はるあらし

4.釣り書き拝見



 結局、ハルさんの言葉の裏付けをとっただけで、他にはこれといった収穫もないまま、おれは兄の家を辞去した。
 もう少ししたら蒔ちゃんたちが帰ってくるぞ、と兄は引き止めてくれたが、これ以上家族水入らずの休日を邪魔しちゃ悪いからと断った。小さな甥と姪は可愛いが、正直、兄夫婦のノロケ合戦に付き合う気力は、今のおれにはない。今度は菓子やオモチャの手土産をたくさん持って、改めて訪問するからと約束した。
 マンションのエントランスを出ると、外の空気がひどく冷たく感じられた。


          ***


 家に帰ったら、母も妹も出かけて留守だった。
 スミさんに聞くと、母は奥様連中との食事会に、妹は友人と遊びに出かけたという。この家ではめっきり存在感の薄い父は、いつも平日休日関わりなく、仕事で全国を飛び回っている。おれは昔から、あの人が家で寛いでいる姿をほとんど見かけたことがない。
「ぼっちゃん、何か軽く召し上がりますか」
 とスミさんに言われ、そういえば朝からロクに食べてなかった、と思い出した。うん頼むね、と返してダイニングの椅子に腰を下ろす。
 家の中は、しいんとした静寂で満たされていた。キッチンのほうで、スミさんが食事の支度をしているらしい、カチャカチャという音がかすかに聞こえてくるくらいだ。

 ……子供の頃は、この静かさが苦手だったんだよなあ、とおれは窓の外に目をやりながら、ぼんやりと考えた。

 父と母の不在が多いこの家では、家族全員が顔を合わせるなんて機会、本当に滅多にない。兄弟は三人いても、ほとんどがそれぞれ塾だの習い事だので予定が詰まっていて、朝食と夕食の時くらいしか会わないなんてこともザラだった。
 だから、たまにぽっかりと予定が空いたりすると、この広大な家の中に自分以外の家族がだーれもいない、という状況に陥ることがあって、そのたびおれはその静かな空間に、ひたすら居心地悪い思いを抱えたままぽつんと一人で座っていなければならなかったのだ。
 もちろんスミさんはいるし、他のお手伝いさんたちもいる。不便なことなんて、何もない。一人っ子で両親は共働き、という家庭はいくらでもあるのだろうから、この程度で寂しいだのなんだのと零すのは傲慢というものだろう。おれは特別孤独に弱いというわけでもないし、それは兄も、妹も同様だと思う。
 ──でも。
 兄が蒔子さんと結婚した時、どうして立派ではあるがこの家に比べれば格段に狭いマンションに居を構え、二人だけで新生活のスタートを切ろうとしたのか、おれはなんとなく、その気持ちが判るような気もするのである。
「そうそう、ぼっちゃん」
 キッチンからパタパタとスリッパの音を響かせて、少し慌てたようにスミさんが顔を覗かせた。
「申し上げるのを忘れてました。奥さまから、ぼっちゃんにお言伝があったんですよ」
「言伝?」
 問い返すと、スミさんはこくこくと頷いて、おれに向かってA4サイズの封筒を差し出した。
「こちらに目を通しておくように、とのことでございましたよ。まあすみません、ぼっちゃんがお帰りになったらすぐにお渡しするつもりで大事に持ち歩いておりましたのに、すっかり忘れて。もうトシですかねえ」
 スミさんはぶつぶつと言いながらも、恭しい手つきでおれにそれを手渡すと、「確かにお渡ししました」 と確認するように言って、またキッチンへと戻っていった。
 その背に、ありがとう、と一言声をかけてから、おれは眉を寄せその茶封筒をしげしげと眺める。表にも裏にも何も書かれておらず、厚みはないがボール紙でも入っているかのような固い手触りがする。なんだこれ?
 封筒の中に指を入れ、中に入っているものを引っ張り出したおれは、そこにあったものを見て、少し驚き、同時に、呆れた。

 ──見合い写真と釣り書きじゃないか。

 まさか 「次の」 見合いの分を早々に用意したんじゃないだろうな、と一瞬心配になったが、写真館の名の入った台紙の薄紙の下から現れたのは、着物を着て微笑んでいるハルさんだった。
 今日見た振袖とは別の、淡いピンク色の着物を着ているが、淑やかに座っている全身像は、今日会ったハルさんそのままだ。つまりこれは、ごく最近、わざわざ見合い用に撮ったものだということだろう。
 写真と一緒に添えられていた白い無地封筒には、きちんと整った筆跡で、「釣書」 と書かれてある。これがハルさんの字なのかな、とおれはちらっと思った。
 それにしても、見合いが終わった後で、「忘れてました」 とでも言わんばかりのこの渡し方って、どうなんだ。実際、スミさん渡すの忘れかけてたし。写真も釣り書きも見せずに本人をまず連れて行って会わせる、なんていうやり方、あまりにも相手をないがしろにしてるよな、と今さらのように罪悪感を覚えずにはいられない。ハルさんは、ちゃんと事前にこうして写真も釣り書きも用意していたっていうのに。
 ……それだけ、おれの母親が、ハルさんとハルさんの家を、軽視している、ということなのだろう。
 いや、でもおれも、人のことは言えないか。さっさと断るつもりで、釣り書きなんてそもそも最初から見る気もなかったんだから。
 少しやりきれない気分になって、おれは慎重に封筒からぴしっと三つ折りにされた便箋を引き出した。
 便箋を横向きにして縦書きで文字が几帳面に並べられている。こういったものを見るのは初めてなので、定型とかそういうものがあるのかは判らない。とにかく書かれてあるのは万年筆での手書きで、その字は封筒に書いてあるものと同じ筆跡だったから、おそらくハルさん自身が書いたものなのだろう、ということくらいは判った。
 おれはちょっと姿勢を正して、順番にその釣り書きを読み進めていった。


 最初に書かれてあるのは、[氏名と生年月日] だ。
 菊里春音、とあり、西暦で何年何月何日、と記載がある。ハルさんはやはり名前のとおり春生まれだった。今度の四月で二十五歳、なるほど。
 続いて、[本籍、現住所]。
 ハルさんが住んでいるのは、ここから車で三十分ほど離れたところらしい。けっこう近い。それにしても、これ、モロに個人情報だな。今日知り合ったばかりの女性の年齢から住む場所まで、こうもあからさまにされると少し気が咎めた。ハルさんは美人で男にも狙われやすそうだから、もうちょっとこういうことは慎重にした方がいいんじゃないかな、と余計なことまで考える。もちろん、おれは誰にも洩らさないと誓います。
 それから、[学歴]。
 小・中・高校と公立で、大学は国立の経済学部。高校も大学も偏差値の高いことで知られるところだ。
 へえ、とおれはちょっと意外に思った。ハルさんの家は会社を経営しているというのだから、経済的には恵まれているのだろう。そういうところの親は、娘を幼稚園や小学校のうちから、名の通った有名私立などに入れたがるケースが多いのだが。
 ハルさんの両親は、よほど堅実な考えの持ち主なのかな。ちなみに我が家は母の絶対命令で、兄妹三人とも、小学校から大学までエスカレーター式の名門私立校出身である。
 次の、[職歴]、というところで、また驚いた。
 (株)菊里商事海外事業部、とある。菊里商事、ってつまり、自分の父親が経営している会社じゃないか。
 いや、父親の会社に就職するということ自体は別に珍しくないのかもしれない。しかし普通、社長令嬢が勤めるといったら、ゆったりした秘書課あたりになりそうなものだ。海外事業部って、かなりハードかつシビアな部署じゃないか?
 [特技・資格]。
 特になし。
「…………」
 ここでおれは少し口を曲げた。
 いや絶対ウソだろ、これ。海外事業部にいるのなら、少なくとも英語は堪能でないとやっていけないだろ。一般的に、ここはそういうことを張り切って書く欄じゃないのか。それとも、そんなものは特技と呼ぶほどのものではない、ってことなんだろうか。
 次が、[趣味]。
「…………」
 そこを見て、おれはますます口の角度を深くした。
 テニス、音楽鑑賞。
 うん、ここまではいい。確か、見合いの場でも、ハルさん本人が母に問われてそう答えていた。

 ……でも、その後に続く、「演劇」 って、なに?

 観劇、の間違い? 演劇鑑賞、ってことなのか? それとも学生時代、演劇部にでも所属していた、って意味なのか? そんなこと、一言も言ってなかったけど。
 今日のハルさんを思い返すに、非常に意味深な言葉に思えてしまうのだが、それって、おれの気の廻しすぎなんだろうか。
 演劇、の下には、「散歩」、とある。
 散歩……散歩が、趣味。まあ、いいんだけど。
 その下にあるのが、「観察」 と 「情報収集」。
「…………」
 ハルさん……。
 おれはもうそこで堪えきれず、テーブルに顔を突っ伏してしまった。
 観察って、一体何を観察するのか、まったく判らないんですけど。星か。虫か。植物か。人間か。それともまったく別の何かなのか。そして何の情報を収集するのだろう。そんなことを趣味として書いちゃっていいの?
 ハルさんは、これを真面目に書いたんだろうか。いやそんなことないだろ。間違いなく、ふざけてるだろ。母親やおれがマトモにこの釣り書きに目を通したりしないことを、ハルさんは判っていたんだろうか。その上で、見合いの場であんなにも澄ました顔で微笑んでいたんだろうか。変だ、あの人。ホントに変。
 気がついたら、おれは突っ伏したまま、くくくっと笑い出していた。だってもう、笑うより他にどうしようもない。
 ──もしもおれが、見合いに行く前に、ちゃんとこの釣り書きを見ていたら、どうしただろう。
 断ろう、という意思は同じでも、それでもおれはもうちょっと、その前にハルさんと会話をしようとしたんじゃないか。だってこんな釣り書きを書いて寄越す人、あまりにも謎すぎて好奇心が抑えられそうにない。
「おやまあ、楽しそうですね、ぼっちゃん」
 サンドイッチを運んできてくれたスミさんが、笑い続けているおれを見て、少し目を見開いて言った。


          ***


 おれの母親に言い含められているのか、それとも世間一般としてそういうものなのか、仲人おばさんの行動は早かった。
 見合いの翌日の夜、仕事から帰ったおれに、開口一番母親が言った。
「哲秋さん、今度の日曜ですからね」
 は? とおれが首を傾げるのを見て、焦れたように鼻から息を吐く。
「あちらのお嬢さんと次にお会いする日ですよ。今度は最初から最後まで二人きりなのですから、粗相のないようになさい」
「はあ?」
 ちょっと待って、とうろたえる。最初から最後まで二人きり、って、それはつまりデートというやつか。見合いの翌日にいきなり次のデートの日取りが決定してしまっているのか。それも、当人であるおれの事前確認もなく。
 待て待て。そもそも、おれは母親に、「ハルさんは感じのいい人だ」 ということしか言ってないような気がするのだが、それはもう、「交際の了承」 という言葉に変換されてしまっているわけか?
「あちらには、ぜひもう一度、日曜日に二人でお会いしたい、という旨を仲人さんを通じて伝えてありますから」
「おれ、そんなこと口にした覚えはないんですけど」
「アラそうでしたかしら」
 母親は徹底して、おれの意志を無視して話を進めるつもりであるらしい。ハルさんは予行演習だと称していたが、母はこうやって、おれに 「見合いというのはこういうものだ」 と洗脳しようとしているのかもしれない。怖い、見合いというかこの母が。
「見合いして次の日曜にもうデートって、気が早すぎませんか」
「なにを言ってるんです。こういうものは日を空けるとかえって失礼になるものですよ。お互いの顔を忘れてしまったらどうするんです」
 顔を忘れないように会う。そうなのか? そういうものなのか? 本当にそんな理由なのか?
「しかも、もうハル……ネさんにも伝えちゃったんですか。日曜っていうのも、お母さんたちが勝手に決めたものですよね? 向こうにも都合があるだろうに、そんな」
「お見合いというものは、大体そうやって仲人の方がすべての段取りを仕切るものです。ご本人たちは、ただそれに従っていればいいんですよ、楽でよろしいでしょう」
 嘘だろ。いくら段取りをするのが仲人だって、普通は予定くらい聞くだろ。本当は、おれが逃げられないようにそうやって厳重に包囲網を張ろうとしてるんだろ。
「日曜は用事があるっておれが言ったらどうするんです」
「キャンセルなさい」
 母親はまったくにべもなかった。要するに、選択の余地なしだ。
 おれは溜め息をついて諦めた。
「……わかりました」
 どちらにしろ、こうなることは自分でも承知していたのだ。こうまで素早く、しかも一方的に決められるものだとは思っていなかったのだが。
 本当に日曜でいいんですかとハルさんに確認したくとも、おれはハルさんの個人的な連絡先を知らない。連絡先も知らない相手とデートとは、恐るべし見合いのシステムである。
「ちゃんと先方を礼儀正しくエスコートするんですよ。待ち合わせの時間も場所も決まってますから、間違えないように。お会いしたら、きちんとご挨拶して、それから」
 母は、二十八になる息子をつかまえて、まるで 「初デートの心得」 みたいなことをくどくどしくまくし立てている。ひょっとすると母は本気で、おれがこれまでただの一度も男女交際の経験がないとでも考えているのかもしれない。今まで彼女を作っても内緒にしていたのは、根掘り葉掘り相手のことを聞かれるのが嫌だったからなのだが、そのツケがこんな形で廻ってくるとは、まったく人生というのは油断がならない。
 はいはい、と母の言葉を受け流しながら、おれはだんだん不安になってきた。
 母にとって、これは試験なのだ、とハルさんは言ってたっけ。

 ……まさか、ハルさんとのデートに、監視でもつけるつもりじゃあるまいな。



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