遠くの星

25.異変



「──橘」
 しばらくして、ぽつりと蒼君が言った。
 ん? と、空に向けていた目を、蒼君に移す。彼の視線はまだこちらには戻ってきてはいなかったけれど、私の名前を呼んでから、珍しく言い淀むような間があった。
「須田さんがな」
「へ? 須田さん?」
 ここでどうして須田さんが出てくるのかさっぱり判らなくて、私はぽかんとしてしまう。バイトの話にしては、蒼君の顔つきは妙に真面目だ。いや、ちっともこっちに向けてくれないから、断言できないのだけど、その横顔は、真面目に、見える。
「お前のいいところは、アホなところだって、以前に言ってた」
「…………」
 私は口を閉じ、五秒くらい考え込んだ。
 いいところ、というのは、ふつう、長所、というような意味合いで使われる言葉だと思っていたのだが、違うのかな、と悩む。最近の言葉の乱れは嘆かわしいなんて話はよく聞くが、いつの間にやら、現代国語は大いなる進化でも遂げたのか、私に無断で。その新しい言語の中で、「アホ」 というのは、褒め言葉にでも昇格したのだろうか。
「お前を見てると、この世には人の好意ばかりが溢れかえっているような錯覚をさせられることがある、って言ってた。他人の裏を読み取る能力もないのに、そのくせ、あっさり本質を見抜いたりするんだって。それも、無自覚に。つまりアホだから、その分、心に余計な眼鏡も屈折角もないんだろう、って」
「……あのう、それって、けなされてるんだよね?」
「俺は、あの人があそこまで率直に他人を褒めるのを、はじめて聞いた」
「…………」
 そう、かなあ……。
 私は非常に疑問でいっぱいだったが、蒼君は淡々としている。どうも、蒼君の話の本題は、須田さんが私を褒めていた (らしい) ことではないようだ。ひょっとして、そうやって私を一旦持ち上げておいて (ちっとも持ち上げられている気にはなれないが)、そこからズドンと落とすつもりなのかもしれない。私、バイトで何かしたっけかな。心当たりがありすぎて、すぐには候補が思いつかない。
「──けど」
 蒼君がぼそりと続けて、私は身構える。やっぱり来ましたか。
「けど、そういう性質は、時々厄介なこともある」
 と、須田さんが言っていたのか、それは蒼君の考えなのか、よく判らなかった。蒼君の言い方も表情も、最初のところからほとんど変化がない。というより、いつもよりも無表情さが増しているような気さえする。
「そういうやつは、受け入れることは簡単に出来ても、切り捨てる、ってことがなかなか出来ないからだ。自分の限度を超えて、許容量ばかりを広げようとする。そんなのは無理なのに、出来ないのは自分が悪いからだと問題をすり替える。他人を否定的に見るってことをしないから、相手を責める前に、自分を責めるんだ」
「そ、そんなに私、大人物では」
「全然褒めてない」
「…………」
 どうしよう。基準がちっとも判らないよ……。
「橘」
 蒼君はもう一度名前を呼んで、ようやく、困惑している私のほうを真っ直ぐ向いた。
 ……表情は変わらなくても、その瞳には、ずいぶんと真剣な光が瞬いていた。

「いいか、なんでもかんでも自分の中に取り込もうとするな。自分だけが傷ついてりゃいい、なんてのは、優しさでもなんでもない。弱い、ってことだ。弱さは時に、罪悪にしかならない。駄目なものは駄目、嫌なものは嫌だって、毅然とした意志を持て。一人で支えきれなくなったらいくらでも他人を頼ればいいけど、優先するのは他人じゃなくて自分だってことを、しっかり頭に叩き込んでおけ。切り捨てるべきところは、何があっても切り捨てろ」

「──……」
 私は口を結んで、じっと蒼君を見返した。
 蒼君の言うことは、どこかがひどく曖昧で、どこかがひどく、核心を衝いている、ような気がする。透き通った瞳は、まるで何もかもを見通しているみたいで、怖いほどだった。
 言葉が、頭にではなく、胸に直接入ってくるような感じがした。
「……うん」
 何も知らない蒼君が、何をどういう過程で考えてこんなことを言っているのかは定かではないが、いい加減な気持ちで返事をしてはいけないのだろうなということだけはよく判ったから、私は深くこっくりと首を動かして、頷いた。
 蒼君はそれを見て、少しだけ目元を緩めた。


          ***


 それから、景色を眺めながら、二人で他愛ない会話をした。
 といっても、いつものように、もっぱら喋っているのは私ばかりだ。蒼君は柵に浅く腰かけて、聞いているんだか聞いていないんだかよく判らない態度だが、それもいつものことなので特に気にならない。
 あまり変わらない無愛想な顔が、時々さらに憮然としたり、時々わずかに口の端を上げたりするので、聞いてくれてはいるのだろう、一応。少なくとも私の話を耳に入れるのを嫌がっているわけではないようなので、私はのんびりと思いつくまま、学校のことや、バイトのことや、友達のことなどを話題にして喋り続けた。
 口を動かしながら、今の自分の心の中がどこまでも凪いでいるのを、少し不思議に思う。
 好きな人とこんな静かな場所に二人きりでいるのだから、もっと緊張したり鼓動がぴょんぴょん飛び跳ねてもよさそうなものなのに。しかも相手は、お世辞にも場を寛げたりするのが得意なタイプではないのに。
 変なの。
 もしかすると、この開放的な空間が私をそういう気分にさせているのかもしれない。混乱して、怯えて、泣いて、全身を貫く痛みに縮こまって耐えていた、ほんの少し前までの私は、現在ではすっかりどこかへと消え去っていて、そのことにまた、ほっとした。
「それでねキクちゃんが──あ、キクちゃんって、わかる?」
「二組のやつだろ」
「そうそう。えっ、なんで知ってるの? やっぱり可愛いから?」
「なに言ってんだ。前にもお前の話に出てきたじゃないか。小学生からの幼馴染で、人形みたいに可愛くて、でも性格はちょっと変、って自分で説明してただろう」
「そうだっけ」
 と、私は首を捻った。そう言われても、季久子のことをどんな話の流れで出したのか、思い出せない。蒼君の記憶力が優れているのか、私の記憶力が悪すぎるのか、という問題はさておいて、蒼君はこれでちゃんと私の今までの話を聞いて覚えてくれているんだなあー、ということが判って嬉しくなった。
「うん、そのキクちゃんがね、昨日、あけましておめでとうメールをくれてね。新しい彼氏が出来たらしいんだけど、その彼氏がコンビニでバイトしてるからちっともデートする時間がない、って、ものすっごく長々と文句が書き連ねてあるんだよ。それがもう、年始の挨拶の、二十倍くらいの量でね。しかも怒ってるのに、『自分が納得できない理由』 とかが箇条書きで並べてあったりして、やけに理路整然としてるの。それで私、こんなに長い文章を書けるんだったら、宿題の小論文も楽勝だねって返信したんだけど……」
 そこで、はたと気がついた。
「──蒼君」
 おそるおそる訊ねてみる。蒼君は、なんだ? と問い返すように私を見た。
「あの、宿題、少しはやった?」
「…………」
 私の質問に、蒼君はぴくりとも表情を変えなかった。まったく普段通りの顔、普段通りの口調で、なんでもなさげに首を傾げた。
「……宿題なんて、あったか?」
 やっぱりー!
「あるよ、たくさん! 数学の問題集とか小論文とか英作文とか!」
「冬休みなんて少ししかないのに、意味が判らない」
 私は慌てて言ったが、蒼君はむっとした顔で文句を言っている。学生の不自由さだとか、教師や学校の思惑なんかは別にして、この場合、意味が判らないという点では蒼君だって相当だ。
「じゃあ、なんにも手をつけてないんだね?」
「そもそもどんな宿題が出てるかも知らないのに、手をつけられるわけがあると思うか?」
 そこは威張るところではない、と、私は思う。
「やるかやらないかは別にして、宿題の内容くらいは知ってたほうがいいんじゃないかな。時間があれば、少しでもできるかもしれないし」
 考えながら言うと、蒼君はちょっとげんなりした顔をした。本当に勉強には興味がないのだろうなあ、とは思うが、まったくやらない (というか、宿題の存在そのものを知らない) よりは、ほんの少しでもやっておいたほうが、先生の受け止め方だって多少は違うはずだ。もしも留年などしてしまったら、蒼君は困らないのかもしれないが、私が困る。
「問題集は十ページくらいだったかな。んーと、何ページから、っていうのは覚えてないけど」
「……じゃ、メールでいいから送っておいてくれ」
 蒼君は意外とすんなり諦めてそう言ったが、その後で、やるかやらないかは判らないけどな、と面倒くさそうに付け加えた。蒼君の場合、謙遜とかではなくて、やるかやらないかは本気で運次第、という感じがする。しかも真夏に雪が降る確率よりも低そう。
「それはいいけど、蒼君」
「ん?」
「私、蒼君のメアド知らない」
「…………」
 考えてみたら、ケータイ番号だって面と向かって教えてもらったわけではないのである。かかってきた番号を、私が勝手に保存しちゃっただけだ。私からその番号にかけてみたこともないけどさ。
「今頃なに言ってんだ、お前」
 蒼君はぶつぶつと呟くように言いながら、上着のポケットから自分のスマホをひっぱり出した。なんで私がぶつぶつ言われなければいけないのかは今ひとつ判らないが、私もバッグの底に押し込んだスマホを取り出す。
 いよいよアドレス交換できるのかあー、とわくわくした。やっぱり、小学生並みだ。
 取り出してみて、着信が入っていることに気がついた。
 そのこと自体は、予想していた範囲のことだったので、特に驚きはない。胸がドキドキしたのは、もしかしてトモ兄からなんじゃ、という理由からで、私は少しビクビクしながら着信履歴を画面上に表示させた。
 ──そして。
「えっ?」
 思わず出してしまった短い声に、自分のスマホを操作していた蒼君が顔を上げるのが判った。でも驚きのあまり、私の目は画面上に釘づけになっていて、説明をすることも出来ない。
 着信は、母からだった。
 いや、それはいい。突然祖父宅を飛び出して、素っ気ないメールを送っただけの娘に、電話をして事情を訊ねようというのは当然の成り行きだ。それを見越してスマホをマナーモードにし放置していた私にも非はあろうし、通話が繋がらないことに怒った母が何回もかけてくるのも、性格的にありそうなことだとは思う。
 けど──二十二回。
 いくらなんでも、多すぎやしないか。しかも、時間を置いて何度か、というのではなく、一分、二分間隔で十回以上もかけてきている。そのストーカーのような性急さ執拗さに、私はひやりとした。母は確かに少々困ったところのある人だが、これまで私がろくすっぽ連絡もせずに遊びほうけていても、こんな真似をしたりすることは一度もなかったのに。

 何か、あったんだ。

 この時、まず最初に私の頭に浮かんだのは、おじいちゃんおばあちゃんに、何かあったのでは、ということだった。宴会の途中で倒れたとか、庭で転んで骨折しただとか。トシもトシだし、急に何かが起こってもおかしくはない。母と伯母にはけっこう厳しかったという祖父母だが、私にとってはただ甘くて優しい人たちである。私が出て行ったあとで、救急車で運ばれたりしたんじゃ、と思うと苦しいくらいに胸が締め付けられた。
「そ、蒼君、ちょっと、電話していいかな。母親から何度も連絡が入ってて」
 私が急におたおたしだしたのが伝わったのか、蒼君は厳しい表情になって柵から立ち上がり、頷いた。「早くかけろ」 と促され、私はスマホに指を当てた。
 どうしたんだろ、何があったのかな、おじいちゃんとおばあちゃんに何もありませんように。
 自分が着信に気づかなかったことを、今さら後悔したってしょうがない。息を詰めるような気持ちでスマホを耳に当てたら、驚くくらいにすぐ、呼び出し音が途切れた。
「夏凛?!」
 スマホの向こうで、叫ぶような母の声が聞こえる。やっぱり何かあったんだ──と、胸がずんと重くなった。
「おか」
 気持ちを奮い立たせて、私は問いかけようと口を開きかけた。
 が、その前に、母のつんざくような声が、けたたましくスマホから飛び出した。興奮している、というか、狼狽している。私の返事も、ほとんど耳に入れる気がないみたいだった。
「あんた今、どこにいるのよ! お母さん、何度も電話したのに!」
 叱るというより、子供がヒステリーを起こしているような言い方だ。聞いているこちらの胃がキリキリしてくる。
「うん、ごめん、気がつかなくて。何が」
 あったの、という問いは、今度も最後まで言わせてもらえなかった。
「今すぐ帰って来なさい!」
 叩きつけるように、命令された。
「帰る──おじいちゃんちに?」
 病院じゃなくて? と言おうとしたら、「なに言ってんの、家よ、家!」 と返されて戸惑う。家、というのは、私の自宅、ということだろう。じゃあ、おじいちゃんかおばあちゃんに何かがあった、というわけでもないのだろうか。
 母はこれ以上なく元気そうだから、もしかして、何かがあったのは父親の方なんだろうか。帰りにも車を運転するからお酒は飲んでいないはずで、急性アルコール中毒でぶっ倒れた、という事態はないと思うのだけど。
「もう、お父さんもお母さんも、腰が抜けるほど驚いたんだから! まず事情を聞こうと思ってあんたに何度電話をかけても繋がらないし! とてもじゃないけどあの場にはいられなくて、ほうほうの体で家に逃げ帰ったわよ! いいから、とにかくすぐに帰って来なさい!」
「…………」
 母の言い分は、さっぱり要領を得ない──のだけど。
 なんだか、すごく、嫌な予感がする。
「……わかった。とにかく、帰るから」
 固い声で、なんとかそれだけを答えると、母は少しだけ冷静さを取り戻した。音量が大きいのは同じだが、少なくともキンキン声で叫ぶのを止めるくらいの理性は戻ってきたらしい。
「どこにいるかは知らないけど、タクシーに乗って。もうこれ以上じりじりあんたを待ちたくないの。家の住所言って、お金は着いたら払う、って運転手さんに伝えればいいから」
「……うん」
 普段の母は、高校生の分際でタクシーに乗るなどもってのほか、という考えの人である。それがこの台詞。嫌な予感は増していく一方だ。
 早くね! と念を押して、通話は切れた。無言で私もスマホを切り、目の前の蒼君へと目を向ける。
 私の顔つきに、蒼君は眉を寄せた。
「蒼君、ごめん。私、今から家に帰らないと」
「何かあったのか」
 出された質問に、曖昧に首を横に振る。
「……よく、判らない。でも、タクシー使ってすぐ帰れって。大したことじゃないのかもしれないけど」
 自分自身への希望のように、私は最後の言葉を呟いた。「大したことじゃない」 はずがないということは、ほとんど確信のように感じていたけれど。
「わかった。急いで降りるぞ」
 蒼君はすぐに了承して、ぱっと身を翻した。


 また長い階段を下って、道路に出ると、蒼君はためらいもなく駅の方へ向かって歩きはじめた。
 お寺の周囲はまるで車の通りのないしんとした場所なので、タクシーを捕まえるのならそちら方面に進んで行ったほうが早い、と判断したのだろう。こんな時、私一人だったら、きっとただオロオロしていただけだろうと思うと心強い。蒼君は、せいぜい家と学校とバイト先くらいの狭い世界しか知らない私なんかと比べて、よっぽど世間知に長けていた。
 駅に到着するよりも前に、運よく通りがかったタクシーを止めることが出来た。すっかり口数少なくなっていた私を、蒼君が強引にタクシーの中に押し込むようにして乗せる。
「……あの、蒼君」
「橘」
 座席に座ってから、やっと俯きがちだった顔を上げて口を開きかけたが、タクシーの開いたドアに手をかけ、立ったままこちらを覗き込んでいた蒼君は、それを遮った。
「橘、忘れるなよ、俺の言ったこと」
 真顔で言われて、私は目を瞬く。間抜けなことに、すぐには何を言っているのか全く思いつかなかった。
「えっと……宿題のこと?」
 ああ、そういえば、結局蒼君のメアドは聞かずじまいだった、と思いながらぼんやり聞いたら、「馬鹿、それじゃない」 と素早く返された。
「忘れるな」
 強い口調でもう一度繰り返し、ドアから身を離す。
 私が何かを言う前に、バン、と音を立てて、ドアは閉まってしまった。


         ***


 タクシーで家に到着すると、父と母が揃って私を出迎えた。
 二人とも、なんだかものすごく強張った形相をしている。その口から出るのが、「警察がお前を迎えに来た」 という内容であっても、私は多分そんなに驚かないんじゃないかというくらい、その顔にはありありと狼狽と動揺と私への不信感が現れていた。いや別に、逮捕されるようなことは何もしてないはずだけど。
「あんた──」
「夏凛」
 掴みかかって来そうな勢いの母よりは、まだしも落ち着いている父が、私を呼ぶ。父のこんな厳しい声、今まで一度も聞いたことがなくて、私は背中をぴしゃんと伸ばした。
「夏凛、知哉君がな」
 父の口から発されたその名前に、心臓がどくんと大きな音を立てて撥ねた。
 トモ兄が──何?

「……知哉君が、お前と正式に婚約したい、とお父さんたちに言ってきた」

 揺れているのは父の声か、私の視界か。
 それさえも、よく判らなかった。


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