はるあらし

29.弱点発覚



 ハルさんは、おれの電話を受けてから、家の外に出て待っていたらしい。
 ガレージから家の玄関へと通じる外階段に、車のライトに照らされて、人影が浮かび上がる。そこからずっと通りを眺めていたらしい彼女は、おれの車を見つけると、ぱっと笑顔になって軽く手を振った。それはいいのだが、軽やかに階段を駆け下りてくるものだから、見ていてハラハラする。
「暗いのに、あんなに急いで下りたら駄目ですよ、ハルさん。足を踏み外して落っこちたらどうするんです」
 助手席に乗ったハルさんに早速注意をしたのだが、反省どころかきょとんとされた。
「平気ですわ。慣れていますもの」
「慣れた場所でも、昼と夜とでは違うでしょう」
「昼でも夜でも落ち方にそう変化はないじゃありませんか。よく見えなくても、どう落ちれば最小限の被害で済ませられるか、身体はちゃんと覚えているものですわ」
「……もしかして、慣れてるっていうのは、『落ちることに慣れている』 という意味ですか」
「もちろんそうです。なんでもコツというものがありますの。機会がありましたら、哲秋さんにも教えて差し上げますね」
 階段から落ちるコツを教えてもらっても、おれは多分、それを実践するようなことはないと思う。今度菊里氏に会ったら、家にエスカレーターかエレベーターを取りつけるように進言してみようか、と本気で考えた。
 ──ハルさんは、長いこと、あそこでああしておれを待っていたのかな。
「遅くなってすみませんでした」
 なるべく急いで来たつもりなのだが、時刻はそろそろ九時になろうとしている。大人同士であるとはいえ、やはりデートに誘う時間帯としては非常識な範囲になるだろう。せめて一言でも、家の中にいるであろう彼女の家族に対して断っていくべきではないかというおれの申し出に対して、ハルさんは首を横に振った。
「兄はおりませんし、母にはきちんと了承を得ています。『行ってらっしゃい』 と言われました」
「……そうですか」
 父は、という言葉は、やはりハルさんの口からは出なかった。
 嘘をつくつもりはない。でも、本当のことを自ら言い出すこともない。ハルさんは最初から、そういう態度を貫いている。
「…………」
 前方の闇を見て、少し考えてから、おれはハンドルを握り直した。
「じゃあ、行きましょうか」
 今はまだ、何も言わないでおこう。


          ***


 とりあえずの問題は、どこで桜を眺めるかだ。
 一口に花見と言っても、この季節、この曜日、桜がたくさん咲いているような場所は、大抵もうすでに多くの花見客で賑わっている。大きな公園然り、神社や寺然り、広い土手沿い然りだ。何も弁当を広げようというわけではなく、ただ二人でぶらりと花の下を散歩でもしようかという程度なのだから、どこだっていいようなものだが、レジャーシートの青い波を避けながら、大騒ぎする人だかりの中を歩くというのも落ち着かない。ハルさんが酔っ払いに絡まれたりしても困るし。
 車を運転しながら考えていたら、ハルさんに朗らかに提案された。
「見るだけなら、いい場所がありますのよ」
「まさか、小学校にでも忍び込もうっていうんじゃないですよね」
「まあ、それは名案ですわ」
 真顔で感心されて、自分の迂闊さを後悔する。ハルさんは冗談を本気にする、じゃなくて、本気で冗談を実行するから怖いのである。
「名案ですけど、それはさておき」
 そう続けられて、ほっとした。
「この近くに小さな公園がありますの。そこに行ってみませんか?」


 案内されたそこは、本当に小さな児童公園だった。
 遊具も、ブランコと、シーソーと、砂場と、滑り台くらいしかない。木のベンチが一台と、手を洗うためしか使いようのなさそうな小さな水道と、ぼんやりと周囲を照らす街灯が、かろうじて施設として整っている程度だった。
 地形が坂になっているので、ブランコの向こうの階段を下りると、道路を挟んで民家があり、ベンチの向こうの斜面を上ると、道路を挟んでマンションが見える。きっとここで遊ぶのは、これらの家の子供たちばかりなのだろう。
 しかしそんな窮屈そうな遊び場でも、この季節には非常に豪華な特典がついていた。
 公園の周りをぐるりと囲んでいるのは、すべて桜の木なのだ。正直言って貧相な遊具しかない小さな公園は、小さいだけになおさら、春のほんの一時期だけ、濃密な花の気配に覆われた、美しく幽玄な別世界へと様変わりするようだった。
「……すごい、ですね」
 おれは思わずため息交じりの声を出す。無意識に音量を抑えていたのは、大きな声を出すと、この極上の雰囲気を台無しにしてしまうような気がしたからだ。
「綺麗でしょう?」
 ハルさんはニコニコしながら胸を張った。屋上遊園地といい、彼女はこういうところが根っから好きなのかもしれない。それともこの公園も、小さな頃、父親に連れてきてもらったのかな。
「この桜を二人占めなんて、もったいないような気もしますね」
 きっと昼には子供やその親がたくさん見に来ていたのかもしれないが、今この場所にいるのはおれとハルさんの二人だけだ。この時間、その子供たちはもう穏やかな眠りについているのか、公園の外からはほとんど人の声もせず、しいんとした静けさだけが辺りを支配している。
「お花見をしようにも、シートを広げるような余地もありませんもの」
 まあ、そうだ。なにしろ全体の面積が狭いのに、それでもなんとか公園としての体裁を繕うように遊具が配置されているため、地面には子供たちが土俵を描いて相撲を取り組むほどのスペースもない。もしかしたらこの公園はもう、ゲーム好きな現代の子供たちにも見放されているのかもしれなかった。
 しかしその寂しげな姿が、現在はよりいっそう桜の美しさを高めているような気もする。薄ぼんやりとした灯りの中、ぽつんとした遊具と、それを取り巻く満開の花々、はらはらと舞い降りる白い花弁は、怖いほど絵になる眺めだ。
 まるでここだけ現実世界から切り離された、ひとつの空間ででもあるかのような錯覚を起こさせる。
 桜というものは、本来、こういう場所でこそ、その奥深い情緒や、優雅さが際立つものなのだろう。桜庭宴のあの派手で騒々しい中、煌びやかにライトアップされていたものとは、同じ桜でも、まったく違う。
 昼は昼で、きっと美しい。けれど、夜の闇と静謐の中、白く淡く輝く桜は格別だ。
 しばらく、二人でものも言わずに、その美しさを堪能した。
 さっきまで見ていた自分の家の立派な桜のことは、すっかり頭から消えていた。


         ***


 そうやって、けっこう長いこと、桜に見惚れ続けていたのだが、ふと我に返って首を捻った。
 ……そういえばハルさん、ここに到着してからずっと、同じ場所から動かないな。
 まあそりゃ、いくらハルさんでも、この状況で、元気いっぱいに走り回ったりはしないだろうけど。それに、そんな広さもないけど。
 でも、ちょっと意外な気もする。ハルさんのことだから、桜の下で桜の精になりきって、降りしきる花びらを浴びながら、歌ったり踊ったりくらいはしそうなものだ。花見に行きませんかと誘ったのはおれだが、実は本当にハルさんが桜を眺めて微笑んでいるだけだとは、思ってもいなかった。
 率直にそう口にしてみると、ハルさんは一瞬、明らかに目を泳がせた。

 ん?

「桜の下で歌ったり踊ったりなんて、そんな無粋な真似はいたしません」
「へえ……」
 無粋というより、普通の人は素面でそんな真似はしないのだが。
「哲秋さん、お花見の場に、桜の柄の着物を着てくるのは野暮だとされていますのよ。どうやったって、本物の桜の美しさには敵わないからですわ。ですから私も、本物の桜の木の下で、桜の精になったりする野暮なことはしませんの」
「はあ……」
 くどいようだが普通の人は、そもそも桜の精になろうとは思わない。
「今日着る洋服だって、ピンク系はやめましたのよ。お花見に桜餅や三色団子は野暮かと思って、あえて草餅にしてみましたの」
「…………」
 ハルさんが身につけているふわりとしたスカートは、淡いモスグリーンである。
「……ハルさん、わざと変な方向に話を逸らそうとしてますよね」
「気のせいです。そうそう、草餅といえば、哲秋さん」
 そう言って、ハルさんは話と一緒に視線も逸らした。その彼女の腕を取り、「もう少し近くに寄って桜を眺めませんか」 と引っ張っていこうとしてみたら、余所を向いたまま足をぐっと踏ん張って抵抗された。
 やっぱりね。

「──ハルさん、桜が苦手だったんですね」

 それならそうと言ってくれれば、と思いながら溜め息をつくと、ハルさんは、まあ、と少し憤然とした表情になって、くるりとこちらに向き直った。
「苦手じゃありません」
「無理しなくてもいいんですよ」
 決して多数ではないが、桜が苦手だ、という人はいる。特に満開の桜は、独特の神秘的なムードというか、一種異様な雰囲気を湛えていて、それを 「不気味だ」 と思わずにはいられないのだという。みんながみんな、桜というものを、楽しく浮かれて受け入れるわけではない、ということくらいは知っているし、それに対して否定的に思うことはしない。
 しかしハルさんは、それを聞いて、ますます心外だという顔をした。
「本当です。桜といえば、春の花の代名詞じゃございませんか。春の子たる私が、それを苦手に思ったりするはずございませんでしょう?」
「別にそんなにムキにならなくても」
「だって、桜が苦手だなんて思われたら困りますもの。桜は大好きですわ。見るのも、眺めるのも、見守るのも、観察するのも」
「…………」
 ほとんど全部、同じ意味ではないか。
 ここでようやく、おれは気づいた。
「つまり、桜を見るのは好きだけど、近寄りたくはない、ということですか?」
 そう訊ねると、ハルさんはぴたっと口を噤んだ。
 なるほど、電話で、見るだけなら云々と呟いていたのは、そういう意味か。そういえばさっきから、「桜の下で〜しない」 という言葉を繰り返していたな。
「あれですかね、基次郎的な」
「桜の樹の下には屍体が埋まっている──というやつですか? まあ哲秋さん、私、そんなことで桜を怖がるほど、子供っぽくはございません」
 呆れたように言ってから、本当に子供のように唇をむっと曲げた。
 それからまた目線をどこかにやって、
「ただ……桜には、アレが」
 と、ぼそぼそ呟くように言う。
「アレ?」
 ぽかんと問い返すと、ハルさんはこわごわとした顔つきで周りの桜を見回し、こっくりと頷いた。
「桜という木には、えてして、アレがいるものでしょう?」
 はあ?
「えーと、アレっていうと……幽霊とか、精霊とか、その類の」
「幽霊は柳の下ですし、精霊花はミソハギです。そんな想像上のものや学術上のものではなく、もっとこれ以上なく現実的なもので、あるじゃありませんか。木にくっついていて、時になんの予告もなく、いきなり頭の上に降ってきたりして人を恐怖のどん底に突き落とす生物が」
「…………」
 なんとなく、判った。
「つまり、毛」
 と言いかけたところで、ハルさんがぱっと両手で自分の耳を覆ったので、おれはその名称を喉の奥に引っ込めた。こちらを見るハルさんの顔つきは、本気で恐怖に怯える人のそれだ。名前を聞くのもイヤ、ということらしい。さっき、子供っぽくない、とか言っていたような気がするのだが。
「…………。でもハルさん、毛」
 睨まれた。
「……じゃない、あの虫は、この時期にはいませんよ。もっとあとの、葉桜の頃でしょう」
 大体、そんなものがこの季節にうじゃうじゃ木にくっついていたら、人々はいくら美しくても、花見の宴を行ったりしないのではないだろうか。弁当を食べても、見上げても、上からぼとぼとトゲトゲの虫が落ちてきたのでは、おちおち安心して楽しめないだろう。
「でも、気の早いアレがいるかもしれませんわ」
「虫は普通、気分で生まれたり繁殖したりするものじゃないと思います」
「絶対ないと言い切れますか。哲秋さんは、アレの眷属ですか」
 毛虫の?
「……そういうわけじゃ、ないんですけど」
 おれは生まれてこのかた、毛虫の仲間呼ばわりされたことはない。ハルさんがこんなにも怯えた様子でなければ、地味に落ち込んでいたところである。
「でしょう? だったら、判りませんわ。もしかしたらいるかもしれません。もしかしたらと考えるだけで、実際にいるような気になるじゃありませんか。桜は綺麗ですし、大好きな花ですけれど、可能性が一パーセントでもある以上、アレの射程距離内には近寄れません」
 別に、毛虫は狙い澄まして人の上に落ちようとしているわけじゃないと思うんだけど。
「……ははあ……」
 おれは感嘆するような声を出して、自分の顎の先を人差し指でかりかりと掻いた。
「意外と、一般的なものが苦手だったんですね、ハルさん」
 ハルさんに苦手なものがあるのか、というより、そんなものが果たしてこの地球上に存在するのか、と考えていたので、逆に意表を突かれて驚いた。
「哲秋さんが一体どのように私を見てらっしゃったのか存じませんけど」
 ハルさんは、少し頬を膨らませている。
「私にだって苦手なものはございます。小学生の頃、ツリーハウスというものに憧れて、兄と一緒に作ってみようとしたことがありますの」
「桜の木に?」
「公園の中では、いちばん手頃な大きさだったんですもの」
 公園の木に、勝手にツリーハウスを作ったりしてはいけないのではないか。きっと響氏もそう思ったのだろうが、妹を止められなかったのだろう。あの人の好さそうな丸顔が、張り切る妹の手伝いをさせられて困ったように従っている図が、簡単に頭に浮かぶ。
「それで手始めにブランコを作ろうとしたんです。ツリーハウスといえば、まず真っ先に必要なのは、ロープと丸太で出来た、素朴で可愛いブランコでしょう?」
 そうかなあ。何かに影響されすぎてやしないかなあ。
「それで兄に木に登ってもらって、ロープをかけようとしましたの」
 響氏はそういうの、あまり得意そうには見えないんだけどなあ。
「そうしたら、木の枝が折れて、兄が落ちまして」
 気の毒に。
「枝と兄と一緒に落ちてきた大量のアレが、私の上に降ってきたんですわ。一匹は、洋服の中にも入りました。痛痒いし、兄は怪我をするし、公園の管理事務所にも、両親にも、こっぴどく叱られましたの。それから毎夜、うぞうぞと蠢くアレが夢に出てきてうなされて、私の未だ消えないトラウマとなっております」
「それは、気の毒に」
 桜の木も、毛虫も。特に、響氏が。
「気のせいですかしら。あんまり同情されているように思えません」
 ハルさんは非常に不満げだ。
「そのようなわけで、アレは私の天敵です。アレを嫌って、成長した姿だけを褒めるのも偽善的なので、蝶も避けるようにしております。アクセサリーも、衣類も、蝶をかたどった物や描かれた物は、身につけないと決めています」
 はじめてと言っていいくらい、有益な情報を耳にした。ハルさんは蝶の形のものは好まない、と。なるほど、気をつけよう。
「そういえば、もうすぐ──」
 と言いかけた時、あ、と気がついて口の動きを止めた。
 ……ハルさんの頭に、ひらりと舞い落ちてきた桜の花びらが乗っている。
 桜の下にまで行かなくとも、ゆるやかに吹く風は、ここまでそれを運んできたらしい。
 決して、他意があったわけではなく、ハルさんを苛めてやろうとしたのでもなく、おれは本当に何気なく、そのことを彼女に教えてあげようとした。

「ハルさん、頭に──」
「きゃあっ!」

 重ねて言うが、意図的だったわけじゃない。しかしどうも、流れとして、おれの台詞は大変タイミングが悪かったようだ。
 桜の花びらがついてますよ、と指摘する前に、ハルさんは悲鳴を上げて、その場にしゃがみ込んでしまった。
「いや、あの……」
「取ってっ! 取って取って取ってくださいっ!」
「…………」
 毛虫じゃなくて花びらです、という言葉も続けられないくらい、ハルさんはパニックに陥っている。
 どう考えても、桜の木とこれだけ距離を取っているのに、毛虫が頭に落ちてくるとは思えないのだが。いやそれを言うなら、そもそもこの時期に、毛虫はいないと思うのだが。
 その場にうずくまって小さくなり、顔を伏せてブルブル震えているハルさんに、冷静な判断力は残っていないように見えたので、おれは言葉を続けるのをやめた。どちらにしろ、耳に入らなさそうだし。とにかく、ハルさんが本当に心の底から毛虫が苦手だ、ということだけは事実として判った。
 おれはハルさんに近づくと、頭に触れて、そこから白い花びらを取り除いた。
「取りましたよ」
 と言ったが、ハルさんは自分の膝に押しつけた顔を、まだ上げようとしない。
「……ほ、本当ですか?」
「本当です」
「どどど、どこかに」
「はい、ハルさんの視界に入らない場所に投げます」
 投げるまでもなく、桜の花びらは、おれの手から離れ、またひらひらと宙を飛んで行った。
「も、もう」
「もうないですよ」
「そんなこと言って、顔を上げたら、『ほーら』 って目の前に突きだすつもりじゃ」
 ハルさんは、おれを何歳だと思っているのだろう。
「大丈夫ですってば」
「本当ですね?」
「信用してください」
 こういうやり取り、以前にもしたな。
 ハルさんは、おれの言葉に、おそるおそるだがようやく顔を上げた。瞳の端に薄く涙が滲み、こういうところを見ると、彼女と響氏は間違いなく兄妹なのだなと実感させられる。
 広げてみせたおれの両手に何もないことを確かめてから、ふうー……、と全身で息を吐く。
「大丈夫ですか?」
「……はい」
 どっと疲れたのか安心したのか、いかにも無防備な表情をするハルさんに、おれの中の何かが疼いた。

「──そんな顔もするんですね」

 ぽつりと呟く。
 はじめて見る顔。おれの知らない顔。
 他にも、そういうのが、たくさんあるのだろう。
 いつも人を喰ったような態度をとるハルさん、いつも誰かを楽しませようとするハルさんは、思っていることのすべてを、外に出すわけではない。
 嫌いなもの。苦手なもの。弱い部分。彼女のそういうところを知るのは、多分、容易なことじゃない。今夜はたまたまその一部分が見えた。でも、もっともっと一緒に時間を過ごさないと、そしてその意志を持たないと、他の知らないところは、きっと永久に知らないままだ。
 ……もしかして、これから。
 おれの知らないハルさんを、知っていく誰かがいるんだろうか。
 彼女の隣で、こうして桜を見て、時間と感情を共有し、知らない顔をいくつも発見して、そのたび、こんな風に心を揺らす誰かが。

 嫌だな──と、はっきり思った。

 それに名前を付けるのなら、間違いなく 「嫉妬」 というものだ。
 これから現れるかもしれない誰か。ハルさんの隣に立つかもしれない誰か。彼女が笑いかけるかもしれない誰か。
 いるのかいないのかも判らない誰かと、そういう未来に対して、おれは嫉妬している。
 彼女の 「これから」 に、自分がまったく関われないかもしれない、この先の彼女の未来図の中に、自分という存在が一切入っていないかもしれないという想像は、なんだか、たまらなく不愉快だった。
「……さあ、立って」
 平坦な声を出し、手を差し出すと、ハルさんが頷いてそこに自分の手を乗せた。
 柔らかく小さな手、細い手首。委ねられる重み。向けられる視線。いつかこの位置に、自分以外の知らない誰かが来るかもしれないのか。
 それは嫌だ。
 乗せられた手を掴み、思いきりぐっと引っ張った。
 ハルさんがびっくりしたように目を見開く。
 勢いよく引き寄せた身体を、強く抱きしめた。



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