遠くの星

12.残像



 それから試験まで、私の精神状態はけっこう最悪だった。
 まだしも、試験の真っ最中のほうが、かえってそれだけを考えているだけでよくて、気が楽だったくらいだ。一日思索に耽っていればよかったんだから羨ましいよ、なんて思っていた昔の哲学者たちに謝ろう。ちゃんと考えなければならないことがあっても、試験や勉強に逃避すれば許される現代高校生のほうがいいに決まっている。考えても答えの出ないことに延々と頭を悩ますのは、本当につらい。生まれて初めて、もっと試験が続けばいいのになあ、と私は願った。
 しかしそうそう私の願いどおりいつまでも試験が続いてくれるわけもなくて、三日間の棚上げ期間はあっさりと終了を告げた。
 しょうがない。私はようやく目の前の問題と向き合い、あれこれと考えをめぐらせる。試験が終わったということは、私はバイトに行かなきゃいけないということで、そこでは否も応もなく、蒼君と顔を合わさなきゃならない、ということでもある。
 ──どんな顔して会えばいいんだろう?
 そう考えてから、いや別に、いつもの顔で会えばいいんだよね、と思い直し、いやいや待て待て、いつもの顔ってどんな顔だっけ、とまた悩む。アホじゃないのか、私。
 今までよりもずっと意識してしまっているのは、断然、私のほうだった。蒼君が席を立った、というそんなちょっびりなことで、すっかり浮足立っている自分の馬鹿さ加減が恨めしい。誰に言い寄られても悠然と構えていられる季久子の図太さを、ほんの少しでいいから分けてもらいたかった。
 普段通り、普段通り、と念仏のように唱えて、私はバイト先へ向かった。


 ……そんなだから、もちろん、バイト先の本屋では散々だった。
 人間、「普段通り」 にしようと思うと、決して普段通りに行動できないのはなぜなんでしょうね。いや、他人事のように言っている場合じゃない。その日の私はレジで釣り銭を間違えたり、本棚に並べている途中で手に持っていた本をドサドサと落っことしたり、通路に座り込んで雑誌を読んでいた客の足につまずいて怒鳴られたりと、ヘマの連続だった。
 蒼君とは、バイト先に到着してからまだ一言も口をきいていない。まったく私のほうなんて見向きもしないで働き続ける蒼君と、その彼の姿をどうしても気がつくと目で追ってしまう私は、非常に対照的だ。
 そちらに気を取られ、何度も小さなミスを繰り返した挙句、とうとう私は須田さんに呼び止められた。
「ちょっと、橘」
「は、はい」
 当然、叱責がくるものだと思った。須田さんはけっこうきつい物言いで、叱る時はビシビシ叱る。嫌味や皮肉も痛烈だ。私は肩をすぼめ、来たるべき罵声に備えて身を固くした。
 ……でも、違った。
 現実は、もっと厳しかった。
「やる気がないなら帰って。あんたみたいなやつ、目障りだから」
 須田さんは冷ややかな目でそれだけを言い放つと、くるりと背を向け、すたすたと私の前から立ち去ってしまったのだ。
「…………」
 私はしばらくその場に立ち尽くした。
 自分の顔から、血の気が引いているのが判る。須田さんの冷たい刃のような一言は、どんなにがあがあと怒られるのよりも、鋭く私を突き刺した。自己嫌悪と恥ずかしさが胸の中をぐるんぐるんと渦巻いて、息が詰まりそうだった。
 須田さんはよくズケズケとした言い方をするけれど、私が失敗したからって、「帰れ」 なんて言ったことは、一度もない。今日の私は、それほどまでに最低だった、ということだ。
 何回もミスをしたのがいけなかったんじゃない。
 悪いのは私だ。高校生のバイトとはいえ、お金を貰っている以上、きちんとその分だけの労働をしなければならないのは当然なのに、半分以上、上の空で動いていた。自分の悩みとか、蒼君のこととかは、仕事とはまったく関係ないのに、それらを持ち込んで平気な顔をしていた。そういう私の甘っちょろい部分を、須田さんはちゃんと気づいていたのだ。
 これまで仕事のことをいろいろと教えてくれていた須田さんは、きっと私に失望したんだろう。厳しくても、私がしっかりやれるようにと思って、これまで私に対して接してくれていたはずだった。私だって、まだまだ半人前のバイトだとは自覚しているけれど、なんとか頑張ってやって来たつもりだ。この場所でこつこつと築いてきた努力も信頼も、それはまだまだ小さいけれど、でもそれなりに形づくっていたものを、今日の私は台無しにしてしまった。
 恥ずかしくて、情けなくて、首筋まで真っ赤に染まった。
 下を向き、歯を喰いしばる。瞼の裏が熱くなって、耳のつけ根がじんじんと痺れるように痛んだ。
 ……ホントに帰りたい。
 正直なところ、そう思った。
 一人っ子は、しっかり者か甘えん坊か、そのどちらかに性質が分かれるものらしいけれど、私は完全に後者のほうだ。小さな頃から、母親に怒られても、必ず父親かトモ兄に泣きついて、慰めてもらっていた。この時も、私の心は逃げ場所を求めて、家に帰りたがっていた。


 あのねあのね、お母さんに、こんなこと言われたんだよ。怖い顔して、かりんのこと、怒ったんだよ。かりん、なんにも悪いことなんてしてないのに。
 そうか、それは可哀想だったね。大丈夫だよ、僕が代わりに謝ってあげる。よしよし、僕がいるから、泣かなくていいんだよ、ナツ──


 ……ああ、こんなんだから。
 私がこんな風だから、トモ兄は、私の言うことを耳に入れてくれないのかな。
 そう思って、ぎゅうっときつく拳を握った。
 私が何を言っても、まるで子供をあやすみたいに抱きしめて、頭を撫でて、僕以外の男を好きになっちゃいけないよと、ナツは僕のそばにいればいいんだよと、そればかりを言い聞かせるようにして繰り返すのかな。
 もしかしたら、奈津も、そういう娘だったのかもしれない。
 庇護されて、依存して、甘やかされて、恋人にぬくぬくと守られて、そのことだけに満足して、幸せだったのかもしれない。だからトモ兄も、なんの躊躇もなく、私をそうやって扱おうとしているのかも。
 そう思われて当然の態度を、私はこれまでずっと、トモ兄に対して取り続けていたんだ。
「──……」
 すん、とちいさく鼻を啜って、私は目の端に溜まった涙を手の平でぐいっと拭い取った。
 それから、レジの須田さんのところに歩いていって、すみませんでしたと頭を下げた。
「帰るの?」
 問われた言葉に、首を振る。正面から須田さんの顔を見て、きちんと目を合わせた。
「帰りません。ちゃんとやります」
 はっきりした口調でそう言うと、須田さんは素っ気なく、「あっそ」 と肩を竦めただけだった。
「そんじゃさっさとレジ入って。これから忙しいよ」
「はい」
 返事をして、私はエプロンの紐をぎゅっと締め直した。
 店内のどこかにいる蒼君のことは、全然気にならなかったと言ったら嘘になるけど、それでも、目で探そうという気持ちを抑え込むことには成功した。
 ──まず、自分がもうちょっとしっかりしないとね、と心の中で自分自身に向かって言った。


          ***


 お疲れ様でしたー、と言いながら店を出て、暗くなった外に出ると、自販機の前に立っていた蒼君と、ちょうど目が合った。
 わ、と内心ではうろたえつつ、表面上は何事もないような顔を取り繕う。須田さんに謝ってからは、仕事に追われているうちにいつの間にか蒼君のことは頭から飛んで、無我夢中で働いていたのだけど、実際にその姿を間近で見るとやっぱり平常心ではいられない。まだまだ修行が足りんね、私は。
 お疲れさま、と声だけかけて、そそくさと立ち去ろうとしたのだが、その前に蒼君に言われた。
「須田さんにやられてたな」
「ぎゃっ」
「……せめて、濁音は取ったらどうだ」
 狼狽する私を余所に、蒼君はいつもとまるで変わらず落ち着いている。自販機に小銭を入れて、ボタンを押し、ガコンという音と共に取り出し口に出てきた缶を、身を屈めて手に取った。
「み、見てた?」
「たまたま目に入った」
「見てたんじゃん!」
 私は赤面した頬を両手で押さえて呻く。あんな場面を見られて、恥ずかしいったらない。怒られるのはしょっちゅうだけど、今日のはいつものとは意味が違う。
 ひょっとして、私の失敗ばかりのところも見られていたんじゃないか、と思ったら、冷や汗が出てきた。
 蒼君も、仕事に対しては真面目だもんね。須田さんと同じで、やる気がないなら帰れ、って思ってたのかな。
 怒ったかな。呆れたかな。軽蔑されたかな。
 蒼君は私に対して何も言わなかったけど、それは、「言う気にもならない」 ってことだったんじゃないのかな……。
「ご、ごめんなさい。これからはもう、怒られることのないよう、気をつけるから」
 蒼君はバイト先での私の先輩でもあり、指導係でもあるので、私は赤くなりながら小さくなって謝った。蒼君は手の中で転がしている缶に目をやりながら、ああ、という返事をしたけれど、それがいかにも興味なさげな声だったので、私はしょんぼりした。やっぱり蒼君にとって、私はどうでもいい存在なんだなあ、と思い知らされる。
 判っていたけど、やっぱり私の気の廻しすぎ、単なる独り相撲だったんだ。
 蒼君は、私のことも、ノートの書き込みのことも、つゆほども気にかけていない。
 ほっとするような、寂しいような。
「まあ、橘が怒られなくなることは、今後もないと思うけど」
 さらっとひどいことも言われて、ますますガックリくる。そこに、いきなり、にゅっと手を伸ばされた。
「えっ?」
 驚いて反射的に自分の手を出したら、その中にぽすんと缶を落とされた。
「な、なに?」
 と聞き返しながら、蒼君の顔と小さな缶をきょろきょろと見比べる。よくよく自分の掌の中にある缶を見て、あれっと声を上げた。
 それはいつも蒼君が買っているコーヒーではなく、おしるこの缶だった。
「蒼君、これ……」
「間違って買ったから、やる。俺はそんな気色の悪いもんは飲めないし」
「間違って?」
 私は困惑して、蒼君の言葉を繰り返した。闇の中、煌々と電気の点いた自販機に並ぶ缶ジュース類は三段あって、蒼君がいつも買うコーヒーのボタンは最上段、おしるこは最下段の端っこだ。そんなに離れている場所を、間違えて押しちゃったりするものだろうか。
「あの、じゃあ、お金出すよ」
 私がそう言うと、蒼君はなんだか苦いものでも呑み込んだような、イヤそうな顔をした。
「お前は、俺をどれだけケチな人間だと思ってるんだ」
「え、違うんだ……」
 思わずぽろっと本音が漏れてしまい、蒼君はますます憮然とした表情になった。
「百二十円くらい、奢ってやる」
「そ、そう……。ありがとう」
 私はさらに当惑しながら礼を言った。なんか、この間と言っていることが違うような気がするんですけど。
 しかしそこで、私はようやくピンときた。
 これはひょっとして、蒼君にとっての、「ノートのコピーのお返し」 的な意味のものなのかな、と思ったのだ。間違って買った、なんて素直じゃない言い方が、いかにも蒼君らしい。
「ノートのことなら、気にしなくていいよ。私が勝手にしたことなんだから」
「…………」
 私が言うと、蒼君は無言でこちらを見て、それから小さなため息をついた。
 またくるりと自販機に向き直り、今度こそ間違えずに、最上段のコーヒーのボタンを押す。
 缶を取り出しながら、
「俺、明日バイト休むから」
 とぼそっと言った。
「あ、そうなんだ。珍しいね、蒼君がお休みするの」
 試験前どころか試験中でも休まずバイトしていたのに、試験が終わってから休みを取るのかあ、と思わないこともないのだが、まあ、蒼君にも蒼君の事情とか用事とかがあるのだろう。
「バイト料出たし、ちょっと旅行してくる。明後日からまたシフト入れてあるから、それまでには帰る」
「へえー、旅行?」
 少し意外な気がして、私は目をぱちぱちさせた。
「蒼君でも、家族旅行とかするんだねー」
 そういうの、興味がないから留守番してる、とか言いそうなのに、と思う。いやいやでもこれで、蒼君はけっこう家族思いだったりするのかもしれない。もしかして、こうして毎日のようにバイトに励んでいるのは、家計を助けるためという可能性もある。
 お父さんはギャンブル好きで浪費家で、お母さんは病弱で。
 母さん、俺が一生懸命働いてやるから、無理しないでいいんだよ、みたいな。
 少し金も貯まってきたから、これで旅行にでも行って、たまにはゆっくりしようか、みたいな。
 自分で勝手に考えた蒼君の家庭環境に、私は目を丸くして感嘆の声を上げた。
「うわー、蒼君に、そんな親孝行な一面があるとは思ってもみなかったよ!」
「お前が一体何を想像してるのかは知らないが」
 蒼君がむっつりしたまま言った。
「誰が、家族で、なんて言った?」
「えっ、じゃあもしかして、一人旅?」
「そう」
「遠方で、何か用事でもあるの? お父さんとお母さんの代わりにお葬式に出なきゃいけない、とか」
「なんで葬式限定だ。お前は用事がないとどこにも行かないのか」
「ええー、普通、用事があって出かけるもんだと思うけど。じゃあ、なんにも目的がない一人旅なの? 行き先は決まってるの?」
「その日の気分で、適当に」
「ええー!」
 そんな旅行の仕方があるものだとは考えたこともなかったので、私は心底びっくりした。ぶらり一人旅ですか。そんなの、テレビの旅番組の中にしかないものだと思っていた。
「よく行くの?」
「三カ月に一度くらいだな」
 けっこう頻繁に行くんだ、とまたまたびっくりだ。つまり、それが蒼君の趣味なのか。趣味・旅人、と脳内の蒼君ノートに書き込んでおく。
「あ、それでバイトして、旅の資金を貯めてるの?」
「まあな」
 なるほど、家計を助けるためではないのだな、と私は納得して頷いた。私も、想像しながら、なんとなく違和感があったんだけどさ。
 だがしかし、私はそこで、重大なことに気がついた。
「……蒼君、でも明日、平日だよ」
「知ってる」
 蒼君は、それが何か? という顔をして言った。あまりにも平然としているので、私のほうがおかしいことを言っているような気分にさせられる。
「が、学校は」
「サボるに決まってるだろ」
 わあ、迷いなく言い切りましたね!  そもそも、明日学校休む、ではなく、明日バイト休む、という台詞からして、蒼君の中で、どちらの比重が大きいかは明白だ。
 学校を堂々とサボって、どこかの空の下で、目的地も決めずに悠々と列車に乗っている蒼君の姿が頭に浮かんで、私はちょっと楽しくなってしまった。そういう自由な生き方が、確かに蒼君には似合っている気がする。
 待ち時間が長くても、それを苦にすることもなく、ベンチとかに一人で座って本を読んだりしていそうだ。
「そうかー、一人旅かあ……」
 私は口元を綻ばし、背中を反らして暗くなった夜空を見上げた。こんな街中では、そこには星も満足に見えやしないけれど。
「……旅先では、星が綺麗に見えるといいねえ」
 ほとんど独り言のように、ちいさな声が口から滑り落ちた。


 満天の星空。
 夜空に広がる、白い星々。
 何も要らないの、という声がする。
 なんにも要らない。奈津は、これだけで幸せです。
 この綺麗な星空があって、隣にあなたがいてくれたら──


「星?」
 蒼君の声にはっとした。
 今まですぐ前にあった美しい星空が消えて、人工的な明かりが反射する、少しくすんだ暗い夜空が戻ってきた。
 え。なに、今の。
 え? 私、今、なにを思った?
 私? ……「奈津」?
「あ、ごめん、なんでもない」
 慌てて蒼君のほうに顔を戻し、ぎこちなく笑った。上擦った声に、蒼君が訝しげに少し眉を寄せる。暗くてよかった。私の顔色が青くても、きっと判らない。
「じゃあ、気をつけてね。明日は蒼君の分も頑張って働くよ」
 私じゃとても代わりにはならないけど、とえへへと笑った。いやだな、我ながら、顔が引き攣っている。手の中のおしるこの缶を強く握りしめた。
「…………」
 蒼君は私を見て黙ったまま、そこから動かなかった。どうしたんだろう、いつもはさっさと自転車に乗って帰っていくのに、とじりじりする。今の私を見られたくない。早く、早く帰りたい。一人になりたい。
 動揺を表に出さないように、私は必死だった。ちゃんと笑えているだろうか。いつもと同じ顔が出来ているだろうか。普段通り、普段通りにしていないと。
 しかし、普段通りに、と願えば願うほど、普段通りに事態が推移しないのは、なぜなんでしょうね。そういう法則でもあるのか? いつもならすぐに立ち去る蒼君は、今日に限って、なかなか足を動かそうとしない。
「橘」
 と呼びかけられ、肩がぴくりと揺れた。
 私の精神力も今日一日の酷使で擦り切れはじめている。無理やり笑い続けたため、頬の筋肉がひくひくと震えだして、そろそろ限界だ。もうちょっと、もうちょっとの辛抱だから、頑張れ、私。
「う、ん、なに?」
「──お前のノートの男文字、誰の?」
 淡々とした口調で唐突な質問をされた瞬間、私のそれまでの努力は脆くも崩れた。



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