遠くの星

36.錯綜



 母の攻勢から逃れるためにずいぶんと早めに家を出て、道々少しずつ時間を潰しながら来たのだけど、それでも待ち合わせ場所には、時間より三十分も前に着いてしまった。
 いくらなんでも浮かれすぎじゃないだろうか、私。一分一秒でも早く会いたくてたまらない、みたいな感じ? いや確かに実際そう思ってはいるが、他の人から見てもそういうのが丸わかりだったりしたら、ちょっと恥ずかしい。
 冬休み最後の日とはいえ、学生以外の人たちにとっては正月明けの普通の平日なので、駅前ターミナルは人が多いものの、スーツを着た男の人がせかせかとした早足で歩いていたり、おばさんが買い物袋を手に歩いていたりしているという、日常的な光景が広がっていた。もちろん誰も、大時計の下に立つ私のことなんて特に気にしていない。当たり前だけれど、ほっとした。
 ここからすぐ見える駅の出口では、二十代くらいのバイトらしき女の人が、せっせと歩行者にティッシュを差し出している。でも、大半の人が、目の前に出されるティッシュなんて見えません、という感じで通り過ぎていくので、見ていて気の毒になるくらいだった。お金を稼ぐのって、楽じゃないよね、としみじみ思う。でも私も、早くバイトに復帰したい。
 まだ時間があるし、じっとしているとけっこう寒いし、そわそわして落ち着かないし、ティッシュ配り手伝おうかな。けど、蒼君がいつ来るのか判らないし。
 ──そういえば、以前、季久子に、「男と待ち合わせをする時は、少し遅れていくくらいのほうがいい」 と教わったんだったなあ、とふと思い出した。
 季久子曰く、男が、まだかな、とちょっと苛々してきたくらいの頃に、たったったと足音も軽やかに駆け寄り、ごめんね待った? とはあはあ息を乱しながら言うのが肝心、なのだそうだ。この場合、一生懸命走ってきた、という 「アピール」 だけをすればよいのであって、間違っても本気の全力疾走をしてはならない。汗だくになるのはもってのほか。頬を上気させ、わずかに汗ばむ程度で愛嬌たっぷりに笑いかけて謝るべし。そうすれば、どんな男もコロリと参る、とのことである。本当なのだろうか。
 でもどっちにしろ、私は初手からつまずいているな。くれぐれも長々と男を待っちゃダメよ、つけあがるし、暑苦しく思われるからね、とも注意を受けていたはずなのだが、すっかり忘れていた。すみません季久子参謀殿、私はどうやら小悪魔的な女の子にはなれそうにありません。薄々気がついてはいたけどさ。
 ……でも、やっぱり。
 私は、こうして蒼君を待っているのって、楽しいけどな。
 駅の出口から出てくる顔をドキドキしながら探して、落胆したり、時々似た人を見つけて一瞬鼓動を跳ねさせたりするのは、それだけで幸福な時間のように思えるんだけど、それって男の子には暑苦しいものなのかな。今度季久子に聞いてみよう。
 その時、バッグの中から軽快な音楽が聞こえた。
 最近ずっと昼の間は電源を切っていた私のスマホだが、今日は朝からいつでも連絡の取れる状態にしてある。都合が悪くなって行けなくなった、なんていう蒼君からの電話だったら泣いちゃうぞ、と思いながらスマホを取り出すと、画面上に表示されている名前は、季久子その人だった。
 おお、なんというグッドタイミング、と思ったが、
「夏凛、デートだって?」
 耳に当てた途端、開口一番でそう言われて、私はその場にひっくり返りそうになった。
「ええー! なな、なんで知ってんの! いやデートじゃないけど!」
「この期に及んでなに言ってんのよ。駅前ターミナル大時計下、十一時に待ち合わせなんでしょ」
「なんで知ってんの?!」
 今度こそ本気で腰を抜かすほど驚いた。時間も場所も、決まったのは昨日の夜である。朝起きてから現在まで、私は季久子と電話どころかメールもしていない。
「うちのお母さんに聞いたの」
「ウソでしょ、キクちゃんのお母さんがいくら有能な諜報部員だからって、そんなことまで知ってるわけないじゃん。それともまさか、私の部屋に盗聴器仕掛けてるわけじゃないよね?」
 まさか、と言いつつ、私の頭はパニック寸前だ。この通話も実は誰かに監視されているんじゃ、と思わず周囲をきょろきょろと見回してしまう。いつから私はCIAに狙われる国際的なスパイになったのだろう。
「盗聴器はなくても、あんたんちには大きなスピーカーがあるじゃないの」
「へ、スピーカー?」
「お母さん、今日買い物に行く途中で、たまたま夏凛のお母さんに会ったんだってさ。そうしたらおばさん、異様にはしゃいでて、『今日ウチの娘、デートなのよー』 って聞きもしないのに教えてくれたんだそうよ」
「…………」
 おかーさん……と呻いて、私は頭を抱えた。
「デートの相手も、待ち合わせの場所も時間もバッチリ把握してて、夏凛ちゃんちはオープンなのねえー、って、うちのお母さんすごく感心してたわよ。まあそれを全部聞き出してくるお母さんもお母さんだけどさ」
「…………」
「二人でずーっと長いことお喋りしてたらしくって、道理で、ちょっとコンビニに行っただけにしては、ちっとも帰ってこないなと思ったのよね。さぞかし道のど真ん中で、人目も気にせずベラベラ話してたんでしょーね」
「…………」
「昔から、あの二人のお喋りって、はじまると歯止めが利かないっていうか、どんどん音量が大きくなる一方だったもんね。これでもう、あんたの今日のデートのことは、ご町内じゅう知らない人はいないというくらいに広まって」
「やーめーてーー!!」
 耐え切れなくなって、私は悲鳴を上げた。顔からはすでに湯気が立ちそうな状態である。もう家には帰りたくない。ていうか、このまま遠いところに行ってしまいたい。大人にこの気持ちは判るまい、と心がやさぐれる。そうか、思春期の子供は、こういう時に非行に走るのだな、よく判った。
「キクちゃん、私がいきなりキンパツになって窓ガラスを割ったり壁を壊したりして家庭内暴力とかに走っても、友達でいてくれる?」
「まあまあ、そう拗ねないで。おばさんもねえ、きっと嬉しくてしょうがないんじゃないかな。突然出てきた従兄との結婚話に、おばさんはおばさんで、いろいろと悩んだり落ち込んだりしたのよ。だから、あんたがちゃんと自分のことや思ってることを話してくれて、すごく安心したんじゃない?」
「それはそうなのかもしれないけど……」
 だからって乙女の羞恥心を一体なんだと思っているのだ。
「それで夏凛、あたしはそんなことを言うために、電話をしたわけじゃないのよ」
 季久子がそこでガラリと声の調子を変えたので、私は不満を続けようとしたのを止めて、口を噤んだ。
 言われてみれば、普段の季久子は、人と待ち合わせをしていると判っていて、わざわざ電話をしてくるような野暮はしない。何かあったのだろうか。
「……ねえ、夏凛」
 真面目な口調から伝わってくる空気が重くなり、私は息を詰める。
 なんだろう、突然。
 季久子は一瞬何かを迷うように言い淀んだが、すぐに決心したように再び声を出した。
「あたし、ずっと気になってることがあるのよね」
「う、うん、何?」
「奈津のことなんだけど」
 奈津のこと、と言われて思い出した。そういえば、最新の奈津の記憶のことを、まだ季久子には言ってなかった。
「あの、キクちゃ」
「あんたの話を聞いた時から、ちょっと変だな、と思ってたんだけどね」
「変って──何が?」
 私は素直に問い返した。奈津の記憶に関しては、私よりも、季久子のほうが数段、客観的に見たり感じたりすることが出来る、ということは判っている。季久子が違和感を覚える事柄があるとすれば、おそらくそこに何かしらの原因がある、ということなのだろう。
「でも、なにしろ不確かな部分が多いし、迂闊に口に出していいような種類のものでもないし、黙ってたほうがいいのかなと思ってた。だけど鷺宮とのこともちゃんと進んでるようだしね、やっぱり出来るだけ早くに話しておいた方がいいんじゃないかと思って、電話したの。知哉さんの今までの行動からすると、放っておいたらまずいことになるのかもしれないし、そう考えはじめると、どうにもこうにも落ち着かなくって」
「……まずい、こと?」
「夏凛」
 季久子の声はどこまでも真剣だ。私は無意識に背筋を伸ばした。
「──不自然だと、思わない?」
 そうっと、壊れ物を置くような静かさで、季久子はポツリと言った。
「不自然?」
「知哉さんの話と、あんたが持つ奈津の記憶を照らし合わせると、ちょっとおかしなところがあると思わない?」
「え、だから、それは……」
 おかしなところ、というより、トモ兄の話と奈津の記憶で決定的に違うところは、奈津と和人さんが深く愛し合った恋人同士だった、ということだ。けれどそれはもう、何度となく話したことじゃないの? と私は首を捻る。
「違う、それじゃなくて」
 私が言おうとした台詞の先を察したのか、季久子がやや焦れたように遮った。
「あのね夏凛、奈津は、どうして──」
 と、言おうとしたその時、私は 「えっ」 と声を出した。
 季久子の言葉とは関係ない。私のすぐ前に、人が立ったからだ。
 蒼君ではなくて、まったく知らない人だった。というか、私がこの場所に来る前から、ずーっと駅の出口前に立ってティッシュを配っていた女の人だった。茶色の短髪、細身のジーンズを身につけた、活発な雰囲気のある人だ。ティッシュを差し出すためにこの場所に来た、というわけではなく、私の真ん前に立ちはだかり、明らかに何かを言いたそうにしている。スマホを耳に当てたまま私がきょとんとその人を見ると、彼女は少し申し訳なさそうに首を傾げた。
「あの、ごめん、ちょっと待って、キクちゃん」
 慌てて季久子に詫びを入れ、私はスマホを耳から遠ざけた。どう見ても、私に用事があるらしいその女の人の話を、先に聞こうと思ったのだ。
「ごめんね」
 私のその様子を見て、彼女は少しだけ肩を竦めた。どうやら通話を中断させたことを謝っているらしい。私は曖昧に笑みを浮かべて首を振った。
 さすがに私だって、声をかけてきたのが、見るからに怪しいお兄さんで、「手軽に稼げるバイトやらない?」 なんて内容だったら、季久子との会話を途中で切ってまで話を聞こうとはしない。しかし相手は今まで通行人に見向きもされないのに健気にティッシュを配っていたバイトのお姉さんである。気の毒だ、と思って眺めていた分、なんとなく、邪険には出来なかった。
「あのー、橘さん、かな?」
「えっ、はい」
 いきなり見知らぬ女の人に名指しされて、私はうろたえた。あれ、この人知り合いだっけ? と大急ぎで頭の中のアルバムをめくってみるが、ちっとも思い出せない。
「そっかー、やっぱりね。十一時に来るっていうから、そのつもりでいたら、気づくのが遅れちゃった。あんたも早めに来たんだね、ごめんごめん」
 アハハと明るく笑われたが、何が 「ごめん」 なのか判らない私は、当惑するしかない。
「ここで待ち合わせしてるでしょ? えーと、鷺宮、って名前だっけ?」
「あ、そうです」
 目を見開いて頷くと、女の人はにっこりした。
「あたしねえ、その人に伝言頼まれたんだよね。なんかね、時間を間違えて、ものすごく早く着いちゃったんだって。それでずっとこんな場所で待ってるのも寒いから、この先の喫茶店で待ってる、って。わかるかな、『pumpkin』 って名前の店なんだけど」
 ホラ、あの路地を入って、鉄橋の下を通って進むと──と、女の人は、丁寧にひとさし指で方向を指し示して教えてくれた。駅からもファッションビルが立ち並ぶ中心部からも、反対の方角だ。そちらには行ったことがないので、私は彼女が口にする道順を頑張って頭に入れた。
「十一時頃、ここに来る女の子に、そう伝えて欲しいって言われたの。ここ、伝言板も何もないじゃん? あたしは昼まであそこでティッシュ配ってるからさあ、いいよってオッケーしたんだけど、今になって、あんたが立ってることに気がついたんだ」
「そ、そうなんですか」
 私は未だ困惑したまま、手の中のスマホに目をやる。そんなことなら電話してくれれば……と内心で思ったのが伝わったのか、女の人が笑って、「電話しようとしたけど、充電が切れてたんだって」 と付け加えた。
 ははあ、と私は声を上げて納得した。あまり物事にこだわらない蒼君ならあり得る。肌身離さずスマホを持つようなタイプでもなさそうだし、取り出してみて、はじめて充電が切れていることに気づいた、なんてこと充分ありそうだ。
「どうもすみません、わざわざ」
 とにかく用件は伝わったので、頭を下げて礼を言うと、女の人は、いやいや、どうせヒマだからね、と陽気に手を振った。さばさばして、いい人だった。
「カッコイイね、あんたの彼氏」
 最後にこっそりと私にそう耳打ちして、彼女はまた自分の持ち場に戻っていった。歩きながらも、ちゃんと通行人にティッシュを配っていて偉い。一人のおじさんが、手を出してひとつ受け取った。よかった。
 しかしそうとなったら、急いでその場所に向かわないと。慌てて通話中のままのスマホをもう一度耳に当てた私は、女の人が教えてくれた喫茶店の名前と道筋を心の中で復唱して確認していたため、少し上の空だった。季久子の話は途中になってしまうが、どちらにしろ、もっと時間のある時に、ゆっくり聞いた方がいいだろう。
「あの、ごめんね、キクちゃん。今、蒼君から場所の変更の連絡があって」
「はあ? 連絡って、なに? 今って、あたしと話し中だったじゃない。メールが入ったってこと?」
 季久子が訝しげな声を出す。充電が切れてりゃ、メールも使えまい。それに、蒼君は結局、私のメアドを知らないのだ。私も知らないけど。
「違う違う、ティッシュ配りのバイトのお姉さんに伝言でね」
「は? なにそれ、夏凛、ちょっと──」
「ごめん、あとでちゃんと説明するね」
 この流れを季久子に話していると長くなりそうなので、とりあえず謝って、一旦通話を切ることにした。季久子が何かを言いかけたようだったが、その時にはもう、私は通話終了に指をかけていた。蒼君が別の場所ですでに待っている、ということを知って、気が急いていたこともある。今から行くね、と電話をしたくとも繋がらないのでは、とにかく行くより仕方ない。まずは蒼君の待っている喫茶店に行って、落ち着いたらもう一度改めて季久子にかけ直そう。
 私は小走りにその場所へと向かった。


         ***


 ターミナルをぐるりと回り、ビルとビルの間の路地を抜けた。
 一度大通りを外れてしまうと、駅前の賑やかさがぴたりと聞こえなくなり、嘘のように静かだった。人通りもほとんどない。代わりに、鉄橋の上を走る電車の音がガタンガタンと響いて耳がじんじんした。
 急いで走ってきたはいいが、鉄橋の下まで来たところで、すでに私は息切れしていた。駅前からここまでは、結構な距離がある。それでなくとも、このところ運動不足の我が身に持久力はない。蒼君、もうちょっと近くの喫茶店を指定してくれればよかったのに……と、心の中で愚痴る。
 私は、ふうふうと肩で息をしながら足を止め、休憩がてら、女の人に教わった道順を思い返した。
「えーと、ここを通って」
 それから、と呟きかけたら、手の中のスマホがまた鳴った。
 キクちゃんかな? と思ったが、違った。画面に表示された名前を見て驚き、私は急いでその薄い機械を自分の耳まで持っていく。今度はなんだろ。ていうか、おかしいな、蒼君のスマホは充電切れ、って……
「蒼く──」

「ばかやろう!」

 突然、怒鳴られた。
 スマホから投げつけられたその剣幕に、私は思わずびくっと身を縮める。一瞬、心臓が止まりそうになった。
「え、な、なに……蒼君?」
 ドキドキしながら、スマホに目をやった。
 画面上に出ているのは、間違いなく蒼君の名前だ。聞こえてくるのも、間違いなく蒼君の声だ。けれど、その声には、今まで聞いたことのないような鋭さと焦燥がくっきりと表に出ていた。
「お前、今、どこにいる?!」
 質問というよりは、怒声だ。蒼君がこんな風に感情も露わに声を荒げるのははじめてで、私は驚きよりも混乱した。
「ど、どこって、蒼君がいるところに向かってるんだけど──」
「俺じゃない!」
「え」
「俺は誰にも伝言なんか頼んでない! いいから早く戻ってこい!」
「え、だって」
 おろおろしながら、鉄橋の下で立ち尽くす。わけが判らなくて、蒼君の言葉をひたすら頭の中で繰り返した。
 俺じゃない?
 誰にも、伝言なんか頼んでない?
 じゃあ──
 首を曲げて振り返り、やって来た道を視界に入れた途端、すうっとお腹の中に冷たいものが落ちていくような感覚に襲われた。
 そうだ、そうだよね、おかしいよ。
 蒼君が、いくらスマホが使えないからって偶然そこにいたバイトのお姉さんに言伝を頼むなんて。駅前にいくつも店はあるのに、わざわざこんな離れた場所まで来させるなんて。
 鷺宮、という名前が出されたから疑いもしないで信じ込んでしまったけれど。
 二十代のちゃきちゃきした女の人が、どう見ても高校生の蒼君を、「その人」 なんて呼んだりするわけがない。
 見ず知らずの女の人に頼みごとをしても快く引き受けられ、その上、「カッコイイね」 なんて言われ方をする人を、私はよく知ってるではないか。
「……っ」
 すぐに踵を返して駅前にまで戻ろうとしたが、それは遅かった。
 耳に当てていたスマホが、背後から伸びてきた手によって、するりと指の間から抜き取られた。橘、という蒼君の叫ぶような声が、私から離れていく。
 強張った顔で、ぎこちなく後ろを振り返る。
 彼は、ゆったりとした動作でスマホの電源を切ると、私を見て、優しく微笑んだ。
 頭上の鉄橋の上を、ゴーッという激しい音を立てて電車が疾走していく。
 トモ兄は唇を動かして何かを言ったけれど、その声は、轟音にかき消されて、私の耳には届かなかった。


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