はるあらし

エピローグ



 おれとハルさんとのことを、いちばん手放しで喜んでいたのは葵だった。
 ようやく、「ハルさんを連れて行く」 という約束を実現できたその日、葵は満面の笑みを浮かべておれたちを出迎えてくれた。
 もともと、喜びでも怒りでも、気持ちが表に出やすいタイプではあるが、こんなにもあからさまに嬉しそうな友人を見るのは、おれもはじめてだ。この男の友情の厚さには、本当に感謝してもし足りない。
 し足りないがそれはそれとして、普段以上に軽口を叩きながら店内を案内する葵が、今にも肩に手を廻しそうなほどハルさんにピッタリくっついているのを見た時には、けっこう本気でイラッとした。
「ちょっ……なに、哲」
 二人の間の隙間に強引に割り込んだおれに、葵が訝しげな視線を向けてくる。
「別に」
「別にじゃないでしょ。狭いんだけど。なんかムリヤリ俺の身体を押しのけようとしてるんだけど。ものすごくむっとした顔をしてるようにも見えるんだけど。それって俺の気のせい?」
「気のせいだろ」
「今、ハルさんに商品の説明をさ……」
「何か気に入ったものは見つかりましたか、ハルさん」
「あっ、なんか露骨に無視した!」
 叫ぶ葵に背を向けて、ハルさんににっこりしながら訊ねると、ええ、と朗らかな返事が返ってきた。
「気に入ったものばかりで、困ってしまうくらいです。こういう場所は本当に楽しくて、一日いても飽きませんね」
 球体をした小さなランプを手に取り、にこにこするハルさんに、そういうものかなと首を傾げる。周りできゃあきゃあ品定めをする女性客たちも、ずっと同じところで足が止まったままだから、やっぱり飽きないということなのかな。
 おれにはその気持ちは今ひとつよく判らないのだが、キラキラ目を輝かせているハルさんを見るのは、確かに楽しかった。
「あ、気に入ったものがあったら、俺に言ってね。店に来てくれたお礼にプレゼントしてあげ……って、痛いよ、哲! なんで殴るんだよ?!」
「どうしてお前がプレゼントするのか判らないから」
「どっちかっつーと、哲の言ってることのほうが意味がわかんない!」
「欲しいものがあるなら、おれがプレゼントしますから、ハルさん」
「心が狭いね、哲! ヤキモチも度が過ぎると女の子に嫌われるよ! なんでそんな子供みたいに張り合ってんのさ!」
 おれは改めて葵に向き直った。
「……葵、お前が非常に友達思いの、本当にいいやつであることはよく知ってる」
「うん」
「でも、ハルさんの半径一メートル以内には近づかないでもらえるか」
「なんで! なにその真顔! ひどいよ、おれたち親友じゃん! 信用してくれてないわけ?!」
「女性面については、まったく」
「ひどいよ!!」
「──お二人とも、とっても仲がよろしくて、大変に微笑ましいのですけど」
 ハルさんが呆れた顔で割って入った。
「欲しいものは自分で買いますので、お気遣いなく。哲秋さんも、一人暮らしを始められたのですから、なるべく節約することを考えなくては」
 説教されて、はあ、と面目なく頭に手をやる。家を出てから三カ月以上経ち、料理や掃除や洗濯などの家事にはそこそこ慣れてきたものの、ハルさんに言わせると、まだ全体的に無駄が多い、ということなのだそうだ。
「さっさと二人で暮らせばいいのに」
 と葵は軽く言うが、それはもう少し生活基盤をしっかり定着させてからでいいかなと考えている。おれはずっと実家暮らしで、食事などの面倒もすべてスミさん任せだった。結婚した後は、同じようにハルさんにすべてを押しつける気はないし、だったら一人での生活を自分自身できちんと成り立たせることが出来なければ、二人で生活していくのはなおさら難しいだろう。
「哲は妙に現実的だよねえ」
 葵は肩を竦めた。
「もっと夢のあること考えない? 新婚旅行はどこがいいかな、とかさ」
「だから気が早いって……」
 どこまでも先走りしていく葵に苦笑いしていると、意外にもその話題にハルさんが乗っかった。
「そうですわね、それは私もよく考えるのですけど」
「え、そうなんですか」
「ほーらね、そりゃ女の子だもん、考えるでしょ。で、どこがいいの? ハワイやグアムはありきたりだし、いっそカナダとかさ」
「熱海がいいですわ」
「は?」
 すっぱり出されたその地名に、おれと葵が二人して目を点にしたまましばし無言になったのは、頭の中の世界地図を広げ、「アタミ」 という名の海外リゾート地を検索する時間を要したからだ。もちろん、そんなものは検出できなかったが。
「熱海っていうと……あの熱海? 日本の?」
「私、寡聞にして、日本の熱海以外で、他に熱海という都市を存じません」
「いやハルさん……いくらなんでも、そこまで徹底して節制を考えなくてもいいんですよ? さすがに世界一周旅行は無理ですが、おれにだって、人並みの貯金くらいはありますし」
「まあ、何を仰ってますの、哲秋さん」
 ハルさんは大げさに目を見開いて反論した。
「新婚旅行ですのよ? 一応今のところ、一生に一度のつもりでおりますのよ? 今どき、外国なんて、いつだって行けるじゃありませんか」
「それを言うなら、熱海のほうがはるかに、いつでも……」
「まあ、お判りになってませんのね。新婚旅行で熱海、っていうのがよろしいんじゃありませんか。なんといっても、新婚旅行の聖地なのですもの、熱海は!」
「そうでしたっけ……?」
「ハルさん、数十年くらい、時代がズレてない?」
 ハルさんは聞いていなかった。
「さびれた温泉宿、白い湯煙でけぶる街並み、しっぽりとした雰囲気の中、カランコロンと下駄の音を響かせて、ちょっとショボくて情緒のある温泉街のお土産屋さんを、二人でのんびりと見て廻るんですわ」
「…………」
 遠い目をして、「夢の新婚旅行の図」 を滔々と語られ、おれと葵は口を挟めない。
「それに、海外のホテルには、浴衣がありません」
「浴衣って、そんなに重要なアイテムですか?」
「もちろんです。だって新婚旅行ですのよ。やっぱり夜は、お代官さまごっこをして楽しみたいじゃありませんか」
「……お代官さまごっこ……」
「ほら、浴衣の帯の端を持って、くるくる廻して、『あーれー』 『よいではないかよいではないか』 という、アレです」
「…………」
 ぽっと頬を染めてはにかむハルさんを見て、おれもその場面を想像してしまう。
「哲秋さん、やりたくありません?」
「それはもう、やりたいです」
 間髪入れずにキッパリ即答した。
 ハルさんの脳内にある理想の新婚旅行像がどういうものなのかは判然としないし、新婚カップルがそんな遊びをするのが普遍的であるのかどうかも謎だが、ここで全力で同意しなければ男じゃない。いいじゃないか、熱海。海外なんて問題じゃない。どうしよう、今すぐにでも行きたくなってきた。
「……バカだね、二人とも」
 ハルさんと二人で盛り上がり、気がついたら、葵に引かれていた。


 葵以外にも、自分のことのように喜んでくれた人がもう一人いる。岡野さんだ。
 今のところ会社内で、結婚を考えている彼女がいる、と打ち明けたのは岡野さんだけだが、それは人柄と口の堅さを信頼したからであって、他に格別の理由はない。なので、祝福と冷やかしの後で、「そうか、俺のおかげだな」 としたり顔で言われたのには、は? となった。
「なんでですか」
「なんでって、いろいろと相談に乗ってやっただろうが。付き合いはじめの頃から、お前の浮気がバレそうになった時も、仕事が忙しすぎて別れる寸前までいった時も」
「……ははあ」
 岡野さんの頭の中ではそうなってるのか……と、かえって感じ入った。
 おれとハルさんの間に起きた、家のことや会社のことを含む複雑な問題は、何も知らない人からすると、ごく普通のカップルのいざこざにしか見えなかったんだなと思うと、なんだか可笑しい。まあいいか、結果としては、違和感なく同じところに着地しているようなのだし。
 実際に何があったにしろ、岡野さんのおれを見る目はなんら変わらない。きっと、それでいい。桜庭の家を出る前と後とで、おれという人間に、何も変化がなかったからなのだろう。
 そのことが、素直に嬉しいと思う。
「後輩思いの、先輩のおかげです」
「そうだろ、そうだろ」
 満足げにふんぞり返り、何度も頷く岡野さんに、思わず噴き出した。
「なんだよ、なに笑ってんだ?」
「いえ──」
 いつかずっと先にでも、この岡野さんに、本当にあったことを話そう、と決心した。
 桜庭のこと、菊里商事のこと、ハルさんとのこと。
 その時は、一緒に笑い合えればいいのだが。


          ***


 桜庭と菊里、それぞれの家族についても少し触れておく。

 愛美は、おれが借りたマンションの一室に、時々遊びにやって来る。
 父親に許可を得て、現在せっせと就職活動に励んでいる最中だ。あちこちの会社を廻っては、あそこの人事担当は態度が悪いだの、ここの社員はやる気があっただの、一通りべらべらと喋って、どうしよう、と難しい顔で迷っている。文句も多いが、今まで見たことがないほど生き生きしているのだから、実際楽しいのだろう。
 おれもハルさんも助言くらいしかしてやれないが、頑張って納得できる就職先を見つけられるといいなと思う。
 頑なだった母は、愛美にまで出て行かれてはたまらないと思ったのか、積極的に賛成はしないが反対もしない、という態度に路線変更したらしい。愛美には、お兄さんのおかげね、と笑って言われた。
 少々複雑である。

 兄は蒔子さんと子供たちを連れて、一度顔を見せた。
 まだ怒っているのか、ほとんど喋りもせず仏頂面だったが、蒔子さんがこっそり耳打ちして教えてくれたところによると、
 ──結局、俺たち兄妹の中じゃ、哲がいちばん、父親の気質を色濃く受け継いだ、ってことだな。何も言わずにある日いきなり思いきった決断をするところなんて、親子でそっくりだ。
 と、諦めたようにコボしていたという。あの父に似ていると言われても、これまた複雑だ。おれ、あんな変人じゃないと思うんだけど。
 部屋を出る前、兄は最後に、おれに向かって高飛車な口調で言った。
「早く上まで来るんだな。桜庭の役に立つ人材にまで育ったと判断できたら、俺が引き抜いてやる。その時はイヤだとぬかしてもみっちりコキ使ってやるからな」
 気の長い話だなあ、と苦笑したが、努力するよと答えておいた。

 スミさんも心配して様子を見に来たりする中、父と母は一度も姿を見せない。
 それも当然かと思うのだが、しかし月に一度、おれが桜庭の家に行く時には、なぜか必ず、多忙なはずの母が在宅している。
 そして、昔の大福帳のような分厚い帳面を取り出して、日付と、「金一万円也」 の一言を、わざわざ黒々とした墨筆で書きつける。
 いかめしい顔つきで、無駄口は一切叩かず、口許はニコリともせず一文字に結ばれているが、「残額、百万と九十七万円です」 と重々しい口調で告げる時だけは、なんだかちょっとだけ、嬉しそうだ。



 菊里響氏とその母親は、住んでいた家を出て、転居した。
 とはいえさほど遠くはない場所なので、荷物も家具も、一部を置いたまま、時々あちらとこちらを行き来している。家を処分しなかったのは、まだ残っている父親の匂いを完全に消してしまいたくなかったのと、いずれハルさんとおれの家として使えばいい、という理由かららしい。まったく誰もかれも気が早い。
 移った先の土地で、響氏は、食品関係の仕事を始めた。
 会社に入って、ということではなく、自らが個人事業主になったのである。父親の古くからの知り合いだった人物に頼まれたとか、少々入り組んだ事情があったようだが、悩んだ末に、彼は一人で事業を立ち上げることを決意した。
 母親とハルさんも、それには賛成したらしい。数百人規模の会社のトップに立つことは向いていなかった響氏だが、一対一として接した場合、あの実直な人柄が功を奏して、信頼を得ることはそんなに難しくないのではないか、とおれも思う。
 努力は惜しまない人であるし、働くことを厭う性格でもない。もとの仕事で培った知識もある。
 始めたばかりなので、軌道に乗せるまでが大変だろうが、受注は少しずつだが増え始めているという話だ。今は母親が手伝っているだけのようだが、もっと手が足りなくなってきたら、従業員を一人か二人、雇うことになるかもしれないという。
 そうなったら、響氏は今度こそ死に物狂いで、自分の会社と社員を守るだろう。あのふっくらとした温かみのある両腕の中にあるものを、ひとつも失うことなく、守り抜こうとするだろう。
 その時こそ──

 小さな小さな、新しい 「菊里商事」 の誕生だ。



          ***


 夏が過ぎ、風がずいぶんと涼しく感じられるようになった頃、ハルさんと一緒に菊里氏の墓参りに行った。
 たくさんのことを自分の中に抱え込んだまま、この世を去った菊里氏。さぞかし天国でヤキモキしながら、その後の成り行きを眺めていたことだろうな、と思う。
 せめてこれからは、おれがハルさんを守るので、心配しないでください──と、挨拶と報告を兼ねて、墓前で手を合わせた。
「……でも、どうかなあ。実際のところ、お父さんをまだハラハラさせるかもしれませんね。これから、というか、今から」
 とおれが呟くように言うと、隣で同じく手を合わせていたハルさんが、目を開けて顔を上げ、こちらを向いた。
「あら、なぜでしょう?」
「だって、ハルさん、今からおれと桜庭の家に行くんでしょう?」
 おれが壺の弁償代金を毎月あの家に支払いに行っていることを聞いたハルさんは、だったら次からは断固として自分も行く、と主張して聞かないのである。何度も止めたが、まったく折れなかった。
「まだいいって言ってるのに、頑固なんだから」
 溜め息とともに、渋い顔でぶつぶつとおれは言った。
 そりゃ、いつかは、連れて行ければいいかなとは思っていた。しかしそれはもっとずっと先、せめてもう少し、母が軟化してきた頃を見計らって、というつもりだったのだ。
 今、ハルさんの顔を見たって、あの母が歓迎なんてするはずがない。
「きつい口調でハルさんを非難するところが、ありありと想像できます」
「構いませんわ、当然のことですから」
「おれが構うんですよ」
「だって、ご挨拶したいですもの。哲秋さんだって、私の母と兄に、そしてこうして父にも、ご挨拶してくださったじゃありませんか」
「それとは話が違います。母の気性は知ってるでしょう。何を言われるか判ったもんじゃない」
「まあ」
 ハルさんは頬に手を当てた。
「素敵ですわね……嫁姑の確執……嫁姑戦争……私、一度やってみたいと思ってましたのよ」
 不穏な言葉を並べて、うっとりした表情で、ふふふと楽しげに笑う。
「…………」
 ……うん。まあ、おれも、母に苛められて、ヘコんで落ち込むハルさんの姿は、ほとんど想像できませんけど。
「でもなあ……」
「哲秋さん」
 言いかけるのを遮るようにして名を呼び、ハルさんはにっこりして、おれの手を取りぎゅっと握った。
「──ゆっくりやっていきましょう。時間がかかるのは、承知の上のことだったではないですか。私も思っていることを率直に申し上げますし、その結果、多少争うことになったとしても、それは仕方のないことです。そうやって試行錯誤しながら、少しずつ歩み寄っていけばよろしいんじゃありません? 私たち、まだまだこの先も、一緒に長い時間を過ごしていくんですもの」
「…………」
 ハルさんの顔を見る。
 屈託のないその笑顔に、おれも微笑を零した。
「……そうですね」
 繋いでいる彼女の手を強く握り返す。

 ──そうやって、いろんなことを、ゆっくり二人で乗り越えていければいいか。

「じゃあ、行きましょうか」
「はい」
 立ち上がり、同時に足を踏み出して、歩き出す。
 広い墓地の中は閑散としていた。ところどころで、赤い彼岸花が顔を覗かせている。
 障害物がないので、ひゅう、と音を立てて吹きつける風がまともに顔に当たる。それに目を細め、ハルさんが言った。
「もう、夏も終わりですね」
「そうですね」
「私、秋って大好きなんですのよ」
「へえ、春の子なのに──」
 何気なく返事をしかけて、はたと気がつく。
 隣を歩くハルさんを見ると、わずかに頬を染めて楽しそうにくすくすと笑い続けていた。
「まったく、油断も隙もないんだから……」
 照れ隠しに天を仰いで、おれは独り言のように言った。
 頭上では、澄んだ青空を、細長く白い雲が流れるように移動している。綺麗だな、と思った。
 ──この世界のあちこちには、こんなにも綺麗なものが、まだまだ数えきれないほどある。
 ハルさんと出会ってから、毎日は、新しい発見があって、驚きと楽しさの連続だ。一瞬だって退屈なんてしていられない。
 これからもそうだとしたら、それって、かなり上等な人生だよなと、おれは込み上げる笑いとともに思う。
 未来のことは判らない。確かに、誰にも、何も、判らないけれど。
 でもきっと、一年先も、十年先も。
 ……おれはこうして、ハルさんに恋をしているんじゃないかな。



はるあらし・完

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