はるあらし

35.道しるべ



 菊里氏の葬儀から一週間以上が過ぎ、ハルさんは、ちょっとずつではあるものの、徐々に元気を取り戻してきた。
 無理もないことだが、社長の急死で、菊里商事は現在てんやわんやの状態であるらしい。
 新しい社長を選任するには、取締役会を開いて正式に決定しなければならないので、当面、息子の響氏は、まだ社長代行という肩書を続けることになる。菊里氏がこれまで築いてきた土台と、脇を固める重役たちがしっかりしているため、今のところ、取引先や従業員たちの間に、これといった混乱は広がっていないようだった。
 おれは毎日電話をかけて、少しの間だけでもハルさんの声を聞くようにしていたが、忙しくて目が廻りそう、という言葉の中にも、多少は明るさのようなものが混じってきたことに、心の底から安堵した。
 今ではハルさんは、また朗らかな笑い声を立てたりもする。以前とまったく同じ、というわけにはいかないし、少し無理をしている部分もあるのかもしれないのだが、それでもちゃんと、笑いを取り戻しつつある。
 通夜と葬式の時の、あの固く閉じた蕾のようだったハルさんが、外側から一枚ずつ、花びらを開いていくような──少なくとも、そういう努力をしているようなのが感じられて、おれは本当に嬉しかった。


「なんとか、道筋が見えてまいりました」
 ある日、珍しくハルさんのほうからかかってきた電話で、そう言われた。
 落ち着いた、でも、どこかすっきりしたような声は、余分なものをすべて洗い流した後のように澄んでいた。多分、まだいろんなものを心に秘めてはいるのだろうけれど、しっかりと明るい口調に、ブレはなかった。
「そうですか。じゃあ、問題なく、新体制に移行できそうなんですね」
 おれはかなりほっとして言った。
 菊里健流氏から、響氏への社長引き継ぎに、特に支障はなかったということか。響氏の社長就任については、もっとゴタゴタとした厄介ごとを伴うのではないかと気を揉んでいたのだが、考えていたよりもずっと早く解決したことに、ちょっとした驚きと共に感心する。
 そうか、思っていたよりもずっと、響氏は周囲の信任を得ていたのか。おれの気の廻しすぎだったんだな。
 ──あるいは、菊里氏の死をきっかけに、状況がおもに悪いほうへと大きく変わるのではないか、とも危惧していたのだが。
「ええ」
 スマホの向こうで、ハルさんが、静かに微笑を零した気がした。
「取締役会はこれからですから、まだいろいろとやることがあるんですけれど。それでも、おおむねの方向と、合意は出来ておりますから、それほどこじれたりはしないと思います」
「それはよかったです」
「ええ、本当に」
 それだけ言ってから、ハルさんは大きな息を吐いた。おれの耳にもはっきり届くような、ふうーっ、という、声に近い溜め息だ。サラリーマンが、一日の仕事を済ませて、首を廻したり、伸びをしたりしながら、あーやれやれ終わったなあ、と呟いて出すような感じのものだった。岡野さんだったら、この後で、「よし桜庭、一杯飲みに行くぞ」 という台詞を続けるところだ。
 肩の荷を下ろして、疲れも苦労も息と一緒に外に出し、じゃあまた頑張るのは明日にしてちょっと休もうか──という時。
「お疲れ様でした、ハルさん」
 おれが労うと、ハルさんはちょっとくすぐったそうに、くすくす笑った。
「哲秋さん、実は私も、いろいろと大変だったんですの」
「そうでしょうね」
「でも、頑張りました」
「はい」
「頑張りましたのよ」
 二回言った。
「……はい。で、おれに何をしろと」
「褒めていただけます?」
「…………。ハルさんはよく頑張りました。偉かったですね」
 おれに褒められて、ハルさんはうふふとご満悦の笑みを漏らした。うん、いつも通りのわけの判らないハルさんが戻ってきたようで、おれも嬉しい限りです。

 ……でも、確かにハルさんは大変だったんだろうな。

 なにしろ、ハルさんは菊里商事の社員であり、前社長の娘、次期社長の妹という立場でもある。会社のほうも、家のほうも落ち着かない中、自分の仕事をこなしながら、母と兄を支えたり助けたりしなければならなかったのだろうから。
 おれの言葉で少しでも元気になれるというのなら、なんだって言う。
「頑張ったご褒美に、食事でもご馳走したいところですけど、ハルさん、平日はまだ時間は取れなさそうですか?」
「そうですわね……平日はちょっと。私も、哲秋さんと楽しくお食事したいのは山々なんですけど。お肉とか、お肉とか、お肉とか」
 どっちかというと、おれより肉のほうがメインだな。
「じゃあ、土曜日は……っと、その日はダメか」
 言いかけてから、慌てて撤回した。土曜日は、おれのほうに予定が入っている。
「お仕事ですか?」
「いえ、違います。ようやく父親の時間が空きそうだというんで、その日に家族で昼食でも、ということになりましてね。ほら、ハルさんと見合いしたあのホテルの、最上階にあるレストランで」
「まあ、ご家族でお食事会ですか」
「お食事会、なんていう、のどやかなものにはならないと思うんですけど」
 母親にはそういう名目で伝えてあるが、実際の本題は愛美の就職問題だ。母は間違いなく反対する──というより、取り合ってもくれないだろうから、父を説得するのが第一の目的である。母の目の前で、父の了承さえ取りつけてしまえれば、それで一気に問題は大前進できる。その説得が、簡単にいくかどうかは心許ないが。
 そう言うと、ハルさんは 「まあ」 としみじみした声を出した。
「愛美さんも、いよいよ戦いに身を投じるわけですわね」
「まあ、そうですね。おれと兄も、なるべく協力してやりたいとは思っているんですが」
 それにしたって、この戦いは、方針を打ち立てるのも、指揮を執るのも、愛美でなければならない。おれや兄が前面に出すぎては、本人に意志なしと見なされて、ばっさりと切り捨てられる可能性が高いからだ。そういうところ、父は非常に厳しく、かつ、はっきりしている。
 大将はあくまで愛美であって、おれと兄はただの雑兵、ということだ。大将が崩れてしまえば戦いは終了、おれと兄がどれだけフォローしようとも、父はきっともう耳を傾けもしない。
 そのあたりはしっかり言い含めておいたから、愛美も今頃、必死になって自分の考えや言い分をまとめて、いかにして父の関心をひくか、頭を振り絞っていることだろう。大学の試験よりも、よっぽど難関だ。
「あら、でも」
 ハルさんが思いついたように言った。
「あのホテルの最上階のレストランというと……確か、個室はなかったのではありませんかしら」
「そうなんですよ。その点では、母に文句を言われたんですけどね」
 手配をしたのはおれなので、お父様もいらっしゃるのに、と散々怒られた。家族の食事会、などというもの自体が滅多にない我が家ではあるが、母としては、外でなら個室を用意して当然、という心積もりであったらしい。
 それを、あのホテルの中では最上階のレストランがいちばん高級だから、ということで、なんとか納得させたのだ。母を黙らせるのは、「格」 を持ち出すのがなにより手っ取り早い。
「実のところ、個室のないところで、それなりの場所を、わざわざ選んだんですよ。かえって人目があったほうがいいんじゃないかと思いまして。母も愛美も、あまり穏便とは言い難い性格をしていますから」
 そもそも、自宅でも出来るような家族での話し合いという場を外に持っていったのは、それがいちばんの理由であるからだ。客観的な判断や、論理的な説明を重んじる父に、感情論は最大のご法度である。強引な持論を展開させがちなあの母も、他人の目があれば、「桜庭」 の体面のほうを優先させるだろう。兄も、それには同意見だった。
「まあ、それでは、私がこっそり見学に行っても、バレませんわね」
「勘弁してください」
 おれがそう言うと、電話の向こうから、ふふ、と楽しそうな笑い声が聞こえた。冗談も言えるようになってきたハルさんに、おれも思わず笑みを零す。
 それから、少し、考えるような沈黙の後で、
「……哲秋さん」
 ハルさんが、ふいに真面目な声を出した。
「はい?」
「私が以前、愛美さんに、『反省はしても、後悔はしないようにいたしましょう』 と申し上げましたこと、覚えてらっしゃいますか」
「ああ……」
 そういえば、愛美と一緒に食事をした時に、そんなことを言っていたな。それを聞いて、おれは、ハルさんは楽天家だ、と思ったし、それを口に出したりもしたのだった。
「けれどもそれは、難しいこともございますね。自分がどうすれば後悔しないでいられるか、その見極めが難しいこともございます。どの道を選んでも自分は後悔するだろう、ということが判っていて、では、どれがいちばん後悔が少ないのだろう、と考えるのも難しいことです」
「……そう、ですね」
 そうか、とおれは思う。
 ──後悔しないようにする、というのは、時に、強い心が必要とされることなんだな。
「私、父のことでは、やっぱり後悔がございます」
 ハルさんは、さらりと言った。
「ああしていればよかったんじゃないか、こうしていればよかったんじゃないかと、これからも、その後悔を背負い続けて、人生を進んでいくことになると思います。けれどもその苦さと後悔を、少しずつ、少しずつ、砂をかけて埋めていきながら、代わりに、空から、壁の向こうから、自分の手の中から、何かを見つけていければいいんじゃないかと思いますの」
「……うん」
 新しい何かをね。

 そしてきっと、それがその先の道しるべになっていくのだろう。

「私、やっと、そう思えるようになりました」
「そうですか」
「あの時、思いきり泣けて、よかったです」
「……おれも、よかったです」
 ただの添え木としてだけでも、多少はハルさんの役に立てたのなら、よかった。
「愛美さんもきっと、なるべくご自分が後悔しない道を選ぼうとなさっているんでしょう。戦って、勝ち取れるといいですね」
「そうですね、本当に」
 おれも愛美も、これから、何が待っているのか判らないけれど。

 困難であっても、戦わないとな。
 自分のために。

「──ハルさん」
「はい」
「それが終わったら、デートしませんか」
「はい? お食事会が終わってから、ということですか?」
「それでもいいですし、次の日曜日でもいいですし、それがダメなら翌週でもいいですから」
「まあ」
 ハルさんが笑っている。けれどおれはもう、その声だけでは物足りない。顔が見たい。笑っているところが見たい。ハルさんと一緒に歩いて、彼女の存在をもっと身近に感じたい。
 考えてみたら、おれたちはまだ、デートらしいデートをほとんどしてないじゃないか、と気がついた。海に行ったり、ショッピングをしたりするのもいいが、もっといろんなこともしてみたい。映画に行ったり、水族館に行ったり、そうだ、ハルさんとテニスで対決もしてみたいし、それから葵の店にも案内して……
「あっ!」
 突然おれが大声を上げたので、ハルさんはびっくりしたらしい。
「どうかなさいました?」
「あ、いえ、なんでもないです」
 うろたえながら、しどろもどろの弁明をして、おれは空いた片手で、自分の頭を抱えた。
 そうだ、バタバタしていてすっかり忘れていた。店に連れて行くどころじゃない。これが葵にバレたら、絶対、叱られるか、殴られるか、バカにされる。

 ──おれ、まだハルさんに、誕生日のプレゼントを渡してないじゃないか!


          ***


 会社が終わってから菊里商事に出向き、忙しいハルさんに少し時間を取ってもらって、プレゼントだけを渡して帰る──ということも考えたのだが、それだとあまりにも、渡すのを忘れていた、という感じで (実際、コロッと忘れていたのだが)、間抜けすぎて断念した。
 大体、そんなやり方、いかにも 「とりあえずモノを渡しておこう」 みたいでイヤだ。あたふたと手渡して、じゃあまた、と別れるなんて、恋人同士のやりとりではない。いや、まだおれたちは恋人同士ではないのだが。それにしたって、もうちょっとこう、雰囲気とか、ムードとか、そういうものを大事にしてみたってバチは当たらないだろう。
 そんなわけで、土曜日、ホテルへ向かう前に、おれは自分の机の上に置いてあった小さな包みを手に取って、一緒に持っていくことにした。
 終わった後で、ハルさんに電話をして、会えるかどうか聞いてみよう。どこかに遊びに行く時間はないかもしれないが、喫茶店でお茶を飲むくらいなら出来るかもしれない。その時に手渡せばいい。
 ハルさんの誕生日から二週間も過ぎて、暦はすでに五月に入ってしまった。こんな時期に桜のピアスを渡すのも気恥ずかしい気もするが、このまま渡さないでいるのも、来年のプレゼントに廻すのもバカバカしい。
 ハルさんなら多分、笑って許してくれるだろう。


 父と兄はその日も仕事だったが、時間を工面して、二人一緒にホテルに来ることになっていた。おれと愛美と母は、家から坂田さんの運転してくれる車で向かい、そこで落ち合えばいいだろうと。
 ところが、ホテルに到着したおれたちは、思わぬ事態に直面することになった。
 先に来て待っていたのは、兄一人だったのだ。
「すまん」
 兄は、苦り切った表情で、開口一番謝罪した。
「……父さん、来られなくなった」
 ただでさえ緊張して口数も少なくなっていた愛美は、衝撃のあまり口も利けない様子だった。無理もない。この日のために、愛美がいくつかの就職希望先をピックアップして、睡眠時間を削ってまで熱心に調べていたことを、おれも兄も知っている。
「どういうこと?」
 と声音を抑えて問うと、兄も同じようにこそっと音量を落として説明した。
「突発のトラブルが起きてな。至急、火消しに動かないといけなくなった。とても、そちらを放置して、のんびりメシを食っていられるような状況じゃない。本当だったら、俺も行かないといけないくらいなんだが、岬さんが、なんとか俺だけでもって、尽力してくれたんだよ」
 本音のところでは兄も今すぐ応援に駆けつけたいのか、落ち着かなさげにそわそわしている。こんな時くらいは時間を空けるべきだ、と言っていた兄が、こんな発言をしているということは、新聞沙汰になりそうな、よほど大きなトラブルなのだろう。そのトラブルが元で、犠牲になる人々やその家族がいるかもしれないことを思えば、父がそちらを優先するのは、ごく当然の判断と言えた。
 ……しかし、それと、愛美の気持ちとは、また別の問題だ。
 愛美はすでに泣きそうな顔で、ぎゅっと唇を噛みしめ、俯いている。最初におれが相談を受けてからでも、かれこれ三カ月近く経過しているのだ。その間、ほとんど何も進捗せずに、ただひたすら胸の中に溜め込んできて、ようやく今日新しい一歩を踏み出せるかと、期待と怖れをみっちり詰めてやって来たというのに、これではあまりにも救われない。
 桜庭唯明は、愛美の父親なのに。娘が父に、就職についての相談をする、というだけのことが、どうしてこんなにも難しいのだろう。
 父であると同時に、あの人は何万という従業員を抱える複数企業体のトップだ。そのことは、理屈では判っていても、割り切れない時だってある。その割り切れなさを、おれたち兄妹はみんな、押し潰してなんとか咀嚼してやってきた。人から見れば恵まれた立場であろうけれど、いや、恵まれていることが判っているからこそ、おれたちはおれたちなりに、口には出来ないまま封じ込めていた言葉がたくさんあるんだ。
「お仕事なら仕方ありませんね。人数が一人減ったことを伝えておきなさい」
 父のドタキャンなど慣れきっている母は、まったく気にする素振りもない。そもそも、母は、これをただの家族の食事会としか考えていないのだ。
 席を取ってもらっているレストランに向かって、悠然と歩く母に続きながら、こちらを振り向いた兄が、おれと目を合わせる。
 何かを言いかけたが、すぐに口を閉じた。今はとにかく妹の問題が先だ、ということだろう。
「……別の機会にするか?」
 隣の愛美に向かって囁くように訊ねると、ふるふると首を横に振って否定した。おれは、うんと頷いて、前方を見据えるその背中を、軽くぽんと叩く。
「じゃあとにかく、お前が思っていることを、全部外に出してみな」
 お前の戦いのはじまりだ。


 ……しかし、予想よりもずっと、話し合いは難航した。
 いや、実を言うと、それは、「話し合い」 にもなりはしなかった。愛美の、卒業したら就職したい、という言葉を、母は本気にも取りはしなかったのだ。ホホ、と笑って受け流してしまうその顔には、面白い冗談だとしか考えていないのが明らかだった。
「私、本気なのよ、お母さん」
 愛美が何度そう言ったか。普段、両親に対しては、おれたちと同じようにですます調で話している愛美だが、途中からそれを振り捨てるほどに、懸命だった。おれと兄も、何度か言葉を挟んで妹の援護をしようとした。
 ──だが母は、ずっと表情を変えもせず、上品に動かしているフォークとナイフを、皿に置きもしなかった。
「桜庭の娘が、そんなことをする必要はないでしょう」
「必要とか、そんなことを言ってるんじゃない。私が働きたいの。お兄さんたちだって、働いてるわ。哲お兄さんは、自分で就職先を選んだわ」
「男と女を同じに考えてはいけません。智さんはいずれ桜庭のグループを担うのだから当然のこと。哲秋さんは、将来、グループの役員となる勉強のために、そこを選んだのです」
「…………」
 当たり前のことを言うような調子で出された母の言葉に、おれは口を動かしかけたが、思い留まった。ここでおれの話まで持ち込んだら、事はややこしくなるばかりだ。
 母が眉を寄せ、ふ、と短い息を吐き捨てる。
「おおかた、大学で、アルバイトをしているお友達にでも影響されたのでしょう。会社というのは、あなたの遊ぶ場ではありませんよ」
「そんなことくらい、判ってるわよ。判ってないのはお母さんじゃない。大体、一度も社会に出たこともないお母さんに、どうしてそんなことが言えるわけ」
「愛美」
 おれはだんだん感情的になってきた愛美を制したが、そんなことでは止まらなかった。今まで溜め込んだ鬱憤が爆発しかけているのか、予定外の父の不在に動揺が抜けきらないのか、愛美の声は、どんどん尻上がりに高くなっていく。まずいな、とおれは思った。
「大学を卒業して、ちょっと花嫁修業して、すぐにお見合いして結婚する、なんて、そんなコースは真っ平よ。自分の人生は、自分でちゃんと決めたいの。私はお母さんの言いなりに動く人形じゃないのよ。働いて、自分の力で何が出来るのか、どこまでやれるのかを試したい。試した上で、自分が進むべき道を決めたいの」
「お黙りなさい」
 母のぴしゃりとした声が、威圧感を伴って響き、愛美の口を噤ませる。
「生意気なことを言うのではありません。今まで、桜庭の娘として好き勝手にやって来ておいて、なにが自分の力ですか。何かを成したい、というのなら、せめて桜庭の家のために自分が何を出来るのか、そこからお考えなさい。義務を果たしてこそ、権利を主張できるはず。自分、自分、とそればかりでは、幼い子供と何が違うというんです」
「桜庭の家のため、ってなに。どういうこと?」
「学生の本分は勉強でしょう。まずは優秀な成績で大学を卒業して、それから桜庭の娘として恥ずかしくない礼儀作法を身につけて、然るべきお家の男性に嫁ぐことが」
「だから、それがイヤだって言ってるんじゃないの!」
 愛美は膝に掛けていた真っ白いナフキンを掴んで、乱暴にテーブルの上に叩きつけた。
「愛美、落ち着け」
 おれは間に入ろうとしたが、愛美にも母にも、もうその声が届かない。母の隣に座る兄に視線を移すと、難しい顔で、口をへの字にして黙り込んでいた。
「結局、お母さんは、私の話を聞く気がこれっぽっちもないってことね? 私の気持ちのことなんて、考えもしない。ううん、私に気持ちがあるってことすら、理解してないんだわ」
「あなたこそ、何を言っているんです。気持ち気持ちって、今まで、あなたに不自由な思いをさせたことがありましたか。習い事でも、欲しいものでも、あなたが望んで手に入らないものがありましたか。衣食住、どれをとっても、あなたの力だけで手に入れたものがありましたか。人よりもずっと豊かな環境で育ったのは、桜庭の家に生まれたからこそではありませんか。もう子供ではないというのなら、そのことに感謝して、それに報いる努力をなさい」
「育てた恩を振りかざすのなんて、卑怯じゃない! 大体、私たちを育てたのはお母さんじゃないわ、スミさんよ!」
 あ、馬鹿──と思ったが、遅かった。
「──……」
 母の周囲の空気が、すうっと冷える。能面のような無表情で、カチン、と音を立ててナイフとフォークを皿に置いた。
「……では、そのスミさんが甘やかせ過ぎたのがいけなかった、ということですね。桜庭の娘としての自覚くらいはあると思ったのに、愛美さん、あなたには失望しましたよ」
「失──」
 ひえびえとした声音で言われて、愛美の顔から、一気に血の気が失せた。
 握った拳が震えている。目に涙を滲ませ、唇をきつく噛みしめてうな垂れる妹の姿に、おれと兄は困り果てて顔を見合わせた。なまじ話がこんな方向へ向かってしまっては、おれも兄も、もう口を挟めない。思っていることを外に出せ、とは言ったが、愛美はやり方を間違えた。この場では、なによりそんなことは口にしてはいけなかったのだ。
 ここでおれと兄が愛美の味方をするようなことを言えば、母はもっと頑なになるだろう。話し合いどころではない。今後の状況も、悪いほうへと転がるばかりだ。
 ……これはもう、日を変えて改めて場を設定するか、母を抜いて、父と話をするしかないかな。
 そう思い、溜め息をついたおれは、水の入ったグラスを口に持っていきながら、レストランの中に顔を巡らせた。
 あまりにも雰囲気が殺伐としているためか、店員すらも近寄るのを遠慮しているこの場所とは違い、他のテーブルでは、みんな楽しげに食事をして、語り合ったり、笑い合ったりしている。ちょっと羨ましい。
 品の良さそうな年配の夫婦、三十代くらいの落ち着いた男女カップル、談笑する家族連れ、着飾った女性グループ。
 ニコニコしながらこちらに向かって手を振る若い女性──
 ぶっ、と水を噴き出した。

 ハ……ハルさん?



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