遠くの星

35.始動



 嫁入りの準備が着々と整いつつあった。
 「お華族さまに対してだって恥はかかせない」 と宣言した母は、その言葉のとおり、東奔西走して私の新しい着物を仕立てたり、装飾品や道具のあれこれを手配するのに忙しそうだ。
 日を重ねるごとに、屋敷の一部屋にそれらがどんどん積み上げられていくのを、私はいささか暗澹たる気分で眺めていた。
 母が揃えるものは、着物にしろ何にしろ、すべてが確かに見栄えがよく、お金もかかっていたけれど、あまりにも実用には向いていないものばかりだった。豪奢で美しいが、日常生活を送るには、まったく適していない。
「こんな着物を着ていては、私は座っていること以外、何も出来ません」
 と私が訴えても、母はまったく聞く耳を持たなかった。かえって、その言葉に、不思議そうな顔をした。
「なにをお言いだい、奈津。そうさ、あんたはただ、あのお屋敷で大人しく座っていればいいんだよ。身の周りのことはすべてあちらの使用人がやるんだし、することなんて何もあるものかい」
「…………」
 あっさりと言う母にとって、それは決まりきった事実であるらしい。そしてそのことを、女として誇らしく幸福なことだと、疑いもなく信じ切っている。母には、することがない、というのはすなわち、何ひとつ働かなくてもいい、という、恵まれた環境にいることの証明なのだ。
 貧しい家に生まれて幼少期をずっと苦労して過ごしたという母は、何もしないで人を使う、ということに、非常に強いこだわりを持っている。それこそが特権階級の象徴だ、と考えているフシもある。女中たちに仕事を命じる時の母は、いつもとても満足そうだ。鼻の穴を広げ、女中たちの働きぶりを観察し、あれが悪い、ここがなっていないと因縁をつけ、やり直しをさせては悦に入る姿は、正直、上品とは言い難い。
 けれども母は、そういうのこそが、「女の幸せ」 と思っているのだろう。だから、娘の私にも、迷いもなくそれを要求するのだ。娘の幸せは、母にとってはそのまま、お金がたくさんある幸せ、なのだ。
 ──ああ、嫌な考え方をしているな、と額に手を当てた。
 私と母の気持ちがずれているなんて、今にはじまったことではない。貧しかった昔の暮らしを見返してやろう、と生きてきた母と、生まれた時から物に不自由しないで育ってきた私とでは、ずれがあって当然だ。一度も苦労などしたことのない私が、なんとかここまで成り上がってきた父母に対して意見など出来ようはずもない。
「お母様」
 私は身を正して椅子に座り、部屋に積まれた嫁入り道具をうっとりと眺めている母に向かって言った。
「お願いがあるのですが」
「なんだい、奈津。他に欲しいものでもあるかい。入り用なものは、大体揃えたはずだけどねえ」
 こちらを振り向いて、母が首を傾げる。
「いいえ」
 私はひとつ息をついた。
「──どうか、和人さんに嫁ぐのを、もう少し先に延ばしていただけませんか」
 と、頭を下げる。私のその申し出に、母は驚いたようだ。一瞬言葉に詰まり、しかしすぐに、「バカなことをお言いでないよ」 ときつい口調で叱りつけるように言った。
「今さら、そんなことが出来るわけがないじゃないか。まったく突然、何を言い出すんだろうね、この子は。和人さんの説得で、あちらのご両親もようやくお前の嫁入りに了承してくださったっていうのに、こちらの都合で先に延ばすなんてことが出来るもんかい。そんなことをしたら、あちらの心証は悪くなるばかりだよ」
「でも、私、どうしてもこのままでは」
「駄目だよ、駄目、駄目。当たり前じゃないか。和人さんの家とはこれからも付き合っていくんだし、何度も言うけど相手はお華族さまなんだからね。機嫌を損ねて、この話はなかったことに、なんて言われたらどうするんだい。なんだね、奈津、何か足りないものでもあるのかい。言ってくれたら、なんでも買ってあげるよ。なに、お金のことは気にしなくてもいい。なにしろこの結婚で、これから見返りはどんとやってくるんだからね」
「いいえ、違います」
 私は首を横に振って否定した。今までずっと、父と母に反抗したことも口答えしたこともない私だが、この時ばかりは必死だった。
「違うんです、お母様。着物やお道具のことじゃないんです。足りないのは、私──私自身の」
「あんたの何が足りないっていうんだい。お茶も、お花も、礼儀作法も、一通りのことは身につけさせたよ。これ以上不足なんてあるもんか。奈津、あちらがお華族さまだからって、そんなに萎縮することなんてありゃしないんだよ。なにしろあんたにはその美しさがあるんだからね、微笑んでじっとしていれば、大概のことはなんとでもなるさ」
「お茶やお花が出来ても、家事は何ひとつとして出来ないではありませんか!」
 思わず叩きつけるように声を出すと、母はますます驚いたように目を見開いて、口も半開きにした。私の言っていることが、まるで理解できない、というように。
「料理も、掃除も、洗濯も、私はどれもしたことがありません。人の妻になるというのに、私はそのやり方ひとつ知らないんです。それを、おかしいとは思われませんか。このままでは、私は和人さんの妻として、一体何をすればいいんです? 夫婦というのは、お互いに自分のすべきことをして相手を支え、労り、共に立つ、そういうものではないんですか」
「おや、まあ、何を言い出すかと思ったら」
 母は笑った。その、心から可笑しそうな笑い声を聞いて、私は絶望的な気分になった。
 駄目だ──何を言っても、この母には通じない。
「別に、あんたはそんなものを覚える必要なんてありゃしないだろ? あちらの家には、山ほど女中がいて、専用の料理人までがいるという話だもの。料理も掃除も洗濯も、お前にさせたりしない。そこらの労働者に嫁ぐわけでもあるまいし」
「でも」
「心配しなくても大丈夫だよ、奈津」
 母はにこにこ笑ったまま、膝の上に置かれた私の手を取った。
「この白くすべすべした手を、家事なんかで荒らすわけにはいかないよ。和人さんだって、そんなことを望んじゃいないに決まってるだろう。あんたはただ、お人形のように、綺麗にして、旦那様の言うことをなんでも従順に聞いて、黙って笑っていればいいんだよ。ああ、なんて幸せなことだろうね」
「…………」
 唇の端がぴりぴりと引き攣ってしまい、私はもうそれ以上、言葉を続けられない。
 俯きがちになった私を、母が下から覗き込む。
 口は笑っているけれど、目は笑っていなかった。ぎらぎらとした強烈な光を放つその目の中に、私はいない。あるのはただ、豊かな暮らし──母の抱く 「幸福」 に対する妄念じみた執着心だ。
「わかってるね、奈津。決して、決して、和人さんに嫌われないようにするんだよ。この結婚は、あんただけの問題じゃない、私らの将来にも関わってるんだ。面白くないことがあったって、和人さんが余所に女の人を作ったとしたって、顔にも口にも不満を出さずに我慢するんだよ。あんたが我慢してりゃ、それで済む話なんだから。私も含め、女というのは、みいんな、そうやってるもんなんだからね。何か不始末でもしでかして、あんたがあちらの家から追い出されるような羽目にでもなってごらん、累はこっちにも及ぶんだ。いいかい、そのことを、しっかりと胸に刻んで、絶対に忘れるんじゃないよ」
「…………」
 しばらくの沈黙の後、私は震える声で、はい、と呟いた。


「……お嬢さん」
 母が部屋を出て行ってから少しして、お清が控えめに入口のところから声をかけてきた。
 のろりとそちらを振り返る私は、返事をする気力もなかった。いっそ、本当に人形になってしまったほうがどれほど楽だろうと思う。何も考えず、何も思わず、何も苦しまずにいられたなら。
「お嬢さん、あの、あたし」
 言い淀んでから、お清がさっと周囲を確認し、小走りに部屋の中へと入って私の近くまで駆け寄ってきた。
 耳の近くまで口を寄せ、内緒話のように声を低くする。
「──あたし、あの人にこっそりお会いしてきました」
 私は弾かれたようにお清の顔を見た。そんなこと、お清に頼んだ覚えはない。あの人に? なぜ? どうして? と混乱して声も出ない私に、お清はバツが悪そうな表情で、もじもじと両手を組み合わせた。
「すみません、出すぎた真似をしまして。けども、このまんまじゃ、あまりにもお嬢さんがお気の毒で、いてもたってもいられなかったんです。せめて、あの人にお嬢さんの本当のお気持ちだけでも伝えておきたいと思って。……あの人が、この町から出て行ってしまわれる前に」
「…………」
 固い表情で長いことお清を凝視して、私はふっと力を抜いた。ゆっくりと椅子の背もたれに背中を預けて、長い息を吐く。
「……あの人は、もう知っていた? 私の結婚が決まったこと」
 自分の口から出る声は、どこか投げやりだった。はい、ご存知でした、というお清の消えそうな返事に、そう、と虚ろに答えて目を閉じる。
「なんて言っていた?」
 ぽつりとした問いかけに、今度はすぐには答えは返ってこなかった。
 無言の間がずっと続いてから、お清が苦しそうに言葉を絞り出した。
「結婚、おめでとう──と」
 それから、堪らなくなったように、泣き出した。目を開けてお清を見ると、忠実な子供は、ひっくひっくとしゃくり上げ、私のために涙をぽろぽろと落としている。
「こ、ここを出て行く前に、それが聞けてよかった、って。ど……どこにいても、お嬢さんの幸せを願ってる、って。夜空の星を見るたび願ってる、って、そ、そう仰ってました」
「……そう」
 私は静かに言って、お清を引き寄せ、そっと頭を撫でた。
 自分の視界に、おさげが揺れている。
 あの人が、似合う、と褒めてくれた、唯一のもの。



          ***


 寝ぼけて、ベッドから転がり落ちた。
「痛い……」
 呻いて、後頭部をさすりながらむっくりと上半身を起こす。久しぶりだなあ、ベッドから落ちたの。昔から寝相が悪くて、小学生の頃まではよくこうして落っこちていたので、落ち方は身体が覚えているらしく、頭をぶつけた以外に損傷はない。
 床に座り込んだまま、自分の身体を見下ろす。寝汗もかいてないし、特に吐き気もしないことを確認して、ほっとした。蒼君のおまじないの威力は絶大だ。今日会ったら、「ちゃんと録音するからもう一回言って」 ってお願いしてみようかな。絶対断られると思うけど。
 目をこすって階段を下りていくと、母がリビングから顔だけを覗かせていた。
「今、なんかものすごい大きな音がしなかった?」
「ベッドから落ちた」
「やだちょっと、家が壊れるから気をつけてよ」
「心配するのはそこじゃないよね、普通!」
 いつもの言い合いをしながらダイニングまで行ったら、食卓の上にはちゃんと私の分の朝食のベーコンエッグが用意されていた。
「お味噌汁飲むでしょ?」
「うん」
「じゃ、あっためるから」
「いいよ、自分でやる」
 私がさっさとキッチンに向かうと、母は、あらら、という顔をした。そういう顔をされて驚かれると、いかに今まで母親任せにしていたか、ということを思い知らされて恥ずかしい。がみがみと言われてお手伝いもさせられてはいたけど、それでもやっぱり、一人っ子の私はなんだかんだと甘やかされているのだ。
「今日、出かけるね」
 自分で温めた味噌汁を飲みながらそう告げると、向かいの椅子に座った母は、再び、あらら、という顔をした。このところ、家に引きこもってばかりだった娘の、唐突な外出宣言に、ちょっと戸惑っているらしい。
 こちらに向けられる表情には、わずかに心配そうなものも混じっている。父も母もトモ兄の話題は持ち出さないようにしているが、私がバイトにも行かなくなったことで、やはり何かしらは察しているのだろう。
「どこに?」
「まだ行き先は決まってない。友達と待ち合わせしてるから」
「友達?」
 母の目が、キラリと光った。
「誰?」
「誰って……まあ……」
 私がもごもごと言葉を濁したことで、母はピンときてしまったようだ。ピンときて、季久子のように配慮してくれるかといったら、もちろんそんなことは全然ない。
「本屋のバイト君?!」
 ぐぐっと身を乗り出して追及してこられ、私は味噌汁にむせそうになった。そうか、蒼君は、母の中ではそういう名称になっているのか。
「えーと、まあ、そ」
 そうだけど、という肯定の言葉も最後まで言い終わらないうちに、「ええっ、なになに、デート?!」 と母は大興奮だ。季久子の爪の垢を煎じて飲ませたい、とつくづく思う。
「いや、そういうんじゃ」
「やっだー、あんたもやっとそういうことが出来るようになったのねえー!」
「あのさ、おか」
「で、どこ行くの? 何時に待ち合わせ? ねえねえ、その子、なんて名前? 写真とかないの? カッコいい? 今日はなに着ていく? あっそうだ、この間買ったミニスカートがいいんじゃない? お母さんがファッションチェックしてあげる!」
「…………」
 ──で、結局。
 せっかく夢を見てもお腹の中のものを吐かずに済んだというのに、この機関銃のような尋問攻めで、私は、蒼君のことも、電話のことも、今日の待ち合わせの時間も場所も、すべて洗いざらい吐くことになった。
 母は多分、優秀な検事になれる。


 家を出る頃にはすっかりグッタリと疲れていた私は、「やーねー、あんた、そんな顔してたら蒼君に嫌われちゃうわよ」 と眉を寄せた母に注意された。つゆほども自分のせいだとは考えないところが、私の母のすごいところである。すでに 「蒼君」 呼ばわりなのも、なんだかもうどうだっていい。
 玄関先で、腰を下ろしてブーツを履きながら、
「……ねえ、お母さん」
 と、私はぽつんとした調子で呼びかけた。目線はブーツに行ったままだったが、うん? と後ろに立っている母が返事をした。
「お母さんはさ、私がお金持ちの人と結婚したら、嬉しい?」
「なあに、いきなり」
 母が笑う。
「トモ兄みたいな将来性のある人と結婚して欲しい、って、ホントは思ってる?」
「…………」
 その言葉には、笑いを止め、黙った。
 ずっと、知哉君みたいな子が夏凛のお婿さんになってくれたらいいのに、と言い続けていたのは母だ。半分くらいは冗談だったにしても、あとの半分はけっこう本気だったのではないかと私は思っている。相手がトモ兄本人というのは考えていなかったにしろ、「トモ兄のような」 男の人を見つけて欲しい、というのは、母の本心であったろう。
「まあ、そりゃ、思ってるけど。だってやっぱり、自分の娘には苦労してもらいたくないからさ」
 率直さが取り柄の母が、あっさりとそう認めて、「でもね」 と言葉を続ける。
 ブーツを履いて振り返った私と目を合わせ、真面目な顔をした。
「でもそれは、あんたが好きになった人、っていうのが大前提なのよ、もちろん。結婚に経済力は必要だけど、それ以上にもっと必要なものが、いくつもあるからね。お金があればそりゃ幸せだろうけど、それだけで幸せになれるかっていうと、そうでもないし」
 それから、悪戯めいた目になって、声音を落とした。
「ここだけの話、お母さんだって、お父さんよりも条件的に恵まれた男の人にプロポーズされたことがあるのよ」
「えっ、ホント?」
 びっくりして聞き返すと、母は笑って、「ホントホント」 と頷いた。でも顔とか性格とかが、どうしても好きになれなくってさあー、と相変わらずの無遠慮さでずけずけと言う。
「まあ、この話は、今度、お父さんがいない時にゆっくりとね」
「うん」
「……いつの間にか、あんたとそういう話が出来るようになってたのねえー。子供だと思ってたけど」
 母がしみじみとしたように頬に手を当てて呟く。私はまだまだ子供のままではあるが、母のその昔話はちゃんと聞いておきたいなと思った。父の知らない、「母の秘密」 を共有して、二人でこっそりとくすくす笑い合うのだ。
「まあ、楽しんでらっしゃい」
 母に促され、私はうんと頷いて、玄関のドアを開けた。
「いってきます」
 外は、青空の広がる、いい天気だった。


          ***


 お人形のように笑っていれば幸せになれる、と言った母。
 お金があるだけで幸せになれるわけではない、と言う母。

 どちらが悪くて、どちらが良い、という問題ではないことくらいは判っている。夏凛の母が善人で、奈津の母が悪人だ、なんて単純な分け方は出来ない。あの母は母なりに、娘のことを愛していたのだと思う。その愛情は、奈津の望む形ではなかったのだろうけれど。
 おそらく、あの頃と今とでは変わっているものがたくさんある、というのも、大きいのだろう。
 時代とか、世の中の流れとか、ものの考え方とか、価値観とか。
 奈津の生きていた時に難しかったことが、今のこの世でなら簡単に出来る。そういうことは、多分、いくつもある。ここには、身分だとか堅苦しいほどの道徳だとかの、奈津を縛りつけていた鎖がない。いろいろと問題だってあるのだろうし、絶対的に今のほうがいいだなんて言い切れはしないのだろうけど、それでもあの頃よりは、まだしもこの場所には、自由と平等がある。
 生まれ変わった私は、窮屈な生を強いられていた奈津と違って、大きく息がつける。
 奈津には出来なかったことが、今の私には出来る。
 でも。
 ……それは、前の世で叶えられなかったこと、出来なかったことを、この現世でやり直す、ということとは、違うのだ。
 絶対に、違う。
 やり直すことなんて、どうしたって出来ない。
 ──人は生まれた時から誰もが、新しく、はじめるのだ。


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