遠くの星

26.震域



 すっかり頭に血が昇っているらしい母は、どうして、とか、どういうことなの、とか、そんな言葉を喘ぐように言うばかりで、さっぱり筋道立った説明ができない状態だった。
 そんな母に代わって、祖父宅で起こった出来事を一から順番に話してくれたのは父だ。
 けれど、難しいその顔つきは最初から最後まで崩れることはなく、何かを探るような眼差しは、一瞬も余所に逸れられず、私に据えつけられたままだった。
 二人が私に向ける目は、まるで、はじめて会った見知らぬ他人に対するもののようだ。
 両親と正面から向かい合って座り、私は青い顔で、父の口から紡がれる事の成り行きを聞いた。
 場所は家のリビング、ここにいるのは家族だけ──という、普通であればこの世の何より安心できるはずの場所で、その時私が覚えていたのは、足許の床の感触も判らないくらいにぐらぐらとした不安定さばかりだった。
 目に入る自分の膝が、ずっと小刻みに震え続けていた。


          ***


 ナツと正式に婚約をしたいんです、と口にした時、トモ兄は薄っすらと微笑んでいたのだという。

 ──だから最初、父と母、そして祖父母、トモ兄の両親である伯父伯母は、誰もがその言葉を、冗談だと思った。
 祖父宅の居間は、大人たちの陽気な笑い声に包まれた。母は、そうよねえー、知哉君みたいな子が夏凛のお婿さんになってくれたらいいんだけどねえー、と明るく言い、アラだめよ、知哉はうちの一人息子なんだから夏凛ちゃんにお嫁さんに来てもらわないと、と伯母も笑って返した。
 祖父母でさえ、いやいや、知哉と夏凛は昔からものすごく仲のいいイトコ同士だったんだから、そういうことになっても不思議じゃないね、と笑いながら言ったくらいだった。それほど、その話は、彼らにとってどこまでも冗談の範疇にあるもので、真面目に受け止める類のものではなかったのだ。
「……じゃあ、いいんですね?」
 トモ兄だけが、はじめから表情を変えずに、微笑を浮かべたままだった。
 祖父宅の居間にある少々年季の入ったソファに姿勢よく腰かけたその姿は、あくまでも静かに落ち着いていた。その態度と同じ落ち着き払った口調で確認されて、ようやく湧き上がっていた笑い声が収まる。
 一瞬、しんとした。
 それから少しずつ部屋の中に広がっていったのは、困惑と、訝しさだ。
「いい、って?」
 楽しそうだった笑顔を、ここにきて若干戸惑ったそれに代え、遠慮がちに訊ねたのは祖母だった。居間にいるトモ兄以外の全員がそれと同じ表情を浮かべているのを、ゆったりとした仕草で見回し、トモ兄は微笑を深くした。
「ですから」
 けれどそれは、今まで、親や親戚の前では見せたことのない、ひどくよそよそしい笑い方だった。
「僕とナツの婚約を認めてくれる、ということで解釈していいんですね?」
 微笑んでいるのに、トモ兄の顔からは感情というものがぽっかりと欠落していた。わずかに血が滲んで赤くなった唇が、その整った顔をまるで人形のように無機質なものに見せて、その場にいる人間の背中を、すうっと冷えさせた。
「お前、何を言ってるんだ」
 すっかり笑いを止めて、強い調子でそう言ったのは、トモ兄のお父さんだった。叱りつけるような言い方ではあったけれど、昔からよく出来た一人息子に絶大な信頼を寄せていた父親として、その声には、心配の色も多く混じっていた。
 いいや、伯父ばかりではない。
 多分、他の親戚も、みんな同じことを思っていただろう。どうしたんだ、知哉は、と。
 この時そこにいた大人たちは、まず、トモ兄の言葉の中身を深く考えるよりも先に、いきなりおかしなことを言い出した彼の正気のほうを疑った。トモ兄の言葉を、誰一人として、本気で取ることはしなかった。
 それくらい、彼らにとって、それはあまりにも荒唐無稽な申し出だった、ということだ。
 トモ兄一人だけが、変わらない静けさを保っていた。
「何って、お父さん」
 トモ兄はそう言いながら、ゆっくりと自分の父親のほうを向いた。判りの悪い生徒に、ものを教えるような顔つきだった。
「何度言えばいいのかな。僕は、ナツと正式に婚約をしたいんだ。だからこうして、お父さんお母さん、それからおじさんおばさんに向かって、許可を求めているんだけど」
 そうか、考えてみたら、自分の親と相手の親、いっぺんに話が出来て、いっそ便利でいいよね、と思いついたように言って、トモ兄はくすっと笑った。
 だけど、そこにいた誰も、もう笑うことなんて出来なかった。
「知哉、あんた、何を言ってるの。ナツって、それはつまり、夏凛ちゃんのこと?」
 ソファから立ち上がり、おろおろと言ったのはトモ兄のお母さんだ。トモ兄はすっと笑みを引っ込め、今度は自分の母親に、乾いた目を向けた。
「僕にとってのナツは、一人しかいない」
 吐き捨てるように言われ、伯母は顔色を変えた。今まで、自分の息子から、こんな目とこんな声を向けられたことは一度もなかった彼女は、ひどく衝撃を受けていた。
 我慢ならなくなったように、伯父が、ばん、と大きな音を立てて目の前のテーブルに自分の手の平を叩きつける。
「知哉、冗談も大概にしなさい。あまりにも、タチが悪すぎる。ここにいるみんなに謝りなさい」
 怒鳴るように言われても、トモ兄はまったく怯まなかった。……というより、その声すら、耳を通過してしまっているように、無反応だった。
 トモ兄は自分の両親を無視して、今度は、茫然として声も出ないままの私の父と母を向いた。
「おじさん、おばさん、僕とナツの婚約を認めてください」
 正面切って言われて、日頃あれだけトモ兄贔屓だった母も、さすがに顔を引き攣らせた。
「……や、あね、知哉君、だって、婚約って、要するに、結婚するってことでしょう? 夏凛とは、イトコ同士じゃない」
 ぎこちなくそれだけを言う母に、トモ兄は傷のついた唇を上げて、ふっと笑った。少しばかり、ぞくりとするような、綺麗で冷淡な笑い方で。
「法律上、イトコ同士の婚姻はちゃんと認められています。何も問題なんてありませんよ」
「そ……で、でも」
「おばさんも、ついさっき言ってたはずだけどな。僕みたいな男がナツのお婿さんになるといいのに、って」
「え、あの、それは、冗談で……」
「そうなんですか? でも僕は、冗談として聞いたことなんて一度もない」
「…………」
 トモ兄の平然とした態度に、母は絶句するしかなかった。
「──け、けど、夏凛はまだ十七歳なのよ」
 しばらくして、ようやく小さな声で呟いたが、それはただ単に、あまりにも頭が混乱しきって、他に言うことが思いつかない、という理由だけで出されたものだった。
 でもトモ兄は、その言葉に、「そうですね」 と真面目な顔で頷いた。
「ですから、今すぐ結婚を、なんてことを言ってるわけじゃないんです。僕もナツもまだ学生だ。僕はこれから就職するんだし、ナツだって大学に進学したいかもしれない。それはそれでいい。多少時間がかかっても、構わない。けど、きちんとした形での 『婚約』 だけは、今のうちに交わしておきたい。そのことに、おじさんとおばさんの許しを得たい、と言ってるんです」
 トモ兄の揺るぎないしっかりした口調に、母と伯父伯母、そして祖父母は困惑した表情で互いの目を見交わした。この話をどこまで真剣に聞けばいいのかと、それぞれがそれぞれに問いかけるように。
 言われていることは非常に理性的で、少なくとも、実現不可能な無理難題を吹っ掛けられているわけではない。でも、感情的に、頭が理解を拒もうとしている。笑い飛ばしてしまうわけにはいかないが、かといって、すぐに受け入れられるようなものではなかった。
「──それは」
 と、居間にいる人間の中で、最も混乱の少なかった私の父が、慎重に口を開いた。父はその場で唯一、トモ兄と血の繋がりのない身内だ。だから他の人たちよりも、多少は距離を置いてトモ兄を見られる、という理由が大きかったのだろう。
「その婚約云々っていうのは、うちの夏凛も了承してる話なのかい、知哉君」
「ええ」
 父の問いに、トモ兄はまったく迷わずに頷いた。
 目を細め、口許を緩めて……見ようによっては、どこか、幸福そうに微笑んで。
「僕とナツは、以前から、結婚の約束をしていました。きっと一緒になろうって──ずっと、ずっと昔からね」


         ***


「………………」
 父の話を聞き終わっても、ソファに座った私は身動きも出来ずにいた。
 震えの止まらない腿の上に置いた手を、筋が白く浮き出るくらいに強く握りしめる。そうしていないと、気が遠くなっていきそうだった。顔からはすっかり血の気が引いて、頭はさっきからずっとガンガンと痛み続けている。暖房は効いているはずなのに、足の先から冷気が這いよって来るようで、寒くてたまらない。
 前に座る父と母は、鋭く問い詰めるような、でもどこか腫れ物に触れるような視線で、私を追い込んでくる。そこにくっきりとした非難の色があるのを見て取って、私は絶望的な気持ちになった。
 ……この状況で、私に何を言えというのだ。
「知哉君の言ったことは、本当なのか。お前と約束してる、って」
 普段から一人娘の私に甘く、母の喧しいお小言もハイハイと笑って受け流す温和な性格の父が、固い表情で確認してきた。
「…………」
 私は目を伏せ、のろりと首を横に振る。だって、そうでしょう。「夏凛」 と 「知哉」 は、結婚の約束をしているわけではないのだから。
「じゃあ、知哉君が嘘をついてるって?」
 それにもまた、首を横に振る。トモ兄は、嘘なんてついていない。「奈津」 と 「和人さん」 は、結婚の約束をしていた仲だった。トモ兄はただ、昔交わしたその約束を、実行しようとしているだけだ。
 きっと、一緒になろうと。
「なに言ってんのよ、意味がわかんないわよ」
 母の叫ぶような声に、私は目だけでなく顔全体を伏せ、ふるふると何度も首を振り続けた。頭がぼうっとして、思考がちっともまとまらない。身体は寒いのに、顔が熱い。下を向くと、汗が一筋頬を伝った。
 意味がわかんない?
 そりゃあ、そうだ。母がヒステリックに怒るのも判る。でも、私にはそうとしか答えられない。
 ここで、結婚の約束をしたのは私たちの前世のことだ、なんて説明をしたところで、状況が改善されるとはまったく思えなかった。むしろ多分、悪化する一方だ。下手をしたら、このまま私が病院に連れて行かれて終わってしまう。
「……夏凛、顔を上げなさい」
 父の声にも、苛つきが滲んでいた。出来るだけ冷静でいようとしているのに、ちっとも要領を得ない私の態度に、混乱が怒りに変わっていくのが、手に取るように判った。判ったけれど、私にはその怒りを鎮めるすべが見つからない。私という人間は、ここで上手に両親を誤魔化せるほど話術に秀でてもいなかったし、ぺらぺらと嘘をついて場を切り抜けられるほど大人でもなかった。
 歯を喰いしばり、なんとか顔を上げて両親と目を合わせる。二人の目に、ありありとした疑念が乗っているのを見るのは、正直言って、かなりきつかった。
「お前、今までに、知哉君と何かあったのか」
「…………」
 父は本来、こんなことを面と向かって娘に訊ねるような人ではない。それほどまでに、父は今、まともな精神状態ではないのだろう。そうは思っても、その目と、その言葉は、私の胸に深く突き刺さって、心をぐっさりと傷つけた。現在の父の頭の中で、私とトモ兄との間にあったかもしれない 「何か」 を想像されているのかと思うと、悔しくて、悲しくて、たまらなく苦しかった。
「……なんにも」
 詰まる喉の奥から、やっとそれだけの言葉を引っ張り出した。声を出すだけで、身体全体がずっしりと重くなってくるのを感じる。
「何もなくて、どうして知哉君があんなことを言い出すのよ、おかしいでしょ」
 ああ、そういえばキスはしたんだった、とぼんやり痺れはじめた頭の片隅で考えた。キスして、いきなり婚約か。間の過程がすっぽり抜けていやしないか。
 おかしいじゃない、どうしてよ、と母の責める声が聞こえる。
 変だな、さっきよりも、母の声が遠い。音量は大きくなっているのに、なかなか耳に届かない。
 でも、その内容には同感だ。
 そうだ、おかしい。
 今のトモ兄は、どこかがすごく、おかしい。
 優しくて、穏やかで、星が好きで、いつも柔らかく微笑んでいたトモ兄。
 決して、こんなやり方をする人でも、望む人でもなかったはず。
 トモ兄は、いつからこんな風に、歪んでいってしまったのか。
 どうして? 私が、裏切ったから?
 トモ兄以外の人を、蒼君を、好きになってしまったから?
 トモ兄を、和人さんを、奈津を、悲しませるようなことを、私がしたから?
 だから──こんな。
「まさか、あんたが知哉君にあんなことを言わせたんじゃないでしょうね」
「…………」
 母の発言に、私は無言で再び視線を落とし、虚ろに笑った。そこまで信用がないとは、もう笑うしかないではないか。
 でも、無理はないのかな。トモ兄は、ずっと幼い頃から、なんでも出来た 「優等生」で、片や私は甘ったれの、ワガママばかりの、成績だってあまり良くはない子供だった。トモ兄と私を比べたら、どちらが信用に足る人間かは、一目瞭然というものだ。祖父母だって、トモ兄のお父さんお母さんだって、口には出さなくても、きっと今頃そう思ってる。
 私がトモ兄に、そんなことを言わせたのだと。
 いつでもどこでも、ずうっと、トモ兄にぴったりくっついて廻っていた、「トモ兄が第一」 の夏凛。今もその頃のままだと、みんながそう信じ切っているのだから。
 ……私が何を言ったところで、誰の耳にも入らないのかもしれない。
 痛みの激しくなってきた頭を持ち上げて、朦朧としてきた視界の中に父と母の姿を入れた。ふらふらと頼りなく二人の身体が揺れている。ぼやけて、霞む。なんだろう、地震?
 でも、トモ兄の周りも、同じように大きく揺れているのだろうな、と私は一向に定まらない世界で思った。トモ兄の爆弾発言は、一体どれほどの激震を周囲にもたらしたことか。いつだって紳士的だけど冗談も好きな伯父さん、母によく似て陽気でお喋り好きな伯母さん、ニコニコと私を可愛がってくれた、おじいちゃんおばあちゃん。これから、彼らが私とトモ兄に向ける目も、すっかり変わっていくことだろう。
 もしかしたら、その揺れはあちこちに伝わって、広がっていくのだろうか。
 ──蒼君にも?
 蒼君、と思った途端、反論することも諦めかけていた私の心が、突然、むくりと起き上がった。何を言っても無駄だ、と底のほうに落ちていきそうになる手前で、ぐっと両足を踏ん張った。
 駄目だ、駄目だ、諦めちゃ。
 私は言ったんだから。いつかきっと蒼君に全部を話すって。話せるように頑張るからって。その時に恥ずかしくないような自分でいたいって、願ったんだから。
 しっかりしないと──
「……私、は」
 でも結局、その時の私が何を言おうとしたのか、父と母が聞くことはなかった。
 私自身、何を言おうとしたのか、覚えていない。
 私の口から出るのが否定なのか肯定なのか、二人が身を乗り出したところまでは確かに見たが、記憶はそこまで。
 ブラック・アウト──完全消灯。
 次の瞬間、私は意識を失ってぶっ倒れた。



 闇の中で、誰かの声がした。
 とても、悲痛な声だった。


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