はるあらし

34.涙雨



 葬式の日は、朝から雨模様だった。
 灰色に染まった空から、霧雨が地上に向かって降り注ぐ。それ以上強くはならないが、かといって止みもせず、細い線のような雨粒は、景色と人とをしっとり湿らせて、視界を塞ぐ靄となって周囲に立ち込めていた。
 そんな天候にも関わらず、菊里健流氏の葬儀が行われている寺には、大勢の弔問客が訪れた。
 年齢はバラバラだが、大部分は会社関係なのだろう。昨夜の通夜で見た顔も多い。皆、沈痛な表情で、うな垂れるようにして読経に耳を傾けている。
 祭壇に置かれた写真は、おれが病室で会った菊里氏とは、まったく違っていた。健康な頃のものなのだろう、こちらに向けられている顔は堂々として、社長としての自信に満ちて、威厳と貫録が自然と身についているように見える。
 面やつれしていた病室での姿などまるで想像できない丸っこい輪郭は、やはり息子の響氏とよく似ていた。体格も、もとはああいう感じだったのだろう。ふうふうと汗を拭いつつ、大きな身体を持て余すように会社内を闊歩して、部下にきびきびと指図する場面が頭に浮かぶ。
 ──今にも、「やあ、どうも」 と語りかけてくるような朗らかで愛嬌のある笑みは、ハルさんにそっくりだった。
 葬儀の間中、ずっと泣き通している人も多く見かけた。白髪混じりの男性がハンカチで目元を押さえていたり、たまらなくなったように嗚咽を漏らす女性もいる。会話の端々から、菊里商事の社員なのだろう、と推測できた。
 社長を失った企業の社員が、不安よりも先に悲しみが表に出てくるのは、それだけ菊里氏が、部下から慕われる人物であったことの証に思える。
 たくさんの花に囲まれた祭壇の前には、遺族が並んで座っている。いちばん祭壇近くにいる女性が、菊里氏の妻で、響氏とハルさん兄妹の母親だ。
 菊里氏は 「お嬢さん育ちの妻」 と言っていたが、見るからにそのような雰囲気の線の細い彼女は、葬儀の初めからずっと泣き崩れていて、顔も上げられないような状態だった。声は上げないが、それだからこそ余計に痛々しい様子で、ひたすら夫の死に打ちのめされ、嘆き悲しんでいる。
 今にも倒れそうなその母親を懸命に支えているのが、隣に座る響氏だった。喪服に包まれた身体は相変わらずどっしりしているが、顔からは少し肉が削げたように見える。喪主は母親の名前になっているが、実質的にその役割を担っているのは彼であるようで、疲れた様子ではあったが、母親を気遣いつつ、参列者たちへの挨拶なども一手に引き受けて、滞りなく式次第を進めるために奮闘していた。
 ……その隣に座っているのが、ハルさん。
 ハルさんは、ずっと静かだった。顔を伏せ、焼香する参列者に頭を下げ、経に手を合わせ、目を閉じる。それらを粛々とこなして、あとはじっと椅子に座って動かない。昨夜の通夜から、まったく変わらない。母親とは対照的なほどに、泣きもせず、声も出さず、祭壇のほうに目をやりもしなかった。
 ハルさんの周りだけ、別の時間が流れているかのようだ、とおれは思った。


 葬儀が終わって、ようやく響氏と話をすることが出来た。
「菊里さん」
 と声をかけて近寄ると、響氏が、ああ、というように口を開けて、深々と頭を下げた。
 おれも頭を下げ、このたびは──と悔やみの言葉を述べる。型通りのやりとりをしてから、響氏がもう一度頭を下げ、抑えた声音で言った。
「わざわざすみませんでした。本当でしたら、妹のほうからお知らせしなくてはいけなかったのに……」
「いえ、そんなことは」
 おれは響氏の謝罪を遮るため、手の平を広げた。そんなことを話すために、忙しい彼を呼び止めたわけではない。
 これから出棺があり、親族と共に火葬場に向かわなければならないのだろうし、時間も余裕もないのは判っている。前置きも省略して、すぐに本題を切り出した。
「菊里さん、大変図々しい申し出であることは承知の上なんですが」
「はい?」
 響氏が訝しげにこちらを見返す。
「火葬場まで、おれも行っていいでしょうか。もちろん、建物の中には入りませんし、皆さんの前に姿を見せることもしません。敷地内で、出来る限り目立たないようにしていますから。すみません、非常識なことだとは判っているんですけど」
 葬儀が終われば、火葬に立ち会うところから、その後の骨上げや精進落としまでは、故人の近親者のみで行われる。おれのような立ち位置の人間が入っていい領域ではない。それくらいは理解していたが、どうしてもそう頼まずにはいられなかった。
 響氏はおれの申し出に、驚いたように目を見開いたが、怒りも困惑もしなかった。どこか理解の色を乗せた瞳でおれを見て、申し訳なさそうに俯きがちになる。
「……ありがとうございます。僕も、ハルの様子はずっと気にかかっていたんですけど」
 響氏も同じことを思っていたらしい。おれはほっとした。
「父が亡くなってから、あの子はまったく口をききません。泣くこともしません。こちらの言うとおり、着替えたり、食事をしたりはするんですけど、まるで人形のようです。本当のところ、言葉が耳に届いているかも判りません。放っておくと、ずっと動きもしないんです。僕がずっと傍についていてやれればいいんですが、雑事に追われて、母のほうも目が離せないものですから……情けない話です」
 そう言いながら、滲んだ涙を乱暴に拳で拭い取る。
 こんな局面であらゆる方面に手を廻すなんてこと、誰にだって出来るわけがない。それなのに、まずこうして自分を責めてしまう響氏は、やはり心優しい性質なのだろう。
「急に父の容体が悪化してからというもの、ほとんど眠りもせずに付き添っていましたので、その糸がぷっつりと切れてしまったのかもしれません。──最期には、眠るように息を引き取ったんですが」
 響氏は顔を上げて、まっすぐにこちらを見返すと、「僕からもお願いします」 と熱のこもった口調で言った。
「ハルの近くにいてやってもらえますか。あの子は今、すべてが麻痺したような状態になっているんだと思います。その責任のほとんどは僕にありますが、僕では多分、あの子の心を溶かしてやれません。今のハルになにより必要なのは、ただ思いきり泣くことです。父の死をきちんと悼んで、そうやって喪失の傷を癒していくことなんです。……桜庭さん、どうか」
 どうか妹をお願いします──と言って、もう一度深く頭を下げた。


          ***


 昔の火葬場とは違い、煙突もない建物は、煙が出ないようになっているらしい。
 灰色の四角い箱のような素っ気ない建物を見ながら、おれは考えるともなくそんなことを考えた。
 宗教色をすっぱり抜き去った殺風景な火葬場ではあるが、建物の周りはそれなりに整然と木や花が植えられている。どうしても暗くなってしまうその場の雰囲気を、そうやって少しでも和ませようとしているようだった。
 すべてが終わるまでは一時間ほどかかるので、その間、遺族たちが外の空気を吸って気分転換できるように、との配慮であるのかもしれない。
 しかし、しとしとと雨が降り続く現在、外に出ている人間は誰もいない。いるのは、建物から離れた場所で、傘を差して立つおれくらいのものだ。
 到着して三十分以上は経つから、今頃は多分、親族や親しい友人などが集まって、故人のことなどを語り合っているのだろう。響氏にはああ言われたが、一連の弔いが終わって、出てくる人々の中にハルさんの姿が見えたら、そこでおれは声をかけずに帰ろうと思っていた。
 ──が。
 その時、建物の出口から、一人の女性が出てきた。

 ハルさんだ。

 すらりとした黒いワンピースに身を包んだハルさんは、傘も差していないのに、躊躇する様子もなく玄関の透明な自動ドアの間を通って、外界へと足を踏み出した。
 どこへ行こうという目的があるわけでもないのか、まるで散歩でもするかのような、ゆったりとした足取りでぶらぶらと歩いている。
 それから建物のほうを振り返り、立ち止まった。
 顎を上げ、目線は建物のずっと上方に向けられている。空を見ているかのようだが、そのわりに、雨が降っていることをまったく気にする素振りがない。すぐ目の前を落ちていく雨粒よりも、ずっと遠いところを見ているみたいだった。
 ……もしかして、見えない煙突、見えない煙を見ているんじゃないか。
 と、おれは思った。
 煙となって天に昇っていく父親に、ハルさんは最後の別れをしようとしているのではないか。目には見えなくても、彼女の心には、それが見えているのではないか──そう思わずにはいられない厳粛な顔つきで、ハルさんはただじっと、その場所から灰色の空を見上げ続けている。
 そんな無頓着さなのに、雨がその青白い顔をそれほど濡らさずに済んでいるのは、すぐ近くに、たまたま遮断物になるものがあったからだ。
 本人にそんな気はなかったのかもしれないが、斜めに雨が降ってくる方向には一本の木が植えられていて、彼女を守るかのように太い枝を広げてくれていた。

 ……桜が。

 あれほど桜に近寄るのを嫌がっていたハルさん。子供のように毛虫に怯えて震えていたのに、今の彼女は、そんなことにすら意識が向かないらしい。
 自分の足下に、すっかり散り落ちた桜の花びらが、白い絨毯のように広がっていることにも、気づかない。
「──……」
 考える前に足が動いた。
 すぐ近くまで行って、傘を差しかける。視界に入った黒い影に気がついて、ハルさんがこちらを向いた。
 ほとんど表情は変わらなかったが、おれを見て、ひとつ瞬きをしてから、
「哲秋さん」
 と、名を呼んだ。
 驚きも当惑もない。疑問もない。あどけない童女のような、何も含まれてはいないその口調に、かえって胸が詰まる。
 苦労して、口を微笑の形に変えた。
「風邪をひきますよ、ハルさん」
 言葉の意味を掴むためにか、二、三秒の間が空いた。その時になってやっと、ハルさんは雨が降っていることに気づいたらしい。
「……兄が」
 建物のほうに目をやって、言葉を落とす。
「兄が、ちょっと外に出てみたら、と言うもので」
「そうですか」
 響氏はおれがいることを知っているからそう勧めたのだろう、ということと、ハルさんはただ機械的にその言葉に従っただけなのだろう、ということは判った。「まるで人形のよう」 と響氏が評していたのは、そういうことに違いない。
 ハルさんはそのまま黙り込んだ。おれも何を言っていいのか迷って、口を噤んだ。
 しんとした静けさを、さああ、という雨のひそやかな音だけが包む。
 しばらくして、
「……兄は」
 と、ハルさんの口から再びその言葉が零れた。
 おれに向かって話しているのかどうかもよく判らない。ハルさんの話し方は、ほとんど独り言に近かった。
「兄だけは、父の正確な病状について、把握していたそうです。お医者さまは、昔から私の家のことをよく知っているかたでしたから、母よりも先に、兄に告げるという判断をしたらしいんです。母は非常に繊細な、神経の細い人ですから、このことを知れば、父よりも母のほうが憔悴して参ってしまいそうだ、と思われたんでしょう。私も、その判断は正しかったと思います。母は、それを知って自分を保てるほど、強くはありません」
 「それ」──菊里氏の先が、もう長くない、ということか。
 ハルさんは、おそらく、胸の中のものを吐き出してしまいたいのだろう、ということは判ったから、おれはなるべく彼女の話を邪魔しないよう、聞き役に廻ることにした。
「……そして父本人が、兄に対して、母には黙っているように、と指示したらしいんです。父は本当に、母を壊れやすいガラス細工のように扱っておりましたから」
「お父さんは、そのことを」
「気づいていたようです。兄もあの性格ですから、真っ向から問われれば、否定できなかったでしょう」
 菊里氏は、自分の病状を知っていたのか。おれが会った時の彼は、穏やかで、落ち着いていて、とても死を前にした人とは思えなかったけれど。
 ……菊里氏は、おれと話をした時にはもう、この未来を覚悟していたのか。

「それから父は、もうひとつ、兄に指示を出したそうです。──このことは、私にも黙っているように」

 春音にも、このことは黙っていなさい。
 菊里氏は、響氏に向かって、何度もそう念を押したのだという。
「ですから実直な兄は、父の指示に従って、それはもう必死で私たちに隠しておりました。内臓が弱っているから、この機会に徹底的に治療してもらうことにした、と。その分入院は長引くだろうけど、なんとかその期間、僕が頑張ってお父さんのいない会社を支えていくから、と。大丈夫、すぐにまた元気になって戻ってくるからね、と」
 大丈夫、大丈夫だよと。
 ハルさんは、かすかに細い息を吐いた。
「──嘘がヘタだってこと、本人はちっとも判っていないんです」
「…………」
 おれだって気づいたくらいなのだから、昔から兄のことをよく知っていて、何事にも敏いハルさんが、気づかないはずがない。
 でも。
「……でも、私は、その嘘を信じることにしました」
 ハルさんは、響氏の嘘に隠されたものに薄々気づいていた。そこにあるのが、おれが考えていたものより、ずっと深刻な内容であるかもしれないことにも。
 けれど、その嘘を暴こうとはしなかった。
 社長代理の仕事で目の廻りそうな思いをしている兄が、必死に母と妹を気遣っていることが判ったから?
 いや、違う。きっと、それよりも、その言葉が真実であってほしいという、祈るような気持ちがあったからだ。
「父も、私と母の前ではいつも元気に振舞っておりました。本当は、どこもかしこも痛んで苦しかったでしょうに、そんな様子は欠片も見せようといたしませんでした。こちらが問いかけても、平気、平気、と笑うばかりで。少し痩せてしまったから、もっと食べて以前のように太らないとなあ、なんて軽口まで言って」
 ハルさんと彼女の母親は、心の片隅で疑惑を抱きながらも、その言葉を信じたかったのだ。
「もともと、倒れた時から、父はそうだったんです。大丈夫、大丈夫、って。いきなり会社で昏倒して、ようやく意識が戻った時から、ずっとそう言い続けておりました」
「…………」
 そうか、それでか。
 母親の誤解が元で、おれに電話をしてきた時のことを思い出し、納得した。
 あの時ハルさんが取り乱していたのは、父親のことがあったためだ。それまで普段通りに過ごしていた人間が、いきなり倒れてしまったことが頭にあったからだ。
 大丈夫、という父親の言葉を、ハルさんは信じたかった。でもやっぱり、不安の根は彼女の中にしっかりと巣食っていた。だからおれの言葉も、容易に受け入れようとはしなかった。ハルさんはあの時、おれと父親を重ねていたのだろう。
 ……きっと、ハルさんは。
 電話の最後、おれにそのことを言いたかったんじゃないか。父親のことを話して、胸の中の不安を外に出してしまいたかったのではないか。
 でも、言えなかった。おれが桜庭の人間だからと、父親のことを黙っていたハルさんは、それを口にすることが出来ないまま、自らの胸の中に押し込めるしかなかったのだ。

 言わないでいることは、時々、つらいこともある。
 菊里氏も、響氏も、そうだっただろう。ハルさんもだ。
 それぞれに苦しみ、自分を責め、後悔し、罪悪感を抱いている。
 ──それを罪だと断じることが、一体、誰に出来るんだ?

「ですから、私も、母も、父の前では、冗談を言ったり、楽しかったことを話したりして、いつもと同じように笑っておりました」
 そこには、どれほどの努力が隠されていただろう。
「……けれど」
 ハルさんは目を伏せた。
「それは結局、見ないフリをしていただけではなかったかと、今になって思います」
 下を向いたその目に、地面に散って雨に濡れる桜の花びらが入らないはずがないのに、それは彼女の心にまでは届かないようだった。
「ただ、自分にとって都合の良い夢を見ようとしていたのではないかと。事実を覆って、知らない顔をしているだけで、ただ時間ばかりを無為に過ごしていたのではないかと。ちゃんと目を開いて、知るべきことを知っていれば、出来ることはたくさんあったかもしれないのに。父には、弱音を吐く場所と相手が、必要だったかもしれないのに」
「…………」
 そんな風に考えるのはよくない、と言ったところで、その言葉は、足許の桜の花びらと同様、ハルさんの心には届かないのだろう。
 ここで偉そうなことを言えるほど、おれは人生経験を積んでいるわけでもないし、菊里氏のことを知っているわけでもない。こんな場面で何を言えばハルさんを慰められるのかだって、よく判らない。
 ──だけど。
 少しだけ、おれにも判る気がする。
「……あのね、ハルさん」
 どう言おう、と考えるまでもなく、言葉が口をついて出てきた。耳に入ってくる自分の声がまるで他人のものみたいに聞こえる。それがやけに静かな声であることに、自分自身が驚いた。

「お父さんはね、きっと、笑っていて欲しかったんですよ」

 ハルさんが、ゆっくりとした動きで、またこちらに顔を向けた。
 ニコニコした笑みを消した時のハルさんの顔。そこに現れるもの。これまで、数度見た覚えのあるそれを、今もまた見つけた。
 ああそうか、とおれは思う。
 ……こういう時のハルさんは、ひどく心細そうなんだ。
 居場所からはぐれて、一人途方に暮れた子供のような顔。
「おれは、ハルさんのお父さんのことは知りませんけど」
 会ったことは内緒にします、という言葉は、もうこの世にはいない人との約束になってしまった。だからこそ、一生、破れない。
「でもね、多分、おれと同じことを考えていたんだと思います」
 本当のことは永遠に判らないけれど、多分。
「ご自分のことを隠していたのは、ただ、ハルさんとお母さんの笑顔を、曇らせたくなかったからなんじゃないかな。ハルさんとお母さんが笑っていてくれれば、幸せな気持ちになれたから──理由は、それだけだったんじゃないかと思いますよ」

 屋上遊園地で小さなハルさんに救われた、あの時のように。
 おそらく菊里氏は、目を閉じる最後の瞬間まで、その笑顔を見ていたかったのだ。

「ハルさんのお父さんは、最後にちょっとだけ、ご自分のワガママを通したかったんでしょう、きっとね」
「…………」
 ハルさんの唇がわずかに揺れた。
 おれの顔を見つめていた視線が動き、再び建物の上へと向けられる。
 見えない煙突、見えない煙。
 ハルさんは今、手の届かないところへ旅立つ、父親の魂を見送っているのだろう。
 安らかに眠れるように、自分が出来ることを、精一杯考えているのだろう。
「……哲秋さん」
「はい」
「昔から、私が笑うと、父も笑ってくれました」
「そうでしょうね」
「私、それがとても嬉しかったんです」
「お父さんも嬉しかったんだと思います」
「それが父の望みなら、私も笑ってお別れしたほうがいいんでしょうね」
「きっと、喜ばれます」
「──私、ちゃんと笑えていますか、哲秋さん」
 ハルさんの両の目からは、ぽろぽろと止めどなく涙が零れ落ちている。
「大丈夫、笑えていますよ」
 そう請け負うのと、柔らかい弾力を感じたのがほぼ同時だった。
 おれにしがみつき、肩に額をくっつけて、ハルさんは泣いた。
 右手で持った傘を差しかけ、左手で彼女の背中をぽんぽんと軽く叩くように撫でる。
 細く弱く続く泣き声だけが、霧のような雨で茫漠と霞む景色の中に滲んで消えた。



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