はるあらし

33.報せ



「目が赤いな」
 会社の休憩室でぼんやり座っていると、岡野さんに言われた。
 据えられたソファにぐったりと身を沈め、半分欠伸を噛み殺していたおれの前に立ち、こちらを見下ろす岡野さんの目は、どこか面白そうに輝いている。
 明るい陽射しの入る昼休みの休憩室は、お喋りしたり一息入れたりする社員でざわざわと賑わっていた。同じく休憩をしに来たらしい岡野さんの手には、グレープ味の炭酸飲料の缶がある。部署内にコーヒーメーカーは設置されているのだが、岡野さんはこの手の飲み物が好きらしく、しょっちゅう自販機で買って飲んでいるのだ。
「いつも目敏いですね、岡野さん」
「気の廻る男はモテる、という生きた見本がこの俺だ」
「しっかり昼食を食べてから、そんな甘いジュースを飲んでいる人に言われても、今ひとつ説得力がないんですけど」
「うるせえ、美味いんだよ。なんだよ、失恋でもして、一晩中泣き明かしたか」
「十代の女の子じゃないんですから。ただ単に寝不足なだけです」
「んん? それは、俺に下ネタを聞かせようという前フリか」
 岡野さんはますます嬉しそうに口元を緩めた。子供っぽい食べ物や飲み物が好きな岡野さんだが、この手の話も大好きなのである。
 おれはふーっと溜め息をついた。
「残念ながら、違います。ちょっと昨夜遅くまで調べ物をして、パソコンに張り付いてたんですよ」
「エロサイト巡りか。ほどほどにしないと疲れるぞ、桜庭」
「違いますって……」
 岡野さんはどうしてもそちら方面に話題を持っていきたいらしい。ただでさえ寝不足で疲れているというのに、余計に疲れる。
「社会っていうのは複雑ですよねえ……」
 ソファにもたれさせていた背中をずるずる下に落とすようにして独り言を漏らすと、岡野さんは怪訝な表情になった。
「ずいぶん青二才的な発言だな。一体なんの調べ物をしてたんだよ」
「いえ、企業構造とそれが抱える問題点についての調査をね……」
「なんだそりゃ」
 素っ頓狂な声を出して、岡野さんが呆れた顔をする。どうやらおれが寝惚けていると思ったらしく、缶ジュースの残りを喉に流し込むと、肩を竦めた。
「仕事以外で頭を悩ますのは、女のことだけにしとけ。自分の力で社会を変えたい、なんて病気に取りつかれても許されるのは、学生のうちだけだ」
 そう言って、「もう少しで昼休み終わるぞ」 と付け加えてから、岡野さんは缶をゴミ箱に投げ入れて、休憩室を出て行った。
 その背中を見送りつつ、おれはもう一度溜め息をつく。
 おれが頭を悩ませているのが、まさに 「女のこと」 ばかりだと知ったら、岡野さんはなんて言うのかな。
 二十代の男としてまったく正常だ、と褒めてくれるのだろうか。


 もちろん調べていたのは、菊里商事のことだ。
 ──たとえばあの会社に、何かしらの 「経営上の問題」 があるとして。
 桜庭は、介入しようとしているわけではなく、逆に、切り捨てようとしているのではないか──という可能性を、今になっておれは思いついたのである。
 それならまだしも、兄の態度にも納得がいくな、と。
 どういう状況であれ、桜庭が手を引いたら、おそらく菊里商事という会社はいきなり崖っぷちだ。息子の見合い相手だろうと恋人だろうと、桜庭唯明という人物は、判断を躊躇するようなことは一切しない。一度指針を決めたら、冷酷なまでに最後まで揺るがず、怒りや恨みを買うことにも頓着しない。
 そこの娘と関わらせたくはない、と考えるのは、兄ならばありそうなことだと思えた。
 それでおれは、菊里商事という会社を、もう一度念入りに調べてみることにしたのだ。抱えている工場、取引先、関係している零細企業まで、一つ一つ拾い出して、チェックしていくというのは、正直、かなり骨が折れる作業だった。ほとんど徹夜でパソコンと睨み合って、まだ半分も進んでいない。
 調べていけばいくほど、木の根っこのようにどんどん枝分かれして細かくなっていくのだから、その複雑さに、気が遠くなりそうだった。改めて、ひとつの会社はそれだけで成り立っているわけではないのだなあ、と当たり前のことに気づかされる。
 で、そこまでして調べて、どうかというと。
 ……やっぱり現在のところ、問題点らしきものは、まったく見つかっていない。
 もちろんすべてが順調であるわけでもなくて、ところどころで歯車が軋んでいるようなところもあるわけだが、それはどの会社にもあって然るべきものだし、その部分がすぐに全体に影響を及ぼすほどのものでもない。
 菊里商事の経営には、この先急所となりそうな、これといった目立つ綻びは、見当たらない。
 ただ、調べていくうちに、判ったこともある。
 ハルさんの父、社長の菊里健流氏は、内外で非常に評判の良い人だった。過去に一度、経営難に陥ったことはあるが、それはかなり不運が重なったことの結果で、社長の責任だと見る人はほとんどいないようだ。むしろ、桜庭の手助けがあったとはいえ、そこから業績をまた元の状態近くにまで戻した、菊里氏の手腕を評価する声のほうが多い。
 性格的にも、彼は人から好かれるほうであるらしく、調べる過程で、悪い噂に遭遇することはほとんどなかった。トップに立つ人物として、珍しいほどだ。
 決してワンマンではなく、温和で、相手の話もよく聞き、叱る時は厳しいが、どこか憎めない。リーダーシップに優れ、自分を慕ってよく働く部下を育てるのも上手だという。現在、菊里氏が不在でも、会社が堅実に業績を維持できているのは、彼の周囲に、生え抜きの優秀な重役たちが揃っているからなのだろうと推測できた。

 ひとつ、不安材料があるとしたら、ここかな──と、おれは眉を寄せて考える。

 今までの業績があり、人望があり、辣腕家でもある、社長としては文句のつけようがない、菊里氏。
 対するに、息子の響氏は、人が好いのは折り紙つきだが、残念ながらそれはトップに立つ人間として、プラスの資質には見なされない。いかにも嘘がつけなさそうで、騙されやすそうで、冷淡な決定を下すことが苦手そうな彼の性質は、おれでさえ、少し危なっかしく見えてしまうほどだ。
 現社長と、いずれその跡を継ぐ息子。菊里氏が有能であればあるほど、周囲が感じる落差も激しい。大きな期待は、より大きな失望に変わる可能性を秘めている。
 ……代替わりは、スムーズにいくのだろうか。


          ***


 その時までおれは、もう一度、菊里氏の見舞いに行こうかな──と、ひそかに考えていた。
 前回は手ぶらで訪問するという失礼をしてしまったわけだし、そのお詫びも兼ねて。もちろん、病身の菊里氏に会社のあれこれを探るようなことは出来るはずもないが、またハルさんの子供の頃の話でも聞かせてもらえたらいいな、と楽しみにするような気持ちもあった。
 平日は仕事があって面会時間に間に合わないので、行くとしたら、土曜か日曜ということになる。しかしそうすると、父親に会いに病院に行くハルさんとかち合う確率も高い。
 内緒にすると菊里氏に約束した以上、それは避けたい。だから響氏に頼んでセッティングをしてもらおうか、と思っていたのだが、そうしているうちに、折悪しく、仕事が繁忙期に入ってしまった。
 おれが在籍しているのは、直接営業に関わる部署ではないので、ノルマなどはない。しかし、息をつく暇もないほど忙しい時期、というものはある。そうなるともう、平日の残業だけではどうにも足りない。今度の土日は自主出勤、ということになって、同僚たちは不満と諦め顔でそれを受け入れるしかなかった。
 隣の席で、子煩悩な岡野さんは、「こうして娘は父親の顔を忘れていくんだ」 と、ひとしきりぶつぶつと愚痴を零している。
 おれも、見舞いはもう少し先に延ばすしかなさそうだ。


「……そんなわけで、今度の土日は、ハルさんをデートに誘うことも出来なさそうです」
 と、例によって残業中の夜の休憩室で、スマホを手にしたおれが嘆くように言うと、あちらからは、「まあ」 という呆れたような返事が返ってきた。
「それよりも、ご自分のお身体を休めることを考えられたほうがよろしいです」
 ハルさんは時々、弟を叱る姉のような言い方をする。
「それよりも、って」
 おれはちょっと意地の悪い気分になって言い返した。
「おれにとっては、仕事と同じくらい、ハルさんとのデートは重要事項です」
「まあ」
 どこか口ごもるような言い方は、さっきの 「まあ」 とは、やや調子が違う。
「……哲秋さん、少し開き直ったんじゃありませんか?」
「おれ、この間、そう言ったと思いますけど。これからどんどん攻勢をかけていくって」
「こうまで宣言通りになさるとは思いませんでした」
「見直してくれました?」
「お見合いの時の優柔不断な姿が懐かしいです」
「ハルさん……」
 まったく小憎たらしい。
 父も母も兄もそうだが、ハルさんも負けず劣らず、頑丈な壁のように手強かった。この分だと、おれに落ちてもらうまでには、まだ時間がかかりそうだ。
「冗談はともかく、体調を崩されないように気をつけてくださいね」
 おれの口説き文句は冗談で流されたが、後半部分の心配そうな声には真情がこもっていた。
「ただでさえ、木の芽どきなんですから。この時期は、精神的にも不安定になりやすいんですのよ」
「気のせいですかね、なんかさらっと酷いことを言われているような」
「まあ、何を仰ってるんですか。木の芽どきというのは、寒暖差が激しくて、その気候の不安定さが、人の心と体に悪影響を与えやすいんです。この季節に変質者が出やすいのはそのためで、別に、哲秋さんが性犯罪に走ることを懸念しているわけではございません」
 以前、おれのことをふざけて 「桜庭教授」 などと呼んでいたハルさんだが、今の彼女のほうが、よっぽど学校の先生のような真面目な口調だった。こんな変な先生がいたら、子供たちはみんな学校が好きになれそうだ。
 しかし、なるほどと感心もする。つい最近まであった冷え込みは、桜が花開いた頃を機に、すっかりナリをひそめて、日中は汗ばむこともあるほど暑いと感じることもある。とはいえ、天候次第では、がらりと変わってまた冷たい風が吹くこともある。性犯罪に走るかどうかはともかく、体調を崩しやすい、というのは確かにあるだろう。
 外の桜はすっかり盛りを過ぎて、散りゆく一方だ。満開時から花が落ちきるまでは、大体十日くらいだから、もうハルさんと一緒に桜を眺める機会はなさそうだなと思うと、かなり残念になる。
「よりにもよって、この時期に忙しくならなくてもいいのになあ……」
 もう少し余裕があったら、ハルさんをデートに誘ったり、菊里氏の見舞いに行ったり、あれこれ気にかかることを調べたりと、やりたいことはたくさんあるのだが。社会人というやつは、これでなかなか、ままならない。
「そうは仰っても」
 ハルさんが、ふふ、と少し笑った。
 ──あれ? と、おれは首を傾げる。
「哲秋さんは、今のお仕事がお好きなんでしょう?」
「そうですね、まあ」
 そう正面切って言われると、なんとなく気恥ずかしい。ぽりぽりと指先で鼻の頭を掻いてから、わざと素っ気なく返した。
「忙しくて愚痴っても、ハルさんの声を聞いて、よしもうちょっと頑張ってやろうかな、という気になる程度には、好きです」
「まあ、中学生男子のように判りやすいひねくれ方ですわ」
 また笑う。
「…………」
 やっぱり気のせいじゃない。おれは一旦口を噤んでから、スマホを握り直した。
「ハルさん?」
「はい」
「元気がないですね。どうしましたか」
「…………」
 電話の向こうで、ハルさんが言葉に詰まったような気配がした。
「そんなこと、ございませんけど」
「疲れているのは、おれじゃなくて、ハルさんなんじゃないですか」
 笑い声を聞いてから、そこに気がつくというのも迂闊な話だ。思わず姿勢を正して問いかけると、少しして、あちらから、溜め息混じりのかすかな笑い声が届いた。
 それはなんだか、ハルさんの苦笑した顔が想像できるくらいの、しょうがないな──というような感じの声だった。
「……ちょっと、私のほうも、いろいろと忙しくて」
「仕事がですか?」
「それも含めて、いろいろです」
 ハルさんの返事は妙に曖昧だ。電話をかけて訊ねた時は、今は自宅にいる、と言っていたはずだが。
「ですから、哲秋さんのお誘いを受けましても、どちらにしろ土日は無理だったかもしれません」
「何かありましたか?」
 おれのその質問には、しばらくの間があった。
「──哲秋さん」
「はい?」
「私、意地っ張りです」
「知ってます」
 ふふ、とハルさんがまた笑った。今度の笑い方は、ずいぶんと優しく、柔らかい。
「実を申しますとね」
「はい」
「私も、哲秋さんとこうしてお話しすると、よしもうちょっと頑張ろうかな、と思ったりするんですのよ」
「は?」
「ですから、それで十分です」
「ハルさん、あの──」
「ありがとう」
 静かにそう言って、ハルさんは通話を切った。


 ──そして。
 土日を挟んで、翌週の半ばを過ぎると、ハルさんとは、ぱったりと連絡が取れなくなった。


          ***


「そりゃお前、フラれたんだろ」
 岡野さんは、ずけっと遠慮なく言い切った。
 心臓が抉られるほどのものすごいダメージを受けて、おれは思わずばたんとデスクに突っ伏す。隣の席で、岡野さんは少し気の毒そうに、そしてちょっと面白そうに、つまりどこまでも無責任に、うんうんと頷いていた。
「かわいそーになあ。あの電話の彼女だろ? 忙しすぎてダメになるって、パターンだよなあ」
「……そりゃ、忙しくてデートにも誘えませんでしたけど」
 おれはデスクの上に顔を伏せたまま、地の底から湧くような低い声でぼそぼそと話した。就業時間内にこんな話が出来るくらいに、先週からの多忙期から抜けた現在は、仕事にも多少の余裕がある。
 ハルさんと連絡がつかなくなった今になって、まったく皮肉なことに。
「でも、彼女のほうも、忙しいって言ってたんです」
「なるほど」
「それで疲れてるみたいで」
「ふんふん」
「なるべく電話するようにしてたんですけど、日に日に、声から元気がなくなっているような感じで、おれも心配して」
「ほほう」
「だけど、何度聞いても、『大丈夫です』 って返されるばかりで」
「うんうん」
「……そうしたら、一昨日から、まったく電話も通じなくなって」
「ははあー」
 岡野さんは、たっぷり同情を込めたわざとらしい声で相槌を打つと、沈痛な面持ちで首を横に振った。
「フラれ方のお手本にしたいくらい、見事にありがちなパターンだなあ」
「…………」
 自分で言っていてもそう思うので、他人からしたら、なおさらそう思うだろう。おれが聞く側に廻っても、客観的な意見として、絶対にそう思う。どうしよう、心臓がズキズキ痛すぎて死にそう。
 デスクに顎の先を置いて、ハルさんの顔を思い浮かべる。
 ──おれ、フラれたのかな。
 忙しい、とか、誘われても無理そうだ、というのは、つまりその時から、遠回しに 「もう会わない」 という意思表示をされていたわけなのだろうか。そんなことにも気づかないなんて、おれって、そこまで鈍感だったかな。それとも、自分から積極的にアプローチをかけるということに慣れていないから、それくらいの判断もできなかったのか。
 もちろん、おれはおれで、ハルさんの変化に不安を感じていた。強硬でも会いに行こうかと何度思ったか判らない。でも、それは彼女からの返事を急かしているようで、気が咎めた。おれは、「待つ」 と自分で決めたのだから、と。

 ……これが、ハルさんの 「返事」 ということなのか。

「まあ、元気出せ、桜庭。失恋くらいでクヨクヨするな。女はこの世界に星の数ほどいるんだから」
「…………」
 星の数ほど女はいても、ハルさんは世界に一人しかいない。
 どうしても、そう思ってしまうおれは、未練たらしい男なんだろうか。逃げようとしている相手を追いかけるのは、男としてみっともないのだろうか。
 ──でも。
 自惚れなのかもしれないが、ハルさんはおれのことを、嫌いではない、と思っていた。どちらかというと、好意に近いものがある、という感触も確かにあった。彼女の言葉、態度、仕草、そういうところから伝わってくるものが、間違いなくあった。
 そこを正反対に勘違いするほど、おれは初心なほうじゃない。

 ハルさんに、何かあったんじゃないのか。

 それはもしかして、おれがただそう思いたいだけなのかもしれない。
 でも、ハルさんは、たとえ断るにしたって、こういう手段をとる人ではないはずだ。そう思う。そう信じてる。電話で話している声は、日ごとに少しずつ力が失せていっていたけれど、少なくともそこに、嘘は感じられなかった。
 もうちょっと頑張ろうかなと思う、というあの言葉には、ちゃんと前向きな何かが入っていたはずなんだ。
「…………」
 デスクに突っ伏したまま身動きしなかったおれが、突然がばっと顔を上げたので、ぎょっとした岡野さんは椅子ごとひっくり返りそうになった。
「岡野さん」
「お、おう、桜庭、ヤケを起こすのはよくないと」
「おれ、明日、休みます」
「へ?」
「ちゃんと、彼女に会って、確かめます。何かがあったのかもしれないのに、何もしないで勝手に落ち込んでる場合じゃないですよ。しっかり顔を合わせて話をしないと、前には進めないんですから」
「え、あ、うん、そうか。そうだな、フラれるなら、きっぱりフラれたほうがいいよな」
 岡野さんは何としてもおれがフラれたことにしたいようだが、それには構わずに、おれは決然と席から立ち上がった。休むと決めたら、いろいろとやることがある。明日の分の仕事で済ませられるものは済ませておきたいし、届けも出しておかなければならない。
 つかつかとそこから歩いて離れたところで、おれのデスクの電話が鳴った。振り返ると、岡野さんが片手を軽く挙げて合図し、代わりに出てくれたところだった。
 一言二言話してから、岡野さんがこちらに目線を向ける。
「桜庭、菊里さんて人から電話」
 その言葉に、心臓が勢いよく跳ねた。
 ハルさん? 会社にかけてきたのか?
 ひょっとして、連絡がとれなかったのは、スマホが壊れたとか、そういう単純な理由だったのか。あるいは、もっと突拍子もない事情でもあったのか。再び自分のデスクに戻るまでのわずかな時間に、忙しく頭を働かせて考えたが、何ひとつとしてピンとくるものがなくて、混乱しそうだ。
「──もしもし?」
 緊張しながら、受話器に耳を当てる。
 聞こえてきたのは、期待したハルさんの声ではなかった。


 通話を終えて、受話器を戻すと、岡野さんが今までのようなからかい混じりではなく、本気で心配そうにおれの顔を覗き込んできた。
「おい、桜庭、大丈夫か。顔色が──」
「岡野さん、すみません、おれ、明日休みます」
「え。それさっきも聞いたけど」
 岡野さんが目を丸くしている。さっきズキズキ痛んでいた心臓が、今度はきりきり締めつけられる。頭の芯が痺れて、考えがまとまらない。
 おれは自分でもはっきり判る、強張った声で続けた。
「──葬式があるんです」
 電話は、響氏からだった。



 ハルさんの父親、菊里健流氏が、亡くなった。
 葬儀は明日だという。
 明日──ハルさんの、誕生日に。



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