遠くの星

14.夜空



 ふわ、という小さな欠伸をしたら、古典の先生にじろりと睨まれた。
 私はすぐに、真面目に聞いてますよ、という顔を取り繕って、机の上の教科書に目を落とす。五十代女性の古典担当は、少しでも注意力散漫な態度で授業を受けている生徒を見つけたら、その生徒を指名してびしびし質問を飛ばすのが大好き、という性格をしているのだ。
 しかし、視線だけは教科書に向けながら、私はもう一度、口許を手で隠して欠伸をした。こんなんだもの、授業の内容なんか、ろくすっぽ頭に入りゃしない。先生が読み上げる 「大鏡」 だかなんだかの古典文が、まるで子守歌みたいに私を眠りへといざなおうとしている。しょぼしょぼする目をこすりながら、私は一生懸命、襲い来る睡魔と熾烈な戦いを繰り広げていた。
 なんでそんなに眠いのかって?
 そりゃ、昨夜、寝られなかったからに決まっている。
 蒼君のこととか、バイトでのこととか、いろいろと考えることがあったというのももちろんだが、それ以前に、眠るのが怖かった、というのがいちばんの理由だ。
 ──だって、眠ると、夢を見るでしょう。
 夢っていうのは、往々にして、自分の意志とか希望とかとは、まるで無関係なものを見せたりするでしょう。
 だから、私は怖くてたまらなかったのだ。怖くて怖くて、目を閉じるのも嫌なくらいに。

 もし、また奈津の記憶の夢を見たら?
 そしてそれが、今まで私が見たことのない、新しい記憶だったら?
 前世で愛し合っていたという男の人のことを、今度こそ鮮明に思い出してしまったら?

 そう考えると、とてもじゃないけど安眠を貪る気にはなれなかった。ウトウトしかけたらはっとして目を覚ます、ということを繰り返し、まあ結局は、耐えきれず意識が闇に埋没してしまったわけだけれど、母親に叩き起こされるまで、睡眠時間は多分、三時間にも満たなかっただろう。ようやく試験が終わって、もうたっぷり眠っても、誰からも文句を言われない立場になったというのに、なんだこの苦行。
 ──薄っすらとした睡眠の中で、夢は、少しだけ見たような気がするのだけど、覚えていない。
「…………」
 ふう、とかすかに溜め息を零して、私はちらりと窓の方へと目をやった。
 青空の広がる、いい天気だった。ずいぶんと風が強くて、白い雲が早いスピードで流れていく。太陽が眩しい光を放っていて、教室にいるぶんには暖かいけれど、これから季節は真冬へと向っていくから、外に出たら空気はもうかなり冷たいのだろう。
 期末試験も終わって、次にやって来るのは冬休みだ。
 蒼君と言葉を交わすようになってから、もうすぐ三カ月近くが経過しようとしている。当たり前の話だけど、私が足を止めてぐずぐずしていたって、その間も時間は着々と進んでいるのだった。
 これからクリスマスがあって大晦日があって、それは別に私にはあまり関係ないからいいのだが、年始には、親戚の集まり、という厄介なものがあったりするわけだ。パスしてバイトに行くという手もあるが、それだと後々面倒なことにもなりかねないから、顔くらいは出しておいた方がいいかもしれない。挨拶して、おじさんやおばさんの輪の中に入って、空気のようにニコニコしていよう。ていうか、私まだ高校生なのに、なんだってこんなところまでいちいち気を廻さなきゃいけないのだろうか。
 あれやこれやと考えていると、気持ちは憂鬱になっていく一方である。窓から見える青い空を見やって、私は再び小さな溜め息をついた。
 蒼君は今頃、どこにいるのかなあ。
 適当に電車に乗って、気が向いたらどこかの駅で降りて、ふらりと好きなところを見て回っているのかな。今日は全国的に晴れだって天気予報で言ってたから、今ここにあるのよりももうちょっと綺麗な青い空を見上げているのかな。一人でのんびり歩きながら、あの無愛想な顔つきで、どんなことを思い浮かべているのかな。

 蒼君は、今、どんな景色を見ているのだろう。

 ……と、いうようなことを窓の外を見ながらぼんやりと考えていたら、「はい、橘さん、ここ現代語訳に直してねー」 という先生の冷淡な声が響いた。


          ***


「で、期末はどうだったのよ」
 須田さんに問われて、私は曖昧に首を傾げた。
「まだ、順位とかの結果は出てないですよ。テストが終わったの、昨日だし。まだ答案用紙が返ってきていないのも多いし」
「とろくさいわね」
 ちょっとイラだたしそうにそう言って、須田さんが、ふん、と鼻から息を吐く。美人がそういうことをやっても、あんまり品のない感じには見えなくて、羨ましい。とはいえ須田さんが実際は上品かっていうと、ちょっと言葉を濁してしまうのだが。
 今日もバイト先の本屋は、お客さんがまあまあ入っている。しかし、みなさん立ち読みに精を出していらっしゃって、レジは閑古鳥が鳴いている。商売繁盛なんだかどうなんだか、よく判らない。だからそこはとりあえず他のバイトさん一人に任せて、須田さんと私は、せっせと店内での荷開けと品出し作業に追われていた。
「とろくさいと言われても」
 採点をするのは私じゃないからなあ、と思いながら返事をして、私はよっこらしょと箱から分厚い本を取り出した。本屋でバイトをしていると、ただいま売れ筋の本がよく判る。最近この本よく売れるなーと、半分別のことを思いながら陳列棚に並べている私に、須田さんは声音を抑えてさらに突っ込んできた。
「自分なりに、手応えはあったかって聞いてんのよ」
「ううーん、手応えですか」
 私はもう一度首を傾げる。それはまあ、普段よりは多少真面目に勉強した分、けっこう答えが書けたんじゃないかな、という気はするが、自信満々、百点間違いなし、なんてことは賭けてもいいが絶対にない。
「そこそこ……かなあ。そういえば、蒼君はどうだったんでしょうね。赤点じゃなきゃいい、って言ってましたけど」
「鷺宮はどうでもいいのよ。あいつは点数が悪くたって、バイトを辞めさせられたりはしないでしょ」
 のんびりとした私の返事に、少し手荒く棚の整理をしながら、須田さんがびしっと言った。昨日のことを今日に持ち越す人じゃないのに、妙にイラついてるなあと思いかけ、やっと、私は気がついた。どうやらやっぱり、睡眠不足で頭の回転が鈍っていたらしい。
「……あれ、須田さん、もしかして」
 手を止め、まじまじと須田さんの顔を見る。「な、なによ」 とたじろいだように、須田さんも動きを止めて、私を見返した。
「もしかして、私のこと、心配してくれてるんですか」
「…………」
 須田さんが黙り込んだ。
 そうかあー、と私はしみじみした。点数が悪かったらちょっとまずいんです、などという理由でバイトを休んだ私が、その後何も言わずにほけほけしているというのも、確かに勝手な話だよな。ちゃんと報告くらいしておくのは、当然の義務だった。
 私は改めて、須田さんにぺこんと頭を下げた。
「すみません。多分、試験は問題ないと思います。それに、もしも母親に何かを言われても、ちゃんと話して、バイトは続けますから」
「……あっそ」
 須田さんは例の気のない口調でそう言って、また棚に目を戻すと、今度は口を閉じて仕事を再開した。私もまた、黙って箱から本を取り出しはじめる。
 少ししてから、須田さんが小さな声で、ぼそっと言った。
「……あんたってさあ」
「はい?」
「あんたって、周りの人に愛されて育った子なんだろうね」
「は?」
 それは皮肉なのか嫌味なのかと訝って問い返したのだが、本棚に向けられている須田さんの目に、意地の悪い光はなかった。
 その顔は、呆れているというより、何かに納得している、ようにも見える。
 話の筋道がよく判らないので、私は戸惑って首を振った。
「えー、でも、うちの母はけっこう厳しいし、口も悪いですよ」
「じゃあ、父親か兄弟に、そういうのがいるんでしょ。あんたを甘やかして、大事にしてくれるやつ」
「…………」
 心当たりがありすぎて、口を噤むしかなかった。母親が遠慮のない性格をしている分、父親は確かに私に対して甘いところがあるし、トモ兄に至っては、もう今さら言うまでもない。
「いや、別に、それが悪いって言ってるんじゃないんだよ」
 須田さんは片腕に本を数冊抱えて、棚の乱れを直しながら淡々とした口調で言った。
「どんくさいし、ガキだし、単純だし、バイトとしてはまだまだ時給泥棒の役立たずだけど、それでもまあ、多少は美質と言えるところもある、ってこと」
「私、今、けなされてます?」
「最大限に、褒めてるね」
 真面目な表情で言いきる須田さんに、私はなんとなく釈然としない思いで 「……ありがとうございます」 と礼を言った。けなされているところはやけに具体的なのに、どこをどう褒められたのかは、さっぱり判らない。あるのかどうかはっきりしない、私の美質って何だ。
「ああ、そういやさ」
 本をすっかり取り出して、空になった箱を倉庫に運ぼうという段になって、須田さんが思い出したように口を開き、とんでもないことを言った。
「鷺宮に、あんたのケータイ番号聞かれたんで、教えといたから」
「は?!」
 私はぎょっとして、持っていた箱を床に落としてしまった。
 え、須田さん、なんでそんな爆弾発言を今になってさらりと言うんですか、とパニックになりそうになる。須田さんは床に転がった箱に視線をやって、ちょっと顔を顰めた。
「本の入った箱を落としたら、承知しないよ」
「はい、すみません、いや、ていうか蒼君が、私の? いつですか」
 私はすっかりうろたえて問いただしたが、須田さんは悠然と肩を竦めただけだった。
「今日の昼の休憩時間、あたしの携帯に電話がかかってきてさ。どこにいたのかね、あれ。後ろから、駅のアナウンスみたいなのが聞こえたけど」
 そういえば、緊急連絡用、ということで、私も須田さんの携帯番号を教えてもらっているのだった。店長だと今ひとつ頼りにならないから、という理由らしい。そしてそれは、蒼君も同様だ。だからつまり、私の携帯の番号も蒼君の番号も、須田さんは把握している、ということになるのだが。
「えっ、じゃあ、旅先からかけてきたんですか?」
「旅? 旅に出てんの、あいつ? 学校サボって? 高校生の分際で、いい度胸だねえ」
 須田さんをこんな風に感心して唸らせる蒼君は、やっぱりすごい。すごいが、問題はそこではない。
「わ、私に何か、緊急の用件でもあるんでしょうか」
 おろおろと訊ねる。私のスマホは今に至るまで、ピクリとも反応していなかったけど。
「さあ、知らない。用事があるなら伝えておいてやろうか、って言ったら、いやいい、って返されたから。そんであんたの番号教えたけど、ダメだった?」
 須田さんの質問は思いきり事後承諾という形だったが、私は慌てて首を横に振った。
「ダ、ダメでは、もちろん、ないですけど」
「あっそ。じゃあよかった」
 これで話は終わり、とばかりに須田さんは棚の整理を終えて、すたすたとレジに戻ろうとする。いやいや待って、私の混乱はちっとも終わっていないんです、須田さん。
「あの、蒼君は、なんで私の番号を」
「だから、知らない。ていうか、あんたら、まだお互いの携帯番号も教えてなかったわけ? どっちかっていうと、そっちのほうが驚きだね。今どき、中学生のほうがよっぽど進んでるよ」
 須田さんのもっともなご意見に、私はぐうの音も出なかった。でも、それを聞きだすきっかけも機会もなかったのだからしょうがないではないか。聞いたところで、いきなり電話なんて出来るわけもないし、蒼君はあんまりメールとかしそうにもないタイプだし。
 ぐるぐると考えていたら、
「とりあえず考えるのはあとにして、働きな」
 という、須田さんのドスの利いた声で、我に返った。
「は、はい」
 今日もまた昨日と同じ轍を踏むわけにはいかない。私は無理やりその件を胸の中に押し込めて、現在目の前にある自分の仕事に取り掛かった。



 私のスマホが着信音を鳴らしたのは、バイトを終えて、駅に向かっている途中のことだ。
「わあっ!」
 思わず悲鳴を上げてしまった私に、通行人たちが驚いたように振り返る。実は店を出てから、ずっと自分の手の中に握りしめていたスマホだが、大急ぎで暗がりの中で光る画面に目をやると、果たしてそこには、見ず知らずの番号が表示されていた。
「も、もしもし?」
 心臓が口から飛び出そうなほどドキドキしてそう言うと、
「橘?」
 という、まったくいつも通りの蒼君の声がスマホを通じて伝わってきた。
 どどど、どうしよう。蒼君は落ち着いていても、私はもう緊張で倒れそうだった。今どきの中学生のほうが進んでる、どころじゃないかもしれない。これでは小学生並みの反応である。
「あ、は、はい、こんばんは」
 上擦った挙句、私の口からしゃちょこばって出てきた言葉がこれだ。情けない。でもさ、普段でも蒼君は思わず聞き惚れてしまうくらいいい声の持ち主なのに、その声がすぐ耳元で聞こえるんだよ! しかも私の名前を呼んでるんだよ! どうしてこれで平常心など保っていられよう。
「橘、上を見てみな」
「へ?」
 素っ気ないところも、唐突なところも、あまりにも蒼君がいつもの蒼君なものだから、私は思わず、間の抜けた返事をしただけで、理由を問い返すこともなく素直に顔を上に向けていた。
 そこには昨日、あれだけ私が怖がっていた暗い空がある。
「星が見えるか」
 と、蒼君が聞いた。
 見上げた空には、闇の中に、白い光がぽつりぽつりと点在していた。天気は良くても、いつもと同じ、人工の灯りに邪魔された薄ぼんやりとした輝きでしかないけれど。
「う、うん、少し」
「そうか、こっちは綺麗に見える」
「そうなんだ」
 蒼君は今、どこにいるのかな、とちらっと思ったのだけど、それを訊ねるのはやめた。
 ただ、蒼君の目に見える星空が美しいものであることが嬉しいなと思ったし、よかったなと思ったから、率直にそれを口にした。
「よかった」
 そう言うと、うん、という返事があった。
「寒いけど、空気が澄んでる」
「気持ちよさそうだね」
 蒼君も、今、私と同じように、スマホを耳に当てて、上を向いているのだろうか。どこか私の知らない場所で、口から白い息を吐きながら。
 ──きっと、蒼君みたいな夜空なのだろう、と私は思う。
 静かで、澄んで、どこか深い。
「そっちよりもずっとたくさんの星が、ひとつひとつくっきり見える。障害物がないから、空が広くて、真っ黒で、でも明るくて、すごく近い」
「……手を伸ばせば、届きそうなくらい?」
 そう問いながら、私は 「こちら」 の空に向けた目を細めた。
 自分のすぐ前に、本当に、そんな風景が広がっているような気がした。ビルの上の煤けた灰色のような夜空に、眩いほどの星々が輝く美しい漆黒の空が、重なる。
 この時、私は完全に奈津の記憶を忘れた。
 昨日感じた恐怖は、ちらりとも私の胸を過ぎらなかった。
「うん」
 蒼君はまた短く返事をして──ほんの少しだけ、笑った。
 いや、スマホだし、顔が見えたわけじゃないんだし、断言は出来ないんだけど、でも、確かに。
 笑った、ように思った。
「じゃあな」
 蒼君はそう言うと、かけてきた時と同じぶっきらぼうさで、電話を切った。また明日、と口にするヒマもなかった。
「…………」
 自分も通話を切りながら、結局、蒼君の 「用事」 は何だったんだろう、と私は考えた。
 考えても、それに対する答えは出なかったのだけど、それでも、今夜はぐっすり眠れるんじゃないかな、と少しだけ思えて、私はひどく、ほっとした。



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