はるあらし

9.改めて自己紹介



「哲秋さん?」
 と問いかけられて、はっとした。
 目を上げると、ハルさんが小首を傾げてこちらを覗き込んでいる。おれは急いで頭の中の声と顔とを外に追い出して、笑みを浮かべた。愛想笑い、誤魔化し笑いというやつで、おれはあまりそういうのが上手な方ではないのだが、ハルさんは特に追及せずに、自分もにっこりと笑った。こういう風にするんですよ、と教えられているような気になる、綺麗な笑顔だった。
 ちょうど運ばれてきたシャンパンが、テーブルの上に静かに置かれているところだった。細いグラスの金色の液体の中で、小さな気泡が立ち昇っている。頼んだのはコースだから、これから出てくるのはステーキをメインに、ワインに前菜にサラダに魚介にと盛りだくさんだ。変なことを思い出したせいで失せかけていた食欲を、もう一度奮い立たせるため、おれは下腹に力を入れた。
「乾杯いたしませんか」
 と、グラスを持ち上げハルさんが言う。そうですね、とおれもグラスに手を伸ばし、考えた。
「何に乾杯しましょうか」
 楽しいデートに、とかかな。でも恋人同士ってわけでもないのに、それも変か。いや、それを言うなら、恋人同士でもないのにデートをしているこの状況が、そもそも変なのだが。
「それはもちろん、これから出てくる美味しいお肉にですわ。楽しみですね」
「…………」
 ハルさんは真正の肉好きらしい。
 店に連れてきたのはおれだが、そこまで楽しみにされるというのもなんだか面映ゆいものがある。そういえば、女性とのデートで、雰囲気や金額や凝った料理に感嘆されることはあっても、「食べること」 自体を喜ばれるということはあまりなかったな、と考えた。もちろん、悪い気分ではない。
 チン、と軽い音をさせてグラスを触れ合わせ、乾杯をしてから、ちょっと噴き出した。


「そういえば、哲秋さんのご趣味はピアノとバイオリンなのだとか」
 食事が進み、まさにメインのステーキにさしかかった頃、ハルさんにニコニコしながら言われて、おれは口をつけていたワインにむせそうになった。
「え……は?」
「特にピアノはプロ並みなのですってね。素敵ですわね、機会がありましたらぜひ一度聞かせていただきたいものですわ」
 咳き込みながら問い返すおれに頓着せず、ハルさんは無邪気な笑顔で続けた。いやいや、待て待て。また何か企んでるでしょう、ハルさん。口元は微笑んでいるが、瞳がイタズラっ子みたいに輝いている。
「誰が、そんなことを?」
 あっさり乗せられないように、注意深く訊ねてみる。
 確かにピアノもバイオリンも、子供の頃に習わされた。しかし別に好きでやっていたわけではないし、初心者より多少は弾けるという程度で、最近では楽器そのものに触ってもいない。ましてや 「プロ並み」 なんて言葉、どこからひっくり返して持ってきた。
「誰って」
 ハルさんは白々しいくらいに驚いた顔をした。
「頂いた釣り書きに、そう書いてありましたけど」
 またむせそうになった。
「つ……釣り書き?」
「そうですわ」
「おれのですか」
「他にどなたのがありますか?」
 ふふ、と笑ってハルさんは問い返した。この顔、明らかに楽しんでいる。
 おれは額に手を当て、以前に読んだハルさんの釣り書きの内容を必死になって思い出した。なんだっけ、氏名、年齢、住所、学歴、職歴、資格、趣味……だったか?
 もちろん、自分がそんなものを書いた覚えはこれっぽっちもない。
「……その釣り書きには、他になんて?」
「まあ、ご自分のことですのに、おかしなことを仰いますのね」
「判って言ってますよね? 他にはなんて書いてあったんです?」
「他のご趣味は、スキー、乗馬、クラシック音楽鑑賞、でしたかしら」
「…………」
「見事に典型的なお坊ちゃんタイプのご趣味をお持ちだと、私、それを読んで、ひどく感心いたしました」
 そんな感心のされかた、ちっとも嬉しくない。大体、スキーはともかく、乗馬ってなんだ。おれは子供の頃、乗せてもらった仔馬から落ちて以来、馬は大の苦手だ。クラシックについては、話題に出て困らない程度の知識をつけろと母親にうるさく言われていたに過ぎない。
 なんなんだ、そのウソばっかりの釣り書きは。
「お写真も、今のようなスーツ姿でビシッと決められて」
「写真?」
 いつ、どこで撮った写真だ、とうろたえる。最近写真館で撮った覚えはないからスナップ写真か。スーツ姿ってことは、仕事中? そんな写真を渡した記憶はまったくないし、写真を撮られた覚えもまったくないのだが。まさか会社で隠し撮りでもされてたんじゃないだろうな。
 自分の知らないところで、自分の情報が流出しているという事実に、おれはかなり動揺した。しかもその情報、かなり強引に明後日の方向に捻じ曲げられている。
「……あの、ハルさん」
「高校も大学も、主席に近い素晴らしい成績でご卒業なさったのだとか。資格も多方面にわたって、それはそれはたくさんお持ちのようで」
 もう勘弁してください。
「すみません、その釣り書き、おれが書いたものじゃありません」
「まあ」
 絶対判っていたに決まっているのに、ハルさんはぱっちりと目を見開いた。しかし立場が弱いのはこちらなので、小さくなるしかない。なんとなく理不尽だ。
「では、どなたが書かれたんでしょう」
「多分、母親が……」
「まあ」
 またオーバーな驚きかたして。もしかして、おれは今、ハルさんに苛められているんだろうか。
「では、お母様に釣り書きの代筆を頼まれたんですの?」
「そうじゃなく」
「それとも、お母様に何もかも管理されておいでなのかしら」
「ですからね」
「つまりマザコン……」
「違います」
「まざまざと今夜、ご心配されるお母様の様子が目に浮かびますわね」
「違いますって」
 そこで堪えられなくなったように、ハルさんが口に手を当て楽しそうに笑い出した。今までとは違う、屈託のない笑いかたに、おれはようやくほっとする。
「すみません、ちょっと意地悪をいたしました」
「けっこう強烈な意地悪でしたよ」
 おれの皮肉に、ハルさんがまた笑う。あんまりコロコロと可笑しそうに笑い転げるので、結局おれもつられて笑い出してしまった。意地悪といっても、彼女の場合、どこまでも陽性でからりとしているので、何をされても憎めないところがある。

「要するに、哲秋さんは、私とのお見合いのことはまるで聞かされていらっしゃらなかったのですね?」

 その問いには、一瞬返事に詰まった。
 ここで肯定すれば、おれの母が、ハルさんとの見合いを、その程度にしか考えていなかったことを認めることになる。ハルさんも、ハルさんの家も、蔑ろにしているということだ。それはハルさんを傷つけることになりはしないだろうか。
 いや、でも、否定をしたところで意味はないな、と思い直した。欺瞞ばかりの代筆の釣り書きがハルさんの手元に渡っている時点で、十分彼女に対して不誠実なことをしているわけなのだし。これ以上嘘をつくよりは、ありのままを伝えたほうがいいだろう、とおれは判断し、腹を括って正直に言った。
「当日の朝、知りました」
「まあ、それはさぞかし目の廻るような気分でしたでしょうね」
 ハルさんは怒るでもなく、明るく噴き出した。もしかしたらおれを気遣ってそうしてくれたのかもしれないが、それでもそうやって笑われたことで、多少胸のつかえが取れて楽になった。
「私も、あの釣り書きから受ける印象と、実際に拝見した哲秋さんとでは、ちょっと違うなあとは思っていたんですけど」
「あの釣り書きって、どんな釣り書きだったんですか」
「お聞きになりたいですか?」
「いえいいです」
 ハルさんのニコニコ顔が怖くて速攻で辞退する。恐れを知らないあの母が何を書いたのか、全部知ったら羞恥のあまり寝込んでしまいそうだ。
「でも、そうしますと」
 と、ハルさんがワインに手を伸ばし、口許に微笑を残しながら言った。
 グラスを傾け、赤い液体に視線を落とす。
「私は結局、哲秋さんのことをまったく何も存じ上げない、ということになりますね」
「…………」
 意表を突かれて、おれは口を噤んだ。
「そう……ですかね」
 一拍の間の後で出た自分の声には、疑問と、わずかに不機嫌さを含んでいた。
 そりゃあ、確かに、釣り書きの内容と実物のおれとは、まるで異なるかもしれない。いい加減な釣り書きを渡されたことを批判されるのなら、まだ判る。
 ……でも、今日ここまで一緒に時間を過ごした分、おれという人間が全然判らないまま、なんてことはないだろう。
 まったく何も存じ上げない、というハルさんのよそよそしすぎる言い方は、おれの胸に、ちくりとした苛立ちを生じさせた。
「ええ。だって」
 ハルさんがワインから目を上げ、正面からおれの顔を見返した。

「哲秋さんは、私に、ご自分のことを何も仰いませんもの」

「…………」
 おれは再び黙り込んだ。
 そんなこと──と彼女の言葉を打ち消しかけ、喉の奥で止めて戸惑う。これまでを振り返ってみれば、そういえばそうかもしれない、と認めざるを得なかった。
 おれはハルさんのことを少し知っている。まったく知らないところも多々あるが、しかしそれでも少しは知っている。わけの判らない趣味だとか、ショボい遊園地や間抜けな顔をした着ぐるみが好きだとか、子供の頃から変な人だったとか、肉が好きだとか。これまでの時間で、ハルさんはそういうところをおれに隠しもしなかったからだ。
 でも、それに対しておれは何を言っただろう? 考えてみれば、おれは見合いの席でだって、母親がハルさんにあれこれ質問するのを横目で見ていただけで、自分自身のことを話していない。何ひとつ。
 ──もしかして、ハルさんにそれを教える必要はない、と無意識に心のどこかで考えていたんだろうか。
 踏み込まれたくない。自分のことをあまり知られたくない。距離を保っていたい。自分と人との間には、必ず壁を作って接していたい。
 どうして大事なことを黙っていたのかと責められるくらいなら、はじめから何も言わないでいたほうがいい。
 そう、思っていたんだろうか。
 綺麗ごとばかり並べられた釣り書きより、ハルさんは今ここにいるおれを見ようとしてくれているのに。

「……桜庭哲秋です」

 しばしの沈黙の後で、向かいの席に座るハルさんを真っ直ぐ向いて、おれは頭を下げて名乗った。
 ハルさんはきょとんと目を瞬いたが、すぐに口元を綻ばせ、にっこり笑った。
「菊里春音です」
 真面目くさった態度で、深々とお辞儀をする。本当にノリのいい人である。
 おれは少し考えてから、ぽつぽつと言葉を出した。
「趣味は……えーと、そうですね。車を運転すること、かな。休みの日には、適当に行き先を決めないで遠出したりします」
 ハルさんはニコニコしながら頷いた。
「楽しそうですね。海に行ったりとか?」
「ああ、海にも行ったりします。何をするわけでもなく、ぶらっと海岸線を散歩してみたり、海沿いの喫茶店に入って休憩したり」
「夕日に向かって叫んでみたり?」
「それはしませんけど」
「スポーツは何かなさいますか?」
「そうですね……わりと、運動神経は悪くないほうなんですよ。最近は運動不足で身体がなまってますが、ハルさんの好きなテニスもやります。本当にスキーは嫌いじゃなくて、一級の資格を持ってます。あとはまあ、バスケとか、サッカーとかもそこそこやれます」
「まあ、イヤミな男ですわね」
「は?」
「ふふ、イヤになるほど身についていらっしゃるんですのね」
「無理やり誤魔化さなくてもいいです」
「お好きな食べ物は?」
「好き嫌いはないですけど、つい最近まで香辛料にハマっていて──」
 ハルさんの質問に、おれは出来る限り正直に、そして率直に答えた。
 輝かしい釣り書きと比べれば、どれも大したことのない内容だったと思うけれど、ハルさんはデザートに進んで食後のコーヒーが終わっても、楽しそうにおれの話を聞いていた。


          ***


 店を出たら、外はもうすっかり暗くなっていたので、ハルさんを自宅まで送り届け、おれも自分の家へと帰った。本当の恋人同士のデートなら、これからが楽しい時間ということになるんだろうになあ、と一人でタクシーの窓から夜空を見ながら、ちらっと思う。
「どうでしたか、哲秋さん」
 帰った途端、待ってましたとばかりに、母親に訊ねられた。どうやら監視はつけていなかったらしい。
「どうって……」
 おれが言い淀んだのは、なんと返していいのか判らなかったためだ。終わってみると、今日はいろいろはじめての経験ばかりで、どう感想を言えばいいのか咄嗟に思い浮かばない。
「楽しかったですか」
 そう確認されて、ああ、と納得した。
 そうか。そうだな。
「……楽しかったですよ」
 おれが答えると、母はよしよしというように何度か小さく頷いた。実際のところはどうあれ、とにかくつつがなくミッションをこなしたということに、少しは満足したようだ。おれが最初に考えていたような適当に無難なデートをして、「楽しかった」 と答えても、母は同じ反応をしただろう。
 ──うん、でも。
 背広を脱ぎながら、心の中で呟いた。
 おれは本当に、自分でも意外に思うくらい、今日という一日が楽しかったんですよ。



BACK   TOP   NEXT

Copyright (c) はな  All rights reserved.