遠くの星

18.対峙



 なんで、と私は混乱した。
 ──なんで、トモ兄がここにいるんだろう? こんな時間、こんな場所で。昼間一緒にいた、あの女の人はどうしたんだ?
「トモ兄、どうして」
 うろたえた私は、多分かなり無意識に、そう言いながらじりっと一歩後ずさっていた。履いているブーツが地面を引きずる音でそれに気がついて、慌てて動きを止めた。おかしいよ、こんなの、と理性が自分に疑問を呈している。どうしてこの状況で、私が逃げようとしなきゃいけない?
「ナツを待っていたに決まってるだろう?」
 トモ兄は、私の狼狽にはちっとも構わずに、当たり前のようににっこり笑って答えた。いつもと同じ、穏やかな口調だった。けれどその目が、素早く蒼君のほうを一瞥したのを見て取って、私の背中に冷たいものが走った。
「ナツの家に電話をしたら、まだバイトだっておばさんが言うから、迎えに来たんだ」
「…………」
 迎えに、って。
 なんか、その言い方はおかしくないか。それではまるで、トモ兄と私の帰る場所が同じみたいではないか。どうしてそんなことを、こんな当然のような顔をして言うのだろう。
 第一、電話って、なんで? 去年までは、予告もなくプレゼントを持って家に来ておいて、なんで今年に限って戦法を変えたのだ。これでは、起きてからずっと家を出ていた私の努力はまったくの無駄ということになってしまう。あの女の人と一緒にいたから、家に寄る時間が遅くなってしまった、ということなら、もうそのままお泊りにでも突入すればよかったのに。
「こんな遅い時間までなんて、物騒だね、ナツ。もう真っ暗じゃないか」
 トモ兄が周囲を見回しながら言った。その顔と言い方は、帰りの遅い妹を注意する、甘い兄そのものだ。柔らかな表情、少し心配そうな口許、嗜めるような瞳。
 優しい、笑顔。
 ──なのに、どうして、こんなにも怖いのだろう。
「……平気」
 詰まりそうになる喉から、私はなんとかその一言だけを絞り出す。それ以上のことを言うと、声が震えていることが気づかれてしまいそうだった。
 顔を隣に向けると、蒼君が眉を寄せた。多分、暗い中でもはっきりと判ってしまうくらい、今の私の顔色は青い。
「送ってくれて、どうも、ありがとう」
 口から出る声は、我ながら、ものすごく固いものに聞こえる。しっかりしろ、と自分に鞭を打つ気分で、足に力を入れた。
「じゃあ」
 さよなら、と素っ気なく言って、そのまま歩き出すつもりだった。蒼君になんと思われてもいい。この際、不愉快にさせたって構わない。トモ兄との仲を誤解されても、それはそれでいい。お正月の約束が、これきり反故にされたって、嫌われたって。友達の位置も、バイト仲間としての距離も、何もかもがなくなってしまっても、仕方がない。
 そんなのは、あとで私が泣けばいいだけの話なのだから。

 ……そんなことよりも、これ以上、トモ兄に蒼君のことを知られては駄目だ。

 それだけは駄目だ、と頭の中でがんがんと痛いくらいに警鐘が鳴り続けている。なぜなのか、どうしてそれがそんなにも駄目なことなのか、自分ではその理由がよく判らない。けれど、私にはどうしてもその警告の音を無視することが出来なかった。
 でもトモ兄は、駅へ向かおうとする私の動きにはついてきてくれなかった。その場に止まったまま、蒼君の方を向く。
「──同じバイトの子?」
「トモ兄」
 その問いを遮るように名を呼ぶ私の声は、もしかしたらあまりにも語調が強すぎたのかもしれない。トモ兄の静かな視線が、一瞬だけ私に流れて、またすぐに蒼君へと戻る。
 蒼君は、黙ってトモ兄を見返していた。
「最近、このあたりに変質者が出るからって、駅まで私を送るように、バイト先の店長が頼んでくれただけだよ。早くしないと、電車が来ちゃう」
 ああ、冷たい言い方だなと、自分でも思う。とてもじゃないけど、蒼君の顔をまともには見られなくて、私は駅の方へと顔を向けた。ふてくされてそっぽを向いている、ようにしか、蒼君からは見えないんだろうなと思うと、かなり泣きたくなる。でも、この場面では、なんとしても泣いてはいけないのだ。
「そう。それはどうもありがとう」
 トモ兄は、まるで子供を褒めるような調子で蒼君に対して礼を言うと、やんわりと、目を細めた。
「君、名前は?」
「トモ兄!」
 我慢がならなくなって鋭く叫ぶ。私たちの脇を通り過ぎた中年男性が、ぎょっとして振り返るほどの音量だった。だというのに、私を振り向くトモ兄は、まったくなんでもないように笑っていた。
「どうしたんだい、ナツ。そんなに真っ青な顔で──気分でも悪い?」
「…………」
 見透かされてる。トモ兄には、全部わかってるんだ。わかっていて、踏み込もうとしている。何もなかったようなフリも、気づかなかったことにしてこのまま流すことも、トモ兄はするつもりがない。
 ここにいるのは、優しいお兄さんではなく、時々出てくる、あの怖い人、だ。
「いい加減にして、トモ兄。あまりにも、過干渉だよ。もう遅いんだから、これ以上引き留めたら迷惑じゃない」
 私の声には、意図的に怒気が上乗せされていた。本当のことを言えば、怖くて怖くて、怒るどころではなかったのだが、努力して眉を吊り上げて、目にも険を入れた。
 けれど、いつも私が怒ったりむくれたりすると、真っ先に宥めてくれるはずのトモ兄は、この時ばかりは完全にそれを無視した。
「ナツこそ、そんな態度は失礼だよ。彼はここまでわざわざ君を送ってきてくれたんだろう? それについての礼を、僕がきちんと告げるのは当たり前のことじゃないか」
「そんな──」
 蒼君への非礼は重々承知の上だ。それくらいのこと、小学生じゃないんだから、私にだってちゃんと判ってる。大体──大体、どうしてトモ兄が、私の代わりにお礼を言う必要があるのだろう。そんな風に、私を諌めるように叱るのだろう。私の父でも母でも、本当の兄でもないのに。恋人でもないのに。
 私はここで、はじめて……本当に、生まれてはじめて、トモ兄に対して明確な怒りを覚えた。子供の頃の駄々なんかではなく、思春期から来る反抗心なんかでもない、れっきとした正当な怒りだった。
 トモ兄は私のなんなの、と激情のままに吐き出しそうになる。
 口から出る手前で危うく止めたが、実際に舌に乗せていたら、トモ兄は一体なんと答えただろう。
 従兄だよ、と言っただろうか。それとも、前世の婚約者だよ、とでも?
 言ってみれば、それだけの──そうだ、ただそれだけの関係性なのに、どうしてトモ兄は、私をそうまで囲い込もうとするの?
 ううん、たとえ、本当の兄だとしたって、恋人同士だとしたって。
 私はトモ兄の所有物じゃないのに。
 ──いつまでも、あなたに庇護される存在でいることを、私は望んではいないのに。

「……あんたは、橘の何?」

 その時、ずっと黙っていた蒼君が、私の内心を読んだかのように、そう問いかけた。
 蒼君の声音は、普段とまったく変わりない。私にも、トモ兄にも、意味不明でぶしつけな扱いを受けているのに、それに対して怒っている様子は、少なくとも表面には出ていなかった。
 しかしその問いに、私は思わずびくりと身体を揺らしてしまう。そろそろとトモ兄を窺うと、彼はちょっと笑って、「従兄だよ」 とさらりと答えた。
「ああ」
 と、蒼君が淡々とした短い声を出す。ああ、あのバカみたいに過保護なイトコか、という納得から出たものだったのかどうかは、よく判らない。
 でも、それで終わりではなかった。
「橘に説教する前に、あんたも人に名前を聞く時は、自分から名乗るくらいは礼儀だと思うけど。それに、橘は子供じゃないんだし、礼だのなんだの、他の人間がいちいち出しゃばってくることはないんじゃない?」
「──……」
 私の顔から、さーっと血の気が引いていく。
 いつも仏頂面の蒼君だけど、それでも目上の人に対しては、不遜な態度をとったりすることはない、はずだった。店長みたいな結構いい加減な大人にも、愛想はないなりにきちんと接しているくらいだ。なのに、現在の蒼君には、そういうところが微塵も感じられず、ぶっちゃけて言うと、露骨に喧嘩を売っているようにも思えた。
「あ、あの」
「ああそうか。それは、悪かったね」
 トモ兄は相変わらず笑っていたけれど、唇の上げ方が、明らかにさっきまでの余裕のあるものとは角度が変わっていた。蒼君は平然と真正面からトモ兄に向かい合っている。おろおろと口を挟もうとする私には、二人ともちっとも目もくれない。え、なんなの。何この状況。
「僕は、空木知哉」
 トモ兄が名乗ったところで、私はようやく慌てて間に入った。蒼君が、自分の名前を言おうとしたのか、不機嫌そうに口を開きかけたことに気づいたからだ。今までの私の涙ぐましい努力までフイにされたらたまらない。
「もう、いいでしょ、トモ兄! 夜も遅いし、帰ろう。ね?」
 が。
 蒼君が押していた自転車の前に立ち、トモ兄と向き合い必死になる私の恰好は、どう見ても、蒼君を庇うような格好になってしまっていた、らしい。そしてそれは、トモ兄の中の何かを、強く刺激してしまった──らしい。
 トモ兄の表情が、一気にすうっと冷たくなった。
「……そうか」
 一言だけ呟くように言うと、いきなり、トモ兄の腕がこちらに向かって伸びてきた。試験前に、部屋で突然抱き寄せられた記憶がぱっと脳裏に甦り、ビクッと大きく身じろぎしてしまった私は、咄嗟に後ろへと身を引いた。
 しまった、と思ったが遅かった。私に逃げられ、トモ兄の瞳はますます石のような硬質さを帯びた。どうしてだろう。私はその目を見て、激しく動揺してしまう。こんなトモ兄、はじめて見るはずなのに。
 ……以前にも、この目を見た、ような気がする。
 いつだっけ?
「ナツ」
 聞いたこともないようなトモ兄の厳しい声に、全身が強張った。もう隠しようもないほど、手も足も小刻みに震え続けているというのに、トモ兄は一切そこに頓着しない。
 感情のこもらない目──トモ兄は、こんな目をする人だっただろうか。
「ナツ、こっちにおいで」
 トモ兄のその言葉は、「命令」 だった。
「…………」
 私は泣きそうになって、頭をちいさく横に振る。何度も、振った。今のトモ兄は怖い。とても怖い。けれど。
 そんな言い方には、従えない。差し伸べてくる手は、掴めない。
「ナツ、何を拗ねてるの。もう帰ろうって言ったのは、ナツだろう?」
 拗ねてる?
「……ち、が」
 違う、違うよ、トモ兄。
 私は──
「……め、命令じゃ、駄目だよ、トモ兄。私は、聞けない」
 こらえようとしても、涙が滲む。震える声で、拙くても、一生懸命自分の気持ちを伝えようとしたけれど、通じなかった。トモ兄は、私の言葉を聞いて、苛立ちを露わにした。
「何を言ってるんだ」
 出された手が、そのまままっすぐこちらに向かって伸びてくる。瞬間、身を縮めた私は今度はその場を動かなかったのに、なぜかぐいっと後ろに引かれて、私の腕を掴もうとしていたトモ兄の手は空を切った。
 私を引っ張ったのは、蒼君だった。
「橘が、嫌がってる」
 平坦な口調で、それだけを言った。蒼君は左手で自転車を支えたまま、右手で私の左の手をしっかり握っていた。
「……ナツが、僕を?」
 トモ兄の抑えられた声音には、「あり得ない」 という響きが滲んでいる。蒼君がそれを聞いて一瞬黙り、
「橘が、怖がってる」
 と、わざわざ言い直した。
「…………」
 トモ兄が口を噤み、私に再び視線を移す。目にいっぱい涙を溜めて、ぶるぶると震えの止まらない私を見て、硬玉のようだったトモ兄の瞳に、ふっと感情が戻った。
 その感情が 「何」 だったかまでは判らないものの、トモ兄が、私の知っている 「トモ兄」 に戻った気がして、私はひそかに深く息を吐いた。
 トモ兄はしばらくの間、無言で私の顔をじっと見て、それからくるりと踵を返した。
「今日は帰るよ。──あんまり遅くなると、おばさんが心配するよ、ナツ」
 顔だけで振り返り、いつもの穏やかな表情、いつもの穏やかな口調でそう言って、駅へと向かって歩いて行った。



「……あの」
 改札の向こうへと消えていく後ろ姿を見送って、私はぐいっと目許を拭ってから、改めて蒼君の方を向いた。
 まずは、この変な状況に巻き込んでしまったことへの謝罪をするべきなのだろうか、それとも説明をすべきなのだろうか、と迷う。でも、なんて言えばいいのだろう。どう考えても、普通のイトコ同士からは逸脱しているトモ兄と私の関係を、「前世」 という言葉なしに、上手に納得させられるほど私にはペテン師の才能はない。
「あの、蒼君、とにかく、ごめ」
「なんで、あのイトコ、お前を 『ナツ』 って呼ぶんだ?」
 謝ろうとしたら、その前に、蒼君に問いかけられた。ある意味、急所を直撃するような質問に、私は呼吸が止まるような気分になる。
「お前の名前、『かりん』 だろ?」
「あ──うん。あの、『夏』 に凛、で、かりん、だから。だから、小さい頃から、トモ兄は私のことをナツって呼ぶの」
 しどろもどろに答えた内容は、半分は嘘じゃない。本当のことを知るまでは私はそう思っていたし、今もうちの両親や親戚のみんなは、そういう理由だと疑いもなく信じ切っている。
「ふうん」
 自分で訊ねたわりに、蒼君の返事はものすごく興味なさそうだ。まあ、呼び方なんて、他人にしてみたら、どうだっていいことなのだろう。
 で、遅ればせながら、その時点でようやく、私は気がついた。

 ……あの、蒼君、まだ手が繋がったままなんですけど。

 そうっと、自分の手を抜き取ろうとしたが、がっちり掴まれていて無理だった。蒼君の視線は、そことは全然違う方に向けられている。あれ、蒼君も気がついてないのかな。私の手を握っていること自体、意識から飛んじゃっているのかな。わざわざ口に出すのも憚られるが、かといって、このまま手を繋いだままでいいものか。どうにもこうにも恥ずかしくて顔が赤くなる。
「……あのー、蒼君」
「腹減ったな」
 おずおずと言いかけたところで、またも蒼君に遮られた。その口調は、いつもと何ら変わりない。怒ってないのかな、と私は蒼君の顔を覗き込もうとしたけど、蒼君の目は頑ななほどに余所に向けられていて、どうしても合わせることが出来なかった。
 ? やっぱり怒ってるのかな??
「メシ食いに行くか」
 言われた内容に、私はびっくりした。食いに行く、という意思の表明ではなく、質問形になっているところが。
「え。あの蒼君、それはもしかして、私に言ってるの?」
「お前以外に、誰かいるのか」
「……私、一緒に行ってもいいの?」
「食いたくないなら別にいい」
「食いたいです。あ、じゃない、私もお腹は減ってるので、食べに行きたいです」
 速攻でそう言うと、蒼君がやっとこっちを向いてくれた。むっつりした顔で、「言っとくが、奢りじゃないぞ」 と念を押す。うん、と頷くと、少しだけ目元を緩めた、ように見えた。
「蒼君、怒ってないの?」
「何を」
「いろいろと」
「お前に対してか」
「うん」
「時々、ムカつくことはあるな」
「時々? え、今じゃなくて? あの、それはたとえば、どういう時?」
「……いろいろだ」
 なんとなく噛み合わない会話を交わして、私たちは歩き出した。
 蒼君はやっぱり、私の手を握ったままだったけど、気づかないなら気づかないままでいいかと、私はそれには触れずに、足を動かした。
 冷たい風が吹いているのに、手の平から伝わる熱はとても温かくて、ほっとした。



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