遠くの星

2.蒼



 鷺宮蒼君は、私と同じ高校の、同じ二年生である。
 クラスは別だし、部活や委員会も違う。今まで彼と私の間に何か接点があったわけでもないのに、私がその名前を覚えていたのは、以前に学校の廊下で、そう、そう、と友人たちに名前を呼ばれているところが印象に残っていたからだ。
 なんであの子たち、あんなに相槌ばっかり打ってんの? と不思議に思った私が、それは男の子の名前だと気づいた時、悪いけれどちょっと笑ってしまったものだった。つい、そちらをまじまじと見てしまったのも、軽い好奇心につられて、という以外に、理由はない。
 ──そう、と呼ばれていたのは、反抗期の中学生みたいにむっと唇を結んだ、なんとなく無愛想な男の子だった。
 呼びかける友人たちに目を向ける彼は、いかにも面白くなさそうな顔で制服のズボンのポケットに両手を突っ込んでいたけれど、その真っ直ぐに立つ姿勢は、妙に私の目を惹いた。
「あの子、『そう』 って名前なんだね」
 少し興味を抱いて、近くにいた友達にこっそり声を潜めて言ってみたら、彼女は私と同じ方向に素早く視線を移して、ああ、という顔をした。
「鷺宮ね」
「さぎみや……へえ、なんか、華族っぽい名前だね。知ってるの?」
「去年同じクラスだっただけ。『そう』 って名前、漢字では、『蒼』 って書くんじゃなかったかな、確か」
「うわー、なんか、字面はものすごいカッコイイ」
 私が感心したように言うと、友達はちょっと噴き出して頷いた。
「だよね。けど、本人は名前イメージから完全にかけ離れてるよ。うーん、なんていうか、ちょっと変わりもん、っていうか。無口だし、めったに笑わないし。騒いでるところも見たことないし」
「ふうん……」
 それきり友達は蒼君のことをけろりと忘れたように、「そういえば昨日のテレビでさあ……」 と全然違うことを話しはじめた。私はそれに合わせて笑いながら、もう一度ちらりと、変わりもん、と評された男の子の方を見た。
 周りを囲む友人たちが何かの話題で盛り上がり、げらげらと笑っているというのに、彼はなぜか一人だけ、不機嫌そうな表情を崩さなかった。ホントに遅い反抗期なのか、と私は訝ったが、誰もそのムッツリ顔を気にする風もなく、ごく普通に彼の肩を叩き、笑い、ふざけながらじゃれ合っている。
 どうも、蒼君というのはいつもこういう顔つきで、それに慣れている友人たちはまるでそれを気にかけていない、という感じがした。女の子同士では、こういうことはなかなかないけれど、男の子の世界ではそういうこともあるんだろうか。ムスッとしていても無理に話題を見つけなくても、なんでもないことのように、こうして皆に受け入れられるのは、すごいことだなと思ったし、羨ましいような気もした。
 無愛想な蒼君は、それでも背中がぴんと伸びた、どこか空気の澄んだ雰囲気を持つ男の子だった。


 ──で、まあ当たり前なのだけれど、その時は、それだけのものだった。
 私にとって蒼君というのは、名前がきっかけでほんのいっとき目を引いただけに過ぎない同じ学年の男の子で、それからも特に関心を持ったわけではない。たまに校内ですれ違ったりすると、「あ、『そう』 君」 などと勝手に心の中で名前を呼んだりしたけれど、だからって別に、それ以上のことを思ったり感じたりしたわけでもなかった。
 彼が私にとって特別な人になったのは、今からほんのふた月ほど前のことだ。
 それも、自分でもどうしてこの成り行きで、と疑問に思えてしまうようなシチュエーションで。


          ***


 その時、用事があって居残りをし、暗くなりかけた学校からの帰り道で、私は大変な窮地に立たされていた。
「おねーちゃん、高校生だろ? お金欲しくないー?」
 と、ものすごく直接的な言葉で誘いをかける目の前の男は、明らかに酒に酔っている。まだ夜になってもいないのに、こんなに酒臭いなんて一体どういうことなのか、と私は現在の社会の在り方を疑問に思った。作業服みたいなのを着ているけど、これがこの男の普段着なのか、それとも仕事の帰りなのか判らない。酔っ払っているのは、労働で汗を流したあとの息抜きなのか、それとも根っからの怠け者の酒好きなのかも判らない。
 とにかく、まったく見も知らぬ他人の男なのだ。そんな男にいきなり近づかれて声をかけられ、おまけに生暖かい酒臭い息を間近で吐きかけられて、「ちょっと遊ぼうよー」 などと言われた私は、情けないけれど、本当に怖くて怖くて、足元から震えが伝わってくるほどだった。
 私はこういうのに弱いのだ。なまじ空想力がある分、今まで女子高校生が巻き込まれた悲惨な犯罪について書かれた記事なんかが一気に思い出されて、頭の中を駆け巡る。
 逃げたいのは山々なのに、腕はしっかりと男に掴まれてしまっていた。振りほどいて、突き飛ばして走ろうか、と迷う。けれど、私の足はお世辞にも速くはない。もし逃げたことでかえって男が逆上し、追いかけられたら、と思うとそれも勇気が出なかった。
 今はヘラヘラ笑っているこの顔が夜叉みたいになって、野太い声で怒鳴りつけられでもしたら、私はその時こそ恐怖で身動きできなくなってしまうだろう。そうしたらこの暗がりの中、無理やり路地にでも連れ込まれて、乱暴されて殺されて、山の中にでも捨てられてしまうのだ。きっとそうだ。そして後日になって無残な死体が発見されて、警察に解剖されてしまったりするのだ。父と母がテレビに出て、机の引き出しにしまってある私の日記を、涙ながらに公開してしまうのだ。イヤだ。
「あ、あの……」
 震えた声を出しながら、なんとか囚われた腕を引き抜こうと試みる私の様子を、男はニヤニヤと楽しそうに眺めるだけだった。
 もしかしたら、実のところは、ちょっとしたナンパのつもりなのかもしれないし、酒を飲まない時の彼は小心で勤勉な働き者の兄ちゃんなのかもしれない。でも、薄闇に浮かび上がるその顔は、私には婦女暴行目的の危険な凶悪犯そのものにしか見えなかった。もう、泣きそうだ。
「あの」
 どうやって逃げればいいのか、それともここは話に乗るフリをして適当に合わせた方がいいのか、私は目まぐるしく頭を回転させる。試験の時にはろくろく働かない脳細胞、こんな時にも活かせなければ、本当に他に使い道がない。
「あの、私」
 帰らないと、と言いかけたその時、私はあるものを目に入れて、ぱあっと世界が明るくなった。
 今までずっと人の通らなかった薄暗い道路に、やっと通行人がやってきたのだ。しかも、うちの制服。しかも男。しかも私はその子のことを知っている。天の助けとはこういうことを言うのだ、と、普段ちっとも神様なんて信じないのに、この時ばかりは心の底から感謝した。
「…………」
 言葉にはしなかったけれど、私はもうここぞとばかりに、助けて、というメッセージを全力で瞳に乗せて、彼に合図をした。掴まれている腕、腰の引けている格好、困り果てた顔、どう見ても構図は 「絡まれている女の子」 である。普通の人間なら、ここで知らんぷりはすまい。
 ──と、その目ヂカラが通じたのか。
 彼が、私のほうを見た。確かに一瞬、視線が合った。
 その一瞬、私の脳裏をよぎったのは、「おい、やめろよ、その子困ってるだろう」 と凛々しい声で制止をかけて、私の前に立ちはだかり、暴漢 (になるかもしれない男) と対峙してくれる男の子の姿だった。黄金のパターンでいうと、そのあとで一発くらいタチの悪い不良に拳をくれてやって、「大丈夫か?」 などと優しく声をかけてくる彼と、私は運命的な恋に落ちるのだが、そこまでは期待しない。
 とにかく、状況を訊ねるとか、誰かを呼びに走るとか、そういったことでも構わないのだ。相手は何をしでかすか判らない凶悪殺人犯 (になるかもしれない男) なのだし、英雄的な行為がさらに泥沼を引き起こさないとも限らない。巻き込んで彼までナイフで刺されてしまっては私だって寝覚めが悪いし、そもそもそれでは、現在の苦境に対するなんの解決にもならない。
 自分が悲劇的な状況に陥っている時に、同級生の男の子の心配までするなんて、私ってばなんて優しい……と、ホロリときたのも束の間。
 ほんの十秒くらいの間に考えた、私のその喜びや期待や心配はすべて、見事なまでに木端微塵に打ち砕かれた。

 ……男の子は、ちらっと私と男の方に視線を向けただけで、またすぐに顔を前方に戻し、そのまますたすたと通り過ぎようとしたのだ。

「ええっ、ちょっと!」
 私は驚きのあまり、見知らぬ男に対する恐怖も忘れ、大声で叫び声をあげた。
 なんたることか、彼はそれさえ聞こえないように、歩みを止めることもしない。表情も変えず、前方だけを見ているそのさまが、あまりにも腹立たしくて、男に腕を掴まれたまま、私はさらに声を張り上げて、はっきりと彼を呼び止めた。
「蒼君! 鷺宮、蒼君! 二年四組出席番号不明のさーぎーみーやーくーん!」
「…………」
 そこでようやく、蒼君はぴたりと立ち止まって、私を振り返った。ものすごく、イヤそうな顔で。
 いや、ねえ、おかしくない? この状況で、その顔、その態度。おかしくないですか、人として。
「……なに」
 はじめて聞いた蒼君の声は、けっこういい声だった。低すぎもせず、高すぎもしない。彼がまとう空気のように、どこか澄んで、(こんな場面にも関わらず) 落ち着いていた。続けて聞きたいと思ってしまうほど、耳触りのいい声。それはもちろん、ここまで冷淡な響きを帯びていなければ、の話ですが。
「なにじゃなくて、今さ、私がすんごい困ってるの、見て判るよね?! 判るでしょ?! ヒーローみたいに助けてくれとは言わないけど、もうちょっと何かしら反応したってよさそうなもんじゃない?!」
 関わるのが怖い、ということはあるかもしれない、とは私だって思う。私自身こんな時、颯爽と人助けが出来るかと言われれば自信がないのに、他人の臆病さや小心さを責めることは、そりゃ出来ないだろう。
 けどそれにしたって、せめてもっと後ろめたそうにしたり、罪悪感めいたものくらい顔に浮かべたりしたっていいではないか。なんなんだ、その徹底した無視は。
「安心しろ、どっかで交番でも見つけたら、このことは伝えておいてやる」
 蒼君はそう言い置いて、すげなく再び立ち去ろうとする。「ちょっとお!」 と、私は慌てて引き留めた。どこの誰が、そんな言葉で安心できるかっての!
「いや待って、なんかものすごく流動的かつやる気のない救済発言なんですけど! 見つからなかったらそのまま放置ってこと?! それならもっと積極的に、お巡りさんを呼ぶとか探すとかしてよ!」
「…………」
 うんざりしたようにこちらを見返す蒼君の顔には、ありありと 「面倒くさい」 という言葉が書かれてあった。
「それだけ元気があるなら、さっさと悲鳴でもあげれば。それを聞いて物好きな誰かが来る、かもしれない」
「そんな他人任せな! しかも不確定要素がくっついてるし!」
「……大体、もう助ける必要なんてないだろ」
 蒼君の言葉に、は? と顔を戻してみれば、もうそこには男の姿はなくなっていた。
 賑やかな私の大声に本当に他の誰かが来たら困る、と思ったのか、あまりの馬鹿馬鹿しいやり取りに酔いが醒めたのかは定かでない。男の方から手を離したのか、私が腹立ちのあまり勢いで手を振りほどいたのか、それさえも自覚がなかった。
 あれ、と顔を赤くする私には構わずに、蒼君はさっさと踵を返してまた歩きはじめる。私はその後を追うようにして、小走りに駆けだした。
 こっちを振り返りもせずに歩き続ける、蒼君の斜め後ろにぴったりとついて歩く。何も知らない他人から見たら、もしかして仲の良いカップルにでも見えるかもしれない、というくらいの近い距離だ。もちろん、私の内心はそれどころじゃない。ただ、この場所にひとり置いていかれないようにと必死だった。ないとは思うけど、あの男がまた戻って来たりしたら困る。
 迷いなく歩き続ける彼の少ししなるような背中は、まったく何事もなかったように動じたところはない。それを見ていたら、ようやくゆるゆると安堵感が胸に湧き上がってきて、そっと息を吐いた。
 それと同時に、今までの自分の狼狽ぶりを恥じ入るような気分も起きてきて、私は何を言おうかと何回か口を閉じたり開いたりした。さっきまではひたすら文句ばかりが心の中を渦巻いていたが、それはやっぱり、そうして怒りを前面に出さずにはいられなかったほどに怖かった、ということなのだ。
「あ、あの、結果的には、助けてもらった、のかな」
 もごもごとそう言ってみたが、相手の反応はやっぱり冷たかった。
「俺は何もしてない」
「うん、確かに何もしてないけど」
 そこだけは確信を持って同意する。けれどそれでも、私が助かったことには変わりはない。
 そもそもこの場所を通りがかっただけという理由で、当然のように助けを強要するというのも、傲慢な話なのかもしれない。私ははっきりと口に出して 「助けて」 と言ったわけではないのだし、蒼君には私のアイコンタクトだけで見知らぬ人間との間に入る義務も義理もない。何もしないで立ち去ろうとしたからって、彼をひどい人だの冷血だの死んじまえこのドアホなどと恨むのは、やっぱり筋違いというものだ。
 蒼君は、私の一方的な名指しに、迷惑そうでもちゃんと立ち止まって、こちらを向いてくれたのだし。
「……あのう、ありがとうね、蒼君」
 多少複雑な気分ながらも、小さな声でお礼を言うと、蒼君はちらりと一瞥を投げてよこした。
「なんで、俺の名前、知ってんの」
「え」
 言われてから、はっとした。
 そういえば、いつもなんとなく自分の中で彼の呼称は 「蒼君」 になっていたからそのまま呼んでしまっていたが、もともと私と彼は、知り合いでもなんでもないのだった。ただ同じ学校、同じ学年、というだけのことで、蒼君はもちろん私のことなんて知らないに決まっている。
 がーっと頭に血が昇った。
「あ、ごごご、ごめん」
 うろたえて真っ赤になりながら、私は大急ぎで謝った。は、恥ずかしい。地面に穴があったら入りたい。いやなくてもスコップでほじくり返して潜りたい。
 蒼君にしてみれば、突然知らない女に呼び止められ、助けを求められ、なじられて、しかもいきなり馴れ馴れしく名前で呼ばれているのだから、なんだこいつ、と思っていることだろう。無理もない。
「あの、なんか、ちょっと珍しい名前だったから、覚えちゃったっていうか。って言っても、えっと、個人的に関わりがあるわけではなくて、たまたま耳に入った、っていうだけのことで、なんとなく下の名前のほうが言いやすかった、っていうか、いや別に、言う必要があったわけでもないんだけど。あ、だからって、その、決して、そ……鷺宮君にひそかに片思いをしてたとか、呪ってたりしたわけではないんだよ」
「…………」
「ご……ごめん。あの、私、橘夏凛、っていうの。二年一組」
 俯いて小さくなりながら、しどろもどろに言い訳をする私を、蒼君は無言になって見ていた。その視線は、どこか妙に感情がなくて、けれども不思議と、冷たい感じはしなかった。まるで、綺麗な水みたいに、そして冬の夜空のように、静かに透き通っていた。
「……別に、いいけど」
 しばらくして、ぽつりと言葉を落とすみたいに、そう言った。
 え? と顔を上げると、蒼君はもう私から目を外し、また前方を向いている。
「橘の呼びたいように、呼べばいい。みんな、蒼って呼ぶし」
「…………」
 私は口を閉じ、真っ直ぐ前に目をやる蒼君の横顔を見た。
 ──つまり蒼君は、そういう人だった。
 まったく親切ではなく、優しくもないけれど。
 何に対しても、呆れるでもなく、怒るでもなく、からかうでもなく、拒絶するでもない。
 勝手にくっつくようにして歩いていた私に、振り返ることも手を差し出すこともしないけど、ついてくるな、とも、離れろ、とも決して言わない。
 「これから」 蒼君のことを名前で呼ぶのも、さらりと許してくれる、そんな人だった。
 多分その瞬間から、彼は私にとっての、特別な人、になった。


 その時見上げた空には、月も星も見えなかった。
 暗くなりかけた景色の中に、明かりの点いた街灯や、駅へと続く道に連なる人家やお店から発せられる白い輝きが、ぼんやりと浮かび上がっているだけだった。
 それを見て、なんだかやけに悲しくなってしまったのは、どうしてなんだろう。
 ……胸の片隅に刺さったトゲが、ちくちくと疼いているようで、痛かった。



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