遠くの星

17.聖夜



 トモ兄が女の人と並んで歩いている場面を偶然にも見てしまった私は、それから二人に遠慮してすぐに踵を返し見なかったことにしてその場を去った、わけがない。
 実際はちっとも迷うこともせず、私は身を隠していた街灯の陰から素早く抜けると、横断歩道を渡って車道を横切り、距離を置いて、歩く二人のあとをそろそろとついて行った。
 尾行というか、ほとんど覗き見だ。わりと人間としてサイテーな行為だが、どうしてもそうせずにはいられなかった。
 たくさんの人が行き交う繁華街の往来で、ビルの柱から柱へとそそくさ移動しながら、顔だけを出して前方を窺う女の子は、自分で言うのもなんだがかなり目立っていたようだ。近くを通る人々の大半が、胡散臭そうな顔をしてじろじろとこちらを見つめていく。ドラマとかでは、探偵や刑事が同じようなことをしていても誰にも見えないみたいなのに、現実は厳しい。
「ママー、あのお姉ちゃん、なにやってんの?」
「しっ」
 などと、幼い女の子とその母親に後ろ指まで指されつつ、私はトモ兄たちを追いかけた。当の二人には気づかれなかったのは、私に尾行の才能があったわけではなく、多分、非常に幸運に恵まれていたからだ。声が聞こえないくらいに離れているし、今日はただでさえ人出が多い。彼ら──というか、特に、女の人は、話すことに気を取られていて、他のほうに興味を移すということをまったくしなかったためもあるだろう。
 いや、話すのに夢中、というのとも少し違うか。
 おそらく、彼女にとって、話の内容はそんなに重要じゃないのだ。あれこれと口を動かし、身振り手振りもつけては楽しそうに笑うその人の目は、じっとトモ兄にだけ据えられている。ひたむきなまでの真っ直ぐさで、トモ兄以外の人も物も、その視界には入っていないみたいだった。彼女の世界は今、きっとトモ兄だけで構成されている。それが、見ている誰の目にもはっきりと判るほどだった。
 対するトモ兄は、相手ほどにはお喋りに熱意を持っていない様子に見えたけれど、それでもそれなりの節度を持った態度で、彼女の話に返事をしたり、相槌を打っているようだった。二人の間には人ひとり分くらいの微妙な距離が空いていて、それが彼らの現在の関係をよく表しているようにも思える。
 彼女がもう一歩横に近寄ろうとすれば、トモ兄は素知らぬ顔で身を引き、離れるんじゃないか、という気がした。そういう、少し親しげで、少し余所余所しい間隔が、彼らの間に空いている。
 彼女も多分、そこに気づいているのだろう。つかず離れずの距離感を保ちながら、友情と恋心を、絶妙なバランスで隠したり外に出したりしている。きっと彼女は、とても頭のいい人なのだ。親密さと適度な緊張感とが同時にあって、二人並んで歩く姿は、仲の良い友人同士にも、恋人同士にも見えた。
 それを見て、私の胸にちくちくと嫉妬の念が湧いた──なんてことは、まるでなかった。
 正直に言って、心の中は、もう期待感ではちきれそうなくらいにウズウズしていた。たとえばこの場で、いきなりトモ兄が彼女を押し倒したりしても、私は力の限り応援したことだろう。せめて肩に手でも廻せばいいのに、とお節介おばさんのようにやきもきしながら、私は二人の後ろ姿を眺め続けた。
 女の人は、年恰好からいって、大学の同級生に違いない。トモ兄と同じ学校なのだとしたら、やっぱり優秀な頭脳を持っていると思われる。綺麗だし、化粧も控えめで、服装も清楚な感じで、大変よろしい。背中まで垂らしたライトブラウンの髪は、ふんわりとウエーブがかかっていて、艶やかに陽の光に輝いていた。短く切り揃えた私の直毛とはまったく違う。
 トモ兄とお似合いだ、と思ったら、本当に心の底から安心した。
 前方を歩くトモ兄の横顔は、女の人のお喋りに耳を傾けながら、返事をしたり、自分も何かを話したりしている。少し笑ったりもする。その顔は、私に向ける、兄のような優しさを含んだものではなく、時折見せる怖い男の人のものでもない。容姿の整った、けれども普通の大学生としての、自然な顔だった。
「…………」
 私はぴたりと足を止めた。
 二人の歩みは止まらない。こちらを振り返りもせずに小さくなっていくその姿をぼんやりと見つめながら、しみじみと思った。
 ──トモ兄は、こうしているのがいい。
 私とトモ兄が一緒にいて、兄妹以外に見られたことなんて、ほとんどない。それくらい、私は見た目も中身もガキで、トモ兄とは釣り合わない。私とトモ兄では、どうしても滲み出る違和感が、この女の人との間にはまったく存在しない。前世の記憶なんてものがなければ、トモ兄が選ぶのは、間違いなくこういう人だったはずなのだ。

 こういうのがいいよ、トモ兄。
 やっぱり、トモ兄の隣には、そういう女の人がいるべきだよ。
 私じゃない。いくら前世で恋人同士でも、今は違う。
 奈津と約束したから、夏凛をお嫁さんにする、なんて。
 ねえトモ兄、それはやっぱり、不自然だよ。

 デートにしろ、そうではないにしろ、こうしてクリスマスにわざわざ会っているのだから、トモ兄だってこの女の人に悪い感情を抱いてはいまい。頑張ってトモ兄を籠絡してね、と、私は見知らぬ彼女に対して精一杯のエールを送り、二人に気づかれないように、そっと背中を向けて反対方向へと歩き出した。


          ***


 バイト先では、浮かれてるね、と店長にも須田さんにも言われた。
「そんなことないですよ」
「橘さんて、隠し事が出来ないからなー」
「そんだけ判りやすいと、いっそ言葉がなくてもよくて便利かもね」
 私の否定に、二人はちっとも耳を貸してもくれない。ええー、そんなに顔に出てる? と不安になって、本棚の脇に貼ってある出版社名が入った銀色の札に顔を映していたら、後ろから店長に笑われた。
「今日はクリスマスだもんねえ。鷺宮君と約束してるの?」
 からかわれるように言われて、私は動揺した。
「ななな、なに言ってるんですか。してませんよ」
 クリスマス 「は」 してない、と言いかけて、慌てて踏みとどまる。危ない。これだから、隠し事が出来ないと言われてしまうのである。
 店長は、ちょっと呆れた顔をした。
「なんだい、せっかくのクリスマスだっていうのに。駄目だなあ、鷺宮君は」
「は?」
 なんで蒼君が駄目なことになっているのかよく判らなくて、私は問い返したが、店長はつるりと無視した。
「あれはそういうタイプじゃないでしょ」
 須田さんは興味なさそうに言いながら、せっせと台車から本を出して棚に並べている。私はそれを手伝いながら、「そういうタイプって?」 と首を傾げたが、須田さんも知らんぷりだ。この場で唯一、何も働かずに口だけを動かしている店長があははと笑う。
「確かにねえ。でもさ、ここぞという時くらいは意志を明確にしないと」
「鷺宮の 『ここぞ』 は、多分一般とはズレてんじゃない?」
「須田さんにそんなこと言われる鷺宮君て、可哀想だなあ。僕さー、思うんだけど、不器用な男と鈍感な女の組み合わせって、けっこう最悪だよね。ちっとも進展しなくて」
「最悪って言いつつ、面白がってるくせに」
「そりゃそうだよー。こんな楽しい見世物はないよ」
 そう言って、店長は本当に楽しそうに笑っている。須田さんはやれやれと肩を竦めて、作業を続けた。
「……あのー……」
 話の流れがちっとも見えなくて、私は一人、ぽつんと取り残されていた。
 どうも、私がからかわれているらしいことは判るのだが、ところどころで理解不能な部分があるような気がしてならない。なんで出てくるのは蒼君の名前ばかりなのだろう。
 しかし店長は、いつものことながら、困惑している私にはまったくお構いなしだった。
 笑顔のまま、くるりと振り向くと、ぽんっと軽く肩を叩く。
「てことで、今日の帰りは、橘さんが頑張って鷺宮君を籠絡してね」
「…………」
 ニコニコ言われて、言葉に詰まる。昼間、自分が他の女性に思ったことを、そっくりそのまま返されるとは思いもしなかった。こういうの、なんて言うんだっけ。「人を呪わば穴二つ」 か? ちょっと違うような気がするな。
 「てことで」 って、何がどういうことなのか、さっぱり判らない。


 しかしとにかく、バイトを終えて帰る間際に、「頑張ってね」 と店長に余計な念押しまでされた私は、いつもよりもよっぽど蒼君を意識する羽目になってしまった。
 軽ーい気持ちで渡そうと思っていたちっちゃな袋が、バッグの中でずっしりと重さを増している気がする。中身はボールペン一本なのに、店長の呪いは効果抜群だ。
「何を頑張るんだ?」
 店長の応援を背に受けた蒼君が、自転車を押して歩きながら訊ねてきた。
「……さあ。なんだろうね」
 私は俯きがちになってぼそぼそと答える。まさか、蒼君を籠絡する旨の指令を受けている、とは言えない。
 いや、籠絡云々はともかくとして、いつこれを渡そうか。
 私の頭の中は、すでにそのことでいっぱいだ。なるべくさりげなく、話のついで、という感じで、サラッと手渡したい。それにはやっぱり、今日買い物に行って、というところから話を始めた方がいいだろうか。お店を廻ってたら、ちょっといいものを見つけてね、という流れにしやすいし。
 着々と頭の中で計画を立てている私を余所に、蒼君はまったくいつも通りにコーヒーを飲んでいたが、ふいに、何かに気づいたように缶を口元から離した。
「……なんか」
 ぼそっと零された呟きに、半分以上思考が別方向へ流れていた私は、飛び上がりそうになった。「はっ、はい、なに?!」 と過敏に反応してしまい、蒼君が怪訝そうな顔をこちらに向ける。
「なんか、今日、やけに人が多くないか?」
「え、ああ」
 まだドキドキが収まらないまま、私もようやく周囲に視線をやった。今までそれどころじゃなかったので気づかなかったけれど、改めて見回してみたら、通りを歩く人々の数は、いつもの倍くらいある。もう遅めの時刻でもあるし、ほとんどが男女のカップルばっかりだ。
「そりゃ、クリスマスだもん」
「…………」
 私が当然のように解答を出すと、蒼君は一拍の間黙り込んで、「ああ」 と納得したような声を出した。
「そういえば、二十四日だった」
 世間がこれだけクリスマスクリスマスと騒いでいるのに、蒼君の頭にはちっとも入ってこなかったらしい。まあ、そりゃ、本屋は飾りつけもしないし、クリスマスの騒々しさとは無関係だけれど、それにしたってよくここまで雑音をシャットダウンできるものだなあ、と私は感心しきりである。外の世界はあちこちでキラキラとイルミネーションが輝き、耳を澄ませば、どこかの店から流れてくるらしいクリスマスソングが、ちゃんと聞こえてくるくらいなんだけど。
「クリスマス、っていうイベントのこと自体は知ってる? 蒼君。あのね、サンタさんがトナカイに乗って子供たちにプレゼントを配って回る日のことだよ」
「お前、俺を馬鹿だと思ってるだろ。たた単に、興味がないだけだ。それに大体、橘の 『クリスマス』 に対する認識もかなり間違ってる」
 蒼君は憮然としたが、私はホッとした。クリスマスというものを知らない人に、いきなり何かをあげるというのでは、いくらなんでもハードルが高すぎる。
 それとも、クリスマス、イコール、プレゼント、という発想をするのは私だけなのかな?
「おうちでは、クリスマスパーティーとかしなかった?」
「子供の頃、ケーキくらいは食った」
 返ってきた答えに、なんとなく胸が上擦ってきてしまう。考えてみれば、蒼君のこんな個人的なことが聞ける機会なんて滅多にない、ということに今さらながら気づいたからだ。私の脳内作成 「蒼君ノート」 は、まだ大半が真っ白の状態である。蒼君の子供の頃かあ……と想像したら、それだけで嬉しくなった。
「うちは未だに、ツリーも出すよ。お母さんがそういうの好きでね。今はもう、チキン焼いたり、クラッカー鳴らしたりまではしなくなったけど」
「チキン……」
 呟いてから、蒼君が私をまじまじと見返した。ふうん、という感心するような声を出す。
「普通はそういうもんなのか。そういうのは、本の中とかテレビの中でしか、しないもんだと思ってた」
「…………」
 独り言のようなその言葉を聞いて、私はここでようやく、もしかしてこれは触れてはいけない話題だったのではないか、とはっとした。蒼君ちは昔から、ツリーもチキンも縁のない家庭だったのかもしれないのに。
 漫画に出てくるような、「数十年前の貧しい家庭」 の図が咄嗟に頭に浮かぶ。お母さんは継ぎのあたった割烹着を着て、子供たちはシャツと半ズボン、ちゃぶ台の上に蝋燭立てて、外からドンドンと戸を叩く借金取りの怒鳴り声に怯えるような場面だ。
「……お前が何かまたろくでもない想像をしているようだから言っとくけど」
 その時の私は、どうやら相当悲壮な顔つきをしていたらしい。それを見た蒼君が、苦々しい口調で言った。
「俺の家、寺なんだ」
「ええっ!」
 今になって知った驚愕の事実に、私はびっくりして叫んだ。私の想像力も、そこまでは及ばなかった。
「だからケーキくらいは食っても、それ以上のことはさすがにしない。生まれた時からずっとそうだったから、他の家でも大体そんなもんなんだろうと思ってた」
「そ、そうなんだ……。じゃあ、蒼君、お寺の息子さんなんだね」
 言いながら、私が自分の頭の中でぱっと描いた絵がありありと見えたのか、蒼君は仏頂面で口を結んだ。
「言っておくけど、俺は坊主にはならないからな。兄貴がいるし」
「え、あ、うん、でも、蒼君も別に髪の毛がなくても似合わなくもない、んじゃないかなーと」
「目を逸らしながら言うな」
 蒼君はますますむっつりとしてしまったけれど、私は、はあー、と感嘆の声のような、溜め息のような、どっちつかずな大きな息を口から吐き出した。
 蒼君の家はお寺なのかあ。
 言われてみれば、この淡々とした雰囲気といい、どこか俗世間から解脱をしたような無関心さといい、やたらと姿勢が良いところといい、身にまとう清浄な空気といい、頷けるものはいくつもある。坊主にはならない、と言うけれど、蒼君がお坊さんになったら、それはそれで立派な住職さんになりそうだ。
 蒼君が新たに見せる一面は、いつも私に新鮮な驚きばかりを与えてくれる。
 そして同時に、そんな驚きとは縁のない自分自身を省みて、ちょっと悲しくなった。
 顔も頭も十人並み、家庭環境も平凡そのもので、取り立てて趣味や特技があるわけでもない。なんだかつまんない人間だよなあ、私って、と思うと、プレゼントを渡そうと張り切っていた少し前までの自分が途端に恥ずかしくなる。
 ──やっぱりやめようかな、といっぺんに弱気が押し寄せてきた。
 一緒に選んでくれたあの店員さんには悪いけど、贈り物って、こんな気分で渡すようなものでもないような気がする。これを買った時のわくわくした熱意は、今はもうすっかり萎んで、臆病さに取って代わってしまった。
 でも……どうしよう。
 ぐらぐら揺れ続ける気持ちを抱えながら足を動かしていたら、前方に駅が見えてきた。やっぱり今日はいつもよりも人が多い。これから乗る人、降りてきた人、入り口の手前で喋っているカップルなんかで、ざわめいている。心なしか、みんな楽しそうだった。
「…………」
 ああ、そうだよね、クリスマスだもんね。
 そう思ったら、むくむくと意地が生まれた。
 ここで、じゃあね、と別れてしまえば何事もないまま一日は終わる。蒼君とはまた明日もバイトで会えるけど、今年のクリスマスイブは今日しかない。ここを逃したら、渡すきっかけは金輪際掴めない、かもしれない。何もしないで悶々と後悔するくらいなら、渡してしまってから落ち込んだ方がまだマシだ。
 果てしなく後ずさりしていく気持ちを、私は無理やりのように奮い立たせた。
「……あのね、蒼君」
 肩にかけたバッグの持ち手をぐっと握る。蒼君は返事をしなかったけど、顔をこっちに向けたまま、先を待つ表情になった。
 もう、あとには引けない。
 私はなんでここまで緊張しているのだろう。ものはボールペン一本ではないか、蒼君がクリスマスというものに大して関心を持っていないのは明らかなんだし、きっとこれっぽっちのこと、なんとも思わない。ぱっと渡して、ぱっと逃げよう。軽く、笑顔でね。
 暗がりの中、駅からこっちに向かってくる人がいる。これから家に帰る人だろう、と思った私は、ほとんど上の空でそちらに目をやりながら口を動かした。
「今日ね、買い物に行ったんだけど」
 その時にね──と言いかけた瞬間、バッグの中に伸ばしかけた手が止まった。
 瞳が固定したまま、動けない。
 ざあっと、顔から血の気の引く音が聞こえた。
「おかえり、ナツ」
 すぐ前に、トモ兄が立っていた。



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