はるあらし

26.本当は



 三月も下旬になると、さすがに寒さも和らいで、風はまだ少し冷たいものの、日によっては、ぽかぽかとした陽気に満たされることもあるようになった。
 庭の桜も、ぽっこりと膨らんだ蕾が、四月を待ちきれずに、ちらほらと綻びだしてきた。薄紅色にほんのり色づいた花びらを覗かせ、今か今かとお披露目の時を窺い、待っているようだ。
 公園に植えられた大きな桜の木の下では、若い母親と小さな女の子が、ああもうすぐ咲くねえ、綺麗だろうねえ、と楽しげに期待する眼差しを、頭上に向けて話していた。きっと、もう少し暖かい日が続けば、満を持した花が一斉に開花して、彼女たちを喜ばせるのだろう。
 ──おれがその人に会ったのは、そんな穏やかな昼下がりのことだった。


         ***


「ぶしつけにお呼びたてをして、大変、失礼いたしました」
 と、菊里健流氏は、おれに向かって頭を下げた。

 白い病室の中、窓から差し込む陽射しは彼にとってあまり良くはないのか、カーテンが引かれて少し薄暗い。しかしそれでも、削げた頬と、顔色が少し悪いことははっきりと見て取れた。
 布団の上にかけられた大きめのカーディガンが本人のものだとすれば、元気な時には、息子の響氏に似て、丸っこい体格の恰幅の良い人であっただろうことが想像されるのだが、現在の菊里氏の姿にそれを重ねることは難しい。それくらい、今の彼は全体的に肉が落ちて、痩せた身体つきをしていた。髪も、半分以上が白くなっている。
 年齢的にはおれの父とそう変わらないくらいなのだろうが、寝間着という格好のせいか、それとも顔に出る精気の差か、菊里氏のほうがずいぶんと年上に見えた。
「いえ、こちらこそ。お見舞いの品も持たずに、申し訳ありません」
 おれもベッドの菊里氏に頭を下げる。病人の許にやってきたというのに、おれは完全に手ぶらである。
 響氏に、「この場所へ」 来てもらえないか、と依頼をされた時点で、大体の予想はついていたのだから、何か用意してくるべきだったかもしれないな、と今さらになって反省した。
「いやあの、とんでもないです。突然、あんな電話をして、本当にすみませんでした」
 例によって人の好さそうな響氏が、恐縮しきった風情で、ぺこぺこと頭を下げている。彼はここまでおれを案内してからというもの、ずっと病室の隅で、大きな身体を小さくして、ひたすら困ったような顔をしていた。
 響氏がおれの名刺に書かれた番号に連絡をしてきたのは、ハルさんと電話で話をした翌日だ。最初から遠慮がちで、前置きばかりが長く、なかなか本題に入ってくれないので、用件を聞きだすまで、結構な時間がかかった。

 父が会って話をしたいと言っているが、どうだろうか──

 要約するとそういう内容の頼みを、おれは一も二もなく了承した。
 父親の言葉を伝える響氏自身は、あまりこの話に乗り気ではなかったようで、無理ならいいんです、断ってくれていいんです、と何度も言っていた。そこをほとんど強引に押し切って、日曜日に行く約束を取りつけたのはこちらのほうだ。
 妹には内緒で、という申し訳なさそうな言葉にも、おれは肯った。
 ……そうして場所を教えてもらい、やって来たこの病院は、以前、ハルさんと待ち合わせをしたカフェのある、郊外の静かな町に建っている。
「娘は、私がこういう状態にあることを、君に隠しておりましたでしょう」
「いえ、隠していません」
 その答えに、菊里氏が少しきょとんとし、響氏は目を見開いた。
「言わずにいただけです」
 おれが微笑してそう続けると、菊里氏は可笑しそうに声を立てて笑った。少し笑ってから胸元に手をやったのは、苦しかったためなのかもしれないが、優しげに緩めた目つきはそのままだった。
 このことを隠そうとしていたのなら、ハルさんは、待ち合わせ場所をあそこに指定することもなかったはずだ。あのカフェの窓から見えた、小高い丘の上にあった白い建物が、この病院なのだから。おれはハルさんのような名探偵ではないが、それでもあの時、薄っすらとそのことに気がついていた。
 ハルさんがあの日、朝から行くところがある、と言ったのは、おそらく父親の入院先だったのだろう。
 ただ、それを言わなかっただけ。
 おれも聞かなかったし、踏み込まなかった。
 ──その権利がない、と思っていたからだ。

 でも、今、おれは自分の意志で、ここにいる。

「あの子が君に言わないでいるのは、いくつか理由があると思います。……その理由について、私のほうからは何も申しませんが」
「はい」
「どうしても、私は君とお話がしたかったもので、息子を使って無理を通させていただきました。本来なら、こちらから出向くべきなのですが、このような有様なので。申し訳ない」
「いえ、連絡をいただき、感謝しています」
 おれが率直に言うと、菊里氏はわずかに目を細めた。
「春音には、今日は大事なお客様がみえるので、こちらには来ないようにと申し伝えております。このことが娘に知られると、私も息子も怒られますのでね。ですから、どうかこの件は、内密に」
 やつれた面差しに茶目っ気を乗せて、唇に人差し指を当てる。健康な頃は、ユーモアに溢れた人柄であったのだろうと彷彿とさせる仕草だったが、その指自体、細くて、いかにも弱々しく力がなかった。
「はい。おれも、ハル……春音さんに怒られるのを覚悟で、秘密にします」
 そう請け負うと、菊里氏がにっこり笑った。
 ……この顔、ハルさんにそっくりだ。
 菊里氏に目くばせされて、部屋の隅にいた響氏が、当惑した表情ながらもドアを開けて廊下へと出て行く。出て行く間際、ちらっとこちらを見て、もごもごと口を動かしたが、結局ぺこんとお辞儀をして踵を返した。彼は彼で、まだ、おれに言っていないことがあるらしい。
 パタンと静かな音を立てて、ドアが閉じられる。おれは改めてベッドに上半身を起こしている菊里氏と向かい合い、頭を下げた。
「──はじめまして。桜庭哲秋です」
 菊里氏は最初、菊里です、と名乗ろうとしたのか、口を開きかけたが、すぐにゆるやかに微笑んで、言い直した。
「春音の父です、はじめまして」
 本当は、お見合いの席でこれを言うつもりだったんですがねえ、と続けて、菊里氏は笑みを深めた。


          ***


 勧められた椅子におれが腰かけるのを、菊里氏は穏やかな表情で眺めてから、「……さて」 とゆったりと話を切り出した。
「大体の話は、あの子から聞いています。まず、私は、君に謝らねばなりませんね。娘のワガママに振り回させて、まことに申し訳ありませんでした」
「いや、そんな」
 おれはちょっと慌てて手を振った。謝罪から入られるとは思っていなかったので、どう返事をしていいものか困惑してしまう。菊里氏はそんなおれを、ニコニコしながら見ている。
 それから、少し考えるように、一拍の間を置いた。
「……どこから話したものか迷ったんですが、やっぱり、そもそものはじめからお話ししたほうがよろしいでしょうね」
 静かな口調で、身体に負担をかけないようにか音量も抑え目だが、聞き取りやすい声だった。菊里商事という会社のトップとして、これまで大勢の部下を率いてきたのだから、それも当然か。
「喋るのがつらくなったら、そう仰って下さい。こちらはまた、いつでも出向きます」
 おれがそう言うと、菊里氏は頷いた。一瞬目を伏せ、独り言なのか、何かを呟いたようだったが、それはあまりにも小さな声だったので、まったく聞き取れなかった。
「うちの会社──菊里商事は、もともと、私の父が興した会社でしてね」
「伺っています」
 なるべく声を出す労力は少ない方がいいのだろう、と判断して、おれはハルさんに聞いたことを自分の口で繰り返した。ハルさんの祖父が菊里商事の創業者であること、最初は小さな会社だったのが、次第に規模が大きくなっていったこと、ハルさんの父である菊里氏に全権が移ってからも、業績は上向きであったこと。
 ハルさんの祖父も父も、菊里商事という会社と仕事に誇りを持ち、愛していたこと。
「そうです、そうです」
 菊里氏は、おれの話に、何度も頷いて相槌を打った。
「私が社長になってから数年間、幸いにして、経営は順調でね。あの頃が、いちばん、夢と希望のあった時期でした。従業員が増え、仕事の幅も広がり、業務をどんどん拡大していって、新しい工場もいくつも作りました。次は何を手掛けようかと、私はそれこそ、毎日がわくわくしてたまりませんでしたよ。利益も上がる一方で、社員に特別ボーナスを出してやれたほどでした」
 遠い目をして回顧する菊里氏は、その頃のことを思い出しているのか、白っぽい頬に血の気が差し、誇らしげで、嬉しそうだった。
 が、すぐにその表情からは、喜びの色が抜けた。
 生き生きとした笑みが、寂しそうな微笑に代わる。
「──しかし、そこまでがスムーズにいきすぎたんでしょうかね。一度つまずいたら、今度は何をやっても悪い方向にしか進まないようになってしまいまして」
 ハルさんが指で描いた、底辺のない三角形を思い出す。斜めに走る上昇線は、ある一点から、激しい下降線に変化していた。
「経営状態が下方に、から、どん底へ、と向かうのは早かったですね。悪くなったあちらを直そうとすると、またすぐにこちらが悪くなる、といった具合で。悪い時には、不運も重なる。私も手を尽くして頑張ったのですが、あまりにも猛スピードの変化に、どうにも対応が追いつかない状態でした。なんとか会社を維持していくため、資金繰りをし、社員を切って、業務を縮小し──」
 話しながら、菊里氏の視線も、どんどん下を向いていった。
「もちろん、私の家のほうも、できるだけ切り詰めました。社員に払う給料を減らすからには、社長である自分はもっと減らさねばなりません。衣食住にかかる出費を削り、お嬢さん育ちだった妻にも苦労をさせました。息子が小学校に上がる時には余裕があったので、金のかかる私立に行かせていたんですが、下の娘は近所の公立小学校へ行かせるしかありませんでした。赤いランドセルを背負って喜ぶ娘を見て、情けなくて、申し訳なくて、私は身の置き所がないような気持ちでしたよ」
 父親として、居たたまれなかったのだろう。それは判る。子供もいないおれには想像でしかないが、理解は出来る。
 ……でも、いくら幼い子供だって、環境の急激な変化に、何も気づかないでいられるわけがない。
 小さなハルさんは、一生懸命、そんな父の気持ちを引き立たせようと、ランドセルを背負って喜んで見せたのではないだろうか。
「努力して、努力して、寝る間も惜しんで働きましたが、一向に状況は改善されない。父が苦労して大きくした会社を、私の代で潰してしまうのかと思うと、どうにもやり切れませんでした」
 その姿を、ハルさんは 「よく覚えている」 と言ったのだ。会社を救うために、必死であちこちを駆けずり回り、日に日に憔悴していく父親を。
 助けたい、と心底から思っただろう。この手で。自分の力で。
 ──だから、いつか菊里商事に入って、父の支えになろうと、幼な心に誓ったのだろう。
「お金もなくて、たまに娘を連れだす先も、近所くらいしかなくてね。海外どころか、日帰りの旅行にすら連れて行ってやれませんでした。せいぜい、大きめの公園とか」
「……デパートの屋上遊園地、とか?」
 おれの言葉に、菊里氏は少し驚いたように顔を上げ、ふわりと口許を綻ばせた。
「ええ、そう、そうです。本物の遊園地には連れて行けなくて、せめてもの罪滅ぼしのつもりで、デパートの屋上遊園地で、何度か遊ばせました。息子が同じ年齢の時はもっとあちこち連れて行ってやったのにと思うと、そんな場所で喜ぶ娘が不憫で仕方ありませんでした」
 そこで菊里氏は言い淀むように口を閉じ、ぽつりと零すように付け足した。

「──屋上から景色を見て、ここから飛び降りたら、いっそ楽になれるなあ、とも思いました」

 もちろん、思っただけですが、と言って笑った。あくまで冗談だというように、はは、と声を出す。
 その言葉が本当かどうかを知る必要はない。おれは黙っていた。
「でも、ある日、ハルが……春音がね、いきなりショーに参加する、と言い出しましてね。どちらかというと引っ込み思案な性格だったのに、やけに張り切って踊っている姿を見ていたら、私もいつの間にか笑ってました。その時だけは何もかも忘れてね、ただ、楽しい気分で笑うことが出来ました。そうしているうちに、暗い心もどこかに吹っ飛んで、ああもう少し頑張ろうと思えました」
「…………」

 いつだって、どんな時だって、誰かを楽しませようとするハルさん。
 父親が笑うところを見て、彼女は本当にほっとして、心の底から、嬉しかったのだろう。
 彼女の中には今も、その頃の 「子供のハルさん」 がいるのかもしれない。

 菊里氏は、何かを思い出すように首を捻った。
「そういえば、あの子がおかしな言葉遣いをするようになったのも、そのくらいの時じゃなかったかな。私も妻も心配しましたけど、いくら言ってもやめようとしませんでね。子供なりに、いろいろストレスがたまっていたのかと気の毒に思うんですが」
「…………」
 ……違う。
 学校で、「お前の父親、社長なんだろ、お前、お嬢様なんだろ」 と男の子にからかわれたからだ。
 一瞬でも死を望むほどに追い詰められた父親をすぐ間近で見ているハルさんには、それがたまらなく悔しくて、許せなかったのだ。だから意地でも、そのおかしな言葉遣いをやめたりしなかったのだ。完全に癖になってしまうまで。
 ハルさんには、頑固で、意地っ張りの面もある。その他愛ない軽口を、小さな彼女はどうしても聞き流せなかった。怒って、ムキになった。
 そうですわ、私はお嬢様ですの! と堂々と胸を張って言い返した。
 幼いけれど。子供だけれど。

 ──その姿はきっと、切ないまでに、一途だった。

「会社は結局、桜庭の傘下に入ることで、なんとか救われることになりました。そういう場合、本来なら、私は社長を退任し、上から差し向けられた人材が新しくその座に座るところなんですけどね、桜庭氏──君の父上ですが、どういうわけか私のことを買ってくれていまして。新しい役員を何人か入れるのを条件に、私のことはそのまま据え置いてくれることになったんです。会社を経営難に陥らせた社長に対して、破格の待遇と言っていい」
 父がそうしたというのなら、本当に菊里氏の経営手腕を評価していたのだろう。たとえ個人的な付き合いがあったとしても、相手が親友だったとしても、あの人は切り捨てる時には切り捨てる。そういう判断が出来なければ、桜庭のグループを背負ってはいけない。
「つまりそのような事情で、私は……そして菊里商事は、桜庭の家に、大きな恩と、借りがある」
 菊里氏はそう言って、おれの顔を見てにっこりした。自分にとっても苦いものでしかない思い出を掘り起こして晒した今、どこかほっとしたような、さっぱりしたような顔つきをしていた。
「ですから、この見合い話もね」
 話を最初のところに戻し、くすっと笑った。
「君の母上がどこまでそういった事情をご存じなのかは判らないのだけども、まあ、多少は耳に入っていたのかもしれませんね、菊里が桜庭に決して否とは言えないことをね。そういうところから持ち込まれた話なんでしょう、きっとね。年頃の娘もいて、見合いの練習台、捨て駒にするには、まさにうってつけだと」
「……すみません」
 おれは恥じ入って頭を下げる。菊里氏は 「いやいや」 とまた笑った。
「私は父親として、確かにあまりいい気分にはなれませんでしたが、娘はああいう性格なのでね、面白がってましたよ。もうご存知だと思いますが、あの子はなんというか──ちょっと、変わったところがあって」
 大いにあります。
「少しの間だけ、君の母上の前でだけ、『大人しいお嬢さん』 を演じていればいいことだからと言って、張り切って見合い写真や釣り書きを用意していました。ほんの一時間くらいのことだし、せっかくだから楽しまないと、とね」
「ほんの一時間……」
 呟くおれに、菊里氏がゆっくり頷く。
「そうです。ほんの一時間。見合いの間だけ」
 少し黙ってから、
「本当はね」
 と、静かに続けた。
「……本当は、あの日、ハルが事情を話した後で、『そちらのほうから穏便に断ってください』 と君にこっそり頼む予定だったんです」
 本当なら。
 あの日あの時、そこですっぱりと、おれたち二人の縁は切れていたはずだった。



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