、とおれはコーヒー缶に目をやりながら、微笑んだ。
 もちろん、それは冗談としての返事であって、実際に本当のことを知ったら、岡野さんが同じことを言うとは限らない。そのことは判っている。
 でも、そこには一片の真実も、あるような気がする。

 ……つまり、積み上げてきたものが大事、ってことか。


          ***


 明確な結論を出せないまま、夜になって電話をしたおれに、ハルさんからの解答は簡単だった。
「必要ございません」
 とにかく尾行者については片がついたこと、これからはもうハルさんを悩ませることはないであろうことを伝えて、「ハルさんが望むのなら、事情と経緯についてすべて説明する」 と言ったおれに、彼女が返した一言がそれだ。
 考える間も置かず、迷いも感じられない、すっぱりした返事だった。おれのほうが戸惑ってしまったくらいである。
「でも、ハルさん、気になるでしょう?」
「それはもちろん、気になります」
 そりゃそうだ、と思う。そして同時に、だったら、どうして? という疑問も余計に大きくなる。
「知らないままでは、スッキリしないでしょう」
「スッキリしませんわ」
「じゃあやっぱり、説明したほうが」
「必要ございません」
 また同じことを言われた。ハルさんの口調は、若干、尖っているようにも聞こえる。怒ってるんだろうか。
 おれが困惑して口を噤むと、スマホの向こうから、ふう、と小さなため息をつく気配がした。
「哲秋さんは、私に、『もう二度とこんなことはさせない』 とお約束してくださって、そして実際、その通りにしてくださったんでしょう?」
「え、まあ、そうです」
「でしたら、それで問題ございません。ノープロブレム、これにて一件落着、メデタシメデタシです。黄門様ご一行がまた新たに晴れ晴れとして旅に出て行く場面ですわ」
 何を言ってるのか、よく判らない。
「ハルさん、なんか怒ってませんか」
「怒ってなんていません、全然まったくちっとも」
 そうかなあ。
「けどハルさん、そんな結果報告だけじゃ、不安が残るでしょう」
「不安なんてございません」
「そんなことは……」
「哲秋さんがもう大丈夫、と言われるのでしたら、その通りなのでしょうから。何も心配しておりません」
「でも」
「哲秋さん」
 なおも言い募ろうとするおれを、ハルさんが遮った。そして今度は、さっきのよりもはっきりと聞こえる、はあーっというため息をついた。
「その 『事情』 というのがどんなものか、私は存じませんけど」
「はい」
「存じませんけどね?」
「…………」
 やっぱり怒ってないか、この人。
「それが私の耳に入れてなんの問題もない内容でしたのなら、哲秋さんは最初から躊躇なくご説明されますよね。私の個人的な関わりだったなら、今後について何かご忠告されるのでしょうし。桜庭家の関係でしたらなおさら、すぐにそう仰ると思いますわ、性格上」
「まあ……そうですね」
 考えて、おれは頷いた。
 それらのことだったら、確かに、ハルさんに言うのを迷いはしないだろう。だから余計に、おれとしては今回のことを黙っているのが後ろめたいのだ。
「その哲秋さんが、『望むのなら』 なんていう言い方をされる時点で、このことが哲秋さんの側の事情によるもので、なおかつ、私は聞かなくてもいいことなのだな、ということくらいは判ります。ですから、もう尾行はない、という事実だけ知ればいい、と申し上げております」
「いや、おれはどちらかというと、ハルさんには全部話したほうがいいんじゃないかと考えてるんですけど」
「そしてそれを、葵さんあたりに、止められたんでしょう?」
 図星を衝かれて、驚いた。
「なんで判るんです?」
「実は私、シャーロック・ホームズの生まれ変わりなんですの」
 しゃらっとデタラメを言ってから、ホームズのハルさんは、少しばかり呆れたような声を出した。
「諸々のことを考えあわせますと、薄々ですけれど、大体のことは察しがつきます」
「つくんですか?」
「名探偵ですから。なので、もしも事情説明をお願いしたら、哲秋さんが馬鹿正直に、何から何までお話しくださることも予想がつきます。あれが興信所だったとして、その依頼人について、哲秋さんが、決して悪く仰ったりすることはないだろうことも判ります。場合によっては、ご自分を責めても、お相手を庇うような発言をなさりそうだということも」
「そんなことは……ないですよ」
 多分。
「あります。絶対そうですわ。そうしますと、私だって」
「ハルさんだって?」
「……ちょっと、面白くない気分になってしまいます」
 いきなり小さくなった声は、むくれているように聞こえた。
「そのことを踏まえて、お聞きする必要はございません、と申しております。お判りいただけましたか?」
「……はあ」
 間の抜けた返事をして、おれはスマホを耳に当てたまま少し顔を赤くする。ハルさんの声は、さっきからずっと、どこか不機嫌さが覗いている。今、どんな表情でいるのかと、猛烈に知りたくなった。
 可愛い膨れっ面が頭に浮かぶ。本当に、そうなんだろうか。

 ──ハルさんでも、ヤキモチをやいたりするのか。

 時計を見ると、午後九時を過ぎている。窓の向こうは真っ暗だ。さすがに高校生でもないんだし、これからすぐに、というわけにはいかない。でも、外に飛び出しそうになる衝動を抑え込むのは結構な努力を要したので、思ったことをそのまま口にすることにした。
 言わないでいることはたくさんあるけど、せめてそこだけは正直に。
「ハルさん」
「はい」
「今、ものすごく会いたいです」
「…………」
 スマホの向こうが沈黙した。
 困った。今この時、ハルさんがどんな顔をしているのか、ますます見てみたくなる。
 しばらくして、「……まあ、天然ですかしら。タチが悪いですわ」 というぼそぼそと呟くような声が聞こえてきた。
「ハルさん、悪態をつく時は、もう少し控えめにしたほうがいいと思いますよ」
「独り言ですの。気になさらないでくださいな」
「そのわりにはハッキリ聞こえましたけど」
「天然の太刀魚はやっぱり味が悪くはないですわね、という話です」
「またいい加減なことを……」
 おれが笑うと、あちらの空気も柔らかくなった。
 改めて、「──哲秋さん」 と名を呼ぶ声が、今までとは打って変わって、優しい真面目なものになる。
「いろいろと、ありがとうございました」
「いや、礼を言われるようなことじゃ」
 むしろ、おれのほうが謝らなければいけないところだ。慌てて言うと、ハルさんがやんわりと微笑んだらしいのが感じられた。
 それから、壊れ物をそっと置くように、静かに言った。
「……私も、哲秋さんに、ちゃんと言っていないことがあります」
「──……」
 一旦、言葉を切る。
 少しして、
「でしょうね」
 と、短く応じた。
 言っていないこと、か。ハルさんの言葉の選び方は正確だ。
 ハルさんは嘘をついているわけではない。隠しているというのとも、多分、違うのだろう。言っていないだけ、なのだ。
 なぜなら、おれが、そこまで踏み込もうとしなかったから。
「ごめんなさい」
「ハルさんが謝るようなことじゃないですよ」
「……いつか」
 そう言いかけて、ハルさんは思い直したように黙り込み、おやすみなさい、と電話を切った。


 ──しかし次の日、会社にかかってきた響氏からの電話で、おれは、その 「ちゃんと言っていないこと」 の一端を、知ることになる。



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