遠くの星

31.前進



 それからさらに二時間ほどを季久子の家で過ごしてから、私は家に帰ることにした。
 帰り際、玄関で靴を履きながらなんとなく頬に手を当ててみたら、ほっこりと温かくなっていた。エアコンの温風で火照ったのか、熱がぶり返してきたのか、どちらだろう。退院する時、お医者さんに、「しばらく家で安静にしててねー」 と言われたのに、ちっとも守っていない。こんな状態で人んちに押しかける私が非常識なのでは、と今さらながら反省モードに入る。
 季久子にそう言って謝ると、「本当に今さらだよね」 と笑われた。
「キクちゃんに風邪を移してないといいんだけど」
「夏凛が帰ったら、ソッコーで手洗いうがいして、あちこち消毒して廻って、部屋の中には除菌スプレーを惜しみなく振りまいておくから大丈夫」
「そんな、人を病原菌みたいに」
「病原菌そのものじゃないのよ」
 顔を見合わせ、声を出して笑う。
「うん、やっと笑ったわね。よかったよかった。ここに来た時は、いかにも思い詰めたような、暗ーい顔してたけど」
 にこにこしながら、季久子が言った。
「……うん」
 すべて、季久子のおかげだ。私にとって、この友人がいてくれたことは、何にも勝る人生の幸運だった。
「意外と、あんたが出した熱は、ちっちゃい子供が出す知恵熱みたいなもんだったのかもよ。一人でなんでもかんでも考えすぎないようにね」
「うん。ありがとう、キクちゃん」
 最後に、きちんと正面を向いて季久子に礼を言ってから、別れを告げた。


          ***


 自宅に帰り着いてリビングに入ると、そこには両親とも揃っていた。
 テレビでは、正月のお笑い番組で芸人が観客たちを笑わせている。でも、家の中にはちっとも笑いの空気はなかった。
「ああ……おかえり」
 父と母は、リビングでようやく再び顔を合わせた私に対して、なんとも微妙な表情を向けた。何かを言いたい、でも何を言えばいいのか判らない、というような。父はそのまま新聞に目を落とし、母は口をもごもご動かして、結局、困ったように黙り込む。普段一人で賑やかにぺらぺらとお喋りをする母が何も言葉を発しないと、リビングの中は墓場のように陰気になった。テレビの中の騒々しさだけが、空々しく響く。
「お父さん、お母さん」
 私はソファの空いている場所に腰を下ろすと、二人に向けて呼びかけた。
 父も母も、ぴくっと肩を揺らして、私を見る。
「私、トモ兄とも誰とも、婚約なんてしないよ」
 私はちゃんと両親の目を見ながら、落ち着いた声で、はっきりとそう言った。


 ──季久子の家で、私たちは今後の対応についてを、延々と協議した。
 私よりも頭のいい季久子が言ったのは、まずは親ときっちり話をつけたほうがいい、ということだ。
 知哉さんより、その親より、まずはあんたの親よ、と季久子は断言した。
 ちょっとバイトをしてるだけの脛かじってる高校生が、親を敵に回したりしちゃお終いでしょ。そこはなんとしても、きっちりと押さえておくのは基本中の基本。逃げたりはぐらかしたりするのは逆効果よ、いい? とにかく真正面から向き合って、あんたの意見をしっかりと伝えること。
 でも夏凛、その場合、絶対に前世のぜの字も出しちゃダメよ。大人で頭が固いから、信じてもらえないだろう、なんて問題じゃないわよ。普通の親が、自分の子に本人以外の人生の記憶がある、なんていう話を、受け入れられるわけないからよ。
 間違いなく自分がお腹を痛めて産んだ子供に、自分以外の母親の記憶があるなんてこと、どうやったって、許せるはずがないでしょう?


「私、好きな人がいるから」
 堂々と親に向かって宣言するには、ちょっと恥ずかしい内容なのだが、背に腹は代えられない。私は出来る限り、季久子参謀殿の指示のとおりに、真面目な顔を保って言った。
 父が新聞から顔を上げ、母がまじまじと私を見つめる。
「好きな人って、誰?」
 その質問自体は予想していたことだが、予想に反して、そう問いかけた時の母の声は、上擦っているわけでも、怒っているわけでもなかった。普段とあまり変わりない口調でそう言って、身を乗り出してくる。
 昨日からのゴタゴタ続きで、さすがに母も疲れてしまい、ぎゃんぎゃんと騒ぐエネルギーも尽きちゃったのかな、と私は少し申し訳なくなったが、よくよく母を見返してみると、その瞳にはきらきらと瞬く好奇心の光が見えた。
「…………」
 いやコレ違うな。お母さん、いろんな事情をすっ飛ばして、ただ 「娘の恋バナ」 に純粋に興味を持っちゃってるだけだな。さすが我が母、いついかなる時も、底を流れる性質は不動であるらしい。こうなるともう、呆れるのを通り越して、感動しそうになる。
「高校の、同級生」
 ぼそっと私が答えると、母はますます上半身が前のめりになった。近づいてこられた分だけ、私は後ろに身を反らす。ねえねえ、やめようよ、そういうの。もうちょっと自然体で話そうよ。つーか、高校生にもなった娘が、好きな人云々などというこっぱずかしい話を親にするという時点で、相当精神的にきついのだ、ということを汲み取って、もうちょっとさらりと会話ができるような雰囲気づくりをするよう心がけようよ。
「同級生? 誰?」
「誰って……お母さんの知らない子だよ」
「同じクラス?」
「いや違うけど」
「何組の子?」
「よ、四組」
 母の追及は素早く、かつ、しつこい。羞恥のあまり、だあっ! と目の前のテーブルをひっくり返してその場から遁走したいという欲求をなんとか抑え込んで、私はたじたじと返事をするしかない。救いを求めるように、すっかり存在を忘れられている父へと視線を移すと、父は新聞を手にしたまま、じっと私を見つめていたが、やがてゆっくりと確認するように言葉を出した。
「夏凛は、その男の子と付き合ってるのか?」
「…………」
 なんでそんな、寂しそうな目をしてるんですか。
 どうしてだろう、トモ兄との話が出た時とは、ずいぶんと二人とも対応が違うな、と私は訝った。あの時、疑惑と不信と怒りしかなかったような両親は、現在、ごくごく真っ当な 「娘に彼氏がいると打ち明けられた親の興奮と狼狽」 というような反応をしている。蒼君は別に彼氏じゃないけど。
 ちょっと考えて、判った気がした。
 ……いや、きっと、これが普通なんだ。
 私がここで出したのが、高校の同級生の男の子、という非常によくある設定であることに、二人は多分、ものすごく安心してるんだ。今までずっと私の兄のような位置にいたトモ兄からの、突然の婚約申し出なんかよりも、この話のほうが、ずっと心に受け入れやすいんだ。
 それだけ、トモ兄の話が、いかに二人にとって現実味を欠きすぎて、パニックを引き起こしていたか、ということなんだ。
 たとえば、これまで私とトモ兄が、イトコ同士でも、それなりの空気を醸し出していたり、恋人のように振る舞っていたりすれば、父も母も多分、トモ兄の申し出に驚きはしても、あそこまで混乱はしなかったのではないかと思う。
 でも、そうではなかった。
 だからこそ、親戚中が浮足立って、まともな思考も判断力も失ってしまった。
 それほど、トモ兄と私のことは、誰にとっても違和感ばかりを覚えるものでしかなかった、ということなんだ。
「あの、付き合ってる、とか、そういうことじゃないんだけど」
「じゃあ何よ、あんたの一方通行なわけ?」
 遠慮のない母がずけずけと本当のことを言う。うるさいよ、とムカッとしたが、同時にすごくホッとした。ここにいるのは、いつもの母、いつもの私だ。
「……まあ、そうなんだけどさ。でも、その、私はその人のことが好きで、それでバイトだって始めたんだし」
「あらっ、じゃ、バイトが同じなの? ていうか、あんた、あんな不便で安い時給のバイトを始めたのは、それが目的だったの?」
 私の失言で、すべてが腑に落ちた、と言いたげに、母は大きく頷いた。
「どうりで、怠け者のあんたがいきなりバイトするなんて言い出したわけよね。んまー、もうすぐ受験だってのに、そんな不純な動機だったのー」
 呆れたように言う母の台詞を、私は顔を赤くしながらも、努めて聞き流そうと努力した。いつもの調子が戻ってきたのは喜ばしいことだが、なんでそんなことを大声で言うのかこの人は。
 蒼君みたいに悟りを開いて無心になりたい。平常心を持ちながら、親とこんな話をするのが、ここまで難しいことだとは思わなかったよ、キクちゃん!
「──つまり、夏凛には好きな男の子がいて、だから知哉君の申し出は受けられない、ということだな」
 父が、話題を根本的な場所まで引き戻してくれた。心底、感謝した。
「うん、そう」
 慎重に頷く。父は口を閉じ、バサバサと音を立てて新聞を畳んだ。そうしながら、何かを考えているみたいだった。
 綺麗な形に新聞を折り畳んでから、父は私を正面から見据えた。
「夏凛、大事なことだから、ちゃんと答えなさい」
「はい」
 私は姿勢を正して父に向く。父に対してこんな返事をしたのは、おそらく、これが生まれて初めてだ。
「一時的にでも、継続的にでも、お前と知哉君が、今まで付き合ってた、という事実はあるのか。その……イトコ同士としてではなく、男女として、ということだが」
 最後のほうは、少し言い淀むような小声になった。男女として、って、なんだか生々しい表現だもんなあ。いや、実際、内容的に、生々しいことを訊ねられているのだろうな、ということは判るのだけど。
「ううん、ない」
 私はきっぱりと言い切った。
 行為でいうなら、キスはした、ということにはなるのだろうけど、それは黙っていても嘘にはならないだろう、と私は判断していた。私にとっては不可抗力だったんだし、互いの合意の元で交わされたものではない。
 そう、それに。
 あのキスには、恋愛感情は含まれていなかった。
 うん、判った。判ったよ、トモ兄。あのキスで、はっきりとね。

 ……トモ兄は、「夏凛」 には、まったく恋をしていない。

「だったら、知哉君は、なぜいきなりこんなことを言い出したんだろう。夏凛は、そのことについてどう考えているか、言ってごらん。特にそういう事実がないのなら、知哉君の言う 『約束』 とは、何のことだと思う?」
「…………」
 父に言われ、私はなんと答えればいいのかを、一生懸命に考えた。ちらっと母を見ると、いつもよく動く口を、じっと結んで待っている。大丈夫、お父さんもお母さんも、ちゃんと私の話を聞いてくれる。前世のことは言えなくても、私に出来る範囲で自分の思っていることを伝えればいい。
 奈津と、奈津の両親とは、違うんだ。
「多分……何か、行き違いがあるんだと思う」
 しばらくの沈思黙考の後で、虚空に視線を据えつけながら、私はそう言った。
「行き違い? お前と知哉君との間にか?」
「うん」
「言葉の? それとも、気持ちのほうで?」
「両方」
「じゃあ、約束っていうのは?」
「ずーっと昔の話なの。ていうか、『結婚の約束をしてた』 って、トモ兄は言うんだけど、私は覚えてない。本当はどうだったのかっていうのも……今となっては、判らない。トモ兄は、その昔の約束を果たそうとしているらしいの。けど、私はそれはやっぱり、納得できないし、おかしいんじゃないかと思ってる」
「…………」
 父と母は、正直に、「よく意味が判らない」 という当惑した表情で、お互いの顔を見合わせた。でも、昨日のように、そこに私を責めるような棘はなかった。きっと、私のほうが、昨日と違っているからだろう。
 言っても判ってもらえない、と最初から殻に閉じこもってしまっては、相手だって態度を硬化させるばかりなのだ。
「トモ兄のことは、大事な従兄だと思ってるよ。だけどそれは、男の人として好きだっていうのとは、まったく違うよね? とりあえず様子を見て形だけでも婚約を、って伯母さんやお母さんは言うけど、私はそれも、おかしいことじゃないかと思う。少なくとも私には結婚の意志がないのに、約束を交わしてしまうなんてこと、しちゃいけないと思う。それはきっと……誰に対しても、いい結果を生まないよ」
 鏡の中の、奈津の悲しそうな顔を思い出しながら私は言った。
「私、初めて男の子を好きになったんだ。すごく楽しい。これからどうなるのか、ってことはもちろん判らないけど、せめてちゃんと、その子と向き合っていたいと思ってる。こんな風に、ずっと楽しい気持ちのままでいれればいいなと思う。だからトモ兄がなんて言っても、とりあえず、だなんて形でも、他の誰かと約束はしたくない」
「……よく、判らないな……」
 ふうっ、と息を吐きながら、ソファに背中を預け、父が呟くように言った。
「ちょっと、意味不明なところが多いような気がする」
「うん、そうかもしれないけど、でも」
 勢い込んで言おうとした私を留めるように、父は片手を軽く挙げて手の平を見せた。
「──でもまあ、とにかく、夏凛の言い分は判った。お前と知哉君が恋人関係だったということならともかく、そういうわけではないのなら、お父さんたちだって、何も強引にこの話を進めるつもりはないよ。お父さんから電話して、伯父さんと伯母さんに、その旨伝えよう」
 父の言葉に、私はほっとして口元を緩めた。緩めてからようやく、今の今まで、自分がぎちぎちに緊張して顔を強張らせていたということを知った。そのせいもあるのだろう、父がちょっと可笑しそうに、目を細めて笑った。
「昔の、ずっと封建的な時代ならともかく、今どき、子供の意志を無視して親が勝手に結婚話を成立させてしまうなんて、あり得ないよ。いくらお母さんが人の話を聞かない性格だからって。なあ?」
「なによ、失礼ね」
 父にからかうように話を振られて、母が口を尖らせてむくれる。
 それから、二人とも、ぷっと噴き出した。
 私も笑った。
 ちょっとだけぎこちなさの残る、けれど間違いなく、安堵感を滲ませた笑い声だった。
 奈津の歩んだ道とは異なる道を、私は一歩だけ踏み出したんだ、と心の中で思った。


          ***


 それから、父はトモ兄の家に電話をかけた。
 あっちで電話に出たのはどうも伯父さんであったらしい。父は終始穏やかな物言いをしていたし、多分、伯父さんもそうであっただろう。父はまるで仕事先に電話をするような 「大人の顔」 で、淡々としているくらいの口調のまま三十分ほど何事かを話して、電話を切った。
「伯父さんも、承知したよ」
 と、受話器を下ろしてから、私を振り向いて言った。
「知哉君のことは、自分たちでなんとか説得するから、と言っていた。迷惑をかけて悪かった、夏凛ちゃんにも、詫びておいてほしい、って」
「…………」
 私はソファに座ったまま、無言で目を伏せた。伯父さんに謝られるようなことじゃないのは、イヤというほど自分で判っている。伯父さんと伯母さんは、今、どんな気持ちでいるのか。私とトモ兄のことで、いろいろな場所でいろいろな人が傷ついている、と思うと息苦しかった。
 でも、じゃあ、誰が、何が、どう悪いというのだろう?

 何か──何か、糸がもつれているんじゃないのかな。

 そんな気がしてならなかった。前世のあれこれがあったにしろ、本来ならトモ兄と私はもっと穏やかで平和的な道を選べたのではないだろうか。トモ兄をこうまで追い詰めているのは、一体何が原因なのだろう。
 私が蒼君と出会った頃から、少しずつ、何かがこじれはじめてしまっているような気がする。このままでは、もつれた糸が、こんがらがった状態のまま、どんどん大きくなる一方なのではないだろうか。
 ……必要なのは、もつれた糸をほどく努力、なんじゃないのかな。
「ちょっと、眠っていい? 私、まだ体調があんまりよくないみたい」
 ソファから立ち上がってそう言うと、父と母は揃って頷いた。私の言葉に、少し、安心しているようにも見えた。これから夫婦で、今後のこととかを話し合うのだろう。
 リビングを出て、手すりを掴みながら、階段を一段ずつ踏みしめるように上り、考える。

 ──眠ったら、夢で奈津の記憶を見るだろうか。

 考えてみたら、前世のことをトモ兄に知らされたのは中二の時だったというのに、奈津の記憶が戻ってくるようになったのは、本当にここ最近だ。もっとはっきり言えば、蒼君への気持ちを自覚しはじめてからのことだ。
 それって、何か意味があるのかな。
 ずっと、記憶が戻って来るたびに、びくびくと怯え続けていた。眠るのも嫌だと思ったこともある。拒んで、逃げて、疎んじ続けた。奈津に自分を乗っ取られるようで怖くてたまらなかった。和人さんへの恋心を取り戻したら、蒼君への気持ちは消えてなくなってしまうのではないかという恐れが頭にこびりついて離れなかった。
 でも、もう、そんなことは思わない。
 今の私には季久子という味方がいて、ちゃんと話を聞いてくれる親もいて、小さくても私を待っている場所がある。蒼君への気持ちはそんなことでは動かない。
 奈津の記憶が戻ってこようがどうしようが、私は私だ。
 だから、奈津。
 何があったのか、私に思い出させてよ。
 そうだ、前世のことをなかったことにしようという前提でトモ兄と話し合おうとしたって、うまくいくわけがなかった。奈津の記憶をもっと取り戻さない限り、私とトモ兄は正しい方向に進めない。もう怖れない。もう逃げない。だから。
 ……前世から引きずっている何かを、この現世で、空に解き放つすべを見つけてあげるから。


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