遠くの星

24.眺望



 やっとの思いで階段を上りきり、到着したというのに、蒼君は肝心のお寺の本堂には見向きもせず、建物の脇を通り過ぎてすたすたとその奥へと進んでいった。
「え、あの蒼君、こんなとこ、勝手に入って行っていいの?」
 よくは判らないけれど、神社などとは違い、お寺っていうのは普通、檀家の人たち以外の第三者が、あんまり気軽に出入りしていいものではないのではないだろうか。
 このお寺の誰かに見つかったら怒られるんじゃないか、と私は不安になったが、蒼君の足取りには、ちっとも遠慮がない。
「別に構わない。ここの住職さんは、誰が入ってきたって、悪さでもしない限りは特に気にしない、って人だから。近所の年寄りなんかも、ここの階段は運動にいいってだけの理由で、やって来たりするみたいだし」
「へえー」
 あの石段を、お年寄りが上り下りするのか、という点に、私は大いに己を恥じた。私なんて、もうここに着いた時点で死にそうだったんだけどな。あれを、「いい運動」 と呼べちゃうのか……。
「蒼君は、その住職さんのこと、知ってるの?」
「知り合いなのは俺の親父。俺は、一回しか会ったことない」
「ああ、なるほど」
 お寺同士で交流があったりするのかな、と勝手に納得しながら声を出す。お寺労働組合、とか、お寺親睦会、とか。よくわかんないけど。
 そのお寺は本堂もそんなに大きくはなかったけれど、敷地自体もそう広くはなかった。建物の向こうには、小石の敷き詰められた裏庭みたいなものがあるだけで、その面積も普通の民家の庭くらいしかない。小ぶりの松の木とか、紫陽花やつつじらしき低木が、見栄えよく配置されて植えられている。雑然とした感じはないが、かといって、寂しげでもない、気持ちの良い場所だった。
 蒼君はその裏庭みたいな場所を、敷石を踏みながら突っ切っていった。
 背の低い柵のある行き止まりまで進んで足を止め、くるりと振り向く。
 何も言わないけど、来い、ということなのだなと思って、私もそれに従った。歩くたび、じゃかじゃかと丸っこい石の立てる音がして、ちょっと身を縮める。あまりにも周りが静かなので、賑やかな音を立てる自分こそが、この静謐な世界における異端者であるような気がした。
 蒼君の隣にまで行ってみて、私は思わず、わあ、と小さな歓声を上げる。
 その時になってはじめて、このお寺は、小高い山のてっぺんにあったのだと知った。
 私たちがいるところだけ、植木も何もない、ぽっかりと空いた空間になっているのは、その場所が多分、この景観を眺めるベストポジションだからだ。なるほど、このお寺の住職さんが、気軽に外部の人を受け入れているのも、このあたりのお年寄りがわざわざあの長い石段を上ってくるのも、きっとこれがあるからだ。
「いい眺めだねえー!」
 高いところにあるだけあって、視界の開けたこの位置からは、街の様子が一望できる。郊外だから、灰色のビルが立ち並ぶ味気ない風景なんかではなくて、もっとゆったりのんびりとして、温かで穏やかな景色が眼下に広がっていた。
 家やお店やマンションなんかもあるけれど、あちこちに緑があり、池みたいなものがあり、大きな公園で豆粒くらいの子供たちが遊んでいるのも見える。空気が冷えて澄んでいるからか、はるか向こうにある山の姿までもが見える。自分の家からそんなに遠くまで来たわけでもないのに、どこか見知らぬ旅先にまでやって来たような気分になった。
 そうか、蒼君は私にこれを見せるために、ここに連れてきてくれたのか──と頷きながら傍らに目を移し、ん? と首を傾げる。
 蒼君はなぜか、下の景色ではなく、頭上を見上げていた。
 天気でも気になるのかなあ、と不思議に思いつつ、私もつられて上に目をやる。どんよりとした雪雲はすでにどこかに行ってしまって、一面にあるのは青い空だ。障害物がなんにもなくて、ものすごく大きく広がっている。
 空が広いのは当たり前のことだけど、こんな風に、果てがない、と思える空には、あまりお目にかかれない。
「……本当は、普通に映画でも観に行こうかと考えてたんだけどな」
「……? うん」
 ぼそりと零された、呟くような言葉に、よく判らないながら返事をする。返事をしてから、ちょっと赤くなった。
 普通に、って。
 ──それはもしや、「一般的な普通のデートとして」 という、意味だったりするんだろうか。
 肯定されても否定されてもどうしていいか悩むので、私はあえて、そこは聞き流すことにした。普通に。うん、普通にね。
「その帰りに、ちょっと足を延ばしてここに来られたらいいかな、とは思ってた。その頃にはもう日も落ちて、暗くなってるくらいだろうから」
「…………」
 私が無言になったのをどう解釈したのか、いや多分その解釈で全然間違ってはいないのだろうけど、蒼君は、青い空から赤面した私へと、目を移した。
「……言っとくが、そういう意味じゃない」
 と、ぶっきらぼうな口調で念を押され、私は、ああうんそうだよね、とへどもど返事をする。
 いやだってさ、この流れで、「そういう意味」 にしか取れないようなことを言うからさ……。
「今は正月で、工場とかが一斉に休みだろ」
 蒼君はやっぱり唐突だ。いきなり出てきた、工場、という単語に戸惑いながらも、私は 「うん」 と同意する。
「そういう時は、空が綺麗なんだ。どこからも煙が出ないから」
「うん。そうだね、綺麗だね」
 私はもう一度空を見上げて言った。そうか、空がいつもよりも澄んでいるように感じるのは、雪が降った後だから、とか、冷気が強いから、とかそういう理由ばかりではないのだな。
「人工灯も少ないし、だったらいいかと思って」
「うん?」
 私は困惑した。ひょっとして、この話についていけない私のほうにこそ問題があるのだろうか、と心配になるくらい、蒼君の言い方は当たり前のように淀みない。
 隣を見ると、蒼君は再び顔を上へと上げている。私のトロくさい対応にイラついている様子はないが、こちらに戻ってこない眼差しは、どことなく他のことを考えているようにも見えた。
「え、と、工場が休みで、人工灯が少なくて、だったら──『何』、がいいの?」
「……星が」
 私の質問に、空を見ながら、独り言のようにぽつんと言った。

「星が、よく見えるかなと思って」

「…………」
 ちょっと意表を突かれて、私は言葉に詰まる。
 じゃあ、蒼君が見たかったもの、あるいは、私に見せようとしていたものは、この高い場所から見える 「遠い街並み」 ではなくて、普段よりもくっきりと見えるかもしれない 「近い星空」 だったということか。
 男の子というのは、みんな星が好きなものなのかな、と、その時私が思ったのは、そんなことだった。トモ兄しかり、蒼君しかりだ。そういえば男の子の将来の夢には、大体、「宇宙飛行士」 が上位にランクインするというし。やっぱり、漆黒の空に広がる輝く星々に、ロマンとか、憧れとか、そういうものを感じたりするのかな。
 蒼君は星が好きなんだね──と言うつもりで口を開きかけたら、
「お前、星、好きだろ」
 と、蒼君のほうに先に言われた。
 好きだろ? という疑問形ではなくて、お前女だろ、という判りきった事実を述べるような淡々とした言い方に、またも戸惑う。
「え……う、うん」
 嫌いではないので、そう答えるしかないが、少し曖昧な答え方になってしまったのはしょうがない。
 昔からトモ兄にいろいろと教えてもらっていたおかげで、多少星座の知識くらいは持っているし、夜空を見ると、どうしたって夢の終わりに毎回出てくる美しい星空を思い出してしまうことも本当だ。
 でも、夢中になるほど大好きとか、図鑑なんかをひっくり返して調べるほど興味を持っている、というわけでもない。本格的に天文のことに詳しいトモ兄を見ている分、余計に、これくらいのことを 「好き」 なんて言ってしまっていいのかなあ? という疑問があって、私ははっきりと頷くことは出来なかったのだけれど、蒼君はあまり気にしていなかった。
 気にしていない──というか。
 蒼君は、さっきよりもさらに、他のことを考えているような顔をしていた。
 突然、ぱっと、一つの可能性を思いついた。
 もしかして、蒼君が学校をサボって旅に出ると宣言した夜、私が 「星が綺麗に見えるといいね」 と言ったことを、覚えてくれているのかな。
 それで、蒼君は、私がものすごく星が好きなんだ、と解釈したのかな。
 ……そっか、だから。
 あの日、わざわざ旅先から、こっちでは星がよく見えるぞと、電話をしてきてくれたのかな。
 あの夜の今ひとつ不可解だった電話の内容を思い出し、そうかあー、と私はようやく今になって解答を見つけたような気になった。正直、蒼君が、そんな些細な会話の断片まで気にしてくれていたとは、思いもしなかった。
 それきり口を噤んでしまった蒼君は、広がる青空に顔を向けたまま、じっと動かない。
 私からは横顔しか見えないけれど、その視線は、まるで、どこか遠いところに向けられているみたいだった。
 ここではない、どこか。
「…………」
 何を考えているのだろう、と私は思った。
 今の蒼君は、何を見て、何を心に浮かべ、どんなことを思っているのだろう。現在か、過去か、未来か、彼の思考の方向が、どちらに向かっているのか、それさえも私には判らない。蒼君の心が、本の中のような虚構の世界にあるのか、何かの思い出の中を彷徨っているのか、それとも今日の夕飯は何かな、なんていう日常を漂っているのかも。
 蒼君と私の実質の距離はこんなにも近いのに、この時の蒼君の頭からも心からも、私という存在が綺麗さっぱり抜け落ちてしまっているのかもしれないんだなあ、と思うのは、かなり寂しいことだった。

 ひょっとして、他の女の子のことを考えているんだったりして。

 とか思いついたら、急にむくむくと面白くない気持ちが湧き上がる。
 大体、蒼君の女の子の好みって、具体的にはどういうのなのだ。あんまりアイドルに気合いを入れて声援を送ったりするタイプには見えないが、でも高校生の男の子なんだから、現在の有名なアイドルグループのことくらいは知っているだろう。あの中では誰が好き? と訊いてみようかな。でも、あまりにも私とは共通点がなさ過ぎて、落ち込むだけかもしれないし。
 こうなったら、エロ本の好みだけでもリサーチしておけばよかったかな。制服好き、とかだったら、まだ私にも希望がある。
 いや、ていうより、現実世界のもっと身近なところで、気にすべき点がいくらでもあるではないか。現在の蒼君には彼女はいない、はずだが、確認したことはないんだけどここはもう 「いない」 ということにしてしまおう、それでも、好きな女の子、はいたりするのかもしれない。そこまで踏み込む権利は私にはないとはいえ、過去に付き合った女の子のこととか、好きだったけど諦めた憧れの年上女性のこととかを、今まさに思い浮かべているのだとしたら、それはやっぱり、ちょっとねえ。
 ──などということに、延々と思考を巡らせていたら、突然、
「なに考えてんだ」
 と蒼君本人に問われたものだから、私は飛び上がって驚いた。
 いつの間にか、蒼君は空を見て思いに耽るのをやめ、こっちを真っ直ぐ向いている。なんとなく、イヤそうな顔で。
「べべべ別に、なにも」
 何も考えてません、という返事が動揺してどもる。いつも他人のことに興味なさそうなのに、そして、言いたくないことは言わなくてもいいと言ってくれたばかりなのに、この時の蒼君は追及をやめてくれなかった。
「嘘つけ。どうせまた、ろくでもないこと考えてただろ」
「そ、そんなことないよ。蒼君にも、綺麗な年上のお姉さんに叶わぬ恋心を抱いたりして儚く散った、苦くて甘酸っぱい思い出があるのかな、とか、そういうことだもん」
 だから、ろくでもないことではない、と私は言いたかったのだが、蒼君は 「やっぱり……」 と、深々とした溜め息を吐きだした。
「……お前が、普段まったく本を読まない理由が判った」
 いきなりそう言われ、きょとんとする。
「え。読むよ? 私、本屋のバイトはじめてから、前に比べて飛躍的に本を読むようになったんだから」
「どれくらいだ」
「月に一冊、から、月に二冊に」
 蒼君は、私の自慢げな力説を完全に聞こえないフリをして無視した。
「要するに、いつもそういうくだらない想像ばっかりしてるから、わざわざ本を読む必要がない、ってことだな」
 びしりと決めつけられ、私は、ええー、と不満を漏らす。自分でも、ちょっと想像力が豊かなところはあるかな、とは思うけど、いつもいつも白昼夢に浸っているわけではない。そんな言い方をされるのは心外だ。
「……じゃあさ、聞いてもいい?」
 ちょっとだけ膨れっ面になって問いかける。蒼君はくだらないと言うけれど、余計なことばかりあれこれと想像してしまうのは、結局、本当のところが判らないからなのだ。本当のところを知るには、本人に直接訊ねてみるより他にない。
「なにを」
「蒼君が、今、どんなことを考えてたのか」
「…………」
 蒼君は一旦口を噤んだが、少ししてから、諦めたようにひとつ小さな息をついた。ここで何も言わないでいると、また私がどんどんあらぬ方向へと妄想を広げていきかねない、とでも懸念しているらしい。
「……ちょっと、昔のことを思い出してた」
 むむ、やっぱり過去の女性関係か、と私は思った。
「あんまり、思い出して楽しい内容じゃない」
 しかも、相手に振られたと。
「苦くて甘酸っぱいどころか、苦いものばっかりだからな」
 相当こっぴどい失恋だったんだね。
「本当は、思い出したくもない」
 こんな性格になったのも、そのあたりに原因があるのかなあ。
「…………」
 蒼君は私の顔を見て、そこで言葉を切り、いきなり指を突きだしてデコピンした。
「いった!」
「なんかその憐憫に満ちた目、すげえむかつくんだけど」
「え、私、そんな目してたかな」
 おでこを押さえてしらばっくれたら、今度はその手の甲をばちんと指で弾かれた。いたいいたい! と騒ぐ私には構わずに、蒼君はまた空に目をやった。
「──でも、昔は昔だ。今とは関わりない」
 と、小さな声で呟く。
「…………」
 ああ、そうか、と思った。
 何があったかと聞くのは簡単だけど、それに答えるのが簡単じゃない場合もある、と蒼君が言ったのは、きっと蒼君自身にも、そういうことがあるからなのだろう。
 だから、私ももうそれ以上、詮索しないことを決意した。話題を変えるのを強調するため、笑顔になって、明るい声を出す。
「でもね蒼君、ここから眺める星空もきっと綺麗だろうけど、今の晴れた青空も、すごく綺麗だよ。私、ここに来られて嬉しい」
 私のその言葉に、蒼君はちょっと黙ってから、そうか、と言った。
「なら、よかった」
 空を見ながら、少しだけ微笑んだ。


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