遠くの星

11.迷路



 翌日、うだうだと迷っていた私が、ようやくえいっと踏ん切りをつけて蒼君のいる四組に向かったのは、三限目が終わった後の休み時間のことだった。
 教室のドアの端からこっそりと覗き込むと、自分の席に座る蒼君が、誰か友達らしい男の子と何かを話しているのが見えた。というより、話しているのはもっぱら友達の方ばっかりみたいだったが。
 蒼君はやっぱり無愛想な顔をしていたけれど、それでも時々、相手に対して何かを答えているようだった。男の子の言葉に、蒼君がむっつりした調子で口を動かしている。何を話しているのだろうか、男の子が声を立てて楽しそうに笑った。
 いいなあ。
 ドアの陰からそんな様子を羨ましそうに覗く私は、ものすごく怪しい人間に見えるのだろう。同級生たちが、ちらちらと私に怪訝そうな視線を寄越しながらそばを通り過ぎる。なにこの不気味な人、と思っているのかもしれない。まったくその通り。
 でも、いいな、あの子。蒼君と一緒にいられて。仲良くお喋りできて。
 うん、判るよ、と私は一度も話をしたこともないその男の子に、心の中で力いっぱい同意した。
 蒼君て、無愛想だしぶっきらぼうだけど、話していても不思議と全然気づまりってことはないんだよね。あれでちゃんとこっちの話も聞いてくれてるし、短くでもきちんと返事をしてくれるんだよね。それで時々ぽろっと素の顔が見えちゃったりすることもあって、そんな時はやたらと可愛く思えたりして、すごく嬉しくなっちゃうんだよね。
 勝手に同意を得たような気分になって、うんうんと頷く。彼と私ではまったく立場が違うのだが、というか明らかに彼は私なんかよりもよっぽど蒼君との親密度が大きいと思われるのだが、あの子もきっと蒼君のことが好きなんだろうな、としみじみと納得した。いや変な意味ではなくですよ、もちろん。
「どうかしたの?」
 その時、いきなり後ろから声をかけられて、私は飛び上がった。
 びっくり顔のまま振り返ると、私の背後には、女の子がきょとんとした表情で立っている。一年生の時、同じクラスだった子だ。そんなに仲が良かったわけではないけれど、顔見知りだということで、挙動不審な私に声をかけてきたのだろう。
「このクラスの誰かに用事? 呼んであげようか」
「あ、ありがとう。えーと、いや、でも」
 私はまだ狼狽を残したまま、ごにょごにょと曖昧な返事をした。彼女の親切はありがたいのだが、その申し出は素直に受けられない。
「あのね、悪いんだけど」
 少し迷ってから、私は腕に抱えていたクリアフォルダを、彼女に向かって差し出した。
 中には、コピー用紙が数枚挟まれている。
「これ、鷺宮君に渡しておいてもらえないかな」
 そう頼むと、彼女はまたもきょとんとした顔になった。「鷺宮?」 と言いながら教室にちらりと目をやる。
「鷺宮なら、中にいるよ。呼ぼうか」
「あ、いいのいいの。特に用事があるわけじゃないから」
 慌てて手を振ると、女の子は、ああ、とちいさく何度か頷いて、フォルダを受け取った。
「鷺宮って、ちょっと怖いもんね。判った、渡しとく」
 どうやら、私が蒼君を避けようとしている理由について、百八十度違う解釈をしたらしい。蒼君は怖くなんてないんだよ、と言いたくなるのをぐっと堪えて、もう一度、「ごめんね」 と繰り返した。
 彼女がフォルダを手に教室の中に入るところまでを見届けて、私はそそくさとその場を離れた。四組を背にしてとぼとぼ歩き、はあーっと大きな溜め息をつく。
 これ橘さんから、と言われて手渡されたものを、蒼君はあの無愛想さで、ああ、と言いながら受け取るのかな。
 蒼君のことだから、多分中身を確認することもしないで、そのまま机の中にしまいそうだ。見るのは試験の前日の夜、とか言ってたから、それまでは鞄の中にでも入れて、放置しておくのかもしれない。
 そして、試験前日の夜になって、それを取り出して──どう思うだろう。
 いや、きっと、なんとも思わないだろう、とは思うんだけど。試験に対してさえ関心が薄かった蒼君だもの、私のノートに他人の書き込みがあろうが、それがどう見ても男文字であろうが、気にしないに決まっている。もしかしたら気づくことすらないのかもしれない。
 でも、面と向かって蒼君にコピーを手渡した場合、私はおそらく、いろんな言い訳が口をついて出てしまうんだろうな、という確信があった。だからどうしても、蒼君と顔を合わせられなかったのだ。
 近くに住む従兄に勉強を見てもらってね、とか。
 その人がいろいろと書き込みをしてくれてね、とか。
 それは別に嘘でもなんでもないのだけれど、でもやっぱり私の口調には、隠し切れないぎこちなさが混ざってしまうだろう。それに何より、蒼君の前でトモ兄のことを話題にするのは抵抗がある。
 ことさら 「従兄」 ということを強調してしまいそうな自分が嫌だ。蒼君は何とも思わないだろうに、自分一人があれこれ気を廻さずにはいられない愚かさに腹が立つ。なんだか自分がものすごく卑怯なことをしているような、蒼君に対してもトモ兄に対しても不実な態度を取っているような、そんな気分になってさらに落ち込む。
 ──中途半端だなあ、私って。
 再び深く溜め息をついて、私はのろのろと自分の教室へと戻った。
 蒼君と話がしたかったな、と未練がましいことを、ぽつりと心の中で呟いた。


         ***


 その日は、たまたまばったり顔を合わせた季久子と一緒に帰ることにした。
「久しぶりね、夏凛と帰るのって。家が近いんだから、もっと頻繁に一緒に帰ろうよー」
 学校の門を出ながら、季久子が無邪気に鞄を抱えて笑う。もともとが可愛らしい容貌をしているので、こんな風ににこにこされたら、このまま刺し殺されても許してしまいそうだなあと錯覚しそうになる。いや実際に殺されたら怒るに決まってるが、もしかして私が男だったら怒らないかもしれない。可愛らしさは時に、何もかもを凌駕する威力がある。
「私はいつでも一緒に帰れるんだけど、キクちゃんはすぐに彼氏を作っちゃうでしょ。いくらなんでも、キクちゃんと彼氏が肩を並べて歩くところには割り込めないよ」
 冗談交じりに、「友情なんて儚いねえ」 と恨み言を言ったら、
「あら、でも、あたしは男よりも夏凛が好きよ」
 と返された。けっこう、真顔だった。
「キクちゃんはまたそーゆー誤解を招くようなことを……」
「いや、誤解じゃなく」
 せっかく私が笑い飛ばそうとしたのに、季久子がきっちりと訂正する。だからそれが誤解を招くというのに。季久子を気にしてこっちの会話に聞き耳を立てていた男の子が、ぎょっとした顔をしているではないか。
「ほら、あたしってさあ、小さい頃からすんごく可愛かったじゃない?」
 うん、確かに。確かに昔から可愛かったが、そういうことを大きな声でけろっと言い切るのはやめた方がいいんじゃないかな。私は慣れているからいいけど、今度は脇を通り過ぎようとした女の子が目を剥いている。
「それで小学生の頃なんか、よく理由もなく女の子たちに苛められたでしょ」
「……うん、そんなこともあった、かな」
「そうよ。ハッキリ言っちゃっていいわよ。先生が授業中にあたしを当てたってだけで、ヒイキだ、とか言われてさ。けど、夏凛はいつだって態度が変わらなかったじゃない。悪口言うのやめなよ、って他の女の子たちを牽制してくれたりもしたし。あたしねえ、ホントにそれが嬉しかったんだー」
 にっこりされて、私は目を見開く。
「そうなんだ……キクちゃんはそういうの、あんまり気にしてないのかと思ってた」
 季久子は今でこそ同性の友人も多いが、昔はよく女の子たちに陰口を叩かれたりしていた。けれどそんな時でも、いつも堂々としていたし、泣き言なんかを口にしたこともない。何を言われても平気なように見えて、キクちゃんはすごいなあ、と幼い私は単純に感心していたものだ。けれどやっぱり、子供心に傷ついていたのか、と思うと、申し訳ないような気持ちになった。
「でも、それ、正義感で言ってたわけじゃないよ」
 私が他の子たちに、やめなよ、と言っていたのは、彼女たちの言い分が、「あんなに可愛くてずるい」 という意味のことが多かったからだ。事実として季久子は可愛いのだし、それは最初から生まれ持ったもので季久子の罪ではない。なのに、それについて悪く言うのは間違ってるんじゃないの、と思っただけのことだ。季久子を守ろうとして庇っていたわけではなく、ましてや私が善人だったからでもない。それを感謝されていたとしたら、少々居たたまれない。
 ごめん、と正直に謝ると、季久子は陽気にけらけら笑った。
「それでいいのよ。あたしさ、学級委員的な、『事情は知らないけど人を苛めるのはよくないと思います』 って意見、大っ嫌い。そんな風に物事を善と悪のふたつに分けて決めつけたって、何も解決しないのにさ。その点、夏凛は、どっちが良い悪いじゃなく、やみくもに悪口はいけないって止めるんでもなく、『可愛いという観点を基に悪く言うのはおかしいんじゃないか』 ってみんなに言ってくれたんでしょ。そういうところが好きなんだって。言っておくけど、あたしって意外と性格暗いから、他人にここまで心を許すことってそうはないのよ」
「それはどうなんだろう、今までの彼氏たちに対して」
「だから夏凛は特別ってこと」
「……どうもありがとう」
「うふ、どういたしまして」
 なんと言っていいものか判らなくて、とりあえず礼を言ったら、季久子に朗らかに返された。
「けど、キクちゃんはまた彼氏を作ったら、私を放ってその人と仲良く帰るんだよね?」
「当たり前じゃないの」
 すぱっと言い放つ季久子と顔を見合わせ、どちらからともなくぷっと噴き出して笑った。迷いも悩みも束の間忘れて、肩をぶつけてきゃっきゃっとじゃれ合う。私もこういう時、季久子のことが好きだなあと再認識するから、季久子もきっと、そういう意味で私を 「好き」 と言ってくれているのだろう。多分。多分だが。
「あ」
 自分たちの笑い声の合間に、近くで短い声が聞こえた。
 振り向くと、そこには、蒼君にノートのコピーを渡してもらうよう頼んだ女の子が立ち止まっていた。彼女も帰るところなのだろう、友達の女の子たちと連れだって歩いていたところで、季久子と騒いでいる私を見つけたらしい。
「今日はどうもありがとうね」
 私はその子に改めてそう言った。
「ううん」
 と首を横に振ってから、彼女はちょっと考えるような顔をした。
「あのさ……あれ、ホントに自分で渡さなくてよかったの?」
 少しためらいがちに出された言葉に、私は 「は?」 と問い返す。
「うん、えーと、別に、手渡し原則の重要書類ってわけじゃないんだけど……」
 たかがノートのコピーだし、と思った私が不得要領気味に言いかけると、違う違う、というように、彼女はまた首を横に振った。
「あれ渡したら、鷺宮がちょっと黙ってフォルダをじっと見てさ。 『……本人は?』 って訊くから、『帰ったみたいよ』 って答えたんだけど」
 え、と少し動揺した。彼女はそんな私に構わず話を続けて、その内容に、私はさらに動揺した。
「そうしたら、わざわざ席立って、廊下を見に行ったのよ」
「…………」
 ──蒼君が?
 あの、すべてにおいて 「どうでもいい」 とか思っているような、蒼君が?
「鷺宮、その時、ちょっと怒ってるみたいに見えた。だから、直接渡した方が良かったんじゃないのかなあ、って思ったの。一応、それだけ伝えておくね」
「あ……うん」
 ぼんやりしていた私は、咄嗟にどう返していいのか判らなくて、かなり間の抜けた返事をした。じゃあね、と一緒にいた友達とまた歩きはじめた彼女を見て、慌てて 「ありがとう」 とまた声をかける。
 小さくなっていく後ろ姿をぼうっと見送りながら、私はその場に立ち尽くした。
 怒ってた……蒼君が。ノートのコピーを渡す、と言い出したのは私なのに、直接持って行くこともしないで他人に預けた無責任さを腹立たしく思ったのだろうか。それとも。
 それとも?
「へえー、やるじゃない、夏凛」
 近くでこのやり取りを見ていた季久子に、感心したようにぽんと肩を叩かれた。軽く触れたくらいなのに、それでさえ、私は驚いて身じろぎした。大丈夫か、私。魂が半分、身体から離れかけているみたいだ。
「え、な、何が?」
「作戦でしょ。そうやってちょっと身を引くようなフリをして、男を焦らせる、っていう」
「は?!」
 驚愕して大声を上げた。
「ち、ちが」
「夏凛にしちゃ、高度なテクニックを使うわね。あたしもやろう」
「ちがうってば!」
 したり顔をする季久子に、悲鳴のような声で否定する。断じて、そんなつもりがあったわけではない。
「ちがうの?」
 季久子は私の様子を見て、ぱちぱちと瞳を瞬いた。それからいきなり、真面目な顔になった。
「計算じゃないなら、やめときなさい。少女マンガじゃあるまいし、恥ずかしいから顔も合わせられない、なんてのは、男の子にとっては鬱陶しいだけだから」
「ちがうって……」
 ぐったりしながら肩を落とす。季久子の指摘は、ことごとくポイントがずれているが、しかしそのずれを修正するための説明をする気力が湧いてこない。第一、どう説明していいか判らないし。
 ここで、「じゃあ、なんなの」 と追及してこないところが、季久子のいいところだ。私が言い淀んだのを察したのか、ころっと思考を切り替えて、うな垂れた私の肩を、またぽんぽんと叩いた。
「まあ、何にしろ、相手にも多少は意識してもらってるみたいじゃない。あともうひと押しよ、夏凛」
 明るく言われて、私は顔を上げる。
 意識してる?
 蒼君が、私を?
「……頭が痛くなってきた……」
「なんで」
 ぼそりと零した私の呟きに、季久子が、意味が判らない、という顔をした。そりゃそうだよな。私だって私が理解できない。ここは本来なら、もっと喜ぶ場面のはずなのだ。
 なのになんで、今の私はこんなにも、頭と心が痛むのだろう。
 蒼君にとって、本に挟まれたスリップ程度の存在だった私が、多少は人間として見てもらえるようになったのかもしれない。それは確かに嬉しいことだ。かなり胸が上擦ってしまうくらいだ。
 いつかは、本当に私も、あの男の子みたいに蒼君の 「友達」 としての位置に行けるのかも、と思うと。でも。
 でも──それから?
 友達になって、私はそれで満足するのだろうか。そのポジションを屈託なく望んでいるうちはまだいい、けれど実際にそれを手に入れたとして、私はそこで、よかったよかったと思えるのだろうか。
 ……そこから、蒼君のことをもっと好きになったり、「好きになって欲しい」 と願わずにいられるのだろうか。
 蒼君にもっと近づきたい、けれど、ある程度以上は進む勇気がない。蒼君の視界に私を入れてもらいたい、でも、そこからどうしていいか判らない。通りすがりでいたくなかったから足を踏み出したというのに、たったこれっぽっち状況が動いただけで、無性に怖気づいている自分がいる。
 なんだこれ、なんだこの矛盾。
 「奈津」 と 「夏凛」。二人の人間がそれぞれ違う人を好きになったために、こんな混迷が生じてしまっている。厄介なことに、その二人は同じ人間なのだ。この迷い道に出口はあるのか。
「頑張りなさいよ。あたしは夏凛の味方だからね」
 と、季久子が頼もしいことを言ってくれた。
「……うん、ありがと」
 私は弱々しく笑って、さっきから何回も言っているその言葉を口にする。頑張れ、と言ってくれる季久子に、トモ兄や前世のことをすべてぶちまけてしまったら、どれだけスッキリするだろうと思った。
 でも、きっとやっぱり、信じてはもらえないのだろう。季久子のことは好きだし、信じてもいるけれど、だからこそ、季久子のこの大きな瞳が、はっきりとした疑惑に彩られていくそのさまを、私は見たくない。蒼君に、「前世なんてくだらない」 と言われた時に受けた重さは、今も私の中にずしんと残り続けている。
 私は一人で迷い続けるしかない。
「ありがとね、キクちゃん」
 ぽつんと、そう言った。
 ふふ、と女の私でさえうっとりしそうな可愛らしい顔で、季久子が笑った。
 ──生まれつきの愛らしいこの容貌のせいで、今まで何度も悔しい思いや、つらい思いをしてきた季久子。
 一方的に男に好かれたり、どんなに努力しても結局は外見だけで選別されたり、そのために周囲から疎外されたり。近くで見てきた私からしたら、みんなが羨むほど、季久子はいい思いばかりをしてきているわけじゃない。
 でも、笑ってそれらを受け入れて、時に戦い、時に利用し、胸を張って毅然と生きる季久子は、とても綺麗だと思う。
 そんな季久子から見ると、私は一体どう映るんだろう。
 生まれた瞬間から過去を背負っていた。それ自体は、私の罪じゃない。けれど、それに対して未だに上手く馴染むことが出来ないのは、やっぱり私に問題があるからだ。受け入れもせず、かといって、きっぱり拒みきれもせず、うろうろとみっともなく右往左往しているだけの私には、季久子に味方をしてもらうような価値があるんだろうか。
 試験が終わるまであと五日。
 ここを乗り越えたら、まだバイト先で蒼君と話が出来る、と思うのに、私の気持ちはなんとなく沈んでいく一方だった。



BACK   TOP   NEXT

Copyright (c) はな  All rights reserved.