はるあらし

39.証明作業



「──放棄、というと?」
 静かな口調で問い返したのは父だった。
 母は口を開けたまま、言葉も出せずに顔色を変えていた。兄は強張った表情、蒔子さんは困ったように夫と義理の弟を見比べ、妹は口をへの字にして泣くのを我慢するような顔をしている。
 唯一普通に話が出来そうな父に、おれは正面から向き直った。
「桜庭に関わるすべての権利を放棄するということです。おもに金銭的なことになりますかね。今後、おれは桜庭が所有する財産その他について、一切、口出ししません。籍を抜いて勘当扱いにしてもらっても構いませんが、法律的にはちょっと難しいようなので、とりあえず、父さんが亡くなった場合、相続を放棄するという形になるんじゃないかと思います」
「おい、哲!」
 兄が叱りつけるように名を呼んだが、そちらは見なかった。目を合わせている父のほうは、表情こそまったく変わらなかったものの、自分の死後の話に、わずか、面白がるような色を瞳の端に浮かべた。
「法的な云々は差し置いて」
 ゆっくりと手を口元に持っていったのは、もしかしたら、そこが上がりかけているのを隠すためだったのかもしれない。実際、父が、こんなにも 「楽しそうに」 しているのを見るのは、生まれてはじめてだ。

「つまりお前は、以後一切、桜庭の家と関わらない、と言うわけだな?」
「そうです」

 おれが肯定すると同時に、「バカなことを!」 と癇癪玉が破裂するように、母が叫んだ。
「哲秋さん、あなたさっきから、なにを馬鹿げたことばかり言ってるんですか! そんなこと、許されるはずがないでしょう! 頭がどうかしてしまったんじゃありませんか?!」
「おれは至って正常です」
 そう言って、今度は母のほうを向いた。
「お母さんの言ってることも相当おかしいですね。あれも許さない、これも許さない、と言われても、おれはもう自分のことが判断できない子供でもないんですから、そうそう肯えるはずがないじゃないですか」
 着物姿の母は、仁王立ちでおれを睨みつけていた。同じく立っているおれからは、その頭のつむじまでもが見える。いつの間におれは、この母親のことを、こんなにも小さく感じるようになったんだろう。
「わたしはあなたの母親ですよ!」
「そうです。でもだからって、子供の人生のすべてを支配できるなんて考えていたら、大間違いです」
 親子であろうが、別々の個をもった人間、人生はその人間だけのもの。成功しようが失敗しようが、自分の人生の責任は本人にしか負えない。当たり前のことだ。
「今まで、この家で何不自由なく暮らせていたのは──」
「父さんと母さんのおかげです。それは承知しています。桜庭の家は、衣食住については平均よりもずっと恵まれているということも、自分で判っています。だからこそ」
 そう、だからこそ。
「……おれは今まで、この家で桜庭の次男としての義務を果たしてきたつもりなんです。そこそこ上手く立ち回って、適当に流されて、本音を隠して」

 望まれているのは、桜庭の付属品としての自分。強い個性は必要ない。誰とも衝突せず、波を立てることなく、円滑に人間関係と物事を進めていけばいい──それが 「次男」 としての義務だと思っていたから。

「でも、母さんは、それ以上の義務を負うことが必要だと言うんでしょう。この家にずっと縛り付けて、好きでもないどこかのお嬢さんを妻にして、将来的にはグループの取締役に納まって、仕事はしなくても配当だけで食べていけるような暮らしをしろと」
「それは……それは、すべてあなたのために」
「お断りです」
 すっぱり言うと、母は目を見開いた。
「すみませんが、そんな人生は真っ平御免です。おれはそこまで何もかもを諦めるほど、達観してはいません。母さんが押しつけるおれの 『幸せな人生』 には、カケラもおれの幸せは存在していません。母さんの考える幸福と、おれの考える幸福とは違う」
 愛美が、ゆっくりと深く頷くのが見えた。
「──でも、それは、いくら口で言っても判らないでしょう?」
 どれだけの言葉を費やしても、判らないものは判らない。人と人との間には、どうしても判り合えないものもある。それがたとえ、血の繋がった実の母親でも。
「ですから、行動に出ることにしたんです。おれは桜庭の家を出て、自分の人生を自分で見つけ、そして幸福を手に入れる努力をします。その過程を実際に見て、納得してもらうしかない。母さんの求める 『桜庭の次男としての義務』 を果たせないのだから、当然、『桜庭の次男としての権利』 も放棄するということになります」
「い、家を出て、それからどうすると言うんですか。あなただけで生活していくとでも」
「もちろん、そうですよ」
「そんなことが、出来るわけ」
「どうして、出来ない、なんて思うのか、そっちのほうが疑問ですよ。確かに家事には精通していませんので、それはこれから慣れていくしかないですけどね。家賃も生活費も、ちゃんと自分の給料内でやっていけます」
「給料──そ、そうですよ、お仕事は」
 そこで母が、はっと思いついたように目を輝かせた。
「お仕事はどうするつもりなんです」
「当然、続けます。おれの収入源ですし、なにより、好きですから」
 こともなげに答えると、母が勝ち誇ったように、そして安堵したように、満面の笑みを浮かべた。
 判りやすい人だなあ、と、ちょっと感心した。
「桜庭の会社にお勤めしたまま、桜庭とは縁を切るなんて、矛盾していますよ。つまりあなたの言うことは、ただの幼いワガママということではないですか。お父様がその気になれば、あなた一人を辞めさせることなんて造作もないことです。哲秋さん、子供じみたことばかり言うのも大概にして──」
「そうですね。そりゃ、父さんがその気になれば、おれを辞めさせることくらいは出来るかもしれないですね」
「そうですとも。あなたもいい加減大人になりなさい」
「でもね、その場合」
「は?」
「おれは、桜庭唯明という人を訴えますよ」
「なっ……」
 母と兄が揃って目を丸くし、父が口元に手をやったまま、少し俯いた。
 ……それ、絶対、噴き出すのを堪えてるだろ。
 実の父ながら、この人は、母よりも何を考えてるのか判らない。
「詳しく説明しませんでしたから、母さんはよく知らないと思いますけど、おれはあの会社に、父さんの口利きで入社したわけじゃないんです。普通に入社試験を受けて、採用されました」
 あの会社を選んだのは、桜庭直系の企業でなければ母親が承知しないだろうと思ったためで、最初からコネで入社するつもりはなかった。だから、ただの一学生として素知らぬ顔で書類審査をパスし、筆記試験を受けた。
 一次面接、二次面接と通っても全然バレなかったので、案外父親の名前は認知度が低いんだなと、かえっておれのほうが驚いたくらいである。最終的に、役員面接でバレたので、父を通して、その事実は上のほうだけで留めて、通常の新入社員として扱って欲しい、ということを頼んでもらったのだ。
「おれは父さんの一存であの会社に入ったわけではないんですから、父さんの一存で辞めさせることは筋が通らないでしょう? いくら企業のトップでも、真面目に働いている社員を、理由なく解雇することは許されません。たとえそれが可能だとしても、やってはいけないことだ。法律的にも、倫理的にもね。ですからその場合、おれは桜庭唯明と会社を相手取って訴えを起こし、戦います。それは労働者としての正当な権利ですから」
「な……なんてこと、哲秋さん、あなた……」
 母は唖然として声も出ないらしい。身体から力が抜け、へたへたとソファに座り込む。おれは黙って、その様子を眺めていた。
 権力は、すべてにおいて万能ではない。そのことを、母ももうそろそろ、知ってもいいのではないか。

 大事に掲げている桜庭の名前は、時に、道に転がっている小石ほども役には立たない、ということも。

「──哲秋」
 ちらっと母のほうを一瞥してから、兄が低い声を発した。
「それでお前、どうするっていうんだ。この家を出て」
「おれはおれだし、別に何も変わらないよ。桜庭の姓を名乗ることを許さない、っていうのなら、ちょっと面倒だけど何とかする」
「そんなことを言ってるんじゃない」
 怒ったように眉を上げ、強い調子で遮った。
「一人の女のために、これからの人生を棒に振るのか、ってことだ。お前、ちょっと目が眩んで正常な判断が出来なくなってるだけなんじゃないのか。それとも、菊里商事のことで、おれや父さんに恨みでも持ってるのか。言っておくが、あれは自業自得だぞ。能力とこの先の覚悟を持たない人間が、自分の負うべき責任を放り投げた、それだけのことだ。お前もそれと同じことをするつもりか」
「…………」
 おれは静かに兄を見返した。
 父と同様、切り捨てるところは冷淡に切り捨てる兄。こういうところを響氏が少しでも持ち合わせていれば、確かに菊里商事は今もその看板を守っていられたかもしれない。
 ……でも、おれは、そこに是や非があるとは思っていない。
 兄から見れば、響氏やハルさんは、自分が抱える覚悟を、自分の勝手で捻じ曲げた無責任な人間、ということになるのだろう。けれど彼らが、本当に、迷って悩んで、苦しんで、その上で出した結論だというのも事実なのだ。
 響氏もハルさんも、自分なりにあの会社と、そこで働く人々を守ろうとした。自分の信念を貫いた。数ある道の中で、いちばん後悔しない方向を目指して足を踏み出した。
 上も下もない。正しいも間違いもない。あるのは、社長と名称の変わったあの会社が、今も滞りなく順調な経営を続けているという、現実だ。
「おれは、桜庭の義務と権利を放棄するとは言ったけど、自分の人生まで捨てるなんて言ってない。そのつもりもない。むしろ、逆だ」
 兄は何か、勘違いをしている。
「おれはね、かなり貪欲な人間なんだよ。金も権力もなくていい、なんて考えてるわけじゃない。ただ、得るのなら、自分の力で欲しいだけだ。与えられるものでは満足できない。上のほうに行くのなら、自力でそこまで行く」

 おれはちっとも無欲な人間なんかじゃない。あれも欲しいし、これも欲しい。
 でも、自分の力でだ。
 欲しいものは、自分で選び、自分で掴みたい。そう望んでいるだけだ。
 仕事も。報酬も。誇りも。人生も。未来も。
 生涯の伴侶も。
 それらの何ひとつとして、「桜庭の次男」 という肩書を必要とするものはなかった。

「……兄さんは、蒔子さんと一緒にいて」
 兄の隣に座る蒔子さんに視線を移した。いつもと様子の違う叔父に戸惑っているのか、神妙な顔つきで大人しくしている子供たちを抱き、蒔子さんは少しだけ微笑んだ。
「ほっとするんだろ。兄さんの周りにいるのは、昔から、追従ばかりを口にして、決して本当のことを言わないような連中ばかりだったから。そういう人間の上に立つには、いつもその裏ばかり読んでなきゃいけない。だから他人の気持ちを読み取ることが得意になった。その点、蒔子さんは表も裏もない。だから、誰よりも寛げて、安心するんだろ」
 蒔子さんが一といったら、そこには本当に一しかない。その裏に、二や三が隠れているということはない。そういう女性だから、兄は彼女を妻にと望んだ。
「けど、おれのハルさんはね」
 おれのハルさんは、全然違う。
「いつも、大事なことは、なんにも言ってくれない。ハルさんが一と言ったら、場合によってはその後ろに五も六も隠れていることがある。何気ない一言に、実はとんでもなく重要な意味が含まれていたんじゃないかって、あとで思い返すたびヒヤヒヤして、全然油断できない。可愛くないことばかり言うし、時々憎たらしいくらいだし、どうしてもっとおれを頼ったり甘えたりしてくれないんだって、ものすごく腹が立つこともある」
 遊園地で走り去る背中を見ながら、おれがどれほど本気で怒ったか、ハルさんは判っているだろうか。
 いつも怒る前に諦めてしまうおれを、こんなにも怒らせることの出来る人間は、きっとハルさん以外にいない。
「でもさ」
 それでも、やっぱり。
「……彼女が笑うと、おれは本当に幸せな気分になれるんだ」

 ハルさんは、おれを最も怒らせることの出来る人だが、おれを最も幸せにさせることが出来る人でもあるんだ。

「菊里商事のことで、父さんや兄さんに何かを思ったりしていない。それは、ハルさんだってそうだろう。彼女は彼女の意志で、その道を選び取ったんだから。おれも、おれ自身の意志で、自分の人生の方向を決める。そしてその責任を、自分自身で負う」
 菊里商事の問題に、おれを巻き込ませまいとしたハルさん。彼女が歪まないようにと望んでくれたおれの人生と、おれはおれなりに、まっすぐ向き合っていきたい。苦さも後悔もあるけれど、そこに少しずつ砂をかけて埋めていきながら、代わりに新しい何かを見つけていければいい、と思っている。
 道しるべになる何か。
 そしてそれを見つけるのは、ハルさんと一緒にでありたいと願っている。
「…………」
 深い溜め息をつき、兄が口を閉じて黙り込む。蒔子さんがそっとその膝に手をかけ、優しく微笑を浮かべて、ぽそりと何かを呟いた。
 お兄ちゃん寂しいのねえ、と言ったようだが、兄は聞こえないフリをしている。おれも噴き出しそうになるので、聞こえなかったことにした。

「哲秋」
 次に名を呼んだのは父だった。

 父は、最初から何ひとつ変わらない姿勢でソファに座ったまま、おれにじっと目を向けていた。さっきまで下を向いて笑いを噛み殺していたとしか思えなかったのに、そんな素振りはちらとも見せない。喰えない人である。
「はい」
「そこに、壺があるだろう」
「は?」
 一瞬ぽかんとしてしまったが、父が指差す方向、おれのすぐそばにある飾り棚には、確かに美しい青色で複雑な龍の模様の描かれた、細身の壺状の陶磁器がある。
「これが何か?」
「手に取りなさい」
「……?」
 まったく意味は判らなかったが、おれはその壺を手に取った。
 さてはこれの長ったらしい由来でも話して、そこから説教に移行させるつもりかな──と思ったのだが、全然違った。
「そのまま、下に叩きつけなさい」
「えっ」
 その言葉に、ぎょっとしたのはおればかりではない。家族が一斉に目を剥く。この壺に関する詳細はよく知らないが、れっきとした骨董品であることは間違いない。そう目利きではないおれですら、ゼロが六個つくほどの品物であることくらいは判る。
「どういう……」
「早く!」
 ぴしりと鞭打つような鋭く威圧的な命令に、何を思う間もなく身体が反応した。その瞬間、この壺の中に毒ヘビでも潜んでいて、誰かの命を狙おうとしているのでは、という荒唐無稽な発想が過ぎったからだ。父の声と言い方が、いかにもそういう、一刻の猶予もない、という感じだったのである。
 ガシャン! という、値段のわりには軽い音を立てて、床に叩きつけられた壺は、木端微塵に割れて壊れた。
「あーあ、割ってしまったな」
「はあ?」
 打って変わってのんびりした声で、父が頭を振り振り、残念そうに言う。なに言ってんだ? とおれが混乱しきっているのも、まったく気にする様子がない。
「二百万だ。弁償しなさい、哲秋」
「はああ?」
 素っ頓狂な声を出すのは、無理もないことだと自分でも思った。おれ以外の家族もすっかり茫然自失していたが、父だけはまったくもって平然としている。
 変だ、この人。
 今まであまり接することがなかったので気づかなかったが、この人、母よりも、ハルさんよりも、変だ。
「父さんがやれと言ったんでしょ?」
「割れとは言ってない」
「きったな……」
「私が善人だとでも思うか。しかしまあ、お前はこれからこの家を出て、さして多くもない給料で生活していくということなので、その点を考慮して、弁償代金は分割払いにしてやる。最後の肉親の温情として、無利子にもしてやろう。毎月一万ずつ、ここに支払いに来なさい」
「一万……」
 二百万を、月一万ずつの分割返済? どれだけかかると思ってるんだ。単純計算でも十六年かかる。
「……つまり、桜庭と縁を切ることは許さない、と?」
 そう訊ねると、父はほんの微か、片方の眉を上げた。
「私は、要らんというやつにまで自分のものをくれてやるほど、懐が広くはない。家を出るというのなら出て行けばいいし、財産についての権利を放棄するというのなら勝手にすればいい」
 母が何かを言いかけたが、父はそちらには見向きもしなかった。
「しかしお前はさっき、幸福になっていく過程を見てもらうしかない、と言っただろう? そのためには、どうするね? 私が誰かを使って調べるか? それとも母さんがいちいち様子を見に行くか? それよりも、お前がこちらにその姿を見せに来るのが筋というものじゃないかね。お前は桜庭の次男という肩書を放棄する、と言ったのであって、親兄妹を放棄する、と言ったのではあるまい。であれば、しっかりと、お前の幸福とやらを我々に見せた上で、少しずつでも話し合いをして、溝を埋め、価値観や考え方を理解してもらうように努力するべきだ。母さんにも、智にも、そうかお前はそれでよかったんだなと認めさせてやってこそ、本当の大団円、と呼べるのではないかね?」
「…………」
 悔しいが、ぐうの音も出なかった。
 痛いところを突かれたな、と思う。
 ここを出て、桜庭の名前とは無関係に暮らしていこうとしたって、それはやっぱり、母たち家族の気持ちをすべて置き去りにして、ただ自分を優先させる、というだけのことだ。幸福を望むのと、自分のことしか考えないのとは違う、と父は言っている。

 ──自分が選んだものがどういうものだったか、後悔しない生き方が出来ているのか、時間がかかっても、おれはおれ自身の手で、それを証明していかないといけない、ということだ。

 母も、兄も、口を結んで動かない。愛美と蒔子さんは顔を見合わせ、父とおれとを窺っている。
「……わかりました」
 と、おれは言った。
 月に一度、この家を訪れた時、おれを出迎えてくれるのは、誰なのだろう。
 母か、兄夫婦か、妹か、スミさんか、それとも父か。
 おれは、その誰に対しても、いつでも堂々と胸を張っていられる自分でありたいと思う。
 いつか、ここに来るのが、二人になり、三人になり、みんなで賑やかに笑い合えるような。
 そんな未来が来るといい。


「……あの、ぼっちゃん、引っ越し業者の方がおみえになって……」
 スミさんが、遠慮がちにリビングのドアから顔を覗かせ、困惑したように告げた。今行くよ、と返事をしてそちらに向かう。
 引き止める声はない。誰もが無言の中で、父がこちらを振り返りもせず、いつもと変わらない顔と態度で口を開いた。
「それで愛美、お前も私に何か言うことがあるんじゃないのかね。哲秋が岬を丸め込んで結構な時間をもぎ取ったのでね、今なら聞けるが」
「え、あ、は、はいっ。あります!」
 ぴしゃんと跳ねるような愛美の声を聞きながら、おれはリビングのドアを通り抜けて、こりこりと頭を掻いた。
 やれやれ。
 まだまだ、あの父には敵わないよなあ……。


          ***


 引っ越しを終えると、おれはすぐにハルさんの自宅へ向かった。
 インターフォンを鳴らし、向こうから出てきた、「はい」 という声は、響氏のものだった。家を売って、という話も出ていたらしいので、まだちゃんとここにいたことに、ほっとする。
「桜庭です」
「…………」
 名乗ると、しばらく沈黙があって、すぐに行きます、と返事があった。
 少しして、丸っこい体格の響氏が姿を見せ、外階段を降りてきた。足を動かしながら、すでに泣きそうな顔で、おれに視線を向けている。
 黒い鉄製の門扉を挟んで、おれと向かい合う。気まずげな顔をしているが、それを内側から開けることはしなかった。
「……桜庭さん」
「ハルさんはいますか」
 今にも謝罪の言葉を出しそうな響氏を遮り、おれは性急に問いかける。着信を拒否しているのだろう、ハルさんへの電話は繋がらない。だったらと思ってこうして家にまで押しかけてきたのだ。会いたくないと言われても、なんとしても会うつもりだった。
「──ハルは、その」
 言いかけて、口を閉ざす。うろうろと目線があちこちに行っているのは、ハルさんに止められているからなのか。それとも、響氏本人が言いたくないためなのか。
「あの、桜庭さん、今回のことは、大変申し訳ありませんでした。あの子が(仮)の付き合いなんてことをそもそも言いださなければ、あなたが余計なことを思い煩うこともなかったのに。でもそれは、全部、僕の……」
 僕のせいなんです、というお決まりの台詞が出かかるのを、思いきり門扉を叩いて阻止した。ガシャンという甲高い音に、響氏の身体がびくっと縮み上がる。
「申し訳ないんですが、あなたの感傷に付き合っていられる余裕はないんですよ。菊里商事はもうない。おれは桜庭の家を出た。そんな名前とは離れたところで、もう一度ハルさんと話をしたいんです。過去のことはもういい。これからのことを話すために、おれはここまで来たんです」
「え、桜庭の家を出たって……」
「お願いします」
 ぽっかりと口を開ける響氏に詰め寄り、おれは真剣な顔で言った。
「ハルさんに、会わせてください」
「…………」
 響氏は長いこと黙ったまま、気弱で優しげな瞳でじっとおれを凝視していたが、やがて、小さな息を吐きだした。
「ハルは、今、空港に向かっているところです」
「空港?」
 さっと緊張が走る。胸の中に、嫌な予感が充満した。
「……僕と母は、この家を売って都会を離れ、もっと空気の良い、のびのびとした土地に移住しようかという話をしているんですが、ハルはどうしてもそれは嫌だというもので……だったらいっそ、海外に行ってみるのもいいかと」
「何時何分の飛行機ですか!」
 響氏の言葉が最後まで終わらないうちに、怒鳴っていた。その剣幕に押されたように二、三歩後ずさりして、響氏がもごもごとどもりながら答える。
「えっ……と、た、確か、十七時三十分……」
 おれは直ちに踵を返して、駆けだした。
「えっ、あの、桜庭さ……」
 後ろで響氏が慌てたように何かを言っていたが、まったく耳に入らなかった。



BACK   TOP   NEXT

Copyright (c) はな  All rights reserved.