はるあらし

27.縁



 私が突然倒れてしまったのが、すべてのはじまりでした──と、菊里氏は申し訳なさそうに、ぽつりと言葉を落とした。


 桜庭から見合いの話が持ち込まれた時点で、一通りの事情は、菊里家のほうに伝えられていたのだそうだ。
 話したのは仲人役の女性だが、彼女としては、すべてを伏せて後々に厄介な問題を引き起こすよりも、先に話を通しておいて、こういったことなので含んでおいていただきたい、ということだったのだろう。
 つまり、牽制だ。
 この見合いを、まずまず 「普通の見合い」 と同じに考えてくれるな、と。最初から破談が前提の見合いなのだから、一切の期待をしないでもらいたい、ということを、ハルさんと菊里氏は、はっきり面と向かって言われたらしい。
 どうしてまたいきなり桜庭の次男坊との見合いなんて奇天烈な話が舞い込んできたのかと当惑しきっていた菊里氏は、そこでようやく、ああなるほどね──と腑に落ちたという。
「桜庭のご長男の智氏が、お母上の手で、何度も強引に見合いをさせられていたというのは聞いていましたからねえ」
「はあ……どこでお聞きになったんですか」
「その筋では有名な話なんですよ」
 おれの問いに、菊里氏はニコニコ笑って誤魔化した。この人の外見は息子の響氏へ、笑い方と性格は娘のハルさんへと受け継がれたようだ。
 とにかく事情を理解した菊里氏とハルさんは、親子で話し合い、納得の上でこの話を受けることにした。菊里氏は父親の心情として乗り気にはなれなかったが、もとより断ることの出来ない相手である。それになにより、ハルさん当人が、この 「お試し見合い」 を、すっかり面白がっていたからだ。
「まあ……娘は娘で、いろいろと考えていたのだと思うのですがね。どちらにしろ、話が来た以上は受けるしかない、ということは判っていたでしょうから。会社のことや、私の立場も慮った上で、そうやって楽しんでいるように見せようとしたのかもしれません。……もしかしたら、本当に心の底から楽しんでいたのかもしれませんが」
 おれは、あの澄ましきった顔の見合い写真と、どこまでが冗談なのか判然としない釣り書きの内容を思い出した。確かに、父親への思いやりもあったのかもしれないが、ハルさんは間違いなく楽しんでいたのだと思う。
「無理やりお見合いを強要される、桜庭のご次男もお気の毒だ、と春音は申していましたよ。お見合いをするにしても、まずは本人の 『結婚したい』 という意思が先にあって然るべきなのに、そこは素通りされているんじゃないか、とね」
「…………」
 結婚したいという意思。
 その通りだ。本来、お見合いというのは、双方がそう思ってはじめて成り立つはずのものだ。結果的に、断るにしろ、そうでないにしろ。
「ですから私たちは、見合い当日の作戦を立てることにしました。君たちが二人になった時に、こっそりと春音からすべてをぶちまけてしまおうと。付き添いとして一緒に行く私が、君の母上と仲人を適当に足止めをしておく間、二人で話をまとめてしまえばいい。そのほうが、イヤイヤ見合いの席にやって来る桜庭のご次男にとっても楽だろうし」
 これがただの見合いの練習であることを打ち明けて、桜庭のほうから穏便に断ってもらえばいい。菊里氏とハルさんは、そう思った。お互いに結婚したいという意思がない見合いなんて、もともと 「見合い」 の意味がない。そこですっぱりと終わりにするべきだ。
 ハルさんは、その時に二人で笑い合えるような人だといい、と言っていたという。

「……しかし、そこで、思いもかけないことが起こりました」

 菊里氏が、見合い日の直前、いきなり倒れてしまったのだ。病院に搬送されてからも、数日間は意識が戻らず、その時にはまだ原因もはっきりしなかったらしい。
 とてもではないが、見合いの付き添いどころの話ではない。母親と息子の響氏は、早急に桜庭に連絡して断りを入れるようにと主張したのだが、ハルさんはそれを退けた。
「……春音はね、判っていたんですよ。あの子は、言ってはなんだが響よりもよほど、現実的な判断が出来る。自分自身、社員として働いていて、客観的な目で菊里商事というものを見ることも出来る。今この時、この状況で、桜庭にだけは、本当のところを知られるわけにはいかないと」
 いきなり社長が昏倒し、未だ意識が戻りもせず、今後の見通しも立たないような切羽詰まった状態であることを、桜庭に知られるわけにいかなかった。
 とりあえず、菊里氏の意識が戻るまでは、「過労」 ということで押し通すことにして、社内の動揺を最低限に抑えることにしたものの、温室育ちの母親は動転してオロオロするだけ、長男の響氏は父親の代理として右往左往するだけで精一杯。その時まで自分の健康状態に問題があるなどとは思ってもいなかった菊里氏は、こういった緊急時の対処法を事前に細かく決めてはいなかった。
「それで春音は単身、見合いの場に臨むことになったのです。菊里の内部が崩れかけていることを気づかせないようにするため、桜庭に不審を抱かせないようにするためにね」
 たった一人で見合いの場にやって来たハルさん。彼女が最初から緊張した様子だったのは、そういった事情があったからだったのだ。
「計画も、変更せざるを得なくなりました」
 菊里氏の容体が安定するまでは、どういう対応をとればいいのか判らない。これからのことが不透明すぎて、「桜庭の次男とのお試し見合い」 は、最初に思っていた気楽なものから、すっかり様相を変えてしまっていた。
「あるいはこれは、菊里商事の命運を左右することになるかもしれないと、春音は思ったのでしょうね。実際、見合いを失敗させて君の母上のご機嫌を損ねたところで、それを企業の問題にまで持ち込ませるほど、桜庭唯明という人物は、甘い人ではないと思うのだが」
 そう、そんなことはないだろう。父は公私混同を許すような人ではない。あの見合いが練習台としての意義を成さない結果に終わったとしても、母が怒る、それだけの話で済んでいたはずだ。
 でも、ハルさんは怖かったのだ、きっと。不安で不安で、たまらなかった。
 未だ目も開かない父、弱々しい母、優しいけれど強くはない兄。その中で、菊里商事という会社を背負い、ハルさんは多分、震えるような気持ちを抱え、見合いの席でおれと母親に対面したことだろう。
 あの日、ハルさんは本当に、必死だったに違いない。

 ──なぜなら、彼女は一度、見ていたから。

「春音は、以前、菊里商事という船が、沈没寸前にまでいったことを知っています。会社が危機に陥る、ということが、絵空事などではない、いつ現実になってもおかしくない出来事だということを知っている。順調に見えていても、どこかでつまずいたら一気に破滅に至る可能性もある、それが企業という生きものだと、知っている」
 そして、父親も一緒に破滅の道を進もうとしたことも、ハルさんは知っている。
 その姿を、すぐ間近で見ている。助けたい、支えたい、というその頃の誓いは、今も彼女の中に残っているはずだ。就職先としてあの会社を選んだのはそのためだと、本人が言っていた。
 だから、万に一つでも、リスクを負いたくはなかった。
「お試し見合いの相手として、菊里を利用しようとしたのは君の母上ですが、春音は菊里商事のために、君を利用することにした。一日だけでいい、せめて 『見合い』 というものを何事もなく成立させようとした。ところが──」
「こちらから、先に断りを入れてしまった」
 おれが言葉を挟むと、菊里氏は軽く噴き出した。これだけ長く話を続けて、疲れも出ているだろうに、出来る限りそれを表に出すまいと努めているようだった。
「そうそう、そうです。春音は焦ったでしょうねえ」
「舌打ちされました」
「それは大変、失礼を」
 菊里氏は笑いながら言った。
 その笑いを静かに収めると、改めておれのほうを向き、深々と頭を下げた。
「それからのことはまあ、君のご存じのとおりです。あの子のワガママで、君を振り回すことになってしまい、まことに申し訳ありませんでした。それもこれも、すべて、この私に責任があります。──そのことを、どうしても、一度、君に話しておきたかったのです」
「なぜですか?」
 おれが問うと、やんわりと微笑んだ。
「あの子が……春音が、揺れはじめているのが見えるので。これから、大きな問題があの子に降りかかるのが判っているのに、私にはどうしてやりようもありません。妻にも、響にも、どうしようもないでしょう。あの子がどんな結論を出すのか、薄々私には予想がついています。だからこそ、根っこのところには何があったのかを、君にお話ししておくのが筋だと思いました。これも言ってみれば、ワガママというものです。父親としての」
「大きな問題?」
 その質問には、菊里氏は黙って首を横に振った。
 絞り出すように、長い息を吐きだす。そろそろ限界なのではないか。
「菊里さん、話の続きはまた──」
 言いかけるのを遮るように、菊里氏が軽く手を挙げた。下を向き、ひとつ大きな息継ぎをしてから、再びこちらに顔を向ける。
「……あの子は、ちょっと、変わっているでしょう」
「大分変わっています」
 正直に答えると、菊里氏が笑った。息が少し乱れている。
「見た目がああなのでね、勝手なイメージを持たれて、勝手に幻滅されることが、今までに数えきれないほどありました。でもね、親の欲目もありますが、あの子はあの子で、良いところもたくさんあると思うのですよ」
「おれもそう思います」
 これもまた正直に言ったら、目を細められた。
「そうですね、君は、あの子の良いところを、ちゃんと見つけてくれる人だ。そんな人は、あまりいないのですがね」
 くすっと笑ってから、
「──きっと、そういうのを、『縁』 と呼ぶのでしょう」
 呟くように言った。
「菊里さ」
「……申し訳ない、少し疲れてしまいました。こちらからお呼びしておいて、こんなことを申すのは、まことに面目ないことなのですが、休ませていただいてよろしいでしょうか」
 消え入るような声になり、菊里氏の身体が背中の枕に深く沈み込んでいく。
 おれは口を結び、座っていた椅子から立ち上がった。


          ***


 病院の出口までおれを見送ってくれた響氏に、別れ際、「本当にすみませんでした」 と謝られた。今日はよく謝ったり謝られたりする日だな、とおれは内心で思う。
「僕は父に反対したんです。これ以上、あなたをこの家に巻き込ませるようなことをしてはいけないんじゃないかと」
 大きな身体を縮めて、しゅんとした顔をしている。そばを通り過ぎる見舞客や看護師が、じろじろと好奇心に満ちた目を向けてくるので、なんとも居たたまれない。
「お訊ねしてもいいですか。お父さんのご容体は──」
 なるべく控えめに問いかけたつもりだが、響氏はますますうな垂れて小さくなった。いや、それでもおれよりは大きいのだが。
「すぐに快方へ向かって、近いうちに退院できるだろうと、医者から聞いております」
「……そうですか」
 嘘のヘタな人である。
 この場合、おれが桜庭の関係者だから、本当のことが言えないのだろうか。現在は菊里氏の指揮のもと、響氏が代理として業務をこなし、なんとかなってはいるのだろうが、入院が長引けば長引くほど、会社の混乱は増す一方だ。それは確かに、あまり対外的に知られたくはないことであるだろう。

 ……兄の懸念は、こういうところから出ているのだろうか。

 いくらなんでも、ここまできたら社長の不在を隠しておくのは不可能だ。桜庭の傘下に入った時点で、菊里商事には、上から廻された役員も入っている。菊里氏の意識が戻った時から、そういった報告はされているはず。あの沈黙は、今のこの不安定な状況のことなのか。
 おれはおれなりにいろいろ調べてはみたが、現在の菊里商事の経営状態に不安材料があるとは思えない。社長の入院でバタバタしているとはいっても、すぐに綻びが出るほど、脆弱な企業ではないはずだ。
 ただ、おれに調べられることは、他の誰にでも調べられるようなことである。本当に深刻な問題を抱えていたとしても、それは外部に漏れることはない。当たり前だ。信頼が失せたら、企業としてはお終いだ。
 ましてや父や兄など、ごくごく限られた人間しか知らないようなことであれば、おれには逆立ちしたって調べようがない。桜庭の身内でありながら、なんとも情けないことに。
「あの、おれではあまり力になれないかもしれませんが、何かあったら」
 また連絡してください──と言おうとしたのだが、最後まで言い終わらないうちに、響氏がぶんぶんと大きく首を横に振った。首がもげそうなくらいの勢いだ。
「いいえ、いいえ。とんでもない。僕は……いいえ、僕がそもそも、もっとしっかりしていれば、よかったんです。僕は子供の頃から気が弱くて、頼りなくて、ハルにも苦労をさせてばかりで」
 まるで、何かに急き立てられるように言葉を出している。響氏も、慣れない社長の代理を続けて、疲労が溜まっているのではないだろうか。本当なら、彼がその席に就くのは、あと五年か十年は先であっただろうに。
「桜庭さんにも、大変、ご迷惑をおかけしました」
「おれは別に……」
 笑って否定しようとしたおれに、響氏はまたしてもぶんぶんと頭を振った。
「申し訳ありません。あなたを巻き込んだのは、ハルの明らかな過ちでした」
 下を向きながらだが、口調はきっぱりとしていた。
 おれは少し怪訝な思いで響氏を見やる。明らかな過ち、と言い切る響氏の声には、まったく迷いがない。何をもって、「過ち」 と言っているのだろう。
「それはどういう意味ですか」
「失敗です。間違いです。妹は、こんなことをすべきではなかった」
「…………」
 (仮)の付き合いをしているということが?
「すみません、でもそれは、僕が悪いんです。これまでのことも、これからのことも、全部全部、僕のせいなんです。どうか、あの子を悪く思わないでください」
 それだけを早口で言うと、ぺこんとお辞儀をして、響氏はまるで逃げるように病院内に去って行ってしまった。
 おれは黙ってその背中を見送り、無意識に足の裏で固い床をこんと蹴りつける。
 菊里氏と響氏の二人は、同じことを言っている。
 これからのこと。
 ……これから、何があるのだろう。
 おれはなんらかの覚悟を持つ必要があるのではないか。



          ***


「──桜庭宴、ですか?」
「そうなんですよ」
 その夜、ハルさんに電話をした。おれの片手には、一通の仰々しい白い封筒がある。
「もう、そんな時期なんだなあと」
 菊里氏が入院する病院を出た時には、まだ日が高かったので、ハルさんを遊びに誘ってみようかと心が動いたのだが、やっぱりやめておいて正解だったな、と話しながらおれは思った。
 今日はどちらかにお出かけに? とハルさんに屈託なく問われただけで、心臓が跳ねる有様である。顔を合わせていたら、ホームズを騙しおおすことは難しかったかもしれない。経験はないのだが、おれは多分、浮気をしたら一発でバレるタイプだ。
「毎年、庭の桜が開花するのに合わせて、客を招いて、うちで開くんです。夜からなのでライトアップして、外にテーブルや椅子を出して、まあ、要するに自宅で行う花見の会ですね」
「桜庭のお家でですか。広すぎて、一年に一人は遭難して行方不明者が出るという噂の」
「そんなわけないじゃないですか。どこの噂です」
「その筋では有名なんですのよ」
 親子揃って……と言いかけたのを押しとどめた。
「ホームパーティーみたいなものですよ」
「ご招待されるのは何人くらいなんですか?」
「五十人くらいですかね」
「それは絶対にホームパーティーなんていう可愛らしいものではございませんわね」
 ざっくり斬られた。しかし桜庭の家が主催するパーティーの中では、格段に規模が小さいのは本当なのだ。桜庭グループ関係の催しというよりは、母の趣味的な色合いが強いので、これでもかなりこぢんまりとしているほうである。招待客の面子は、政治家だったり梨園の関係者だったりと、多岐にわたるわけだが。
 毎年この家では、桜の時期になると、そういう会が開かれる。でもおれ自身、まったく興味がないので、いつも招待状を見て、ああもうそんな時期かと思い出す。今日もそうだった。
 ただ今年は、そこから思考が別方面へと飛んだ。
「桜庭家のお庭というと、その名前の通り、樹齢の古い見事な桜の木が何本も植えられて、迂闊に迷い込むとそのまま桜の養分になってしまう、という話ですものね」
「ですから、そういうおかしな話をどこから……」
「それが一斉に花開いたら、きっと壮観でしょうね」
「綺麗ですよ」
「それを眺めるのが、桜庭宴?」
「そういう名前なんです」
 おれが今手に持っている招待状にも、金箔の文字でそう印刷されてある。
 ハルさんが、ふふ、と笑った。
「まあ、なんて安直なネーミング」
「言っておきますけど、おれが名付けたわけじゃないですからね」
「哲秋さん、虎の巻をアンチョコと呼ぶのは、安直という言葉が変化したものだそうですのよ」
「なんの話をしてるんですか」
 いかん、ハルさんと話していると、どんどん話が脱線していってしまう。おれがこの招待状を見てハルさんに電話をかける気になったのは、なにも桜庭宴の名前のセンスのなさを議論するためではない。
「会の内容はどうでもいいんですけど、毎年、この桜庭宴の開かれる日が、いちばん桜の見頃な時だというのは、間違いないんです」
 なにしろ、桜が最上に美しく見える日に合わせ、招待状を発送しているらしいからな。嘘だか本当だか知らないが、そのために専門家が事前に綿密な計算をしているという話も聞くし。
 とにかくこの桜庭宴の日は、最も桜が綺麗な時で、おまけに雨も降らない。どういう理由かは不明だが、おれの記憶している限り、毎年そういうことになっている。

「──ですからこの日、花見に行きませんか」

 ようやく誘いの言葉を出すと、スマホの向こうは少し黙った。
「お花見、というと」
「どこか、公園でも、土手でも。近所でいいですから、桜の咲いているところに出かけませんか」
「その日、ということですか?」
「この日がいちばん桜が綺麗なんです」
「でも、哲秋さんは、その桜庭宴にご出席なさるんでしょう?」
「ホスト役は母なんですよ。おれや愛美はおまけです。招待客に挨拶だけすれば、あとは抜け出しても判りません。実際、今までもそうしてましたし」
「まあ」
 くすくす笑う。
 それから少し間を置いて、何かをぶつぶつ呟くような小声が聞こえた。見るだけなら問題は……などと言っているらしいのだが、よく判らない。
「はい。承知いたしました」
 了解の返事を貰って、ほっとした。
「じゃ、車で迎えに行きますから。家を出る前に電話します」
「はい、お待ちしております」
 電話を切ってから、おれは無造作に、桜庭宴の招待状を机の上に放り投げた。

 庭の桜はどれも名木だ。確かに美しいし、見ごたえもある。
 ──でもきっと、ハルさんと一緒に見る桜のほうが、ずっと綺麗に見えるのだろう。



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