遠くの星

1.夏凛



 ──私は、「前世の記憶」 を少しだけ持っている。


 周りは、美しい満開の桜に囲まれていた。
 見渡す限りの薄紅だった。まるで、一面にふわふわとした雲がたなびいているようで、天上に出たのかと錯覚しそうなほどだ。
 けれど頭上を見上げてみれば、白い花々の隙間からは、漆黒に近い夜空が見えた。闇を照らすのは、しらじらと輝く満月。
 そして、きらめく無数の星々──
 闇の中に浮かび上がる桜の花は、月の光を浴びて、ほんのりと輝いている。それ自体が白く発光しているかのようだ。こういうの、なんていうんだっけ、と少し考えて思いついた。
 ……花明かり、だ。
 前を向いても後ろを向いても、目に入るのは桜ばかりだった。むせかえるほどの可憐な花の群れは、美しいけれど威圧感がある。ぼんやりと霞がかった桜色に包まれた景色は、なんだかあまりにも幻想的で、違う世界にでも入り込んでしまったような心細さを感じさせた。
 眩い月光は、足元の地面に、自身の影をくっきりと作り出している。それなのに顔を上げれば、降り注ぐ花びらに遮られ、前方すらもはっきりとは見通せない。淡い色の花弁は、一枚一枚がひらりひらりと散るたびに、きらきらと光り輝くようだった。
 時折、ゆるく吹く風が花びらを舞い上げて、ざざ、とひそやかな音を立てる。聞こえる物音といえばそれくらいで、あとは静寂に包まれていた。人の話し声どころか、虫の鳴き声すらしない。何もかもが、しんと息を詰めているような緊張感があるのはどうしてなのだろう。
 その静けさの中で、ふいに、サク、という軽い音が聞こえた。
 どくんと心臓が跳ねる。
 誰かの足音だ。こちらに近づいてくる。なのに、舞い散る桜吹雪に阻まれて、その姿は見えなかった。なんだかとても切ない気分になって、「私」 はじっと身動きもせず、その場で立ち尽くす。
「…………」
 近づいてくる誰かは、私の名前を呼んだ。
 優しく穏やかな声に、私は泣きたくなってしまう。瞼の裏が熱くなり、ちいさく震える手を、口許に当てる。息苦しいほどに、胸が痛かった。
 地面に敷き詰められた花びらを踏んで、その人は私の前に現れた。降りしきる白い花の合間に、微笑む顔が見えた。深い愛情を湛える眼差しが、私に向けられる。
 私はその人の名を呼ぶために、口を開いた。


 ……そこでいつも、私の記憶はぷつりと途切れる。
 覚えているのはただ、目の前に広がる美しい夜空。降り注ぐ桜の花びらのように、空いっぱいに散りばめられた白い星々。
 手を伸ばしても、届かない。
 遠い遠い、満天の光。



          ***


「あー、またあの夢……」
 半ばうんざりしながら呟いて、私はベッドの上で身を起こした。
 毎度お馴染みの夢とはいえ、子供の頃からこう何度も何度も同じものを見続けると、さすがに飽きが来てしまう。しかも毎回同じシーンで始まり、同じ経路を辿って、同じところで終わるのだから、なおさらだ。なんというか、「この先を見たけりゃ金払え」 的な、もどかしさと腹立たしさがあるな、と思わずにいられない。
 察するにこの先は、十八歳未満お断り、の場面なのだ、きっと、と私は思った。
 それで現在十七歳という年齢の乙女である私には見られないのだ。十八歳の誕生日をめでたく迎えたその夜、私ははじめて、あの夢の続きの、アダルトチックなシーンにお目にかかれるのだ。多分そうだ。
 苛立ちまぎれにそんなことを思いながら、欠伸をしながら自分の部屋を出て、階段を下りる。
「んまー、この子ったら」
 LDKに入った途端、母親の咎める声が高らかにあがった。寝起きに聞きたくないもの、栄えあるナンバーワンは、母親の説教である。しかもこの母は、機嫌の良い時は明るくて社交的でよく喋る陽気な人なのだが、怒る時はそのすべてが裏目に出て、ただただうるさいという、娘にしたら非常に困った性質を持っている。
「夏凛、あんた今、何時だと思ってんの。もう十時過ぎなのよ。日曜だからってそんなダラダラと寝てていいと思ったら大間違いなんだからね。だから夜更かしすんのはやめなさいってあれほど言ってるじゃない。大体そんなパジャマのままで、みっともないったら。お客様がいらしてるのに」
「え、お客さん?」
 しょぼしょぼした目をこすりながら、母親の小言をぼんやりと聞き流していた私は、最後の言葉にぎょっとして、ようやくクリアに覚醒した。なぜそんな重大なことを、いちばん真っ先に言わないのかこの人は。
 廊下からリビングに一歩踏み入れた足を思わず引っ込め、そそくさとドアの陰に隠れてから、改めてそうっと中を覗く。少々ガサツなところがあるとはいえ、私だってお年頃の女の子なのだ。他人様に自分のクマさんパジャマをご披露したいとは思わない。
 リビングのソファで、母親と向かい合って座っていたその人は、私の慌てふためいた態度を見て、可笑しそうにくすくす笑っている。その姿を目にして、私はなーんだとホッとし、今度はパジャマ姿のまま堂々とリビングに入っていった。
「お客様って、トモ兄かあ〜」
 安堵の声を漏らし、私はぺたぺたと裸足のままフローリングを歩き、彼の隣にぽすんと腰かける。母親は、んもう、という呆れた顔をしたが、トモ兄は私の頭にぽんと手を置いて、「おはよう、ナツ」 とにっこり笑った。
「おはよ、トモ兄。どうしたの、今日は?」
 空木知哉、通称トモ兄は、私の母方の従兄だ。現在は大学の三年生で、大学と自宅の距離が少し離れているため、アパートを借りて一人暮らしをしている。そのアパートとこの家が、わりとご近所さんにある関係で、彼はけっこう頻繁に我が家に来ては、食事をしたり、母からの依頼で私の勉強を見たりしているのだった。
 頭がよく、顔もよく、穏やかで性格もいい年上の従兄。
 トモ兄は昔から、年齢の離れた私のことを、そりゃもう可愛がってくれていた。小さな頃の私を、まるでお姫様のようにちやほやと大事にしてくれるから、幼い私はあやうく、自分がものすごく可愛らしい外観をしているのだな、と勘違いをするところだった。ま、その勘違いは、トモ兄以外の人の私に対する反応を見て、すぐに正されたわけだけど。
 けれどもトモ兄が、今でも私のことを可愛がってくれているのは変わりない。その本当の理由を、今の私はもうちゃんと知っていて、時々少し複雑な気分になったりもするのだけど、私にとってもその従兄は、いつでも優しく頼りになる、大好きな人であることには間違いなかった。
「今日、ナツがヒマだったら、遊びに行こうかなと思ってさ。最近、遊園地って行ってないなあーって、こぼしてただろ、この間」
「ああ、あれ……」
 言われて、私も思い出す。この間、っていうか、それを言ったのはひと月ほども前のことで、トモ兄も含めて家族で夕飯を食べていた時にテレビに映った遊園地を見て、ポロリと出した独り言のようなものだったのに。
「わざわざ誘いに来てくれたんだ」
 少し驚きながらそう言うと、トモ兄は目元を和らげ微笑んだ。
「まったく知哉君は毎日大学の勉強で忙しいっていうのに、あんたみたいな手のかかるイトコの面倒まで見るなんて、出来た子よね。それにひきかえ、あんたときたら、部屋は掃除しないし、休みは昼近くまでぐうたらしてるし、勉強もせずちゃらちゃらと遊んでばっかりで、挙句にもうすぐ受験生だっていうのにバイトまではじめて──」
「バイト?」
 母親の愚痴の一部分を、トモ兄が耳ざとく聞きとがめて素早く口を挟む。「そうなのよ知哉君」 と母が身を乗り出したのを見て、私は慌てて話の矛先を変えた。
「ねえお母さん、私、お腹空いたんだけど。朝ごはんちょうだい」
「なに言ってんのよ、この子は、こんな遅い時間にしゃあしゃあと。朝御飯なんて、もうとうに全部片づけちゃいましたー」
「ええーっ、何それ、ひど!」
 冷淡なる実の母に、あっかんべと舌を出されて、私は悲鳴を上げた。だったら、私が抱えてるこの空きっ腹、どうすりゃいいというのだ。
「じゃあ何か、簡単に食べられるもの……」
「なんにもないわよ」
 あっさりと言い切る母親に、ちょっと殺意が芽生えそうである。テーブルには、コーヒーとお茶菓子がちゃんと用意されてあって、トモ兄はコーヒーを飲んでいるだけだけど、母親の前にはクッキーの袋が四、五枚、空になっている。今はまだ午前中で、あんたはしっかり朝食も食べたんでしょうが!
「あとちょっとだから、お昼まで我慢しなさい」
「いや無理だから。あと二時間て、育ちざかりの娘には、確実に 『ちょっと』 じゃないから。昼が来るまでに飢えて死ぬ」
「ダイエットになって、ちょうどいいわよ」
 さらりと言われて、ムカッときた。私が短気だから、という理由ではない、と思う。
「私はダイエットなんて必要ないもん! お母さんこそダイエットが必要な体型のくせに! 大体朝食から昼食までの間に、クッキー五枚って、明らかに食べ過ぎだっつーの! だからそんな風に集中的にお腹にブクブク肉がつくんだよ!」
「んまあ、失礼ね、夏凛! そもそもあんた、もう高校生なんだから、朝食くらい自分でなんとかすればいいでしょ!」
「トモ兄が来ると異様に張り切って、普段まったく作らないようなご馳走を並べるのに、なにその扱いの差!」
「しょうがないでしょ、イケメンで頭もいい知哉君のほうが、あんたより数万倍も可愛いんだから!」
「うわ言い切ったよこの人!」
 もともとは話を逸らすために言い出したことだったはずなのだが、いつの間にか、子供っぽい母と私の本気の親子喧嘩にまで発展し、私はプンプンしながら、もういい、コンビニに行く! と敢然と立ちあがった。
 そうしたらなぜか、トモ兄も一緒になってソファから立ちあがった。
「ナツ、コンビニより、僕とどこかに食べに行こう。早く着替えておいで」
「…………」
 穏やかだけれど反論を許さないトモ兄の口調に、私はちょっと言葉に詰まる。いや別に、私はコンビニで、ともぞもぞ言いかけようとしたら、その前に母親の感動するような声に邪魔された。今まで育ててもらった恩があるとはいえ、つくづく私の母は、厄介な存在なのだった。
「あらあー、悪いわねえ、知哉君。いつもいつもうちの可愛くない娘なんかに気を遣ってもらっちゃって。知哉君みたいに優しい人が、夏凛のお婿さんになってくれるといいのにねえ〜」
 ちょっとちょっと、余計なことを言うんじゃない、と私は内心ものすごくうろたえたが、トモ兄は何も言わずに微笑んでいる。否定とも肯定ともつかないその顔に、私はひやりとした。
「あのさ、私」
「ほら何してんの、夏凛。知哉君を待たせちゃダメでしょ、とっとと着替えてらっしゃい」
 やっぱりダイエットしようかな、という台詞はやっぱり最後まで言わせてもらうこともなく、私は母親に強引に背中を押され、というか突き飛ばされ、ひとつため息をついてから、着替えるためにノロノロと階段を上りはじめた。


         ***


「で、バイトって、何の?」
 近くのファミレスに到着し、向かい合って座った途端、トモ兄は早速、静かな口調で尋問を開始した。
 トモ兄は普段から非常に温和な性格で、私の甘えにもワガママにも、いつも変わらない寛大さで、にこにこと笑って付き合ってくれるような人だ。何があっても、決して眉を吊り上げたり、声を荒げたりすることもない。子供の頃からずっと、私は彼が怒るところなんて、ただの一度も見たことがなかった。
 しかし、だからこそ。
 こうして、「不愉快」 の断片を、表情と態度に滲ませた時のトモ兄は、怖い。
「いえ、あのう……」
 私はメニューをめくりつつ、極力、視線をトモ兄と合わせないようにして言葉を濁した。お腹は空いているけれど、頭の中は、何を食べようか、なんて呑気なことを考えられるような状況ではない。
 私の曖昧な返答に、トモ兄がますます口の両端を下げる。
「僕に言えないような、いかがわしいバイトなの?」
「と、とんでもない。真面目な本屋さんです。本屋さんなので、エロ本くらいは置いてありますが」
 慌てるあまり、言わなくてもいいことまで口にしてしまったが、トモ兄はそれを聞いて、少しだけ安堵したような顔をした。
「本屋か。それならまあ……。どこの本屋?」
「えっと……」
 私がモゴモゴと本屋の場所を答えると、「ずいぶん遠いな」 と眉を寄せた。バイト先の本屋は、家からいくつか駅を越えたところにあるのだ。遠い、といえば、確かに遠い、かもしれない。距離や場所で選んだわけではないし、ついでに言うと、時給などの待遇面で選んだわけでもないのだから、致し方ない。
「もっと近くにすればよかったのに。バイトなんて、学校が終わってから、わりと夜遅くまでやるんだろ? 帰り道、真っ暗で危険じゃないか」
「え、いや、だってホラ、本屋って、あんまり近所だと、かえってやりにくいじゃない? 知り合いとか、友達とかが来たりすると、お互い気まずいし。どんな本を読むかって、意外と露骨にプライバシーに関わる内容だったりするし」
「まあ、それはそうかな」
 トモ兄が案外あっさりと納得してくれたので、私はほっとした。トモ兄もやっぱり、本屋に知り合いがいたらそれはちょっと嫌だよな、という気持ちがあるのかもしれない。この真面目そうな従兄がエロ本を買ったり読んだりするところなんて、いまいち想像できないのだが。
「でも、本屋って重労働なわりにあんまり時給がよくないって聞くけど。ナツは、そんなに本が好きだったか?」
「あ、うん、まあ、ね」
 不思議そうに問いかけられ、しどろもどろになって答える。嘘じゃない。嘘じゃない、よね? バイト先を選んだ動機は不純なものとはいえ、本くらい、私だって読むし。月に一冊くらいは。
 背中に冷や汗をかきながら、私は目の前のお冷やに手を伸ばした。そういえばここへは朝食兼昼食を食べに来たのに、まだ何も頼んでいないじゃないか。なんでもいいから早く来てください、ウエイトレスのお姉さん。そしてこの空気と話題を変えるキッカケをください。
「じゃあ僕も一度その本屋を覗いてみようかな。ナツが働いてるところ、見てみたいし」
 楽しげに言われた言葉に、口に含んだ水を噴き出しそうになる。
「や、それはちょっと。あの、だって、恥ずかしいし、さ……」
 はははと棒読みで笑う私に、トモ兄は快活に笑い返した。その笑顔に、近くでヒマそうに立っていたウエイトレスが、わあ、と小さく口を開けたのが見えた。こっそり他の同僚に話しかけているのは、ねえねえあの人めっちゃカッコよくない?! みたいな中身であろうと察しがつく。トモ兄と出かけると、そんなことは日常茶飯事だ。それはいいけど、お願いだから早く注文を聞きに来てください……。
 トモ兄本人は、そんな周囲の思惑など知らぬげに、優しく目を細めて私を見つめている。ウエイトレスさんの視線に、少し険が混じるのが判る。もちろん今度それを向けられているのは私だ。
「働くのは楽しいかい?」
「う、うん、それはね。私、こういうのはじめてだから、慣れなくていろいろと迷惑もかけちゃうけど、働くの自体は、好き」
 それはどこも嘘ではないので、私はようやくトモ兄のほうを真っ直ぐ見て答えることが出来た。本屋の仕事は大半が力仕事で大変なことも多いのだが、それでもやっぱり楽しいし、労働と引き換えにしてお金を貰えるのは純粋に嬉しい。
 トモ兄はそれを聞くと、そうか、と頷いて、とんでもないことをさらっと言った。
「けど、高校出たって、別に進学も就職もしなくていいんだぞ。ナツは僕のお嫁さんになればいいんだからさ」
「…………」
 上機嫌な様子でそんなことを言うトモ兄に、私はなんと返したらいいのか判らなくて、手にした水を、もう一度こくりと飲み込む。自分の背中が、さらにびっしょりと冷や汗で濡れていた。
 言えない。
 トモ兄には、言えない。

 本屋でバイトしてるのは、そこに好きな人がいるからだ、などということは。



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