遠くの星

32.約束



 私はすっかり暗くなった道を走っていた。
 着物の裾がもつれて、何度も転びそうになった。大したことのない距離でも、普段、ほとんど走るということをしない私にとっては、途方もない労力を必要とした。道の砂利が、履いている草履にいちいち引っかかる。いっそ裸足になった方が走りやすいのだろうか。それとも、このでこぼことした地面の石が足の裏に突き刺さり、余計に時間がかかってしまうのだろうか。
 私はそんなことも知らないし、判らないのだ。屋敷の中でずっと使用人たちの手を借りながら育ってきたために、自分一人の力で何かを成したことがない。子供の頃から、女は慎み深く淑やかであれと厳しく躾けられたから、泥んこになって遊び回るということもしなかった。
 お茶やお花のお稽古に通う時ですら、荷物はお清が持ってくれていた。そこに出っ張った石がありますよお嬢さん、お気をつけてくださいね──とお清に気遣われながら、いつもゆったりと歩いてきた道を、私は今、たった一人で息を乱しながら走り続けている。
 ぜえぜえという荒い息遣いが、頭の中に響いてうるさいほどだった。体力などはそもそもはなから私にありはしない。今にも足が止まり、その場にへたりこんでしまいそうになるのを、逸る気持ちがなんとか背中を押しているような状態だった。
 つらくて、苦しくて、息をするのもやっとだ。顔はもうすでに汗びっしょりになっている。今まで、汗などというものは、暑い夏にだけ出るものだとばかり思っていた。けれど、違う。こんな寒い時期にだって、身体を動かせば汗は出るのだ。そんなことさえ、今になって私は知った。
 だから──こんなだから、馬鹿にされるのだ、あの人に。
 お嬢さんはしょうがねえなと舌打ちして、あの小憎らしい顔つきで、皮肉をたくさん言われてしまうのだ。あの人はいつも、あんたみたいなお嬢さんにはわかんねえよと、私を拒絶し、切り捨てる。そのたびいちいち傷ついて、腹を立てていたけれど、そうされて当然だった。私はこの世の中の何も、判っていない。
 視界が滲んでいるのは汗なのだろうか、涙なのだろうか。
 あまり泣いたことがないから、よく判らない。
 ……だって、私には、泣く必要などないのだと、思っていたから。
 昔から、父と母が、私をただの綺麗なお人形さんとしか思っていなくとも、それでもこのような恵まれた暮らしをしているのは彼らのおかげだ。この世には、まだまだ貧しい人も、その日の暮らしにも事欠くような人もいて、お清のように幼いうちから奉公にあげさせられる環境で育つ人もいる。それくらいは理解していた。だからそこに愛情などがなくたって、私はそれに 「不幸」 などと名前をつけてはいけないと思っていた。裕福な家に生まれた私には、自分の境遇を嘆くような権利はない。
 金銭に対する執着の深い父と母が、私をどの家に嫁に出せば、いちばん利益が大きいのだろうと考えるのも。これはどうすれば高値で売れるかなと、まるで品物のように、私を差し出す先を冷静に計算しているのかも。そのために私にあれこれと行儀見習いをさせ、常に美しくあれと命じるのも。
 どれもすべて、仕方のないことだと、諦めていたのだ。
 それは、泣くようなことではない。
 諦観とともに受け入れて、静かに微笑んでいればいいことだ、と。
 なのに、私は今、瞳に汗と涙をいっぱいに溜め、暗い夜道を、着物の裾をはしたなく蹴さばいて走っている。
 はあはあと忙しなく口から出る息が白い。人家もあまりない道は、うっそりとして静まり返っていたけれど、それを怖がるような余裕もなかった。


 目指す大きな屋敷に辿り着いて、玄関先に出てきた年配の女中に、取り次ぎを頼んだ。
 髪も着物も乱れた私を、女中はじろりと厳しい目つきで睨んだけれど、お待ちを、と一言告げて屋敷の中へと戻っていった。もしかして、私が来ることは、前もって知らされていたのかもしれない。でなければ、こんな無礼さ非礼さを、お華族さまに仕える人間が何も咎めないでいるはずがなかった。
「やあ、来たね、奈津」
 姿を見せた和人さんは、私を見て、にこやかに目を細めてそう言った。その態度を見て悟った。やっぱりだ。私が来ることを、この人はちゃんと知っていたのだ。
「お入り。今、紅茶でも淹れさせるから」
 和人さんは、私をいざない、居間の中に招き入れた。
 シャツにズボンという洋装をよく好む和人さんだけれど、この時は寛いだ着物姿だった。和人さんはほっそりとした体格の人なので、似合うのは洋装のほうなのだが、不思議と、着物の時のほうが威厳が出る。私の住む成り上がりの屋敷と比べ、格段に格式のある立派な調度の揃った屋敷の中にいて、なんら見劣りせずにしっくりと溶け込んでいた。
 クッションのきいた豪華な布張りの椅子に腰かけ、私はまだ荒い息を整えられないまま、和人さんと向かい合う。ご両親はご不在なのか、使用人の姿は見えるものの、屋敷の中はしんとしていた。
「か──和人さん」
 私の唇から出る声は、情けないほどに震えていた。ああ、駄目だ、と気を取り直し、大きく深呼吸してから、改めて背筋を伸ばして姿勢を正す。正面の椅子に深く沈むようにゆったりと座っている和人さんは、そんな私をどこか面白そうに眺めるだけだった。
「どういう、ことですか」
 息を吐き、一拍の間を置いてから、私は和人さんに向かって問い詰めた。和人さんは薄っすらと楽しげな笑みを口元に保ったまま、椅子の肘掛に置いた手で頬杖を突き、私を見返している。
「どういう? 何がだい?」
「おとぼけにならないでください」
 私の声がまた震えた。今度のは緊張からではなく、はっきりとした怒りからだった。
「あの人が、仕事を辞めさせられたと」
 声も、顔も、強張っている。もっと冷静にならなくてはと思うのに、どうしても頭に血が上ってくるのを止められなかった。どうして、どうしてと歯ぎしりしそうなほどの憤りで喉が塞がってしまって、ろくろく喋れないのが悔しくてたまらない。
「よく知ってるね。……君はまだ、あの男と繋がりでもあるのかな」
 柔和な形で微笑をかたどっていた和人さんの唇が、角度をつけてわずかに上がる。頬杖を突いた態度に変化はないのに、たったそれだけのことで、和人さんをまとう空気がすうっと冷えた感じがした。
「あるわけないではないですか。それは和人さんが、いちばんよくご存じのはずでしょう」
 つい、叩きつけるような口調になってしまった。和人さんから縁談を持ち込まれてからというもの、私がほとんど外にも出られず、屋敷の中に軟禁されているも同然の生活であったことは、和人さんが何より知っているはず。それをまるで他人事のように口にされて、私はかっとなった。
 ……そうするように、父と母に進言したのは、他ならぬあなたでしょうに。
 今回のことだって、あなたが手を廻したことなのでしょう?
「じゃあ、誰に聞いたんだろう。あの、お清という女の子かい。あの子供は、少々君に対する忠誠心が度を越しているね。女中の分を弁えるよう、教えてやる必要があるんじゃないのかな」
 考えるようにして、頬杖を突いた手の指でとんとんと自分の顔を軽く叩きながら、和人さんが言う。
「お清は私の大切な友達です」
 私はきっぱりと反論した。
 あの冷え冷えとした屋敷の中で、たった一人、私を愛してくれるのは、あのお清だけだ。だから今回のことだって、どうしても黙っていられなくて、泣きながら私に教えてくれたのだ。

 だってこんなのはあんまりじゃありませんか、お嬢さん。
 お嬢さんは本当に、身を切るようにしてあの人への想いを諦めたのに。
 ご自分の気持ちを犠牲にしても、あの人がこの町で平穏に暮らしていけるならと、そうお望みになったのに。
 お嬢さん、お嬢さん、お気の毒に。
 あの人は、もうじきこの町を出て、遠いところに行ってしまうそうですよ──

「……友達ね」
 和人さんは、ふっとまた一段階唇を上げた。皮肉な色合いが、隠しようもなく濃くなった。
「女中は女中だよ、奈津。君は、貧しい者への同情心と、愛情とを、取り違えてる。自分が裕福な家に暮らしているから、女中や労働者みたいな、汗水たらして働く人間に対して、いわれのない罪悪感を抱いているんだろう。そしてその罪悪感を、友情だとか恋だとかいう言葉にすり替えている。それは偽善というものだよ」
「今はそんなことを言っているのではありません」
 私は声を上げた。
 そうだ、私がお清に抱く友情は、もしかしたら和人さんの言うとおり、同情心と罪悪感の混じったものであるのかもしれない。親元を離れ、朝から晩まで真っ黒になって働いて、私の世話を焼く彼女に、いつも心が痛んでいた。その痛みを友情という聞き触りのいい言葉に置き換えるのは、確かに偽善というものだろう。でも。
 ……でも、大事に思っているのは、真実なのだ。
 お清のことも。あの人のことも。
「──どうして、ですか。和人さん」
 たまらなくなって、私は顔を伏せ、自分の両の手で覆った。指の間から漏れ出る声は、か細く弱々しかった。
「私はあなたとの結婚を承諾したではありませんか。婚約だって、きちんと済ませたではありませんか。あなたの妻になって、この屋敷でこれからの人生を過ごすことを、お約束したではありませんか。あなたのお父様とお母様に嫌われても疎んじられても、必ずあなたと添い遂げましょうと誓ったではありませんか。一体、これ以上、私に何をせよと言われるんです」
 判らない。理解できない。

 一緒になろうと、ちゃんと約束をした。
 私に、それ以上、どうしろというのだ。

「──そうだね、奈津は、僕に約束してくれた」
 ぎし、と椅子のきしむ音がした。顔を覆った私の前に、人が近づく気配がする。手を取られて、咄嗟にぱっと顔を上げた。わずか、身を後ろにずらしたのは、無意識の行動だったのだが、すぐ間近に迫っていた和人さんの眉が、ほんの一瞬ぴくりと揺れた。
「でも、君の心は、まだあの男に残っているんだろう?」
「そんなこと、ございません」
 訴えるように、私は和人さんを見た。声の端々が心許なく掠れそうになるのを、なんとかこらえる。
「じゃあ、どうしてそんな風になりふり構わず、ここまで走ってきたんだい。あの男がこの町から去って行くと聞いて、いてもたってもいられなくなったんじゃないのかい。ご両親の監視を振り切ってまで、家を抜け出してここに来たのは、あの男のためなんだろう?」
「それは──」
「目障りなんだ」
 床に膝をついた姿勢で、和人さんは感情のない瞳で私を見据え、何かを読み上げるかのように一本調子で言った。それとは逆に、私の手を掴んだ手には、ぐっと力がこもった。痛いほどの力に、私は唇を引き結ぶ。
「君は僕と一緒になると約束した。正式に婚約もした。これからずっと、僕のものになることを、肯った。でも、どうしても、あの男は目障りなんだ。君が僕と結婚してからも、この町をうろちょろされると思うと、たまらなく不快だ」
「もう、あの人とは会いません。そう申し上げたのに、信じてもらえないのですか」
 私の口から出るのは、我ながら悲鳴じみて聞こえた。その言葉のどこにも、嘘はなかった。私は和人さんの妻になる決意をして、あの人のことは諦めた。もう二度と、会うつもりはない。
 どれだけ会いたくとも、会わないでいようと決めたのは、私。
 ──ただ、あの人が幸せでいてくれるのなら、それでよかったのに。
「信じてるよ。君は嘘をつくような子じゃないと、昔からよく知ってる」
 和人さんの声音に、優しいものが入った。私だって昔からよく知っている。和人さんは、愛情深い、優しい人だ。──優しい人、だった。
「けれどもね」
 声だけは変わらず優しいのに、こちらを覗き込む瞳には、ちらちらと黒いものが底のほうで瞬いている。
 それを見て、背中がぞくっと粟立った。
 その目が怖かったわけではなかった。口調も、声も、穏やかなくらいに優しいのに、どこか常軌を逸したような光が脅威だったのでもない。
 その光の原因となったものを考えるのが、怖かったのだ。

 ……優しい和人さんに、こんな目をさせるようになったのは、私のせいなのか。

「けれど、許せないんだ。君の心のカケラでも、他人に残っているという事実が、どうしても許せない。君の目も、顔も、心も、すべて僕一人だけに向けられていないと我慢できない。……愛してるんだ、奈津」
 和人さんは、掴んだ私の手をそのまま自分の頬に押し当てた。私は青い顔で、なすすべもなく和人さんに手を取られ、動けない。
「ずっと昔から、君だけを見てたんだ。君のことだけを愛してた。美しい奈津。僕の妻になるのは、君しかいない。君の心も、身体も、全部、僕のものだ。誰にも渡さない」
「…………」
 ゆっくりと立ち上がり、両手を差し伸べてくる和人さんを、私は見ているしかなかった。背中に腕を廻され、彼の肩に顔を押しつけるようにして抱きしめられても、抗うことも出来ず、身じろぎ一つしなかった。……ここでまた逃げるような素振りでも見せたら、和人さんが今度はどんな行動に出るのか予測がつかなくて、怖かった。
「一生、君を守ってあげるよ。この屋敷の中で、宝物のように大事にする。何もしなくていい、不自由な思いなんて決してさせない。君はただ、笑って僕のそばにいてくれるだけでいい」
「…………」
 ──そうして私は、また籠の鳥として、生きていくのか。
 綺麗にして、微笑んで、夫に庇護され、なんの苦労もなく。
 判ってる。私は結局、そういう風にしか生きられない。そうやって育てられ、そうやって暮らしてきた。父と母が私に望んでいるのも、それだけだった。お清のように朝から晩まで働いて過ごすことなんて、今さら私に出来るわけがない。
 地に足のついた生活をするあの人の隣で生きられるわけがない。あの人も、そう言っていた。
 判っているのだ。


 それは夢だよ、お嬢さん。
 この星空みたいに、きらきら輝いて、美しいだけの、ただの夢だ。
 遠くから見ているぶんには綺麗だけど、実際に、近くに寄ってみることなんて出来やしないだろ、それと同じさ。
 俺とあんたとでは、立ってる場所が違いすぎる。
 ……あんたはそうやって、おさげのままで笑っているのがお似合いだ。


 ぽろりと一粒、涙が落ちた。
「心配しなくても、あの男がこの町を出て行けば、何もしないよ。今のところは、君から離してしまえば、それだけでいい。判ってるね、奈津。今後、彼がどうなるのかは、君次第だ」
 愛してる、奈津、と、和人さんがさらに強く私を抱きしめた。
「…………」
 私を愛してくれている和人さん。
 和人さんは優しい人だ。言葉のとおり、私を大事にしてくれるだろう。ご両親からも、世間の風からも、他のなにものからも、手の平で囲って守ってくれるだろう。私が彼だけを見てさえいれば。
 この人の隣で、この人に守られて、この恵まれた環境で、私はこれからの人生を歩むのだ。
 それは、きっと、幸福なことなのだ。
 幸せなことの、はずだ。
「……はい」
 小さな声で答えて、私は和人さんの着物をぎゅっと握った。
「これからずっと、僕のそばにいるね、奈津」
「はい」
「きっと、約束だよ」
「はい」
 また、涙が落ちた。



         ***


 目を覚ますと同時に、私はベッドから跳ね起きて、一直線にトイレへと駆け込んだ。
「……うぐっ」
 そこで、吐いた。
 ほとんど食べてもいないというのに、どうしてこんなに猛烈な吐き気がするのか不思議なくらいだった。口から出る吐瀉物は、大半が水分ばっかりで、それでもあとからあとから込み上げてくるものが止まらない。終いには、黄色い胃液みたいなものしか出なくなっても、身体の中のもの全部を吐き出したい欲求は収まらなかった。
 涙をいっぱいに溜めて、咽て、えずいて、を繰り返した。苦しくて苦しくて、立っている足ががくがくと震えるほどだった。すでに空っぽになったお腹が、今度はキリキリと痛みだす。顔からは血の気が引いて、額から汗が滴り落ちている。寝る前に着替えたパジャマが、汗で湿ってべったりと背中に張り付き、気持ち悪かった。
 ──大丈夫。
 強烈な吐き気と戦い、涙を拳でこすりながら、私が一心不乱に考えていたのはそんなことだ。

 大丈夫、大丈夫。ここにいるのは、ちゃんと 「私」 だ。
 奈津じゃない。
 夏凛だ。


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