はるあらし

37.夢のあと



 エレベーターで下降して、チン、という音と共に扉が開いたところで、ちょうどホテルの正面玄関から外に出ようとしているハルさんを見つけた。
「ハルさん」
 走り寄り、声をかける。
 立ち止まってこちらを振り返った彼女は、イタズラを見つかった子供のような表情をして、小さく肩をすぼめた。
「まあ、見つかってしまいましたわ」
 セリフも表情そのままだ。さっきまでの決然とした態度からは想像もできないくらいの幼い顔つきに、おれはつい噴き出してしまった。
「このまま帰る気だったんですか? ひどいな」
「難癖をつけて言いたいことを言ったら、反撃が来る前にとっとと逃げるのが、喧嘩のセオリーというものでしょう?」
「そんな喧嘩のセオリー、聞いたことないですよ」
 どっちかといえば、それはチンピラのやり口です。
 ハルさんは改めてこちらにまっすぐ向き直ると、ちょっと上目遣いでおれの顔を窺った。
「……怒ってらっしゃいます?」
「どうしておれが怒るんです?」
 心底不思議になって問い返す。首を傾げたおれを、ますます顔を下に向け、それに伴ってますます黒目を上に向けたハルさんがもじもじと見た。
 今まさに説教されようとしゃちこばっている小学生を前にした、教師のような気分だ。微笑ましくて可愛くて、今にも笑い出してしまいそうなのだが、相手が真面目である以上、それはいかんなと精一杯笑みを抑え込むしかない。
「だって私、哲秋さんのお母様に対して、ずいぶん失礼なことばかり言いました」
「カッコよかったですね」
「礼儀知らずだと思われましたでしょう?」
「惚れ直しました」
 おれの答えに、ハルさんは、もう、と赤く染まった頬を膨らまして、手にしていた小さなバッグで軽く叩いてきた。
「私、真面目に言ってますのよ」
「おれだって大真面目です。……ハルさん」
 バッグを持ったその手を受け止め、おれは彼女の顔を見つめる。
 正面から返ってきた視線を捕まえ、微笑んだ。

「来てくれて、ありがとう。おれも愛美も、感謝しています」
 そのことだけは、ちゃんと言葉にして言っておきたかった。

「…………」
 ハルさんは少しの間、口を噤んでおれの顔を見て、すぐに今度は目線だけを下に向けた。顔はそのままなので、さらに赤くなった頬がよく見える。
 それを見たら、ちょっと苛めてやりたいような衝動が、むくむくと胸の中に湧いてきてしまった。好きな子を困らせてみたい、というアレだ。ハルさんのこういう顔は滅多に見られないから、なおさらもっと見てみたくなる。
 自分の手の中から離れていこうとする細い手首を、力を込めて握った。驚いたように目を上げたハルさんの耳元まで自分の顔を寄せ、声音を抑えて囁きかける。
「……いろいろと、嬉しいことも言ってもらえたし」
「私、何を申し上げましたかしら」
 もちろん、ハルさんはそれくらいですんなりと落ちてくれるような生易しい女性ではなかった。おれに片手を捕われたまま、赤い顔でとぼけてみせる。
「もう一度、今度はおれと二人だけの時に、言ってもらいたいようなことばかりでしたよ」
「女性の社会進出について、というテーマで語り合うんですの?」
「ほら、おれが、なんでしたっけ? 素晴らしい方、とか。素敵な男性、だとか」
「ステーキといえば、お肉料理をほとんど食べられなかったのが、かえすがえすも悔やまれますわ」
 ハルさんは本当に悔しそうな顔を作って、お肉がお肉がと言った。まったく憎たらしい。
「可愛いハルさんは、時々ものすごく可愛くないですよね」
「女というものがただ可愛いだけの生き物だ、と思い込んでいる男性の無知無理解に対抗するために、日々、闘っておりますの」
「…………」
 負けた。ぶふっと噴き出し、笑ってしまったおれを見て、ようやくハルさんがほっとしたように、表情を和ませる。
 それから、おれが解放した手を自分の胸のあたりで抱き留めて、ホテルの透明な自動ドアの向こうへと目をやった。
 ──薄暗いホテル内とは裏腹に、外では、初夏へと向かいはじめた抜けるように明るい青空が広がっている。
 ハルさんが、くるっとこちらを振り向いた。
「哲秋さん、これからお時間がありますか?」
「たっぷりあります。どこかに遊びに行きましょうか」
 どちらにしろ、食事が終われば、電話をして彼女をお茶に誘うつもりだったのである。予定よりもずっと早くなったのは、おれにとって幸運以外の何物でもない。
「私、行ってみたいところがあるんですけど」
「どこです?」
 訊ねると、にっこり笑った。
「屋上ではなくて、地上にある、本物の遊園地に!」
 弾む声で提案されて、おれもつい、声を出して笑ってしまった。
 本物遊園地か。長いこと行っていないが、気候もいいし、悪くない。時期が時期なので人出が多くてごった返していそうだが、ハルさんと一緒に長い行列を並ぶのも楽しそうに思えた。
「いいですね。行きましょうか」
「ええ。ですけど、ただ行って遊ぶだけじゃ、今ひとつ盛り上がりに欠けますから、設定を作っていきましょう」
 また設定か。こんなことをニコニコしながら言われても、まったく動じないあたり、おれも大分ハルさんに慣れてきたよなあ。
「構いませんよ。どんな設定にしましょうか?」
 また、姉と弟、とかかな。それともハルさんのことだから、もっと突拍子もないものを持ち出してくるのかな、と思いつつ問うと、返ってきた答えは、かなり意外なものだった。

「──仲の良い、恋人同士、という設定で」

 そう言って、ハルさんは、ふふ、と笑った。
「ジェットコースターで悲鳴を上げて、コーヒーカップで気分が悪くなるくらいぐるぐる廻って、二人で一つのポップコーンを食べて、バカみたいに大きな風船を持って歩いて、最後には、観覧車に乗って夕日を見て締めるんですわ」


          ***


 遊園地は、予想していた通り大変な混雑だったが、ハルさんは大喜びだった。
 聞けば、おれと同じで、学生の時以来、こういう場所にはご無沙汰だったらしい。広大なテーマパークというわけではなく、カップルよりは子供を連れた家族のほうが多そうな地元密着型の遊園地でも、こういう空気自体が久しぶりなのだと言って、目をキラキラさせてはしゃぎ廻っていた。
 その遊園地で、おれたちは、ほぼハルさんが口にした通りの行動をした。
 ジェットコースターに乗って、コーヒーカップを酔うまで廻して、ポップコーンを二人で食べて。風船も買ったが、それは羨ましそうに目を真ん丸にして見上げる子供にあげた。
 アトラクションにはどれも長々しい行列ができていたため、そんなにたくさん乗れたわけではないものの、その代わりに、ゲームセンターで遊んだり、二人でショーを観たりした。ショーは観客参加型ではなかったので、ハルさんは少し残念そうだった。
 上着を脱がないと少し汗ばむくらいの陽気に、隣を歩くハルさんの顔も上気している。ホテルの高級レストランで浮かないような格好をしていたおれたち二人は、逆に遊園地内では浮きまくっていた。周囲から奇異な目で見られることさえ、可笑しくて楽しい。
 広い園内ではあるが、なにしろ人が多いので、普通に歩くだけでも誰かにぶつからずに進むのが困難なくらいだ。ちょっと油断すると、ハルさんとの距離が離れてしまう。
 はぐれないようにと手を差し出したら、自然な仕草でしなやかな手が重ねられた。
 そうやって、二人で手を繋いで、ざわつく園内を歩いて廻った。

 歩道の端に植えられた木々の青葉が、眩しい日差しに照らされて輝いている。
 時々、なぶるくらいのゆるやかな風が、人々の間をすり抜けるようにして吹き渡る。
 子供の歓声が、誰かの笑い声が、陽気なお喋りが、時に近くに、時に遠くに、耳元を通り過ぎて消える。
 こんなにも喧騒が溢れているのに、おれたちの周囲を、ひどくゆったりと風景が流れていくような錯覚を覚える。
 繋いだ手の温もりが愛しい。

 まるで夢のように美しい時間だな──と、おれは歩きながら、ぼんやりと思った。


          ***


 空が薄いピンク色に染まりはじめた頃、観覧車に乗った。
 ハルさんの予定表で言うなら、この遊園地デートの最終演目だ。少しずつ日は長くなっていても、楽しい時間はあっという間に過ぎる。
 ゴンドラに乗り込んだ時から、めっきり口数が少なくなったハルさんは、小さな窓から暮れゆく外の景色を眺めていた。
 彼女の横顔を、通った鼻の線を、遠いところを見ているような瞳を、夕日の赤が薄っすらと染める。
「……ハルさん」
 呼びかけると、ゆっくりとこちらを向いた。
「遅くなりましたけど、これ」
 上着の内ポケットに入れていた小さな包みを取り出し、差し出した。ハルさんはきょとんとした顔でそれを受け取り、「なんでしょう?」 と不思議そうに言った。
「誕生日の、プレゼントです」
「まあ」
 両手で包みを持って、驚いたように目を見開いた。
「誕生日なんて、自分でも忘れていましたわ。哲秋さん、どうしてご存じなんですの?」
「釣り書きに書いてあったじゃないですか」
「まあ」
 また目をパチクリさせる。
「そんな以前にお渡ししたものをちゃんと覚えてらっしゃるなんて……女ったらしの素質がおありですのね」
「え、ここはそんな疑惑をかけられるような場面ですか?」
「女性に関するデータは一度見たら忘れない、とか」
「葵じゃあるまいし……ハルさんだから覚えてたに決まってるじゃないですか」
「まあ、やっぱり素質充分ですわ」
 意味が判らない。
「開けてもよろしいですか?」
「どうぞ」
 ちょっとばかり憮然として頷くと、ハルさんはリボンを解いて、丁寧に包装紙を剥がし、中の小さなケースを、自分の揃えた膝の上に置いた。
 蓋を開け、一拍の無言の後、ほんのりと笑みを零す。

「──あの時の桜を思い出しますね」

 呟くように、そう言った。
「…………」
 その言葉を聞いて、じんわりと温かいものが全身に沁みる。
 ハルさんも、そう思ってくれたのか。それだけでもう、これを選んだ甲斐があったというものだ。
「おれにとっては、特別な桜でしたから」
「私にとっても、そうです」
 小さな声でそう言って、箱から顔を上げたハルさんは、おれを見てにっこりした。手を自分の右の耳に持っていき、それまで付けていたピアスを外す。
 もう片方も同じように外すのを見て、おれはハルさんの向かいの席から、彼女の隣へと場所を移動した。広めの座席なので、大人が二人並んで座っても、まだ余裕がある。
 ハルさんが両方のピアスを外し終えると同時に手を伸ばし、その膝の上にあった小さな箱を持ち上げる。
 中から桜のピアスを取り出した。
 ドロップ式のそのピアスをつまみ、ハルさんの耳へと持っていく。ハルさんは若干斜めになった態勢で、髪を手で押さえ、大人しくじっとしていた。
 片耳に装着し終えると、今度は反対側を向いた。目を伏せ気味にしたハルさんの耳たぶがほんのりと色づいている。夕日に照らされて、高く上がってきたゴンドラ内は、全体が赤く染まっていた。そのせいなのかどうか、見分けがつかない。
 じりじりと動く観覧車。頂上はもうすぐそこだ。しんとした静けさが、狭い箱の中に、ぴんと張りつめた空気と共に満ちる。
 柔らかな耳たぶに触れていた指先を、かなり名残惜しい気持ちで離した。花の形の白いピアスを軽く弾いてゆらりと揺らし、そのすぐ近くにある白い頬をするりと撫ぜる。頬から顎へとなぞるように動かして、顔をこちらに向けさせた。
 両方の耳に桜のピアスをつけたハルさんが、瞬きもせずにおれを見つめる。
 ……うん。
 よく、似合う。

 ──これが、見たかった。

 顎にあった指を動かして、耳にかかった数本の髪の毛を梳いて後ろへと流した。そのまま、手の平で頬を包んで、顔を寄せた。
 ハルさんが目を閉じる。
 軽く、唇同士を触れさせた。
 それだけで、甘い痺れが、背中を駆けあがってくるようだった。離した唇を、今度は強く押し当てて重ねる。
 かすかに漏れる息遣いが聞こえた。混じる呼気が、どこまでも熱い。
 桜のピアスが、しゃら、とひそやかな音を立てた。


         ***


 一周したゴンドラから降りると、空も雲も、すっかり茜色に染まりきっていた。
 もうすぐ陽が落ちきって、宵闇が辺りを支配しはじめるのだろう。いつの間にか、遊園地の中からは、無邪気な子供たちの姿が消えつつあった。あんなにもたくさんいた家族連れが少なくなり、代わりに身を寄せ合うカップルたちが目につくようになる。
 子供の時間から、大人の時間へと移り変わる、曖昧な境目の時間帯。逢魔が時というやつだ。
 次第に濃く深くなっていく朱色を浴びて、おれの数歩前を歩くハルさんの背中が見える。細いけれど、しっかりとまっすぐ大地に立っている後ろ姿に、目を奪われる。
 と、その足が、ぴたりと止まった。
 ん? と思っておれも足を止めたが、ハルさんはそのままじっと動かない。また何か変なことを思いついたんじゃないだろうな、とおれは苦笑した。
「ハルさん?」
 名を呼ぶと、少しの間を置いてから、ハルさんが振り返った。
 その顔にあったのは、いつもの人を喰ったようなニコニコした笑いではなく、それを引っ込めた心細そうな表情でもなかった。

 おれの知らないハルさんが、そこにいた。

 淡い微笑み。感情が見えない。いや、違う。たくさん感情がありすぎて、それがあまりにも複雑すぎて、ひとつに絞りきれない──そんな感じだった。それを、無理やり、微笑という形にしている、ように見えた。
 菊里氏の葬儀の時のように、すべてを閉じて凍らせてしまっているわけではないのに、おれはそこにあるものを読み切れない。困惑して黙る。
「哲秋さん」
 ついさっき、互いの熱を分け合った唇から、おれの名が滑り落ちた。そのことに、心が浮き立ってもよさそうなものなのに、おれの胸の中にあるのは、なんともいえない焦燥と不安だけだった。
 さあ、と涼しい風が吹いて、ハルさんの髪を宙に舞わせた。それに合わせて、桜のピアスもゆらゆらと揺れる。
 周りにまだ多く人はいるはずなのに、そういうものが一切意識から飛んだ。
「哲秋さん」
 もう一度、自分の中で噛みしめるような口調で名を呼んで、ハルさんは視線を下に向けた。
「……ハルさん?」
 おれの声が、自分でも判るほど奇妙に強張っている。どうしてだ。デートして、キスをして、今は楽しい時間の途中、のはずじゃなかったのか。

 どうして、そんな顔をしてるんだ、ハルさん。

 おれに呼ばれて、ハルさんはゆっくりと顔を上げ、おれと目を合わせた。
「ありがとう。今日一日、とても、楽しかったです。……夢のように」
 まだ夕方だ。一日が終わったわけじゃない。観覧車で締め、とハルさんは言ったけど、それは遊園地デートの話だろ? 時刻は宵の口、他の場所でいくらだって遊ぶことも出来る。夕飯だってまだ食べてない。
 どうしてそんな、別れの言葉のようなことを、今、口に出すんだ?
「桜のピアスも、ありがとう。本当に、嬉しかった。ずっと、大事にします」
 おれは、そんな表情をさせたくて、そのピアスを贈ったわけじゃない。ハルさんが笑っていてくれたらおれも幸福な気分になれるから、それだけだった。
 望んでいたのは、そんな笑顔じゃない。
「ハルさん」
 思わず一歩を踏み出し、強い声を出した。しかし、それと同時に、ハルさんが一歩後ずさり、おれは混乱してしまう。
 どうして逃げるんだ?
「ハルさ」
「哲秋さん」
 ハルさんの声はずっと穏やかなままなのに、おれの言葉を遮るだけの力があった。それだけの決意を背負っている、顔と声だった。
 その視線は、逸らされもせず、一直線にこちらに向かってきている。

「……最後のデートに付き合ってくれて、ありがとう」

「な……」
 身体と思考が硬直した。舌が動きを止め、その先の言葉を続けられない。
 ──なに言ってるんだ?
 声が出ない分、頭の中でがんがんと疑問ばかりが反響する。
 最後のデート? これもまた、ハルさんのお遊びの一種なのか? はじめてのデートで、デパートの店員を困らせた時と同じように、おれを困らせようとしてるのか?
 そうだと言ってくれ、と切実に願った。
 冗談です、と笑ってくれ。
 ハルさんは、目を逸らさず、ずっとおれと正面切って向かい合っていた。でも、瞳は頼りなく揺れていた。微笑の形を作っていた唇が、わずかに震えている。
「明日あたり、正式に仲人さんから、お返事が届けられると思います。今回の桜庭哲秋さんとのお見合いは、菊里のほうからお断りいたしますと」
「……なに、言って」
 だからそれは、お試し見合いの話だろう? おれのほうから断るから、改めて付き合ってほしいと申し込んだ。それは待って欲しい、とハルさんが言った。あの話の続きなのか?

「──菊里商事は、なくなります」

 一瞬、その言葉の意味が判らなかった。
「なくなる……?」
「いいえ、会社自体は、存続いたします。桜庭傘下であるのも、今までの通り。ですが、あの会社はもう、菊里という名前ではなくなります」
「…………」
 ハルさんの言葉に、手の指の先がすうっと冷えた。血液が逆流するように感じる。
 なにを言ってるんだ、と言いたいところだが、おれの頭はすぐに、ひとつの可能性を弾きだしていた。

 菊里商事を調べているうちに浮かんだ、かすかな危惧。
 最悪の場合の可能性として、ひそかにおれが考えていたこと。

「兄の響は、菊里商事の後継者として、認められませんでした。本人も、それを了承しました。菊里の家はあの会社から完全撤退し、別の社長を立てて、そちらに全権限を譲渡します。いずれ近いうちに、取締役会で承認された新社長と、新しい社名が発表されることになります」
 桜庭と菊里の縁は断たれました──と、ハルさんは静かに言った。



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